二 産業教育振興の方策

産業教育に関する井上文相の方策

 日清戦争をもってわが国の産業界は著しい躍進を遂げ、近代産業の形態をとった企業がこの戦争を期として興ってきた。このような産業の興隆は当然教育に対しても新しい要望をすることとなった。元来、近代学校の制度は、産業生活と緊密に結びついて成立し、産業の進運に基づいて発展してきたものである。五年学制発布の際に、近代学校制度を実施する方策をとったが、その際産業に基づく教育の方針を太政官布告として宣言したのである。学制発布以後における学校制度の基本的な性格は、近代産業と密接に結びついたものであって、事実わが国における産業の近代化が進められなかったならば、教育のみが産業主義にのっとって運営されることはありえないのである。二十年代に至るまではわが国の教育が主として普通教育の拡充に専念していて、実業教育を振興する気運に到達していなかったということは、産業情勢と連関させてみて、当然のこととみられる。十九年以後、森文相は学校制度全般に関する大改革を実施したのであるが、依然としてそれらは普通教育の範囲にとどまっていて、実業学校制度には全然触れることができなかった。日清戦争を期として、産業生活が著しく向上するとともに、学校制度に関する方策も実業教育に傾注されることとなった。このような時代のすう勢を見きわめて実業教育制度の振興に力を注いだのは文部大臣井上毅であった。

 井上文相は二十六年三月就任するとただちに、同年六月に教育上緊急に改良を必要とする方策を立てて閣議に提出し、これを今後における教育改革の基本方針としたのである。それは次の七か条から成っているが、そのうち工業教育に関するものは第二項であった。そこには次の要旨が述べてある。「工芸教育の必要は欧洲では仏国が最も先に注目し、その機関を創設して以来、大陸各国に模倣されたが、わが国の教育家はこの緊要な事業に向かって全くぼう然としていた感がある。この工芸教育を実際に施行して、その結果を収める方法としては、(イ)高等小学の程度において実業補習の規定を設けること、(ロ)各中学に付属する実業学校を誘うこと、(ハ)一、二枢要の地において工業学校を補助すること」この方策を実現したのが実業教育振興に関する諸規程の公布であった。これらの実業諸学校を整備する方策についてどのような思想をもって当たったかに関しては次の諸資料によってうかがうことができる。

 すなわち、二十六年十一月実業教育に関する最初の規定として実業補習学校規程を公布した際に発した訓令において、よく当時のふんい気と井上文相の学校策とをうかがうことができる。

 「輓近宇内各国ノ富力ハ年一年ニ倍加シ進テ止マサルノ勢アリコレ蓋科学盛ニ興リ其ノ発明ノ応用ヲ各般ノ実業ニ及ホシ細大ノ技術ヲ尽シ以テ百倍ノ生産ヲ収ムルニ外ナラス我国ハ方ニ文明ノ進歩ヲ見ルニ拘ラスコノ科学的ノ知識能力ハ未タ普通人民ニ浸潤セス教育ト労働トハ劃然トシテ特別ノ界域ニ立チ農工諸般ノ事業ハソノ大部分ニ於テ仍旧習ニ沈澱スルコトヲ免レス今ニ於テ国家将来ノ富カヲ進メントセハ国民ノ子弟ニ向テ科学及技術ト実業ト一致配合スルノ教育ヲ施スコトヲ務メサルヘカラス殊ニ普通教育補習ノ時機ニ於テ実業ニ須要ナル知識技能ヲ授クルコトヲ務メサルヘカラス此事ハ既ニ輿論ノ認ムル所ニシテ方ニ自然発達ノ時機ニ遭遇シタリ」

 すなわち当時わが国は産業興隆の気運に向かいながら、教育と産業労働とが全くかけ離れてしまっている。国家将来の富力を増進させる目的から、科学・技術・実業を一致配合した教育を確立して、産業日本の基礎をつちかうというところにこの実業補習学校制度の根本思想がある。この実業教育が国家富強の基礎をなすものであるという点については、二十七年五月実業教育費国庫補助法が議会に提出された際の井上文相の提案趣旨説明においても明らかにしている。

