一 特殊教育の発展

特殊教育の創始

 すでに江戸時代の寺子屋には、盲児、聾唖(ろうあ)児、肢(し)体不自由児、精薄児等の障害児がかなり在籍していたことが報告されている。また海外の特殊教育事情も、特に幕末から明治初期にかけて、医書や地理書、海外渡航者の見聞記、日記、報告書、あるいは来日外人からの情報で、知識層の間にはかなり知られていた。明治四年九月に至って、時の工学頭山尾庸三は、西洋各国にならって、官学、唖学の二校を創設することを太政官に建白したが成功しなかった。しかし、翌年八月の学制第二十九章には、中学校の種類に廃人学校を入れたがのちに第二十一章小学校の項に移した。この廃人学校については、性格、内容を明らかにしなかったが、府県によってはその設置になんらかの配慮をもったものもあり、また民間でいくつか盲人学校の設置が企てられた。特に東京麹町において九年、熊谷実弥によって設けられた学校は、文部省第四年報で廃人学校の項にしるされていたが、この学校は翌年廃止された。

 しかし、わが国の近代盲・聾教育は、十一年五月京都の上京区に開業した盲唖院をもって創始されたといってよい。これに続いて設けられたものは、十三年一月事務を開始した東京築地の訓盲院である。前者の設立は、上京区第一九組の熊谷伝兵衛、山田平兵衛、第一九番校(のちの待賢小学校)の教員、古河太四郎等の運動と、京都府の学校整備を推進した当時の府知事、槇村正直の力によったものであり、翌年府の施設として本校舎をつくった。東京においては七年来朝した英人医師・宣教師、ヘンリー・フォールズの発意で、当時の先導的開明の士、中村正直、津田仙、古川正雄、岸田吟香等が加わって、楽善会を組織し、訓盲院設置運動を興した。後に楽善会に加わった山尾庸三等の働きで、九年三月東京府権知事楠本正隆を経て、内務郷大久保利通の裁可を得、設立の運びとなったものである。このようにしてわが国の特殊教育も、盲・聾教育が先駆するところとなった。京都の盲唖院は公的な基礎を持ったが、その維持・経営は慈善的拠金によることが大きかった。そのため、二十年代にはいるころ経営難となり、府は二十二年十二月これを市に移管し、京都市盲唖院とした。この学校の本格的な発展は三十年代にはいってからである。東京の訓盲院は唖生も正規の生徒として受け入れ十七年五月訓盲唖院と改称されたが、楽善会の事業でありあくまで慈善的な拠金によっていた。そのため京都の盲唖院より経営は苦しく、十年代半ばころからの経済的不況の影響もあって、楽善会員の意欲も衰え、遂に十八年十月文部省直轄を願い出で、十一月認可、十二月から官営となった。これによって楽善会は解散し、二十年十月勅令第五十一号で、文部省直轄諸学校官制中の改正を行ない、直轄学校の一つに加え、文部省告示第九号をもって訓盲唖院を盲唖学校と改称した。以来文部省は、毎年の支出の中に東京盲唖学校の経費を加えている。

盲唖学校の規程

 すでに明治二十年代にはいるまでに、いくつかの盲唖学校や盲人学校の短期の設置や設立計画が地方に見られたが、二十年代にはいって漸次民間におけるこの種学校設置の機運が、盲人の鍼按(しんあん)講習会や外人宣教師等によって全国的に広まっていった。すでに京都市盲唖院や東京盲唖学校が存在していたし、新たに学校を設置する場合、その法的準則が明らかでなかったことから、ようやく二十三年十月の改正小学校令で初めて第四十~四十二条によって盲唖学校の設置・廃止等に関する規定が設けられ、それを受けて翌年十一月の省令第十八号で、教員の資格、任用、解職、教則等に関する事項を定めた。これによって盲唖教育は法規上の準則を正規にもつに至ったわけである。

盲唖学校の拡充

 これらの規定は明治三十三年八月の改正小学校令および新しい小学校令施行規則におおむね踏襲された。しかしこの新小学校令は、日清戦争後の教育振興策にそって、初等教育の内容整備、義務教育の強化を図る一方、就学の猶予・免除規定を対象によって区分し、明確にした。このことから、重い障害児の小学校就学は実際にますます困難になった。これらの事情によって教育を受ける機会をもたない盲・聾児のため、盲唖学校、盲人学校の設置が急速に全国的に促進された。すなわち実質的な盲・聾教育の拡充がこのころから始まったといえる。

 これに伴って全国的に教員需要も増し、このため三十六年四月から東京盲唖学校に教員練習科を設けた。

盲学校・聾唖学校の分離

 盲学校ないし盲唖学校は、明治三十年代には二七校、四十年代にはさらに三二校増し、就学する生徒数も増加した。ただこれらの新設校はほとんど小規模の私立学校であった。この中で東京盲唖学校は、一つの学校で盲、聾という障害の性質を異にし、違った教育法を必要とする生徒の教育を行なうことの不利を説く関係者の主張があった。このことから四十二年四月、文部省は勅令第八十六号で直轄諸学校官制中の改正を行ない、東京盲学校を新設し、翌年三月勅令第六十六号で同じく直轄諸学校官制中の改正で、東京盲唖学校を東京聾唖学校に改め、盲聾併置校の分離、単独聾唖学校設置の先鞭(べん)をつけた。これに伴い、四十三年十一月、省令第二十九号をもって「東京盲学校規程」、同三十号をもって「東京聾唖学校規程」を制定した。これらによって東京盲学校、東京聾唖学校は、それぞれ、盲人、聾唖者に普通教育を施し、ならびに須要な技芸を授けること、盲人教育、聾唖教育に従事する者を養うという学校の目的あるいは性格を明確にした。このためそれぞれの学科を普通科、技芸科、師範科に分け,そのほか修業年限、教科目、学科目、入学資格等を定めた。これらの規定は、以後全国の盲唖学校教育の目的、性格、学科組織、教育内容の指標となったものである。

 なお、学校数は全国で、明治四十五年五七校、生徒数は同年盲一、六〇〇人、聾一、〇六九人に達した。

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