一 森文相と諸学校令の公布

内閣制度と文部大臣

 憲法を制定して国会を開設し、立憲政治を樹立するに当たって、政府はその準備に着手し、明治十八年十二月二十二日従前の太政官制度を廃止して内閣制度を創設した。すなわち、太政大臣・左右大臣・参議・各省卿の職制を廃して、内閣総理大臣および宮内・外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信の諸大臣を置き、内閣総理大臣をはじめ、宮内大臣を除く諸大臣をもって内閣を組織することとしたのである。従前は太政大臣・左右大臣および参議によって組織される太政官が天皇大権の執行を輔弼する機関であり、各省の卿は単に行政各部の長官に過ぎなかったが、この改正により内閣を組織して国政に参画する国務大臣が同時に行政各部の長官(各省大臣)としての職務を行なうこととなったのである。内閣制度の創設により、文部卿は廃止され、はじめて文部大臣が置かれることとなった。そして初代の文部大臣には森有礼が就任した。

 内閣制度の創設に伴い、十九年二月各省官制が制定され、通則とともに文部省の官制が定められた。これによれば、「文部大臣ハ教育学問ニ関スル事務ヲ管理ス」と定め、総務局のほか学務局・編輯局・会計局を置き、また学事視察のため視学官を置いている。その後学務局を廃止して専門学務局・普通学務局を置き、さらに総務局・会計局を廃止してその事務を大臣官房の各課において掌(つかさど)るなど、文部省官制はしばしば改正されている。

初代文相としての森有礼

 森有礼が初代の文部大臣に就任したのは、明治十八年十二月であった。その当時は内閣制度ができ、問題であった憲法発布を数年後に控え、二十三年を期して国会の開設が予定されているという時代であり、明治維新以来の政治変革が一段落を告げようとするときであった。

 森有礼はかねてから国家の発展と教育との関係については深く思いをいたしていたのであった。それは、彼の教育方針に関する意見書(閣議案)の中に、「今夫国の品位をして進んで列国の際に対立し以て永遠の偉業を固くせんと欲せば、国民の志気を培養発達するを以て其根本と為さざることを得ず。」と強調していることからもうかがわれるように、国の発展・繁栄のための教育を重要視していたのであった。彼は明治維新の直後には学校判事に任命され、また後には商法講習所を開いて商業学校のもとを築いたり、明六社を起こして学術・文化の振興を促進したりもした。森有礼はまた、明治の初年以来外交官として各国に駐在して、この方面において新政府の画策にたずさわった人でもあった。彼の海外駐在時代、たまたま伊藤博文は憲法取り調べのために欧州に渡っていたが、かの地において森有礼に面接する機会を得た。この時に日本の政治について論じ合ったが、その論の中で森有礼は、日本の発展・繁栄のためにはまず教育からこれを築き上げねばならないという彼の教育方策を披瀝(ひれき)したのであった。この国家教育の方策に関する意見が伊藤博文に強い感銘を与えた。そこで伊藤博文は帰国後、森有礼を帰国させて文部省御用掛に任命し、文教の基本方策を立てさせた。

 わが国は当時、近代国家の面目をあらゆる方面において現わしてきたのであって教育においても近代学校制度を整えつつあった。これを完成して、国家興隆の線に沿った教育方策として確立することを緊急の要務とする状況にあったのである。明治十八年以後における教育制度の整備の問題は、明治五年以来十数年にわたって試みられてきた新しい制度を検討し、さらに将来への見通しをもってこれを完成させようとする段階にあった。この重大な時期に当たって内閣制度を組織した際に、森有礼は文教の府の首脳者として初代の文部大臣に就任し、教育制度全般に関する改革に着手することとなったのである。