実業補習学校・徒弟学校・簡易農学校

 井上文相の実業教育方策については既述したが、さらにどのような実業教育振興の方策を立てたかを見る必要がある。まず実業教育本来の領域においては明治二十六年十一月二十二日実業補習学校規程を設けて、従来小学校令中に名称だけがあげられていた実業に従事する青少年の教育を独立の規程をもって統轄し、これを充実することとした。入学資格は尋常小学校卒業程度以上で、教科目は修身・読書・習字・美術および実業に関する科目とし、修業年限は三年以内で夜間の教授を認めた。この実業補習学校は初等教育の補習機関であるとともに生徒の従事する実業に関する知識技能をも授けようとしたものである。二十七年七月二十五日には徒弟学校規程を公布して、職工となるのに必要な教科を授けることを目的とする独立の徒弟学校を設け工業要員の急速な養成に当たあせようとした。徒弟学校は年齢十二歳以上、尋常小学校卒業程度以上をもって入学資格とし、修身・算術・幾何・物理・化学・図画等の一般教科のほかに職業に直接関係のある諸教科および実習を課することとし、修業年限は六月以上四年以内とした。他方において簡易農学校規程を公布し、満十四歳以上の農村青少年に対して農閑期を利用して、海単な農事教育を施す制度を立てた。この簡易農学校は「農学ヲシテ従来演習セル耕種ノ外二科学的進歩ノ利益ヲ知ラシムルニ在り、故ニ務メテ農家子弟ノ為ニ入り易キノ門ヲ開キ普通学校ニ於ケル一定ノ規則ヲ以テ検束スルノ制二傚ハサル」の方針で教育を行なった。これら実業補習学校・徒弟学校・簡易農学校等はいずれも産業に従事する勤労青少年のための教育機関であって、これをまず充実して、産業の第一線において働いている人々の教育を拡充し、それによって産業振興にこたえなければならないとしたのである。

実業教育費国庫補助法

 わが国の実業教育に最も画期的な発展をもたらし、将来の振興に大きな影響を与えたものは、実にこの実業教育費国庫補助法の制定である。明治初年におけるわが国の実業教育はまず高等教育において制度化に着手したため、中等程度の教育ははなはだ遅れて発達している。実業方面の新しい知識技能を有する高級人材の養成を先決問題とした当時の国情からそれはやむを得ないものがあった。しかし産業の発展と国家の富強を図るためには実業上の知能を一般に普及させることの緊要であることを認め、政府はしきりに実業学校の発達につとめたが、当時の地方財政ははなはだしく逼(ひつ)迫していたため、予期した効果をあげることができなかった。しかも明治二十年ごろから日清戦争前後にかけてわが国の産業は驚異的な発展をとげていたので、特殊の科学的知識を必要とした。しかるにわが国の実業教育ははなはだ不振をきわめていたので、文相となった井上毅は最も実業教育の振興に力を尽くし、その実現のためには国費の補助をもって地方実業教育の普及振興を図らねばならぬとし、万難を排してこの法案の成立に努力したのである。この法案は二十六年第五議会に提出されたが、議会解散のため通過せず、二十七年の第六議会に再提出され、その協賛を得て六月十二日法律第二十一号をもって公布したのである。

 この法律の制定後、各種実業学校は全国各地で年々その数を増すようになった。わが国実業教育のそれ以後における発展は実にこの補助法がその基礎をなしたものというべきであろう。このように、政府は「実業教育費国庫補助法」を公布して、実業教育奨励のために特に国庫支出金を補助として与える制度をとった。補助金は毎年一五万円に過ぎなかったが、それはまさに勃(ぼつ)興しようとしていた実業教育を促進させるために大いに効果があった。かような振興方策によって実業学校の急速な発展が見られることとなり、三十二年実業学校令の公布となるがその前段階を築いたのであった。

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