四 地方教育財政と国庫補助

小学校教育費の負担関係

 明治十九年の小学校令は、義務教育の規定を明確化することとともに、小学校の経費は主として父兄の支弁する授業料と寄附金によってまかなうことを原則とし、「授業料及寄附金等ヲ以テ小学校ノ経費ヲ弁シ能ハサル場合」においてのみ、その不足分を区町村会の議決により区町村費を補うことができるものとした。もっとも小学校令は、土地の状況により、区町村費をもって授業料無償の小学校簡易科を設けて尋常小学校に代用することができることとし、また、小学校簡易科教員の俸給を地方税をもって補助することができるものと規定して、負担の軽減を図っていた。

 しかし、この小学校令の規定は文字どおりに実施されたわけではなかった。二十一年の市制・町村制の実施の後、二十二年五月九日、小学校維持の責任が市町村にあることを定めた文部・内務両大臣の共同訓令によって、その後の地方教育財政の大綱が示され、さらに、二十三年の地方学事通則と小学校令によって、小学校の設置・維持の責任と経費負担の関係が詳細に規定された。

 二十三年の小学校令は、各市町村が学令児童を収容するに足る尋常小学校を市町村費をもって設置する責任を有するものとしたが、一町村の財政力だけでは小学校を維持する負担に耐えない場合は、郡長が他の町村との学校組合を設けさせるものとした。また、私立小学校をもって代用小学校とすることができるものとした。同令は、1)小学校校舎校地校具体操場農業練習場ノ供給及支持、2)小学校教員ノ俸給旅費等、3)小学校ニ関スル諸費は当該市町村ないし町村学校組合が負担するものと定めて、市町村立小学校経費の市町村負担の原則を明確にした。同時に、財政力の足りない市町村および学校組合に対しては、まず郡費さらに府県費によって補助することを規定した。授業料については、一家から同時に数名就学する場合や保護者が貧窮な場合には全部または一部を免除することとし、また、物品・労力によって代えることを認めるなど、負担の軽減を図った。小学校教育費が主として市町村の負担にゆだねられた結果、市町村の小学校教育費は、市町村財政にとって著しい負担となったので、小学校教育費に対する国庫補助が強く要望されるに至った。なお、二十三年十月三日に市町村立小学校教員退隠料および遺族扶助料法が公布され公立小学校教員についても退隠料・遺族扶助料の制度が設けられるとともに、これらの退隠料等についての国庫補助の規定が設けられた。

市町村立小学校教育費国庫補助法の成立

 小学校教育費に対する国庫補助の要請に応えて、明治二十六年末、井上文相により、市町村立小学校教員に年功加俸を支給してその経費を国庫支弁とする小学校教員年功加俸国庫補助法案が提出されたが不成立になった後、二十九年三月二十四日、西園寺文相の時に、ほぼ同内容の法案が「市町村立小学校教員年功加俸国庫補助法」として成立・公布され、ここに、十四年に小学補助金が廃止されて以後十五年ぶりに小学校教育費の国庫補助が復活されることとなった。その内容は、五年以上同一学校に勤続した市町村立尋常・高等小学校の正・准教員に本俸の一五%、以後五年勤続ごとに一〇%を加え、最高三五%までを国庫から補助するというものであった。このように、補助の内容が教員の年功加俸に限定されてはいたが、その後、教育費国庫負担の問題が考慮されるに至る端緒をなしたものである。

 三十年一月四日、勅令により「市町村立小学校教員俸給ニ関スル件」が定められ、市町村立小学校教員の給与の基準が定められ、市町村・学校組合・区に対してその支出が義務づけられるとともに、市町村がその支出にたえない場合、府県が相当の補助を行なうべきものとされた。

 また、三十三年の小学校令は、従来三年ないし四年となっていた義務教育年限を一律に四年と確定し、就学義務規定を整備してその徹底強化を図るとともに、小学校の授業料を原則として廃止することとした。すなわち、同令第五十七条に「市町村立尋常小学校ニオイテハ授業料ヲ徴収スルコトヲ得ズタダシ、補習科ハコノ限リニアラズ特別ノ事情アルトキハ府県知事ノ認可ヲウケ市町村立尋常小学校ニオイテ授業料ヲ徴収スルコトヲ得」と規定した。これによって初めて、義務教育無償の原則が、尋常小学校に関する限り、不完全な形ではあるが確立されるに至った。

 以上の方策は当然市町村財政にとっての小学校教育費負担のいっそうの増加をもたらすことになることが予想された。三十二年十月二十日、議員立法によって小学校教育費一般を対象とする小学校教育費国庫補助法が成立・公布されたのであるが、その施行に先たち、この補助法と二十九年の教員年功加俸国庫補助法とに代えて、新たに政府提出の「市町村立小学校教育費国庫補助法」が成立し、三十三年三月十六日に公布された。

 この補助金は、市町村立小学校教員の年功加俸および市町村立尋常小学校教員の特別加俸に充てられるものである。

 なお、この国庫補助金は、学齢児童数と就学児童数の和に比例して毎年府県に配賦され、毎年百万円が支出されることとなった。

 その後、四十年三月の小学校令改正によって、義務教育年限はさらに六年に延長され、五月には勅令によって市町村立小学校本科正教員の給与額が大幅に引き上げられたので、五月二十七日、勅令によって「市町村立小学校教育費ヲ補助セシムル為北海道地方費及府県費支出ノ件」が定められ、四十一年から、国から配賦される補助金額と同額を道府県からも支出させて、市町村立小学校教員加俸の支出および市町村立小学校教員住宅費の補助にあてることとされた。さらに、四十二年三月十二日の右の国庫補助法の改正によって国庫補助金の配賦方式が改められ、国庫補助金の半額は、市町村立小学校の本科正教員の数に比例し、他の半額は、市町村立小学校の本科正教員で五年以上同一府県内に勤続するものの数に比例して府県に配賦するものとされた。

 以上のような国庫補助法の制度ならびにその他の財政措置にもかかわらず、国庫補助金の公立学校経費の全体に対する割合は、この時期を通じておおむねわずかに一%以下にとどまり、町村歳出に占める教育費の割合は三十年代の中ごろ以降、ほとんど四〇%に達し、四十年度初めからは四〇%をこえるようになったのである。

 なお、この間、三十二年三月二十二日、「教育基金特別会計法」が制定され、日清戦争の賠償金の約三%に当たる一、〇〇〇万円をもって教育基金を設け、その利子を毎年普通教育費の補助に充てることとなり、同年十一月二十二日の教育基金令によってその用途・配分方式が定められたのであるが、日露戦争が始まると同時にこの基金は他の用途に転用され、以後、国庫から毎年定額をこれに代わって支出した。

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