二 文化

 文化に関する行政で、明治の初期からつとにとられてきた措置としては、「古器旧物保存方」の布告(明治四年)、古社寺保存金の交付(明治十三年より二十七年まで)、また古社寺保存法(明治三十年)、史跡名勝天然記念物保存法(大正八年)、国宝保存法(昭和四年)等の一連の立法で、廃仏毀(き)釈の風潮の下で危殆に瀕(ひん)しかけたわが国の歴史的・伝統的文化遺産の保存のことがまずあげられる。また、著作権保護に関しても明治二年の出版条例の制定を萌芽として、版権法(明治二十六年)や著作権法(明治三十二年)の立法により、著作者、出版者の保護の措置を講ずるとともに、ベルヌ条約(明治三十二年)や万国著作権条約に加盟して国際的連けいを図るなどの措置を講じた。さらに、国語施策に関しては、前島密の建白した「漢字御廃止の儀」(慶応二年)を始めとして在野各界の国語・国字改良運動の展開に呼応して政府で国語調査委員会(明治三十五年官制)を設置して国語調査の基本方針を定めて本格的調査を始めたこと、さらに、臨時国語調査会(大正十年)で漢字・かなづかい・文体に関する調査を手がけ、これが国語審議会(昭和九年)に発展して至難な国語問題の解決に努めるという一貫した施策がとられた。

 他方芸術文化(文芸・造形芸術・音楽・演劇等)に関しては、文教行政として特に着目されることもなく、しばらく明治四十年「美術審査委員会官制」が設けられ、文展が始められたことから始まって、文芸委員会設置(明治四十四年官制)、そして、幻灯映画、活動写真フィルム審査規程制定(同)を経て、帝国美術院設置(大正八年)による帝展の開催や文化勲章制度開始(昭和十二年)、映画法制定(昭和十四年)など一連の施策により地道ながら振興のための下地が形成されていった。

 いうまでもなく、明治以来の国の施策は日本の近代化のための文明開化の軌道をばく進するものであった。日本社会がながい鎖国政策のため、外に門戸を閉じていたことから世界の進運に大きく立ち遅れていたことを反思し、一挙にこれを取り返そうとするための施策は、積極的に欧米近代文化の摂取に顕著に現われた。この場合、本来の日本文化との調和ということも忘れられることがなかった。国語問題でも、漢字の全廃を訴えたかな国字論やローマ字国字論という極論の論と封建守旧の漢字不可廃論をたくみに調整しつつ国語改良政策が進められたし、また美術文化でも日本画と洋画、邦楽と洋楽、歌舞伎と新劇などのように西洋のものと日本古来のものがたくみに併存しつつ相互の改善の上に日本独自の世界を築く営みが積み重ねられてきたものといえよう。

 ただ、文化の問題を民族意識の高揚と国民精神の作興に寄与させようとする国家主義的施策が顕著に進み始め、日本の芸術文化の純粋性と伝統的優秀性を強調する余り、外国の芸術文化を意識的に排除し文化政策自体が戦時態勢に埋没した時期があったことは今にして反省させられるところである。

 当時のこのような傾向は、ヨーロッパでも見られ、ナチス政権やファシスト政府による極端な民族主義に立脚した文化政策が進められていたが、軍事的にそれらの国と結んだわが国でも、日独・日伊の文化協定などを有力なささえとして戦時国民思想確立の具に供され、戦力増強と戦争完遂のための「志気策動の源泉」として芸術文化行政が推進されたというにがい経験を味わう結果となったのである。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --