三 社会教育関係団体の再編成

 戦前の青少年団体の多くを網羅していた大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、帝国少年団協会、大日本少年団連盟の四団体は昭和十六年に統合されて、大日本青少年団を結成したが、二十年六月学徒隊に編成替えされ、その学徒隊も終戦とともに解散した。二十年九月、文部省はいち早く「新日本建設の教育方針」の中で、郷土を中心にした自発能動、共励切磋の団体として新しい青少年団体の設置を提唱し、続いて次官通牒「青少年団体設置並ニ育成ニ関スル件」でその育成の方途を明らかにした。これに応ずるように、青年の間に新しい地域青年団結成の動きが全国的に活発となり、各府県ごとの青年団の連合体または協議体も相次いで結成され、二十六年には地域青年団の全国的な連絡協議組織として日本青年団協議会が結成されるに至った。新生地域青年団の特色は、戦前の男女別構成に対してほとんど男女が共同で参加していること、運営が統制から解放されて団員の自由と責任の上になされること、などである。また、戦前からの歴史を持つボーイスカウト日本連盟、ガールスカウト日本連盟、YMCA、YWCA、日本青少年赤十字、日本海洋少年団連盟などの団体も、その組織を新しく整備して相次いで再発足し、戦後新たに設立された日本健青会などの団体とともに、それぞれの目的と方法とに従い、独自の活動を展開しはじめた。

 次に、婦人団体については、戦前、大日本連合婦人会、愛国婦人会、大日本国防婦人会の三団体が十七年に統合されて、大日本婦人会を結成していたが、この大日本婦人会も二十年六月、国民義勇隊の結成とともに解散しており、戦後は、男女平等の立場から、婦人の資質と能力の向上のために新しい婦人組織の育成が要望された。二十年十一月、文部省は「婦人教養施設ノ育成強化ニ関スル件」の通牒で民主的な婦人団体の結成を促し、その育成助長を目ざした。地域婦人団体については、CIEは地域婦人を網羅的に加入させる非民主的な組織ではないかと疑惑視したが、にもかかわらず、地方軍政部担当官はその啓もう、普及を行なうといった状況で、その結成は急速な勢いで進み、二十五年には会員数六〇〇万を越え、二十七年には全国地域婦人団体連絡協議会の結成を見るまでに至った。一方、大学婦人協会、日本キリスト教婦人矯(きょう)風会、主婦連合会などの団体も、それぞれ前後して再出発または新たに活動を開始した。

 戦後新しく発足し、急速に進展して、わが国最大の社会教育関係団体となったものに、PTA(父母と先生の会)がある。PTAは父母と教員とが協力して、家庭と学校と社会における児童、青少年の幸福な成長を図ることを目的とした団体であり、米国教育使節団の報告書の中で、教育は学校だけでなく、家庭や地域社会の協力において行なわれるべきであり、そのためにはPTA活動を行なうことが望ましい、とされたものであるが、文部省ではただちにCIEと協力してPTAの研究に着手した。二十二年には資料「父母と先生の会--教育民主化の手引」を作成、さらに翌二十三年には「父母と先生の会」参考規約を作成して全国に配布したが、また、社会教育研究大会等でもPTAの問題を議題とするなど、その趣旨の普及につとめ、結成の促進を図った。その結果、二十五年ごろには、小・中・高校の約九八%にPTAが結成され、団体数三万七、〇〇〇、会員数一、五〇〇万人を数えるに至った。二十七年には、日本父母と先生の会全国協議会(のちに日本PTA全国協議会と改称)および全国高等学校PTA協議会が結成された。しかし、こうしてPTAが短期間のうちに急速に普及した背景には、戦前の父兄会、学校後援会などが性格を改めずに組織替えしたり、また、隣組に代わる地域組織として便宜的に考えられたりしたことがなかったとはいえず、その理念と現実とのギャップは将来に問題を残すこととなった。

 社会教育事業を行なう社会教育団体は、戦争末期大日本教化報国会として統合されていたが、二十一年、中央にある二六団体および戦後各都道府県に生まれた社会教育協会を加盟団体として社会教育連合会を結成したりして、新しい活動にはいった。

 二十三年七月の社会教育局長通牒「地方における社会教育団体の組織について」は社会教育関係団体の官公庁依存の傾向を指摘し、官公庁のノー・サポート、ノーコントロールの原則を示した。これによって、社会教育関係団体の活動の自主性は確保されることとなったが、一方、たとえばほとんどの都道府県社会教育協会が解散するに至るなどの事態があった。この通牒に示された原則が翌年制定の社会教育法の中に取り入れられることとなるわであるけが、これはその後の社会教育関係団体の消長に大きな影響を与えた。

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