三 井上文相と教育改革

井上文相の教育政策

 明治二十六年三月井上毅が文部大臣に就任した。井上毅は伊藤博文に協力して明治政府の政策の中枢に参画し、明治憲法の制定、教育勅語の起草などに重要な役割を果たしたことはよく知られているところである。井上文相の教育政策は、その経験と彼のすぐれた識見に基づいて展開され、近代教育制度の確立と整備の上に重要な位置を占めることとなっている。井上文相は森文相によって設定された教育制度の基本構成を受け継ぎ、これを修正して発展させるとともに、時代の趨(すう)勢に即応してこれを補充整備する政策を展開したものとみることができる。

 井上文相の教育政策は、明治二十年代におけるわが国独自の近代国家体制の確立に即応しつつ、資本主義社会の発展、その中核をなす近代産業の発達についての展望のもとに実施された。彼は新しい時代が求める国家に有用な人材の育成を目標として教育制度全般の改革を意図したのであった。その最も特徴的なものは産業教育振興政策であり、特に工業技術者・技能者の大量養成に重点が置かれた。その政策のもとに、実業補習学校規程・工業教員養成規程・徒弟学校規程・簡易農学校規程が制定され、また実業教育費国庫補助法の成立を見たのである。さらに実用に即する人材を育成する観点から、尋常中学校の実科規程、また実科中学校の制度を設けた。高等教育についても同様の見地から、高等中学校を廃止して専門学科を本体とする高等学校を設けることとし、新しく高等学校令を公布した。

 このほか義務教育振興政策として就学の奨励普及に関する施策を講じ、その基本問題の解決のために小学校教育費の国庫補助制度を企画し、その実現に努めた。また女子教育の重要性に着目して、女子の中等教育機関を男子の中学校から分離して独立に制度化する方針のもとにその企画を進めた。さらに、教育内容についての諸改革、大学管理制度の改革、教員の政論・政治活動の禁止なども重要な政策であった。以上のような教育上の主要な問題についての改革のほか、小学校から中学校・高等学校を経て帝国大学に至るまでの各段階の学校間の接続関係を明確にし、接続の円滑化を図ったことは学校体系の近代化の上から注目すべき改革であった。

 右のように、井上文相の教育政策は森文相の教育改革を受けて、これを補完し発展させたばかりでなく、さらに教育制度の根本的再編制を構想し企画していたものと見るべきことができる。その施策の中には、在任中には実施されず退任後に実現を見たものもあり、実施の結果が政策の意図に反する実態を示したものもあったが、その後の教育改革の基礎となった点で、重要な意義を認めるべきであろう。

諸学校制度の改革

 小学校の制度は、明治二十三年の小学校令に基づき、翌二十四年に小学校設備準則、小学校教則大綱なども制定され、全国の小学校は二十五年ごろを画期として急速に整備された。そこで井上文相の教育政策は、小学校の基本構成に改革を加えることなく、当時なお停滞していた就学の奨励に力を注ぎ、そのための施策として授業料の廃止または軽減、財政的に貧しい地方や貧困家庭の児童に対する教授法の簡易化等を実施し、さらに義務教育である小学校の教育費国庫補助制度の実現を企図した。小学校教育費の国庫補助制度は実現を見なかったが、後にこの制度が成立するための発端として重要な意義をもっている。

 井上文相期には主として中等教育以上の段階について顕著な学制改革を行なった。まず尋常中学校については、二十七年三月学科課程を改正し、第四年級以上において本科のほかに「実科」を設けることができるとした。さらに同年六月「尋常中学校実科規程」を制定し、実科の教授内容を示すとともに、さらに進んで第一年級から実科を授ける「実科中学校」の制度を定めた。この制度は先に述べた井上文相の実業教育政策と関連をもつものであるが、実科は実業教育とは一応区別され、社会の実際生活に即応することを主眼とし、中等教育が高等教育の予備に偏する傾向を改めようとしたものである。また井上文相退任直後二十七年九月に「尋常中学校入学規程」が定められ、尋常中学校の入学資格を高等小学校第二年の課程を終了した者と明確に定めたことも注目すべきである。それ以前は単に年齢十二年以上と定められ、小学校との接続関係は必ずしも制度的には明確でなかった。これによって小学校と尋常中学校との接続関係が明確にされたのである。

