一 芸術文化の行政

文展の実施

 政府の芸術奨励の方策は、まず、美術の分野において展覧会を開催することから始められた。すでに明治十二年に日本美術協会が創設されて絵画・美術工芸品などの展観を行なったのをはじめとして、個展あるいは各流派ごとの展覧会が明治年代にはひろく行なわれていたが、美術界ではこれら各流派をもうらした一大展覧会を開きたいという機運が高まった。そこで文部省は、四十年六月、「美術審査委員会官制」を定め、次いで「美術展覧会規程」を公布して、毎年一回展覧会を開催することとした。審査委員会は、日本画、西洋画、彫刻の三部に分かれて出品作品の鑑査・審査に当たり、また褒賞・買い上げを行なうことも定めたが、同年十月、東京上野竹ノ台で第一回の文部省展覧会すなわち文展を開催した。その後、文展は引き続き開催され、大正七年第一二回をもって終わるが、わが国美術発達の上に大きい足跡を残した。

 文芸については、明治四十四年に文芸委員会官制、同規則を定めて、文芸委員会を設置し、文芸の方面から堅実な社会風潮を作興するため、穏健優秀な文芸的著作物の発達を奨励しようとしたが、この企画は成功せず、ほとんど業績をあげなかった。わずかに森林太郎のファウストの翻訳と坪内逍遙に対する表彰という事業を残しただけで、大正二年六月にはこれを廃止した。

帝国美術院の設立

 文展は、末期に至って審査委員の任命や授賞等に批判があり、改革の声が内外に強かった。ことに美術展覧会だけを開催する政府の美術行政に対して、不満が高かった。そこで、大正八年九月、新たに「帝国美術院規程」を公布し、帝国学士院と並んで、美術のアカデミーとも称すべき帝国美術院が設立されることとなり、旧来の美術審査委員会は廃止した。帝国美術院は、文部大臣の諮問に応じて美術に関する意見を開申し、あるいは美術に関する重要事項について建議することができる機関で、院長一人、会員一五人以内をもって組織することとした。帝国美術院は、文部省に代わって美術展覧会を開くこととなり、その審査員は半数を文部大臣の奏請、半数を帝国美術院の推薦によるものとして、批判にこたえた。第一回の帝国美術院展覧会すなわち帝展は同八年に開催された。帝展は年々盛大となり、昭和二年にはそれまでの三部制に第四部として美術工芸を加えた。帝国美術院の会員定数も、大正十二年に二〇人、昭和三年に二五人、五年に三〇人と増加し、展覧会以外の事業も行なったのである。

帝国芸術院の設立

 昭和十年以後、帝国美術院改革のことが問題となり、まず、十年は帝国美術院規程を廃して新たに帝国美術院官制を制定し、会員定数を三〇人から五〇人に増員し、在野美術団体の代表をあげて美術家の全員一致の体制を実現しようとした。松田文相によるいわゆる松田改組である。この新帝展の制度は美術家の間に不満を呼び、十一年、平生文相は再改組を試みたが、さらに紛糾は続いた。そうした中で、政府は、美術だけでなく文芸・音楽その他の分野の芸術についてもその発達に寄与する機関を設けることの必要を痛感し、十二年六月、新たに帝国芸術院官制を定め、芸術に関する重要な事項を審議し、その発達に必要な事業を行ない、文部大臣に建議することのできる機関として、帝国芸術院を設立することとなった。その構成は、院長一人、会員八〇人以内で、第一部美術(絵画・彫塑・工芸・書道・建築)、第二部文芸、第三部音楽、雅楽、能楽であった。その事業として、芸術の奨励のために芸術院賞を授与することとなり、その第一回授賞を十六年に行なった。美術展覧会の開催は、帝国芸術院の新設によって切り離されることとなり、文部省美術展覧会規刑で定められて、再び文部省主催の展覧会を四部制によって開くこととなった。十三年、第一回の新文展を開催し、新文展は同十九年まで続けられるのである。

娯楽指導から芸術統制へ

 明治四十四年、文部省は前述の文芸委員会と同時に、通俗教育調査委員会を設けたが、このとき、通俗教育の一環として、図書認定に並んで幻燈および映画につき教育用に適するものを認定する制度を開き、「幻燈映画及活動写真フイルム審査規程」を定めた。大正二年に通俗教育調査委員会を廃止したので、六年に改めて「幻燈映画及活動写真フイルム認定規程」を定めてその事務を引き継ぎ、九年には、認定制度のほかに、新たに興行映画のうち適当なものを推せんする制度を設けた。さらに十二年からはレコードの認定および推薦も始めた。十二年からは文部省自ら教育映画を製作してこれを頒布し、また昭和三年には映画貸与の制度も始めた。六年、民衆娯楽調査委員会を設け、健全な映画、レコード等の推薦・認定を引き続いて行なった。こうして、政府としては、一貫して国民に対する娯楽指導という立場から、映画、レコード等に対する政策を行なった。

 わが国が戦時体制にはいるに及び、健全な国民娯楽の育成という立場から一歩進んで、演劇・映画・音楽等が国民の生活に密接な関係をもっていることに着目し、これら芸術の「醇(じゅん)化発達」を図ることにより国民生活を刷新し、国民精神を高揚しようとして、芸術文化の指導統制を強化することとなった。まず、十四年四月には「映画法」を制定した。映画法は、製作・配給業者の許可制、演出・演技・撮影者等の登録制、脚本の事前検閲、公益保護の必要からの製作・上映の制限、国民文化向上に資する映画の選奨、文化映画の強制上映、年少者の観覧制限などを内容とし、わが国はじめての文化立法であったが、それは文化統制の第一歩でもあった。文部省は、映画法の施行に伴って、従前の民衆娯楽調査委員会を廃止し、十四年十二月、新たに演劇映画音楽等改善委員会を設置した。同委員会は、それぞれの部門の改善に関する事項を調査・審議することを任務とし、その演劇部門は、映画法にならって演劇法の原案作成に着手したが、実現を見るには至らなかった。こうした統制のもとにあって、関係者は国策に沿って活発な活動を展開し、たとえば演劇の分野において、国民演劇樹立への努力や移動演劇の地方巡回が熱心に行なわれるなど、評価すべき成果もあげたのである。

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