一 臨時教育会議の答申と高等教育の拡張

大学および専門教育改善の答申

 臨時教育会議においては、大学教育および専門教育の改善に関し大正七年六月二十二日に答申をしているが、この答申のうち、大学改善に関するものは二〇項であって、そのほかに希望事項が八項付加されている。

 この大学制度についての改善要項は学校の体制を改革する答申としては最も詳細なものであって、この会議は高等教育、特に大学教育について、画期的な方策を提出したものと見ることができる。実際に、この要綱に基づく大きな改革がその後ただちに実施に着手されたのであるから、大学教育に関する答申はきわめて重要な意義を持つものといえよう。

 大学の構成に関しては、この答申によれば大学の分科は文科・理科・法科・医科・工科・農科・商科等となし、大学は総合制を原則とするけれども、単科制となすことができることとした。これは、従来の帝国大学がすべて総合制であったのに対し、単科大学の存在をも承認したものであるから、大学の構成に関する方策としてはかなり重要な改革である。分科大学は国家に須要なる学術を教授し、およびその慈奥を攻究することを目的とするものとして、従来分科大学を教授の機関とし、大学院を学術攻究の機関とした制度を改めたのである。この目的についての方針によって、各分科大学に研究科が設置され、卒業生が引き続きここにおいて学術の攻究に当たることとした。そしてこの研究科を総合して大学院とし、各研究科間の連絡を全からしむることとした。分科大学の在学年限は三年以上とし、医学は特に四年以上とすることを定めている。入学資格は高等学校卒業者とするのを常例とし、大学の状況によってはこれと同等以上の学力ある者をも収容することができるものとした。予科は大学に特別の必要のある時には置きうるものとし、その程度は高等学校と同程度の高等普通教育を授け、修業年限は中学校四年修了者は三か年、中学校卒業者は二か年とした。すなわち、原則的には高等学校卒業者をもって大学への入学資格とし、特別な場合として予科卒業者の入学をも承認したのである。

 大学の設置に関しては官立および財団法人の設立とし、特別の場合には公共団体の設立をも認めることとした。この答申は従来帝国大学令による官立の帝国大学以外の大学の存在が認められていなかったのに対して著しい改革を要求したものである。私立大学の存在を認めたことは重大なことであって、このことは大学の数を増加させ高等教育制度全般に対して影響することも少なくなかった。公共団体および財団法人の大学設立については、特に文部大臣が勅裁を経ることとし、その経営は文部省が監督する制度として答申している。また、教職員の待遇改善のことおよび帝国大学分科大学においては停年制を設定すべきことが答申されている。なお、女子の大学については、東北帝国大学等特殊な進学者のあることはしかるべきことであるが、一般的にはまだその時期でないとしてこれを認めなかったのであって、専門学校令による学校で女子に必要な学業を修めることができるとした。

 大学における教育の内容および方法などに関する事項は、希望事項として答申の終わりに加えられている。それは特に大学の教育機関的性格についてふれている。すなわち、大学では従来「人格ノ陶冶、国家思想ノ涵養」がなおざりにされていたと指摘し、その充実を望みつつも、しかしその方法は、高等学校の場合のように修身科を置くなどの方法で行なってはならないと述べている。外国の大学におけるように荘厳な講堂や立派な学寮を備えることなどによって、学生の学問的精神の陶冶を図ることが、ひいては国民思想に与える大学の影響を正しくさせる方法であるとした。また学生を試験勉強や暗記から解き放って自学自習の習慣をつけること、学級制を廃して科目制とすること、講座の種類を簡略化すること、点数による評価制度を廃止すること、そして分科大学間の連絡をよくして総合大学の実をあげることなどがその要点であった。国家思想の涵養を重要視しているのは臨時教育会議の時代性をあらわすものであるが、希望事項の重点は総合制に立つ学問研究と教育の機関としての大学のあり方を明示したものとみることができる。

 なお、専門学校については、「現制ハ大体二於テ之ヲ改ムルヲ要セサルコト」と、現制維持の方針を答申した。

 以上のごとく、臨時教育会議においては主として大学の制度に関する改善の要綱、すなわち、大学の構成に関する問題が検討されたのであるが、その改善の重点は従来帝国大学以外には大学が存在し得なかった形を改めようとしたことであって、この計画は大学の拡充を一挙に断行しようとした方策に基づくものであった。このような大学制度改善の実施案を得るに至ったことは、わが国の大学発展史上に一時期を画するものであって、高等教育制度がようやく整備されるべき段階に達したものであると見ることができる。