 女子の中等教育機関である高等女学校は、二十四年に尋常中学校の種類と定められたが、学科課程等については特別の規程を設けていなかった。先に述べたように、井上文相は高等女学校を女子の特性に応ずる中等教育機関として中学校から分離し、独立に制度化することを企画して立案検討を重ねた。これを井上文相退任後の二十八年一月に「高等女学校規程」として公布した。これによれば、高等女学校の修業年限を六年として一年の伸縮を認め、入学資格は修業年限四年の尋常小学校卒業者を原則としている。また学科目とその教授要旨も定めている。このように女子の中等教育が男子と区別して独立に発達する制度的基礎がつくられた。

 実業教育の振興が井上文相の教育政策の特色として注目すべきものであることは先に述べたところである。二十六年十一月にまず「実業補習学校規程」を制定し、小学校卒業者に対して小学校教育の補習と同時に簡易な方法をもって職業に必要な知識技能を授ける学校を制度化している。次に二十七年六月には「実業教育費国庫補助法」を公布した。これは近代工業の発達に先んじて、それに必要な人材の育成を井上文相がいかに重視していたかを示すものであり、義務教育費の国庫補助制度以前に成立していることは注目すべきであろう。井上文相は特に工業に重点をおき、法案では工業関係の学校を主とするものであったが、議会の修正により実業学校一般を対象とするものとなっている。しかし実施に当たっては当初の方針に基づき工業関係が優先的に取り扱われている。同月「工業教員養成規程」を定め、右の実業教育費国庫補助法に基づいて工業教員養成所を設置し、徒弟学校および工業補習学校の教員養成を行なうこととなった。さらに同年七月には「簡易農学校規程」・「徒弟学校規程」を定め、中等教育程度の実業学校の制度化を進めた。

 高等教育の改革としては、二十七年六月に「高等学校令」を公布し、それまでの高等中学校を高等学校に改めた。高等中学校は帝国大学の予備教育を主とするものであったが、高等学校は専門学科を本体とし、帝国大学に進学する者のために大学予科を付設することとした。この改革は当時の社会の要請に即応して帝国大学よりも簡易な高等教育機関を設け、国家に有用な人材を多数育成しようとした井上文相の政策に基づくものである。ところがその実施の結果は、大学予科が実質的に高等学校の主体となって専門学科は振るわず、井上文相の意図は実現されなかった。しかし井上文相の提出した学制改革構想はその後の学制改革問題の焦点として論議され、学制改革の発端となっているのである。また三十六年に専門学校令が公布され、その後多数の専門学校が成立したことは井上文相の構想の一面を実現したものといえる。なお、高等中学校では予科を設け、尋常中学校との接続がふじゅうぶんであったが、高等学校には予科を設けず尋常中学校から直ちに進学するものとした。このことは学校体系の上からみて重要な改革であったといえる。

 以上のようにして、小学校から始めて、その次に位置する大衆の学校としての実業補習学校、また徒弟学校・簡易農学校、正規の中等学校としての中学校と高等女学校、その次に位置している高等学校、さらに最高の学府としての帝国大学に至るまで、近代学校体制の基本となる計画は一応これで一つの段階を築いたと見ることができる。このような基本計画が明治十九年から三十年ごろに至る間に立てられて、学校の体制を決定したことは、文教施策として注目しなければならないものがある。第二次世界大戦後においてわが国の学校制度に批判が加えられ、これを新しい制度に組み替えたが、その際に問題とせられたことの多くは、明治十九年以後の学校制度の基本企画にその端を発していると見なければならない。

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