 森有礼は先に、公使として米国に駐在した際にも、日本の将来の教育をいかにすべきかについて強い関心をいだいていた。そして米国の政治家や学者に書簡を送って、日本教育策樹立に関する意見を求めたのであった。その書簡の趣旨は、1)一国の物質的繁栄について、2)一国の商業に対して、3)一国の農業上・工業上の利益について、4)国民の社会的・道徳的・身体的状態に対して、5)法律統治上の効果についての五点に対して教育がどのような影響をもつかをたずねたものであった。この書簡に対して米国の有識者一三人からの返信を得ることができた。これら返信書簡を編集して、森有礼は『日本の教育』として明治六年(一八七三)ニューヨークにおいて出版したのであった。この一事からも、森有礼がいかに早いころから日本国家繁栄のために、教育をいかにするかという問題に関心をもっていたかが知られるのである。その教育方策は、国家のためにする教育の強調であって、学制の発布の際の太政官布告(被仰出書)の中に主張された立身昌業のための学問、また『学問のすすめ』初編の中に主張されている福沢論吉の教育観とは、非常なへだたりをもつものであった。

 森有礼は十七年三月ヨーロッパから帰国し、同年五月参事院議官、文部省御用掛兼勤となった。その後文部行政に参画したが、十八年十二月内閣制度の創設とともに伊藤内閣の文部大臣となったのである。時に満三十八歳であった。

森文相の教育政策

 森文相の教育に関する考え方は、教育は結局国家の繁栄のためになすものであるとするものであった。井上毅は、森の死後まもなく明治二十二年三月九日皇典講究所で行なった講演の中で、森文相の教育の主義は「国体教育主義」であったと述べている。この基本方針のもとに彼の教育政策が実施されたのであった。二十二年一月二十八日に森文相が直轄学校長に説示した要領の一節に、「諸学校を維持するも畢竟国家の為なり」とか、「学政上に於ては生徒其人の為にするに非ずして国家の為にすることを始終記憶せざるべからず」などと述べていることからも彼の教育政策の基本をうかがうことができる。

 森文相が閣議に図った教育主義の根本に関する意見書があり、その一部を先に引用したが、この閣議案には国家教育の目標が何であるかを詳述し、学校制度全般の整備はこの点から出発しなければならないことが示されている。その中には、次のように国体主義の教育観が述べられている。

 「今は文明の風駸々として行はれ、日用百般の事物漸く変遷し進む。然るに我が国民の志気果して能く錬養陶成する所ありて、難きに堪へ苦を忍び、前途永遠の重任を負担するに足る歟。二十年の進歩は果して真確精醇深く人心に涵漸し、以て立国の本を鞏固ならしむるに足る歟。加ふるに我国中古以来文武の業に従い躬国事に任ずるは偏に士族の専有する所たり。而して今に至り開進の運動を主持する者僅かに国民の一部分に止まり、其他多数の人民は或は茫然として立国の何たるを解せざる者多し。・・・・・・蓋教育の規則粗ほ備はるも、教育の準的は果して何等の方法を以て之を成遂することを得べき乎。顧みるに我国万世一王天地と與に極限なく、上古以来威武の耀く所未だ曾て一たびも外国の屈辱を受けたることあらず。而して人民護国の精神忠武恭順の風は亦祖宗以来の漸磨陶養する所、未だ地に墜るに至らず。此れ乃ち一国富強の基を成す為に無二の資本至大の宝源にして、以て人民の品性を進め教育の準的を達するに於て他に求むることを假らざるべき者なり。蓋国民をして忠君愛国の気に篤く、品性堅定志操純一にして、人々怯弱を恥ぢ屈辱を悪むことを知り、深く骨髄に入らしめば、精神の嚮ふ所万派一注以て久しきに耐ゆべく、以て難きを忍ぶべく、以て協力同心して事業を興すべし。督責を待たずして学を力め智を研き、一国の文明を進むる者此気力なり。生産に労働して富源を開発する者此気力なり。凡そ万般の障碍を芟除して国運の進歩を迅速ならしむる者総て此気力に倚らざるはなし。長者は此気力を以て之を幼者に授け、父祖は此気力を以て之を子孫に伝へ、人々相承け家々相化し、一国の気風一定して永久動かすべからざるに至らば国本強固ならざるを欲すとも得べからざるべし」

