二 教科書の戦時版

国民学校の教科書

 昭和十六年度から国民学校令を実施するに当たって、最も緊急を要するのは新教科書の編集であった。国民科・理数科・芸能科などの新教科とその新科目ができあがった以上、これを具体化した教科書を作り、急速に発行することが要請された。従前のようにまず国語の本から作り、それの程度に合わせて次にほかの科目の本を作っていくという余裕もなければ、また毎年一学年分ずつ順次に編集・発行するというような悠長なことも許されない。そこで十六年度には、まず初等科一・二学年用の全部の教科書を発行し、次年度には三・四学年用を発行し、次いで五・六学年用、高等科用を発行して、およそ四年間で全八学年分を完結させるという目標がたてられたのであった。

 編集方針としては、皇国民の錬成を心髄となし、各教科・各科目を通じて左記の心理的発達段階を確認し、相互の分化連絡を密接にし、この体系のもとに全教科書を発生的・合目的的に組織したのである。

 第一期  初等科一・二学年 (情意的な錬成)

 第二期  初等科三学年 (自覚への過渡期)

 第三期  初等科四・五・六学年 (自律的な能力)

 第四期  高等科一・二学年 (積極的な自覚)

 皇国民の錬成も心理的発達に即さなくては教材も不消化に終わり、学習の効果もうすいので、第一期の教科書は、特にその内容が児童の心情に合うものとし、教科書の名称や体裁なども、児童本位に編集されることとなった。従前の国定教科書の観念をまったく捨てさったが、それと同時に教師用書や掛図も、各教科書につけ、これの編集にも努力が払われた。

 このようにして十六年四月に発行使用された教科書は、「ヨイコドモ」・「ヨミカタ」・「テホン」・「カズノホン」・ 「ヱノホン」・「ウタノホン」のような一・二学年児童用書一六点で、印刷は多色刷であった。理数科理科については、一・二学年の児童用書は作られなかったが、新しく教師用書として「自然の観察」が出された。

 次年度からは、三学年以上の初等科各教科書が、書名も体裁も、本格の教科書らしさをそなえて発行された。そのうち国民科の教科書として新しく「郷土の観察」が四学年用として出されたが、これは歴史・地理未分化の段階の教材として注目される。さらに引き続いて、十九年高等科用の教科書が編集発行され、二十年新規に工業教科書が発行されたのを最後として、国民学校の教科書は一応の完成を見たのであるが、その総点数は、児童用一三八点、教師用八五点、ほかに掛け図五八点、計二八一点の多数に及んだ。皇国の道の錬成という思想のわくのもとに、全教科書は首尾一貫した一大体系をつくり、思想の無理押しや不消化の点は含みながらも、編集内容には独創くふうの新生面を開いたものも少なくなかった。

戦時下教科書の製造供給

 教科書の製造供給に要する資材は、用紙をはじめ、鉛やインキなどの印刷材料から、包装荷造り資材に至るまで、すべてが重要軍需資材でないものはなく、したがって、短期間内に数百点にのぼる新しい教科書を次々と発行・供給するということは、製造供給用資材を確保するためのすさまじい戦いをも意味していた。編集面における臨戦作業もさることながら、次々と出る新しい教科書を、きわめて限定された短い期間内に製造し供給することの困難はいうまでもないことである。必要とする膨大な資材をどのようにして確保し、入手するかは、実に戦時教科書行政のキーポイントでもあった。

 かくて国民学校第一・二学年用図書の色刷廃止はすでに早くも行なわれ、昭和十九年には各教科書の表紙を墨一色に改めたほか、用紙の紙質低下、減ページ、発行の制限、種目によっては発行の停止等の非常措置を講じなければならなくなった。文部省当局や発行会社の努力にもかかわらず、資材の確保難、輸送力の減退は日とともに加わり、製造供給の困苦はいっそう激しさを加えた。

 この間、国定教科書の翻刻発行会社、検定教科書の発行者ならびにその協力工場は、あくまで使命と職責の遂行に努め、空襲下の工場疎開、資材の調達、被災の処理にも敢然と立ち向かい、全国の多くの供給業者の協力と相まってよく最大限の業績をあげたものといってよい。しかし、結局のところ戦時教科書行政は、資材確保の苦しい戦いにおいても、もはや最後の段階にたどりついたのであって、皇国民錬成のための紙の弾丸戦は、その面からも最後の審判を待つほかなかったのである。

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