四 青少年教育の進展

実業補習学校と社会教育制度

 初等教育終了後、ただちに実務に従事する勤労青少年のための主要な教育機関として実業補習学校があった。実業補習学校は、明治二十六年十一月公布した「実業補習学校規程」によって設立し、のちに実業学校令の一部に加えられ実業教育制度による学校として、全国各市町村の小学校に併設されて普及した。しかし、実業補習学校は、元来勤労に従事する青少年のための学校であり、中等程度の実業学校とは著しく異なっていた。特に三十年代の後半以降、農村における農業補習学校が、他の工業・水産・商業・商船補習学校等をはるかに凌(しの)いで圧倒的な発展をみせたことは、実業補習学校制度が農村における勤労青少年の教育機関として最適のものであったことを示していた。

 明治の末年以降大正期にかけて、青年団の振興策がとられ、特に文部省としては、青年団を勤労青年の補習教育機関として発展させる方策をとった。これによって実業補習学校と青年団とを緊密な連絡のもとに運営し、実業補習学校はしだいに社会教育制度の分野へひきつけられてゆく情勢を生んでいった。大正十五年の青年訓練所の設立は、この傾向をますます深めていった。昭和四年七月一日社会教育局の新設と同時に、実業学務局の所管に属していた実業補習学校を社会教育局の主管に移した。これによって実業補習学校を青年訓練所とともに社会教育による青年教育体系の中に位置づけて、運営していくこととなった。

青年訓練所の設立

 青年訓練所は臨時教育会議において学校に兵式教練を取り入れることを要望した建議が提出されたことに淵(えん)源する。大正十四年、学校に現役陸軍将校を配属して教練を実施する制度に続いて、小学校修了後業務に従事する青少年大衆に対して兵式訓練の施設を設ける方策として、十五年四月二十日青年訓練所令および青年訓練所規程を公布した。青年訓練所は、「青年ノ心身ヲ鍛練シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ以テ目的」とし(青年訓練所令第一条)、おおむね十六歳から二十歳までの男子を四年にわたって訓練するものであり、教授および訓練科目として、修身および公民科・教練・普通学科・職業科を置いた。設置主体は市町村および私人とし、設置に関して毎年一〇〇万円を支出した。特に訓練修了者に対しては在営年限の半年短縮が認められ、軍務要員教育に関して特に考慮された制度である。十五年この制度が創設された際設立された青年訓練所数は一万五、五八〇、生徒数は八九万一、五五〇人であった。

 ここにおいて前述の実業補習学校と新設の青年訓練所が併立し、どちらもほぼ同年齢の青年を教育の対象としていたために、実施上何かと困難を伴うことが少なくなかった。試みに昭和九年の統計を見るならば、実業補習学校は一万五、三一五校で、生徒数は男子九四万四、四七三人、女子四七万四一六人であり、これに対して青年訓練所は総数一万五、七七〇、生徒数九一万五、四六一人で男子は両者ほぼ匹敵していた。しかも青年訓練所生徒のうち少なくともその半数は実業補習学校の生徒でもあり、二重学籍をもっている上に、両者の拡充とともに、その教育内容もしだいに接近し、重複する傾向が現われてきた。そこで両者を統一して、その充実を図ることは、世論の支持を得るようになり、その併合案は文政審議会の議を経て、十年四月一日青年学校令として公布し、これによって青年学校の制度が新たに発足した。

青年学校制度の成立

 青年訓練所と実業補習学校とを統合して新しく創設された青年学校制度については、昭和十年四月一日「青年学校令」を公布した。これによって文部省と陸軍省とは協力して男女青少年の心身を鍛錬するとともに、職業および実際生活に必要な知識・技能を授けることとなったが特に勤労に従事するものの教育であるところから、文部省では実業補習学校と同様、社会教育の一部としてこれを取り扱った。なお、青年学校令の公布とともに、「青年学校規程」を制定し、続いて十年八月二十一日付けで青年学校教授および訓練科目要旨を、さらに十二年五月二十九日青年学校教授および訓練要目を公布し、しだいに青年学校制度を整備することとなった。

 青年学校の本旨は、男女青年に対しその心身を鍛錬し徳性を涵(かん)養するとともに職業および実際生活に須(す)要なる知識技能を授け、もって国民たる資質を向上せしむるを目的とすと規定してあるが、生徒の大部分は働きつつ学ぶものであるところから、一般学校に比べて、その教育は著しく簡易・自由を特色として、地方の実情、青年の境遇に適応させるよう特別の考慮を加えた。その課程は普通科・本科・研究科および専修科の四つからなり、普通科は二年、本科は男子五年、女子三年として、土地の状況によって各一年を短縮することができた。そして研究科は一年以上、専修科は別に期間の定めがない。尋常小学校卒業者は普通科に入れ、普通科修了者および高等小学校卒業者は本科に入れたが、研究科には本科卒業者またはこれに相当する教養ある者を、専修科には特別の事項を習得する希望者を入学させた。普通科の教授および訓練科目は修身および公民科・普通学科・職業科・体操科とし、女子には家事および裁縫を加えた。本科では修身および公民科・普通学科・職業科および教練科であるが、女子には教練科を省いて家事および裁縫科ならびに体操科を加えた。このように科目の編成を総合的に取り扱ったことは、授業時間数の制限にもよるが、内容の有機的関連を重んずる点で、当時の中等学校科目の編成と異なる特色を出したものとして注目される。なお、青年学校令と同時に、「青年学校教員養成所令」および「青年学校教員養成所規程」を公布し、道府県または市に青年学校教員養成所を設置させて、中等学校卒業程度の者を二年、特別必要ある場合には三年間収容して、教員の養成を図ることとなった。十年度における青年学校数は一万六、六七八校、生徒数一九〇万二、一五七人、教員数六万八、一七九人に達した。なお、青年学校教員養成所は四五校、生徒数一、一一七人であった。

青少年団体の育成

 この時期に青年団体の組織化が著しく進んだ。大正五年十一月三日に青年団中央部が東京に設けられて中心機関の成立をみた。七年五月五日から三日間にわたって、第一回全国青年団連合大会が東京に開催され、宣言および決裁を行なって統一ある活動を展開する基礎をおいた。十三年十月には大日本連合青年団の結成をみるに至ったが、この間内務省・文部省はしばしば訓令を発して、その指導誘掖に努めたのである。男子青年団体が発展するとともに、女子青年団体の組織・指導にも努めることとなり、十五年十一月十一日内務省・文部省から訓令を発した。同時に女子青年団施設要項を通牒し、男子青年団に並んで運営することとなった。このようにして、昭和二年四月には大日本連合女子青年団が結成された。しかるに三年十月八日の通牒によって、男女青少年団体の事務はすべて文部省の所管に移すこととなり、内務行政から離れて、文部省社会教育行政の中に加えられた。これから後は文部省の社会教育施設の一つとして青年団体が取り扱われ、その方策が展開されるようになったのである。三年における青年団および女子青年団の状況は青年団一万五、二九五団体、団員二五三万四、三二六人、女子青年団一万三、〇四三団体、団員一五一万四、四五九人、総計二万八、三三八団体、四○四万八、七八五人であった。なお、少年団に関しては、大正十一年四月十四日ボーイ・スカウトの組織にならって少年団日本連盟が結成され、その後少年赤十字の組織もあったが、昭和九年帝国少年団協会がつくられるようになった。

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