四 教員の身分・処遇と団体活動

教育公務員特例法

 昭和二十一年四月、「公立学校官制」が制定され、戦前ながらく待遇官吏とされてきた公立学校(国民学校、幼稚園については同年六月の公立学校官制の一部改正による。)の教職員の身分は官立学校の教職員同様純然たる官吏とされた。これは、戦前、教育は「国ノ事務」との観念に立ちながら、教員給与は地方負担のため待遇官吏とされ、一般文官に比し、やや不利な条件にあった公立学校の教職員の身分を改めたものであった。しかるに、戦後、教育行政の民主化・地方分権化に伴い、地方公共団体の行なう教育は当該団体の事務とする考え方に変わり、これとともに、公立学校教職員の身分、取り扱いも画期的に改革されることとなった。まず、二十二年五月、地方自治法の施行により、教員は当該団体の教育吏員とする建て前がとられ、次いで、翌年十月、教育委員会の発足により、教員の身分は当該学校の設置者たる都道府県または市町村に属し、任命権はその教育委員会に属することとなった。しかし身分切り替えに伴う諸規定の整備のため、暫定措置としてなお官吏とした。このような事情を反映して、二十二年、教育刷新委員会はその第三回建議において「教員身分法案」の立案を提案した。この案は「官・公・私立の学校を通じて教員はすべて特殊の公務員とする。」とする注目すべき構想であったが、すでに進行していた全般的な公務員制度の改革との関連から、この建議の方針を変更し、教育職員の職務と責任の特殊性にかんがみ、国立学校の教員にあってはすでに制定されている国家公務員法の特例措置として、公立学校の教員にあっては制定が予定されていた地方公務員法の特例措置として「特例法」によって措置する構想に切り替えることとなった。政府は「教育公務員の任免等に関する法律案」を二十三年、第二回国会に提出したが、第三回国会に継続となり、同国会においては一般法たる国家公務員法がマッカーサー書簡が契機となって改正されたことにより、同法案も修正の必要が生じ、その名称も「教育公務員特例法案」と改めて、第四回国会に提出された。国家公務員法の改正は、可能な限りその適用範囲を広めようとしたものであったから、教育公務員として必要な特例の範囲も最小限度にとどめ、その他については一般の公務員の基準に基づくこととされた。

 「教育公務員特例法」は二十四年一月公布されたが、特に重要な意義をもつものは次の諸点であった。

 (一)「教育を通じて国民全体に奉仕する教育公務員の職務と責任の特殊性に基づき」特例を定めるとして、この法律の趣旨を明らかにした。

 (二)国立および公立の幼稚園から大学までの学長、校長、教員および部局長ならびに教育委員会の教育長および専門的教育職員を総称して、教育公務員と称することとし、国立学校のこれらの者は国家公務員、公立学校等のこれらの者は地方公務員の身分を有するものとした。

 (三)従来、慣例上行なわれてきた大学自治の原則を尊重し、大学の教員の人事に関しては、大学自治機関の定める基準により、自主的運営によることとした。

 (四)高等学校以下の校長、教員ならびに教育長等については、その採用および昇任については競争試験によらず、選考によることとした。

 (五)教育公務員は研究と修養に努めなければならないことを積極的に規定した。

 (六)その職責上、結核性疾患による休職期間について特例を規定した。

国立・公立学校教員の給与、勤務条件

 昭和二十一年四月、「官吏俸給令」が定められた。同令は七月に一部改正され、新たに最低一号から最高三〇号までの号俸制をとり、また、はじめて公務員の平均給与を民間全産業の平均賃金との均衡をとって定める方法をとった。なお、九月の閣議決定による「特別昇給実施要綱」による号俸調整に際し、学歴資格、勤続年数に応じ号俸を決定する方法を取り入れたことは、以後の給与制度に大きな影響を与えることとなった。

 二十三年三月、「政府職員の俸給等に関する法律」が施行された。この法律への切り替えに当たって一週間の拘束時間の長短により切り替え率に差を設けたので、同法は勤労の対価としての俸給の概念を作り出すこととなった。また、教員はその勤務の特殊性から、一応一週四八時間以上勤務するものとして一般公務員より有利に切り替えられた。これがのちに教員給与の有利性のもととなった。

 同年五月、「政府職員の新給与実施に関する法律」が制定され、一級から一五級に区分された職務級別俸給表による給与制度に移行した。この新級別俸給表に切り替えるに当たり、前述の高い切り替えは、教員の勤務態様の特殊性として他の一般職と区分して明確に調整する必要が生じた。そこで、この切り替えは調整号俸という形で一定の基礎号俸の上に一~二号俸(盲・聾学校にあっては二~四号俸)の号俸を積み上げる方式がとられた。これは教員の勤務時間は単純に測定することは困難であり、内容的に密度が高いものであると認めた措置であった。したがって、このときから超過勤務手当は支給しないこととされた。

