二 帝国学土院と学術研究会議

帝国学士院

 先進諸国のアカデミーを模して、明治十二年東京学士会院が発足し、三十九年、帝国学士院に改組された。帝国学士院は、「文部大臣ノ管理ニ属シ学術ノ発達ヲ図リ教化ヲ裨補スル」ことを目的とし、その会員(当初六〇人、大正十四年から一〇〇人に増員)は、碩学中から学士院が推選し、勅旨をもって命ぜられた。会員は第一部文学および社会的諸学科、第二部理学およびその応用諸学科に分属して、会議を開いて「学術教化」に関する事項を審議し、専攻の学科について論文を提出したり報告をする。また、六十歳以上の会員は年金を受けるものとされた。四十三年、皇室から賞典資として毎年二、○○○円下賜の御沙汰があり、これを機に帝国学士院授賞規則が制定され、「特定ノ論文著書其ノ他特種ノ研究ニシテ其ノ成績卓絶ナルモノニ対シテ」授賞することとした。四十四年木村栄の「Z項の発見」の業績に対し、第一回恩賜賞を授与し、以来毎年授賞を行なって今日に至っている。また、四十五年から欧文の帝国学士院紀事を刊行し、会員および会員の紹介する会員外の学者の研究を世界に発表紹介する役割を果たしてきている。また、帝国学士院は万国学士院聯合会に加盟し、わが国学界の国際的な窓口となった。大正三年その会員は勅任官待遇となり、それ自身碩学の優遇・栄誉機関としての色彩を強めた。恩賜賞・学士院賞の授賞と欧文紀事の刊行以外には学術振興の事業を積極的に実施する機関ではなくなった。

学術研究会議

 第一次世界大戦の勃(ぼつ)発後、ドイツ潜水濫の横暴に対し連合国側のドイツに対する反感が高まり、学術的な国際組織からドイツを除外しようとする企てが起こった。大正七年、連合国側の自然科学関係の学士院の代表者が集まって、従来のドイツ・オーストリアを中心として作られた学術上の国際条約から脱退して、連合国側のみで学術研究の協力を行なうため新しい国際組織を設けることとし、翌八年、ブリュッセルで万国学術研究会議(International Research Council)が成立した。わが国からも、帝国学士院の代表がこれに参加し、学士院は、新しい国際機関に対応する国内機関の設立について政府に建議を行ない、その結果、大正九年創設されたのが学術研究会議である。学術研究会議は「文部大臣ノ管理ニ属シ、科学及其ノ応用ニ関シ内外ニ於ケル研究ノ聯絡及統一ヲ図リ其ノ研究ヲ促進奨励スル」ことを目的とし、また、これに関し各大臣の諮絢(じゅん)に応じて意見を述べ、あるいは建議を行なう機関とし、その会員は一〇〇人以内、学識経験のある者から任命することとした。このようにして学術研究会議は、わが国学術の代表機関として、万国学術研究会議ならびにその傘下の各種の専門別の学術連合(Union)への代表派遣、国際的協力研究事業への参加とその推進、各専門分野別に論文を集録した二四種にのぼる欧文輯報の刊行等、帝国学士院にかわって、わが国学術の国際的な活動の中心機関として重要な役割を演じたのである。

日本学術振興会

 第一次世界大戦後昭和にかけて、世界的な不況が起こり、諸種の難問が発生した。これを打開するため、諸外国では、積極的に学術研究を振興し、その実用化を図り、国力を増強することが根本的な対策とされた。そこで政府・学界あるいは産業界が相協力し、学術振興のための各種の機関を創設することとなった。わが国においても、昭和六年の満州事変の前後からようやく学術研究が国力の基礎であり、産業・国防の根底をつちかう上からもその振興が重要事であると考えられて、学術研究に対する国家社会の関心がにわかに高まった。

 このような時代の風潮の下に、六年一月、帝国学士院の桜井錠二院長・古市公威・小野塚喜平治の両部長等が主唱して、国家的な学術研究奨励機関の設立運動を起こした。これが契機となって、同年三月、貴・衆両院において学術研究の振興に関して建議が行なわれた。その趣旨は、国運の進展、生活向上の根本対策として、政府はすみやかに学術研究の振興に関する具体的方策を講ずることを要望したものである。しかし、実際には学術研究に対する官民の認識は浅く、政府も三万円の調査費を計上しただけで、急速な進展をみなかった。

 このような時期に当たり、翌七年八月、天皇陛下から文部大臣に対し学術奨励のおぼしめしにより一五〇万円が下賜された。このことは国家的な研究奨励機関の設置の大きな動因となり、この御下賜金を基金として、政府も年額七〇万円の補助金支出を決定し同年十二月、「財団法人日本学術振興会」が設立されることになった。このような経緯から、学術振興会は、秩父宮殿下を総裁に仰ぎ、現職の内閣総理大臣が会長に、帝国学士院長が理事長に就任するという特別の組織をもち政府補助金および民間の寄附金をもって、研究者に対する研究費の援助、重要問題解決のための研究委員会の設置・運営、学術文献の刊行等を活発に行なって、学術の奨励・振興に大きな役割を果たした。学術振興会の研究費の金額は、当時の文部省科学研究・奨励金のほぼ一〇倍に当たり、十四年文部省科学研究費交付金が計上されるまでは、わが国の最も重要な研究振興の組織であった。また、学術振興会は、基礎から応用、さらに生産技術や資源開発にわたる各種の重要課題ごとに委員会を設けて、重点的に研究費を投入して総合研究の推進を図り、共同研究による研究の組織化を導入する等、学術振興会の発足とその活動は、新しい科学政策の第一歩をしるすものであった。

 以上のような学術機関の設置のほか、学術振興方策の一つとして、文部省は、研究者に対し研究奨励金を交付する制度を設け、まず大正七年自然科学の独創的研究を奨励するため、自然科学奨励金を、四年国体観念の明徴に資するため日本および東洋の精神文化に関する研究を奨励するため精神科学奨励金を計上した。しかし、その額は当初一四万五、○○○円であったのが、かえって減額され、六年度以降は七万三、〇〇〇円にすえ置かれ、まことに微々たるものであった。十四年科学研究費交付金の創設によって、はじめて国として本格的な研究助成策が講ぜられたといえよう。

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