高等学校改善の答申

 高等学校に関する改善の基本要綱は、男子の高等普通教育の改善についての諮問に対する答申の中に加えられ、大正七年一月十七日に一二項にわたる基本要項が答申された。さらに、七年五月二日第二回の答申がなされたが、それは主として高等普通教育の内容および方法に関するものであった。これらに基づいて高等学校改善の答申がどのような方策を提出したかを明らかにしたい。

 高等学校の性質についてはこれを「高等学校ハ高等普通教育ヲ授クル所トス」として、高等学校が帝国大学の予科としての性質を備えていたのを改めることとした。すなわち、高等学校はこれを中学校と同様な性質の学校であるとし、二つの目標を持たせた。その一つは中流以上の生活にはいるための教育機関としての機能を果たさせ、他の一つはこれをもって大学への基礎教育としようとしたのであって、この二つの目標が最高程度の高等普通教育という一つの方式によって充足されるものとした。高等学校がこのような性質を採るようにしたことは、ここを大学の予科とする従来の制度を改めて、高等普通教育の体制中に繰り入れようとしたのであって、この方策は明治四十年の小松原文相による高等中学校制度決定の際の考えとまったく同一であったと見なければならない。

 高等学校の構成については尋常科四年・高等科三年合わせて修業年限七か年の学校を設置することを基本とし、高等科三年だけを単独に設けることができるとし、これらの高等学校卒業者を大学へ入学させることとした。卒業者のためには一年の課程を置くことができるとし、この課程を終わった者には相当の称号を付与することとしたのである。また、七年制の高等学校と中学校とには予科を置くことができるとした。そして、高等学校高等科第一学年には中学校四年修了者を入学させることとした。この高等学校制度改善は、七年制高等学校の新しい方策を提出したことと、中学校四年修了者を入学させることによって年限短縮を実現しようとしたことである。この修業年限短縮についての問題は以前から高等学校制度改革の根本にあったものである。

 高等学校の設立はこれを官立・公立・私立の三つを認めることとし、学科はこれを文科・理科に分けて従来の予科三部制を廃する方針とした。教育内容に関しては第二外国語を随意科とする方針をとり、第一外国語に力を注がせ、一つの外国語にじゅうぶん習熟させることによって大学における学理の研究に当たらせることとしたのである。以上のような改革の方策が答申されたのであって、明治四十年以来の高等中学校令における改革方針がここにその実現を要望されたものと見ることができる。この答申の中で特に重要な点は、高等学校が高等普通教育機関となり、大学予科の性質を捨てることとなる方策であったといわなければならない。これによって高等学校が全学校体制中において占める位置を改めることとなるばかりでなく、その独特な性質が他の学校の性質をも決定させることとなる。この答申に示された方針はそのままに実現を見ることになったのである。

高等教育機関の拡張計画

 大正七年、原敬内閣のもとで文部大臣中橋徳五郎は、第四十一回帝国議会に「高等諸学校創設及拡張計画」を提出し、四、四五〇万円余の追加予算の要求を行なって、計画を成立させた。このうち一、〇〇〇万円は御内帑金によってまかなわれた。これが高等教育機関の拡張計画であり、大正八年度から十三年度までの六年間に、官立高等学校一〇校、高等工業学校六校、高等農業学校四校、高等商業学校七校、外国語学校一校、薬学専門学校一校、帝国大学の学部四学部をそれぞれ新設し、医科大学五校と商科大学一校との昇格、実業専門学校二校と帝国大学学部六学部について拡張を行なうというものである。この計画は、戦前において国立高等教育機関に関して立てられた最も組織的かつ大規模な拡張計画であり、第一次世界大戦後の経済好況を背景に、明治末期から増加の一途をたどってきた中等教育機関の卒業者および高等教育への進学志望者に対して大学・高等学校・専門学校の門戸を開放し、産業界の要求にもこたえようとするものであった。この拡張計画が先の臨時教育会議の諸答申と結びついているものであったことはいうまでもない。臨時教育会議の諸答申の改善案は、その後、この拡張計画によって財政的に裏づけられて、高等教育の歴史に新しい時代をもたらすこととなった。

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