三 教育財政

学制下における教育財政

 学制はすでにその制定過程において財政困難が指摘され、そのため学制の頒布を延期すべきであるという強力な意見も出ていたほどであった。学制は、教育費について詳細な規定を設けてはいたが、文部・大蔵両省の間で意見が一致しないため、具体的な国庫支出の金額を決定することができず、財政の裏づけを欠いたままで実施されたのであった。

 学制における教育財政の基本的な考え方は、教育は個人の「身ヲ立ルノ財本」であり、各人の立身治産に役だつものであるから、学校の運営に要する経費は官に依頼すべきものではなく、教育を受ける人民みずからがこれを負担すべきであるという原則に立つものであった。この考え方に基づいて学制は、学校経費はまず授業料の形で生徒の父兄がこれを負担すべきであるが、同時に、学校経費のことごとくを授業料でまかなうことは不可能であるから、その不足を寄附金・学区内集金その他の方法によって学区が負担すべきものとし、生徒の「受業料」を中心にした民費による負担を原則としたのであった。

 すなわち、学制は、「凡学校ヲ設立シ及之ヲ保護スル費用ハ中学ハ中学区ニ於テシ小学ハ小学区ニ於テ其責ヲ受クルヲ法トス」と規定し、学校を設置・維持するに要する経費は、中学は中学区において、小学は小学区において、その責に任ずることを原則とした。と同時に学制は、教師・学区取締の給与費、校舎の造営・修理費、学校維持費等を含む学校の全経費は、建て前としては、「全費ハ生徒之ヲ弁スヘキモノナリ然レトモ悉ク生徒ヨリ出サシムルトキハ生徒の力及ハスシテ学業之カ為ニ滞稽スヘシ故ニ官ヨリ之ヲ助クト雖トモ生徒固ヨリ幾分ノ受業料ヲ納メサル可ラス」として、生徒から授業料を徴収すべきものとした。学制に規定された授業料の額は、大学校については一か月七円五〇銭を相当とし、この授業料を納め得ないもののために六円・四円の二等を設け、中学校の授業料は五円五〇銭、ほかに三円五〇銭、二円の二等を設け、小学校は五〇銭、ほかに二五銭の一等を設けた。また一家二人の子弟を学校に入れる場合には下等の授業料を納めるものとし、入学者が三人以上ある場合には二人のほかは授業料を免除し、また学区の状態および学校の事情により、当分の間、規定以下の授業料をも認めることとした。この授業料の額は、当時としてはかなりの高額ではあったが、同時に、学制は、当時の国民の負担力の実情と、教育普及の急務であることを考慮して、右のような授業料の大幅な減免をみとめていたのである。このため、実際には、小学校総数の約半数が授業料を徴収せず、徴収する場合でも規定の額をはるかに下回る例が多く、授業料収入は、学区の教育費のわずかな部分を占めるにすぎながった。

 学制は、「教育ノ設ハ人々自ラ其身ヲ立ルノ基タルヲ以テ其費用ノ如キ悉ク政府ノ正租ニ仰クヘカラサル論ヲ待タス」としたが、同時に「方今ニアツテ人民ノ智ヲ開クコト極メテ急務ナレハ一切ノ学事ヲ以テ悉ク民費ニ委スルハ時勢未夕然ル可カラサルモノアリ是ニ因テ官カヲ計リ之ヲ助ケサルヲ得ス」として「必ス民ノ及ハサルモノヲ助クル」ために官金によって補うこととした。特に、小学校の設置・維持に関しては、「学区ヲ助クル」費用として国庫から府県に毎年定額を委託することとした。これは当初委托金または小学扶助委托金とよばれたが十年以降は小学補助金と改称され、十三年の改正教育令によって廃止されるまで継続した。小学扶助金は、五年十一月に各府県の人口男女一万人につき九〇円の割と決定され、六年度より各府県に交付して学区を援助した。この扶助金の額は当初には文部省経費の一八%程度であったが、年ごとに比率が増大して十一年度では三七%余に達し、当時の政府が教育事業を怠らなかったことをよく示している。しかし、それにもかかわらず、小学扶助金は、当時の公学費全体に対しては当初は一三%弱、その後は一〇%以下にしか相当しなかった。