 このような国家至上主義の教育観が、森文相の国体主義の教育の内容であり、この教育方針は二十年前後に明確にされて、その後に引き継がれているのである。

 学校教育に関する森文相の方策は、すべて右に述べた国体主義の教育観によって貫かれていた。そしてこの主義による教育方策がしだいに実現されていった。たとえば、はじめて大学令の規程をつくった際にもこれを帝国大学と命名し、国家の須(す)要に応ずる学術技芸を教授攻究することを、大学教育の目標として規定したのである。また全国の男子十七歳から二十七歳に至るまでのすべての者に操練を課して、護国の精神を養うべきであると右の閣議案の中で述ベている。これは忠国愛国の気が、一国文明の進歩、生産富源の開発、国運進歩の根源であるとする森文相の考えによるものであった。そしてこれを実現するためには、1)文部省は簡単平易な教課書をつくり、人々の諷誦(ふうしょう)、又は講義に便ならしめる。2)陸軍省は体操練兵の初歩を教える。3)これを戸長または毎郡の所掌とし、区域内の人民を一月に一度或(あるい)は二度時間を限って学校に集め、聴講または運動に従事させるべきであるとしている。

 森文相がこの軍隊式教育を師範学校において試みたことはよく知られている。このような軍隊式体育を実施しようとした精神は、次の「兵式体操に関する上奏文案」の中によく示されている。

 「抑国家富強ハ忠君愛国ノ精神旺実スルヨリ来ル、故ニ文部ノ職ハ主トシテ此精神ヲ養成渙発スルノ責ニ当ラサルヘカラス、是ヲ以テ体育ノ切要ヲ認メ既ニ学科ニ加へサルナシト雖モ、其実効ノ見ルニ足ルヘキナキハ蓋シ身軍籍ニ在ル者ヲ聘シテ教師ニ充ツルコト稀ニシテ、其大数ニ至テハ一タヒ之ヲ軍人ニ習ヒ伝ヘテ其技ヲ演スル者ヲ以テ之ニ任ス、故ニ其志気ニ至テハ素ヨリ厳粛ナル規律ヲ躬行シテ武毅順良ノ風教中ニ感化成長セル軍人ト日ヲ同フシテ語ルヘカラサルナリ、宜ナル哉現時諸学校ニ休操ノ科目アルモ智育ト並馳スルコト能ハス、僅ニ其形ヲ存スルノミニシテ他ハ前進シテ止ル所ヲ知ラスト雖モ独リ体育ニ至テハ幾ント大効ヲ実験スルニ至ラス、若シ斯ノ如クニシテ幾月ヲ経ハ庶民愈々オウ弱ニ陥り大ハ以テ一国ノ勇気ヲ殺テ護国ノ任ニ当ラス、小ハ以テ辛苦経営事ヲ成スノ力ヲ減シ遂ニ救拯スヘカラサルニ至ルヤ必セリ、而シテ富強ノ実果シテ何クニ挙ランヤ、臣叨リニ国家ノ重職ヲ辱フス、徒ニ垂洪黙止スル能ハサル所以ナリ、臣潜ニ之ヲ考フルニ今其弊ヲ剔キ其利ヲ興シ以テ国家富強ノ長計ヲ固フセント欲セハ、第一中学校以上諸学校ノ教科時間ヲ割キ、乃チ休操ノ一科ハ文部ノ管理ヲ離レテ之ヲ陸軍省ノ施措ニ移シ、武官ヲ簡撰シ純然タル兵式体操ノ練習ヲ以テ之二任スルニ在リ、而シテ文部省ハ自ラ其事二染手スルコトナク単二陸軍ト妥議商籌スルニ止ムルトキハ、厳粛ナル規律ヲ励行シテ体育ノ発達ヲ致シ学生ヲシテ武毅順良ノ中二感化成長セシメ、以テ忠君愛国ノ精神ヲ涵養シ嘗艱忍難ノ気力ヲ換発セシメ、他日人ト成リ徴サレテ兵トナルニ於テハ其効果ノ著シキモノアラン」

