四 学制改革問題と高等教育会議

学制改革問題

 明治五年の「学制」発布以後、小学校を中心として国民一般の教育が普及発達した。他方欧米の学術文化の摂取、国家の最高指導者の養成は帝国大学を中心として発達していた。この両者は明治初期以来それぞれ独立に分離して発達していたために、これらをどのように連絡し接続させて近代学校制度を樹立するかが、明治後期の最大の課題であった。またそこに学制改革問題が発生する根拠があった。

 井上文相はこの課題に直面して小学校から帝国大学に至る各段階の学校間の接続関係の円滑化を図り、また高等中学校を廃止して専門学科を本体とする高等学校を設置したことは先に述べた。しかし高等学校については、その実施の結果は井上文相の意図に反して附設のはずの大学予科がむしろ実質的に本体となり、専門学科は振るわず、井上文相の改革は結局成功を見なかったのである。このことを契機とし、井上文相の提示した学制改革の構想をめぐって、その後学制改革問題が盛んに論議されることとなった。その際問題の焦点は、大学卒業までの修業年限の短縮と実用的大学の設置であり、同時に帝国大学の性格とその取り扱いに関するものであった。

 学制改革論は井上文相就任以前から起こっていた。伊沢修二は二十四年八月の国家教育社第一回大集会において「国家教育ノ形体」と題して演説を行ない、学校体系上の問題点を指摘し、学制改革案を提示して改革の必要を論じた。この演説はその後の学制改革論の発端となったが、当時は教育雑誌等でも学制改革問題が取り上げられ、学制改革を要望する世論がしだいに高まっていた。このような状況の中で井上文相は学制改革に着手し、その政策を実施したのであった。しかし井上文相の高等学校に関する構想は結局失敗に終わり、その後の学制改革問題に引き継がれることとなった。学制改革問題は「学制研究会」などによって論究されるほか、帝国議会でもこれが論議されるようになった。そして明治三十年代には学制改革運動は急速に高まっている。当時の学制改革論として著名なものには、久保田譲の「教育制度改革論」(三十二年帝国教育会における講演)や学制改革同志会の「学制改革要綱」などがある。さらに四十三年には帝国議会において「帝国学制案」、次いで「学制改革二関スル建議案」が提出されている。学制改革論は本来帝国大学の性格を問題とし、その改革を含むものであったが、これに対して大学の程度を低下させることには大学側から強い反対があった。そこで当時の学制改革問題は、帝国大学の改革に及ぶことは困難であり、大学卒業までの修業年限の短縮と実用的な高等教育機関の設置を主要な内容として展開されることとなった。

高等教育会議の設置

 明治初期すなわち学制期には、地方で学事会議や教育会議が盛んに開かれ、各大学区でも教育議会が開かれている。文部省の首脳であった田中不二麻呂は「教育国会」を創設する必要をも認め、教育令の原案である日本教育令案には「教育議会」についての条章を設けている。しかしこれは当時の情勢では認められず、教育令からは削除されて実現を見なかった。

 明治二十年代となり、国会の開設、地方自治制の確立などによる新しい時代の動向を背景として、改めて教育会議の設置が要望されるようになった。全国的規模の教育会議の設置は、当時の学制改革論とも関連をもって教育関係者等の要望として提起され、また教育団体の建議となっている。それは教育関係者の意見や要望を教育政策に反映させようとするものであり、中央教育議会・地方教育議会の設置等が提案されている。

 このような状況のもとで、文部省においても明治二十五年頃から教育諮問機関の設置について調査検討を進めている。すなわちまず河野文相の時代に「教育高等会議」の設置を企図してその規程案が起草されたようであるが、河野文相辞任のため具体化を見るに至らなかった。次いで文相に就任した井上毅は河野文相期の案を継承してこれに再検討を加え、教育諮問機関の設置を企画している。井上文相はこれを学制改革を実施する前提として重視し、「高等教育会」等の設置について諸案を起草して検討を重ねている。この井上文相の構想も遂に実現を見なかったが、その草案は二十九年に成立した「高等教育会議」の原案とも見るべきものであり、その点で重要な意義をもっている。

 井上文相辞任後、二十七年暮れから開かれた第八帝国議会において、「教育高等会議及地方教育会議ヲ設クル建議」が貴族院から提出され、衆議院からも同様の建議が提出された。これに対して政府はこの建議にあくまで不同意である旨を表明し、これを受け入れなかった。そこには諮問機関の性質・権限について両者に見解の相違があった。しかしその後文部省でも帝国議会の意向を入れてこれを設置することとし、二十九年十二月勅令をもって「高等教育会議規則」を制定し、文部大臣の諮詢(じゅん)機関として高等教育会議を設置した。

 高等教育会議規則によれば、高等教育会議は「文部大臣ノ監督ヲ受ケ教育二関スル事項二就キ文部大臣ノ諮詢二応シ意見ヲ開申」するものと定め、また教育について文部大臣に意見を具申することができるとしている。そして議員は、帝国大学総長および各分科大学長、文部省各局長、直輯学校長、学識経験者等から組織するものとした。なお議員の構成については、帝国議会において批判的な意見が強く出され、翌三十年に議員の選出範囲を拡大した。その後三十一年には審議事項を定め、議員の構成がさらに拡大された。