 公立学校の教員は、教育公務員特例法の施行以降、地方公務員となったが、その給与については、「国立学校の教育公務員の例による」とする暫定措置がとられたので、実態においては前述の措置がそのまま適用されてきた。二十六年二月、地方公務員法の施行により、給与については条例で定められることとなったが、教員については特に義務教育職員を中心として全国的均衡と一定水準の保持が望まれ「当分の間」の措置として、「国立学校の教育公務員の給与の種類及びその額を基準として定める」こととされて今日に至っている。また、公立義務教育諸学校教員の給与は、市町村立学校職員給与負担法により都道府県が負担し、その半額は国庫が負担してきた。その間暫時制度の変遷はあったが今日まで国庫負担の原則が続けられている。

 戦前においては勤務時間の観念ではなく、「官庁執務時間並休暇ニ関スル件」(大十一年閣令六号)により執務時間が定められてきたが、二十四年から政府職員の勤務時間が一週四八時間と定められたことに基づき、文部大臣は二月五日文部省告示第十一号で、教員の勤務時間については、教育の特殊性にかんがみ、学校長がその割り振りを定めることができることとし、また、同日、「教員の勤務時間について」文部次官通達を発し、「勤務の態様が区々で学校外で勤務する場合等は学校の長が監督することは実際上困難であるので原則として超過勤務は命じないこと。」とした。これは、後に入試事務等については例外を認めたが、その後四十年代にはいって超勤手当が新たな問題になってき、その請求訴訟が提起されるに至った。

教員の団体活動

 終戦後における教員の団体は、研究会等の職能団体と教職員組合のような労働団体(職員団体)に二大別することができる。

 前者は、新教育制度の実施によって教員がそれぞれの分野と職能によって結合し、新しい教育上の問題について研究協議する組織であるが、これら職能団体は、昭和二十六年四月会員約八万二、〇〇〇人を擁する全国的連合体として「日本教育連盟」を結成した。これは二十三年日本教育会の解散以来存在しなかった職能団体の全国的組織として注目すべきものであった。

 後者は、戦後の混乱した社会・経済生活の中において教員の生活を守るために結成されたものであり、全国的組織として二十二年六月に約五五万人を擁する「日本教職員組合(日教組)」が結成されるに至った。これは、全日本教員組合協議会(全教協)、教員組合全国連盟(教全連)、全国大学高専教職員組合が大同団結したものであった。

 日教組は、「組合員の経済的・社会的・政治的地位の向上を図り、教育ならびに研究の民主化に努め、文化国家の建設を期する。」ことを目的とし、これを達成するため教職員の待遇ならびに労働条件の維持・改善、民主教育の建設等を活動目標に掲げて出発したが、実際の諸活動をみると労働条件の維持、改善を図るという本来の目的達成のための運動の限界を越えた教育政策反対闘争、選挙運動その他の政治的活動に主力が傾注されてきた観があった。そして二十七年の第九回定期大会では「教師の倫理綱領」を決定したが、これは日教組の階級闘争観を最も端的に表現したものとしてのちにきびしく批判されるところとなった。

 なお、二十五年四月日教組の高等学校教員対策に不満をもつ一道八県の高等学校教員約九、〇〇〇人が全国高等学校教職員組合協議会を結成したが、翌年その名称を全日本高等学校教職員組合(全高教組)と改めて別個に活動を展開してきた。

教員の福利厚生

 昭和二十三年七月施行の「国家公務員共済組合法」により、従前の共済組合は統合され、各職域ごとに再組織されて、文部省共済組合と公立学校共済組合となった。共済組合は健康保険に準ずる保健給付(療養費等)、罹災給付(弔慰金等)、休業給付(傷病手当金等)を行なうほか、二十四年十月から恩給法等の適用または準用を受けない、いわゆる雇用人について退職給付、廃疾給付および遺族給付を支給することとなり、さらにその後、社会保障制度充実の方針に基づきその事業を充実・拡大し、福利厚生制度の発達を促した。しかしながら、別々に発達してきた恩給制度と共済制度との調整・統合による新しい公的年金制度の樹立は大きな課題として残されていた。

 また、私立学校の教員については私立中等学校恩給財団により、国・公立学校教員の恩給に準じ退職給付を行なう措置が講ぜられてきたが、その組織の強化と給付内容の改善が要望され、共済制度による充実、拡大が懸案となっていた。

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