 森文相のこの考え方に基づき、師範学校の教育には全面的に軍隊式教育が取り入れられたが、また小学校、中学校にも「兵式体操」が採用されている。

 森文相は女子教育についても強い関心をもち、その重要性を強調しているが、その思想は右に述べた国体主義の教育観と軌を一にするものであった。彼の女子教育観は東京高等女学校卒業証書授与式における演説(二十一年七月)などによって示されている。それによれば、人の性質の賢愚は慈母の養育のいかんに帰するものとし、「賢良なる慈母」となるための女子教育の必要を説き、また女子教育が国家社会の進歩にとって重大な意義をもつものであると述べている。明治二十年秋第三地方部学事巡視中の演説には彼の思想がいっそう明確に示されており、その中で「国家富強ノ根本ハ教育二在リ、教育ノ根本ハ女子教育二在リ、女子教育ノ挙否ハ国家ノ安危二関係ス、忘ル可ラス、又女子ヲ教育スルニハ国家ヲ思フノ精神ヲモ養成スルコト極テ緊要ナリトス」と述べている。

 森文相の教育政策として注目すべきものに教育の経済主義、あるいは学校経済主義がある。これは単に財政上のことのみでなく、教育についやした力に対してじゅうぶんな効果を期待するものであり、当時の国家財政・地方財政の困窮に由来するところが大きかったと思われるが、彼の合理主義思想によるものであったと考えられる。この主義による政策は義務教育である公立小学校についても授業料の徴収を原則としたことなどに示されており、また直轄学校の統合などにも現われている。

 右のほか、森文相が特に重視したものに地方視学政策がある。森文相は地方の教育を自ら視察して、しばしば講演や訓示を行ない、地方の教育を激励するとともにその指導監督に努めた。森文相の時代から教育の国家管理が強化されたが、政府が単に法令を定めてこれを実施するにとどまらず、地方の教育を直接に視察監督することの必要を認めていたためである。この観点から、文部省に視学部を設けて視学官を置き、視学制度の強化拡充を図った。このことも森文相の教育政策として注目すべきことであろう。

諸学校令の公布

 右に述べた森文相の教育政策を根幹として、文部省は学校制度全般に関する改革に着手することになった。この改革は明治十九年の春以来行なわれたのであるが、その立案はおそらく森文相が文部省御用掛として就任して以来始められていたものと推測される。ただし当時は新たに学校制度を立案するために特別に起草委員等を設けたわけではなく、森文相の立案を中心として案文整備のことが急速に進められたようである。この改革の主眼は、各学校種別に単独の学校令を制定し学校の基本体制をつくることであった。ところがその立案は簡単で、小学校令などは森文相自ら条文を起草し、秘書官その他数氏に図ったのみでただちに閣議にかけて決定したようなしだいであったから、他の諸学校令もだいたい同様な態度で立案されたものと思われる。したがって学制発布、教育令制定の際とは著しく異なった方法で諸規定の成立をみたものであった。それゆえ学校制度としては従来の伝統から離れて、相当に思い切った改革がなされた。諸学校令は教育令時代の学校体系とはすこぶる異なった方向から、制度問題を処理しているのであって、この点において独特な制度改革であったということができるであろう。

 当時公布された学校令は、小学校令・中学校令・帝国大学令・師範学校令の四つであった。これらは学校制度の根幹となっている四種類の学校を新しい方針によって改革したのであって、これをその後成立したその他の諸学校令と合わせて考えると学制改革問題の核心をついたものといえる。右の四種類の学校は、いずれも学制発布以来すでに成立していたもので、学校体制の中で主要な部分を占めていたのである。

 学校制度の立案に当たっては、小学校・中学校・師範学校の三者を尋常および高等の二段階に分けて組織する方針をとり、帝国大学は各分科大学と大学院とに二分して編制したのであった。また義務教育については、その規定を明確にし、尋常小学校卒業までの就学を義務と定めた。しかし、地方の状況によってはその実施が困難であることをも考慮し、小学簡易科を設置して尋常小学校に代用することを認めている。

 その後、明治二十三年十月には新しい小学校令が、二十七年には高等学校令が公布され、また三十年代には、中等学校についても新しい諸学校令が公布され、さらに高等教育の部門も整備されて近代学校制度の完成を見ることになったのである。このように近代学校制度の完成までには、なお幾つかの改革がなされなければならなかったが、明治十九年における諸学校令によって成立した制度を大観すると、この時定められた学校制度は、その後数十年にわたって整備拡充されたわが国学校制度の基礎を確立したものであるといわなければならない。この意味において森文相による学校令が文教史上に占める位置はきわめて重要である。

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