学校教育法の施行に際し、文部省は、当初、昭和二十二年度には義務教育とされた小学校と中学校を、二十三年度には高等学校を、そして大学は二十四年度から発足させる方針であった。しかし、二十三年に至り、関西の大学を主体とする一二の公・私立大学が、将来計画の確立と改組準備の整備を理由に、四月から新制大学を発足させるべく名乗りをあげ、占領下の特殊事情のため文部省はこれを認可せざるをえなかった。こうした経緯を経て、二十三年四月以降、旧制高等教育機関の新制大学移行の問題は本格化してきたが、問題は数多くの旧制の大学、専門学校等をどのような原則で新制大学に移行させるかにあった。
特に新制国立大学の設置については、文部省が総合的な実施計画を立案することになったが、これに先だち、CIEは、わが国の大学の大都市集中を避け、また教育の機会均等を実現するため、国立大学について一府県一大学の方針を貫くよう要請した。文部省は、これを受けて二十三年六月、新制国立大学の設置に関して、次のような十一原則を決定、発表した。
(一)国立大学は、特別の地域(北海道、東京、愛知、大阪、京都、福岡)を除き、同一地域にある官立学校はこれを合併して一大学とし、一府県一大学の実現を図る
(二)国立大学における学部または分校は、他の府県にまたがらないものとする。
(三)各都道府県には必ず教養および教職に関する学部もしくは部を置く。
(四)国立大学の組織・施設等は、さしあたり現在の学校の組織・施設を基本として編成し、逐年充実を図る。
(五)女子教育振興のために、特に国立女子大学を東西二か所に設置する。
(六)国立大学は、別科のほかに当分教員養成に関して二年または三年の修業をもって義務教育の教員が養成される課程を置くことができる。
(七)都道府県および市において、公立の学校を国立大学の一部として合併したい希望がある場合には、所要の経費等について、地方当局と協議して定める。
(八)大学の名称は、原則として、都道府県名を用いるが、その大学および地方の希望によっては、他の名称を用いることができる
(九)国立大学の教員は、これを編成する学校が推薦した者の中から大学設置委員会の審査を経て選定する。
(十)国立大学は、原則として、第一学年から発足する。
(十一)国立大学への転換の具体的計画については、文部省はできるだけ地方および学校の意見を尊重してこれを定める。意見が一致しないか、または転換の条件が整わない場合には、学校教育法第九十八条の規定により、当分の間存続することができる。
新制国立大学の設置は、以上の十一原則に対してたとえば、旧制の大学と高等学校、専門学校との府県を越えた統合を希望するもの、専門学校で単独の大学昇格を主張するもの、専門学校で師範学校との合併に難色を示すもの等これらの原則に抵触するさまざまな問題が続出した。しかし、こうした難題を調整した上、二十四年五月三十一日「国立学校設置法」が制定され、六九の新制国立大学が発足した。なお、この前後に、他省庁所管の教育機関が母体となって新制大学に転換したものとしては上記のようなものがある。
公・私立大学の設置に関しても多くの問題があったが、これらについては、大学基準に達しない学校をどのように処理するかが最も大きな問題であった。
なお、国立大学については、二十四年に第一学年から発足し、毎年の学年進行を経て、二十七年に四年制大学として完成したが、旧制の学校は、入学者が全員卒業するまで新制大学に従前のまま包括されて存続した。二十六年度には、旧制高等学校卒業者で旧制大学に入学できなかったいわゆる白線浪人対策として、新制国立大学への臨時編入学試験が文部省作成の問題により、全国一せいに実施された。これは、旧制大学が廃止されたため、新制大学の編入学という形をとらざるを得なくなったものである。
新制大学発足に当たって、その管理運営はどうあるべきかはきわめて重要な問題であった。新設された大学は、いくつかの学部の集合体であり、しかもそれらの大部分が旧制の大学、高等学校、専門学校として長い伝統と個性に基づく自主性をもっていたので、これが一体的な統一のある大学を形成するためには、なんらかの管理組織を通じて運営をするための法律的根拠が必要とされた。
特に国立大学については、早くからCIEが法律の制定を示唆していたので、文部省は、昭和二十三年十月、「大学法試案要綱」を発表した。しかし、日本学術会議等からの要望もあって、二十四年九月国立大学管理法案起草協議会が新設された。この協議会には、教育刷新審議会、日本学術会議等の代表者が参加し、東京大学我妻栄教授を委員長として慎重に立案に着手した。その結果は、「国立大学管理法案」および「公立大学管理法案」の二つにまとめられ、二十六年第十回国会に提案されたが成立せず、引き続き第十一回および第十二回国会で継続審議されたが、遂に審議未了となり、成立をみなかった。
この両「大学管理法案」は、内容的にはかなり整備されたものであったが、東京大学等旧制大学の慣行を一般化して、地方の新制大学に画一的に適用することが問題とされ、また、大学の管理機構に学外の有識者を加えようとした「商議会」や「参議会」の制度が必ずしも正しく理解されないまま、大学関係者をはじめ各方面の賛成が得られず廃案となったものである。
なお、両「大学管理法案」が不成立に終わった後、国立大学協会等の要望もあって、二十八年四月に「国立大学の評議会に関する暫定措置を定める規則」が定められ、国立大学に評議会が置かれることとなった。評議会は、学長の諮問に応じて、学部ごとに置かれている教授会の意向を調整しつつ、全学的な立場から大学の運営に関する重要事項を審議することとされており、学内管理体制の整備に一歩の前進がみられた。公・私立の大学においても、評議会あるいはこれに準ずる組織を設ける大学が多くみられた。しかし、その後も大学の管理・運営に関し法律による体系的な整備はなされておらず、その結果、多くの大学において、さまざまな困難な問題が生じている。
新制大学は、昭和二十三年度から発足したが、二十八年四月現在の大学数および設置年度別大学数は、上の表のとおりである。
次に、学校数、学生数を戦前(十八年度)と戦後(二十七年度)とで比較してみると、学校数において一〇一校、学生数において約一二万六、〇〇〇人増加している。(表39参照)しかしながら、この増加学生のうち約九万人は、教育の機会均等による女子学生の進出(戦前の約六割増)と勤労青年のための夜間部の増設(戦前の約五倍)によるものであり、そのほか陸海軍諸学校(七校、約一万六、〇〇〇人)、外地における大学、高等学校、専門学校(三九校、約一万六、〇〇〇人)等の廃校、さらには終戦による外地からの引揚者や人口の自然増加等を考え合わせると、二十七年度の大学・学生数は、戦前のそれに比べて必ずしも多くはなく、特に男子学生の割合はむしろ減少しているともいえる。
新制大学(短期大学を除く。)の二十八年度の入学定員は、国・公・私立を合計して約一〇万八、〇〇〇人で、うち文科系学部は約五万二、〇〇〇人、理科系学部は約三万三、〇〇〇人、教員養成学部は約二万三、〇〇〇人で、これを国立大学のみについてみれば、文科系学部は約一万三〇〇人、理科系学部は約一万六、〇〇〇人、教員養成学部は約二万三、〇〇〇人となっている。すなわち国立大学は、教員養成学部の大部分と、理科系学部の半数とを占めているが、文科系学部は約五分の一を占めているに過ぎないのである。
国立大学の一府県一校は実現されたが、地域分布をみると、旧制の学校を基礎として設置されているため、二十八年度において学校数、在学者数ともに大都市を有する東京、愛知、京都、大阪、兵庫および福岡の六都府県で全国のほぼ三分の二を占めている。特に私立にあっては、学校数で五三%、在学者数で六三%が東京に集中していた。
学制百年史編集委員会
-- 登録:平成21年以前 --