四 中学校・高等女学校の普及状況

中学校の設置制限

 明治十九年の中学校令では公費による尋常中学校の設置を各府県一校に制限したため、二十年には学校数四八校、生徒数一万一七七人と激減した。この数は十三年以来の中学校数、生徒数の減少過程が極点に達したもので、これ以後は増加の方向をとった。この設置制限とそれに伴う中学校の整理について、十九年の文部省年報は「斯ク許多ノ生徒ラ減少シタルハ聊憾ナキ能ハスト雖モ夫ノ不完全ナル学校ニ於テ多数ノ生徒ヲ教フルモノニ比スレハ其得失果シテ何ニ在ルカ」としるして、完全な中等教育を施すために従来の不完全な中学校の整理の必要を述べ、また「今後此主旨ヲ失ハス務メテ中学校ノ基礎ヲ鞏固ニシ亦其組織ヲ完整セハ庶幾クハ国家有為ノ子弟ヲ養成スルノ目的ヲ達スルコトヲ得ン」と述べた。府県立の尋常中学校は施設・設備と教員組織の整備充実に努め、帝国大学と直結する高等中学校や専門学校と連絡することのできる学力水準への向上を達成するために努力した。しかしこのことは必ずしも容易なことでなく、そのために高等中学校では本科の他に予科を置き、さらにその下に補充科を置いているのが実情であった。

中学校の普及と振興

 明治二十四年の中学校令の改正は尋常中学校を設置する制限を緩和し、各府県には数校の設置を認めて郡市町村も場合によって設置することができるとした。また二十六年には尋常中学校等を設置するための町村学校組合も認められ、二十年代後半には尋常中学校の普及方策がとられた。その結果、二十五年は学校数六二校、二十八年九六校、三十一年一六九校と急増し、生徒数も一万六、一八九人から六万一、六三二人に増加した。しかし、二十九年までは尋常中学校を設置していない県が存在していた。尋常中学校の設置者別の状況は、三十年に学校数一五六校のうち、国立一校、府県立一一六校、郡市町村立一二校、私立二七校であった。

 その後郡市町村立の中学校数は減少し、府県立の学校数が高い比率を占めた。尋常中学校実科は三十年に福島県三十一年に群馬県に設置されて計二校、実科中学校は二十八年に佐賀県と長野県で計二校設立されたに過ぎなかった。尋常中学校専修科は二十八、二十九年の設置校が五校であった。当時、実科や専修科を成立させる社会的基盤が弱かったことはこの数によっても明らかである。新設校はほとんどが本科だけを設ける状況であった。

 三十二年の中学校令は、各府県に中学校の設置を義務づけるなど、積極的な中学校振興方策をとった。三十三年には学校数二一八校、生徒数七万八、一二一五人であるが、三十八年に学校数二七一校、生徒数一〇万四、九六八人、四十三年には学校数三一一校、生徒数一二万二、三四五人となり、飛躍的な発展をとげた。卒業生の進路をみると、三十三年には卒業者三、七五六人のうち進学(兵役を含む。)五九・三%、就職一六・二%、その他二四・五%、三十八年には卒業者九、九二七人のうち進学五〇・四%、就職一七・二%、その他三二・四%となっており、進学者の比率が三十年代には五〇%台であった。四十三年には卒業者一万五、七九〇人のうち進学が三七・六%、就職が二六・一%、その他が三六・三%となり、進学が四〇%を割り就職が三〇%台に近づいている。これは進学者数の減少を意味するものではなく、中学校の普及によって卒業後直ちに実社会にはいるものが増加したためである。四十四年七月に中学校令施行規則を改正した際に実業科を導入した背景にはこのような卒業生の進路の変化があった。

高等女学校・実科高等女学校の普及状況

 高等女学校は高等女学校規程についで高等女学校令の公布以降急速に発達した。明治二十七年には一四校であるが、三十三年五二校、生徒数一万一、九八四人となり、三十八年一〇〇校、生徒数三万一、九一八人、四十三年一九三校、生徒数五万六、二三九人となった。一方実科高等女学校はこの制度を実施した四十四年には四九校であるが、大正四年には一四三校、その生徒数は二万一一七人となった。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --