三 学術行政の強化

学術行政体制の強化

 明治以降の学術上の政府の施策は、海外先進諸国の科学・技術の輸入移植に急であり、学術そのものの発展のための系統的・総合的な科学政策・学術行政が成立していたとは認めがたい。大正時代、学術研究の体制は、形式上は一応整った観があるが、学術研究に対する一般の理解は乏しく、研究の規模は小さく、相互の連絡に欠け、研究資金も特殊の場合を除いてはほとんど涸(こ)渇していて、研究者はその研究能力を発揮することも困難な状況であった。

 研究の助成のため、文部省にはじめて自然科学奨励金が設けられたのは大正七年からであるが、その額も大正十一年の一五万円からしだいに削減されるような有様であった。このような背景のあとに昭和七年日本学術振興会が誕生したのは学界にとってまさに画期的なことであり、それだけその役割も大きかった。

 しかし、行政面からも学術を担当する文部省においては、学術行政を専掌する部局を欠き、わずかに専門学務局の一課に学芸課があり、学校行政以外の学術・芸術全般を取り扱っていたにすぎなかった。

戦時体制と学術研究行政

 国家社会が、国力の基盤は究極において科学の力にまつべきものであるとの認識を深めたのは、国防国家の確立が呼号されはじめた昭和六年の満州事変のころからであり、その前後から政府もしだいに科学に対する関心を深めた。さらに、十二年七月、日華事変の勃発からわが国は長期にわたる戦時体制に突入し、国家総力戦体制の進展とともに、戦争遂行の原動力としての科学技術の重要性はいっそう明確となった。この当時から国家の科学に対する関与はさらに積極化し、行政上にも種々の施策が講ぜられるに至った。

 まず、十三年八月、文部省は科学振興調査会を設置した。これは、学術研究会議の代表と文部省首脳が会談の結果、従来の学術行政の貧困を改め、「我ガ科学界ノ現状ヲ批判検討シ其ノ制度施策内容並ニ運営等各般ニ亘ツテ之ヲ刷新拡充シ以テ我ガ国科学ノ根木的振作ヲ図ルタメ」必要な具体的方策を審議することを目的とするものであった。調査会は、十四年三月から十六年三月まで「人材養成ノ問題及研究機関ノ整備拡充並ニ連絡統一ニ関スル件」(答申第一)、「大学ニ於ケル研究施設ノ充実ニ関スル件」、「大学専門学校卒業者ノ増加ニ関スル件」(答申第二)、「科学研究ノ振作及連絡ニ関スル件」、「科学教育ノ振興ニ関スル件」(答申第三)の答申を行なったが、その内容は科学振興に関し各般にわたって重要な具体策を述べたものであった。

 これらの答申に基づいて、文部省は、まず十四年度の追加予算にはじめて科学研究費交付金三〇〇万円を計上した。科学研究奨励金が、六年以降七万三、〇〇〇円にすえ置かれたのに比し、これは飛躍的な金額であった。当時、わが国の中国における軍事行動に対し、諸外国の反感が激化し、わが国に対する科学封鎖の傾向が著しくなり、この危機を打開するためには、わが国の科学をその根底から振興する必要が痛感されたためである。なお、科学研究費の配分審査は、文部省から委嘱を受けて学術研究会議が行ない、また、この研究費は当初は自然科学だけを対象としていたが、十六年から逐年増額されて人文科学にも拡大するようになった。

 次に、文部省自身の学術行政体制を強化し、十五年二月、専門学務局学芸課から、新たに科学課を分離・新設し、さらに十七年十一月には科学局に拡充した。科学局では科学研究費の運用のほか、研究機関の設置・連絡、研究者・研究事項の調査、科学封鎖状態に対処するための外国学術文献の入手・紹介、欠乏する研究用資材・用紙等の確保等の業務を遂行した。これによって学術行政は、格段に強化されることとなったが、研究動員課という名称の一課が置かれたとおり、窮迫する情勢下に、科学動員の推進がしだいに主要な業務となった。