高等教育会議と学制改革

 高等教育会議が設置されて後は、学校制度の改革に関する法令、たとえば実業学校勅令案・中学校勅令案・高等女学校勅令案をはじめ主要な省令、その他教育行政上の重要な事項について文部省は高等教育会議に諮詢(じゅん)している。しかし一方明治三十二年には学制改革同志会が創立されるなど、学制改革運動がいよいよ盛んとなり、帝国議会において学制調査会設置の建議が提出されるに至っている。このような情勢の中で、政府も学制改革問題を放置することができなくなり、三十五年十一月菊池文相は学制改革案を高等教育会議に諮問した。

 菊池文相の諮問案のうち、学制改革に関する部分を要約すれば、1)高等学校を帝国大学予備門と改め修業年限を二年として一年短縮する、2)帝国大学予備門には中学校卒業生をただちに入学させるべきであるが、当分は中学校に補習科を置き、その修了者を入学させる、3)高等学校の専門学科に相当する学校として新しく専門学校の制度を設ける、以上の三点が諮問された学制改革案の要点であった。これに対して、学力の低下などを理由に主として大学関係の議員から強い反対があり、結局大学予備門および中学校補習科に関する学制改革案の本体ともいうべき部分は否決された。しかし専門学校および実業専門学校に関する事項は可決され、これによって明治三十六年にはじめて専門学校令が制定されたのである。

 右のように学制改革問題は未解決のまま残され、その後文部省においても学制改革について調査検討を進めた。一方学制改革を要望する世論も高まっており、四十三年三月には衆議院において「帝国学制案」が発議され、修業年限の短縮を含む学校体系全般にわたる改革案が提出された。この案は衆議院を通過しなかったが、引き続いて提出された「学制改革ニ関スル建議案」が衆議院で可決された。この建議案は修業年限短縮の必要を述べるとともに、学制全般の改革を要望したものであった。

 学制改革についての右のような動向の中で、明治四十三年四月小松原文相は学制の根本的改革案を含む八つの諮問案を高等教育会議に諮問した。その中で懸案の学制改革問題を直接取り上げて、これを解決しようとしたものは「高等中学校ニ関スル事項」であった。諮問案によれば、1)高等中学校の目的を中学校よりも程度の高い高等普通教育とする、2)道府県立を認める、3)従前の高等学校は高等中学校とする、4)高等中学校に中学科および高等中学科を置き、修業年限を中学科は四年、高等中学科は三年とする、5)入学資格を中学科は尋常小学校卒業者、高等中学科は中学校第四学年修了者とする、が改革案の骨子であり、これによって修業年限の一年短縮を実現しようとしたのであった。高等教育会議では特別委員を設けて審議したが、学力低下の問題や公立高等中学校の設置による大学入学難に伴う弊害などをめぐって種々の論議があり、いくつかの修正案についても意見の一致を見ず、議案の決定を延期することを議決した。これに対して小松原文相は強く審議の継続を希望したため、再び特別委員を設けて審議の上修正案を決定し、これが本会議で可決された。その修正案の要点は、1)高等中学校の設置を道府県に限らず私人にも認めること、2)高等中学校の入学資格を中学校卒業者とすること、3)中学科の修業年限を五年とし、高等中学科は二年半とすることなどであった。高等中学校を二年半としたことは当時は中学校の学年始が四月で、大学・高等学校が九月であったことと関係があり、高等中学校の学年始を四月とすることによって実質的に一年短縮の目的が達せられると考えたためであった。

 小松原文相は高等教育会議の修正案を骨子として勅令案を作成し、内閣の議を経て枢密院に提出したが、ここで種々の論議があり容易に可決されるに至らなかった。その後内閣で再調査の上、案を修正して再び枢密院に諮詢の上ようやく同院で可決された。このような経過を経て、明治四十四年七月高等中学校令を公布した。ただし右の修正により、高等教育会議で決定された公立・私立の高等中学校は認められず、また高等中学校の中学科の規定も設けなかった。高等中学校令は、このように難行を重ねてようやく制定したが、その後施行が無期延期となり、実施を見るに至らなかった。しかしこの高等中学校令およびその原案と審議過程は大正七年に新しく制定された高等学校令との関連において、その端緒をなすものとして重要な意義を認めなければならないであろう。

 小松原文相の諮問案第一号は「高等女学校ニ関スル事項」であり、これは高等女学校に家政を主とする学科を設置しようとするものであった。この諮問案は高等教育会議において修正の上可決され、明治四十三年十月高等女学校令が改正された。これにより「実科高等女学校」が設置されることとなった。

 なお、高等教育会議は大正二年六月十三日廃止され、同時に文部大臣の諮問機関として教育調査会が設置されてその機能が引き継がれた。

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