三 著作権制度

出版条例・版権条例・版権法の制定

 日本著作権法の萌芽とみられる最初の法律は明治二年の出版条例である。この条例制定については、コピーライトに版権の訳語をつけた明治の先覚者福沢諭吉の大きな働きかけがあったと伝えられている。この出版条例は「図書ヲ出版スル者ハ官ヨリ之ヲ保護シテ専売ノ利ヲ収メシム保護ノ年限ハ率ネ著述者ノ生涯中ニ限ルト雖モ其親属之ヲ保続セント欲スル者ハ聴ス」というもので、出版者あるいは著作者の保護を目的としているが、書籍出版をしようとする者は、昌平・開成両校に設けられた出版取調所へ願い出て官許を受けるべきことを規定しており、むしろ出版取り締まりに重点をおいたものであった。

 出版条例は、明治五年、八年、二十年に改正されるが、二十年の改正ではこの出版条例から版権保護の部分を分離し、版権条例として公布し、出版条例はその後、純然たる出版取締法となった。この版権条例では、文書図画を出版してその利益を専有する権利を版権と称し、版権所有者の承諾を経ずしてその文書図画を翻刻するを偽版と称すること、版権の保護を受けようとする者は内務省の版権登録を受けねばならぬこと、版権登録の文書図画には、その保護期間中「版権所有」の四字を記載しなければならないこと、版権は著作者に属すること等を規定していた。二十六年四月には、版権条例に多少の修補を加えて版権法を公布した。この版権法は、三十二年著作権法を制定するまで存続した。また、二十年には、脚本楽譜条例、写真版権条例をそれぞれ制定した。

 なお、著作権事務を含め出版免許の事務の所管は三年二月、昌平・開成両校から大史へ、四年八月、大史から文部省へ、八年六月、文部省から内務省へ移管され、以後七十年余りの間、同省が所管していた。

著作権法の制定と国際著作権条約への加入

 明治三十二年三月著作権法が制定された。これは、江戸幕府が諸外国との間に結んだ不平等条約を解消するため、ようやく締結することのできた諸外国との改正条約において、(領事裁判権撤廃に先だつ)交換条件としてベルヌ条約に加入することを約していたため、立法したものである。

 著作権法施行と同時に版権法、脚本楽譜条例および写真版権条例を廃止した。

 また、同年四月、文学的・美術的著作物の保護に関するベルヌ条約の創設規定(十九年制定)およびパリ追加規定(二十九年制定)に加入、同年七月公布した。

 この著作権法は、従来の「版権」に代えて「著作権」の語を用い、著作権としたほか、複製、興行などの新語を造り、当時の先進諸国の著作権法、ベルヌ条約を参考として作ったものである。したがって、この法律は、当時世界の先端をゆく近代的なものであり、諸外国からも注目された。

 不平等条約撤廃の交換条件として作られたにせよ、この著作権法はいずれは立法されるべきものであったし、この法律によってわが国は、世界の文明国入りをとげたといえよう。また、この法律が逆に日本を文明国に引き上げる役割をになっていくこととなるのである。

 さて、わが国の加入した著作権の国際的基準ともいうべき「ベルヌ条約」は、その後、翻訳権の確立等を目的として四十一年ベルリンにおいて、放送権の導入を目的として昭和三年ローマにおいて改正された。わが国はそれぞれ批准したが、ベルリン改正条約批准書寄託に際し、翻訳権に関する規定および音楽的著作物の演奏権に関する規定について留保宣言を行ない、ローマ改正条約批准書寄託に際しては、翻訳権に関する規定については従前の留保を維持する旨の宣言を行なっているが、演奏権に関する規定の留保は放棄した。

 ベルヌ条約が、このように改正されるのに応じて、そのつど著作権法についても所要の改正を行なった。

著作権に関する仲介業務

 昭和六年ごろ、ヨーロッパ著作権団体の代理人であるドイツ人プラーゲ氏が著作権使用料の取り立てをはじめたのであるが、その額がわが国情を無視した高額なものであったこと、しかし、その法律的主張は正しかったことから著作権思想尊重の風に乏しいわが国の文化界に大きな衝撃を与えたいわゆるプラーゲ旋風と呼ばれる一連の事件が起こった。

 このプラーゲ旋風を契機に、九年著作権法が手直しされ、出所を明示をすればレコードを放送興行に供しうることとなり、また、著作権に関する仲介業務は、内務大臣の認可を得た仲介団体しか行なえないことを規定した「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律」を十四年に制定し、同年大日本音楽著作権協会が設立された。

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