三 戦時下の教育行政

教育の戦時体制への移行

 満州事変以後、わが国の教育はしだいに国家主義的・軍国主義的傾向を強めていたが、昭和十二年七月の日華事変の勃発によりこの傾向にいっそうの拍車がかけられた。八月二十四日には「国民精神総動員実施要綱」が閣議決定され、十月十二日には国民精神総動員中央連盟が創立され、十四年三月二十八日には、内閣に「国民精神総動員委員会官制」が公布されるなどして国民精神総動員運動が展開されるとともに、戦時要員確保のため十三年四月一日には国家総動員法、十四年七月八日には国民徴用令が公布されて国民動員の方策が講じられた。

 文部省においても、戦時体制への切り替えが強調され、十二年七月二十一日には教学局を新設し、十四年三月三十日には文部省通達を発し大学の軍事訓練を必修とし、四月二十六日には青年学校を義務制とした。

 十四年五月二十二日には「青少年学徒ニ賜リタル勅語」が学生・生徒・児童に下賜された。十六年一月八日には体育局を新設し、戦時下の児童・生徒の保健・体育を強化することとなった。さらに、同年から国民学校制度を実施し、皇国の道に則(のっと)る皇国民の錬成という戦時教育目的を強化することとなった。

戦時教育体制

 太平洋戦争が始まるとともに教育の戦時体制はいっそう強化された。十七年一月九日には国民勤労報国令施行規則に基づいて学徒出動命令を出して、学徒の勤労動員を開始した。十八年度からは高等学校・大学予科・中等学校などの修業年限短縮を恒久化することとなった。さらに、その後の戦局の進展は学校教育に関して全面的な戦時非常措置を講ずることを余儀なくした。十八年六月二十五日には「学徒戦時動員体制確立要綱」、十月十日には「戦時国民思想確立ニ関スル基本方策要綱」が閣議決定されたのに続き、十月十二日には「教育ニ関スル戦時非常措置方策」が閣議決定されて戦時下の教育非常措置に関する基本的な方策が決定された。十九年一月十八日には「緊急学徒勤労動員方策要綱」、三月七日には「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」が閣議決定され、四月十七日には学徒動員本部規程が定められて、文部省に学徒動員本部が置かれることとなり、さらに八月二十三日には学徒勤労令が公布されて、中等学校以上の学徒は軍需産業へ通年動員された。この間、十八年十二月一日には学徒出陣が始まり、また学童の疎開も始まっていたが、十九年六月三十日には学童疎開の促進が閣議決定され、学童の集団疎開が開始された。二十年、本土決戦が迫るとともに、三月十八日には「決戦教育措置要綱」が閣議決定されて国民学校初等科を除いてそのほかの学校における授業を四月から一年間停止することとなった。さらに、五月二十二日には戦時教育令が公布されて、学徒隊の組織が定められ、また、戦局に即応する教育態勢への切り替え措置に関する文部大臣の権限が定められたが、その後三か月にして終戦を迎えることとなった。

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