 一方、十二年十月、内閣に企画院が設置され、国家総動員法の立案、物資動員計画の策定等、戦時政策の総合企画に当たったが、国家総動員法は十三年四月制定された。この法律により国防目的達成のため、あらゆる分野にわたり、強力な統制の権限が政府に与えられたのである。引き続いて、「不足資源ノ科学的補填ニ関スル重要事項ヲ調査審議」するため、内閣に科学審議会が設けられ、十四年五月、「科学動員ニ関スル事項及科学研究ニ関スル事項」を所掌するため、企画院に新たに科学部が設置された。さらに第二次近衛内閣は、十五年八月、「基本国策要綱」の一つとして科学の画期的振興並びに生産の合理化を決定し、「科学技術ニ関スル国家総カヲ総合発揮セシメ科学技術ノ刷新向上就中航空ニ関スル科学技術ノ躍進ヲ図ル」ことを目的として十七年一月、内閣に技術院を設置した。続いて十七年末、「重要国策ノ科学技術的検討其ノ他科学技術ニ関スル重要事項ノ調査審議ヲ行フ」ために、科学審議会を発展解消して、内閣に科学技術審議会が置かれ、行政分野ごとに指定された主務官庁がその運営に当たり、文部省は学理部会を担当し、技術院を中心とする科学動員体制が進展した。他方、科学振興調査会はその答申のうちに、学術研究の連絡・総合を強化するため学術研究会議を改組し、新たに人文学部門をも加えて整備・拡充すべきことを述べた。学術研究会議は、本来国際的な研究の連絡・協力機関として発足したものであったが、日華事変後は科学の国際交流はほとんど途絶し、かつまた十四年以来、科学研究費の審査配分に当たるようになってから、会員数を二〇〇人に増員し、おのずからその性格も変化をきたしていた。文部省ではこの答申に沿って、十六年、学術研究会議を組し、従来万国学術研究会議に対応して区分されていた学術部の組織を、理化学・工学・医学・生物学農学関係の四部制とし、主要研究機関の代表者および現役の有力な研究者を会員とした。さらに、十八年八月、「科学研究ノ緊急整備方策要領」により、1)学術研究会議を整備強化して科学研究動員に関する特別委員会を設置し、大学等の研究機関にはそれぞれこれと連絡ある委員会を設置させて、文部省が両者を活用して学理研究力の集中発揮に当たること、2)科学研究要員の充実を図り、大学等の卒業生で緊急な研究に従事する者を優先的に配当すること、3)科学研究用資材の確保と重点的配分等の措置を講ずること、が決定された。これによって、文部省は学術研究会議の官制を全面的に改正し、国際的な目的を削除し、新しく人文科学部門を加えて会員数を四〇〇人に増員し、研究動員委員会を設けて学術研究動員の中心機関としての体制の整備を図った。また、同年九月、大学院特別研究生制度を創設し、すぐれた研究能力のある大学院学生を選定して、二年ないし三年学資を給与して研究に専念させる研究要員確保のための方策を講じた。続いて、戦局の緊迫化に伴い、十八年十月、「科学技術動員綜合方策確立ニ関スル件」が決定され、これに基づいて、内閣に少数の軍官民の委員で構成される研究動員会議が設置された。また、重要研究課題の研究者はすべて戦時研究員として内閣が命ずるという臨時戦時研究院員置制が公布された。さらに二十年一月、動員体制を強化するため学術研究会議を再度改組し、会員数を七〇〇人に増加し、支部を設ける等、機構の整備を行ない研究動員のための諸方策は技術院および文部省の両者を中心として、次から次へとあわただしく進められた。

 しかし、十七年半ばころから戦局は非となり、わが国の生産力は急速に低下し、研究遂行上不可欠の研究用資材の入手すら困難となった。研究動員は計画の策定に忙殺されるにとどまり、所期の成果を収めることは望むべきもない状態で敗戦を迎えたのである。

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