 なお、教育のための官金すなわち国庫支出金の費途は、小学扶助金のほか、外国人教師の俸給ならびに外国人に係る費用、大学校および中学校の営繕・書籍・器械費、生徒に費用を給貸するの費および留学生公選生の費に限定されていた。教育費のうち小学扶助金および授業料収入を除く残りはすべて学区が調達した。学区の調達する経費は、学区内集金、寄附金その他の諸入金などの方法によっていたが、その多くの部分は学区内集金により、その他は寄附金によっていた。学区内集金は、学齢児童の有無にかかわりなく戸数に割り当てたり、各戸の収入・反別等に応じて学区内住民に割り当てて徴収された。

 学区内集金は本来小学区固有の財源であり、町村の費用とは一応区別されるものであったが、実際には町村費に繰り入れられて徴収された。その後十一年の地方税規則により、町村の小学費は法定の区町村協議費の一部となったが、しかし、学区内集金にはいまだ法的な強制徴収権が認められていなかった。

 以上のように、学制期における教育財政は、その大きな部分を学区内集金を主とする民費に依存しなければならなかった。このことは当時の財政事情からみてやむを得ないことではあったが、しかし、当時の国民の負担能力にとっては過度の負担でもあり、就学拒否・学校破壊などの騒擾を結果し、地租改正や徴兵令などに対する不満とからみあって、政治不安をも招来するに至ったのである。

教育令下における教育財政

 明治十二年の教育令は従来の学区による学校の設置を町村ごとあるいは数か町村連合による小学校設置義務に切り替えて、設置者の負担能力の拡大を図った。また、土地の便宜によって修業年限の短縮を認めたり、私立学校、巡回教育、家庭教育をもって就学と認めるなどして、地方の実情に応じて学校を設置したり運営したりすることができるようにした。

 教育令は、「公立学校ノ費用府県会ノ議定ニ係レルモノハ地方税ヨリ支弁シ町村人民ノ協議ニ係レルモノハ町村費ヨリ支弁スヘシ」と規定し、また「凡学校ニ於テ授業料ヲ納ムルト収メサルトハ其便宜ニ任スヘシ」と規定している。すなわち、授業料を各学校の任意徴収制とするとともに、地方(府県)税または区町村費で設置される公立学校の観念を明らかにした。これによって、小学校の経費は区町村費、その他の学校の経費は地方税で負担することが原則とされたのであるが、しかし、同時に、「公立小学校ヲ補助センカ為ニ文部卿ヨリ毎年補助金ヲ各府県ニ配布スヘシ」と規定して、公立小学校経費に対する国庫補助が強化され、また、「町村費ヲ以テ設置保護スル学校ニ於テ補助ヲ地方税ニ要スルトキハ府県会ノ議定ヲ経テ之ヲ施行スルコトヲ得ヘシ」として、新たに地方税から補助するみちも開かれたのであった。

 このように教育令における教育財政の方針は学校の経営を地方の自由にゆだねて、町村における学校設置・運営上の困難をさまざまな形で救い得るみちを講じたものであった。しかし、その結果は、かえって就学率の低下、学校施設の建築・整備の停とんとなって現われ、教育の衰退を招来することが危惧(ぐ)されるに至った。

改正教育令下における教育財政

 明治十三年の改正教育令は、再び学事に対する国および地方長官の監督を強化し、就学督励をきびしくする方針に転換した。たとえば、小学校の設置については、各町村が、地方長官の指示に従い、独立あるいは連合してその学齢児童を教育するに足る一個もしくは数個の小学校を設置するようきびしく要求したり、教員の俸給・任免などに地方長官を関与させたり、また、学務委員の中に戸長を加えたりして教育費確保の手段を講じた。他方、改正教育令は、小学補助金に関する教育令の規定を削除し、わずかに、前述の地方税による府県の補助に関する規定を残すにとどまったのである。

 これによって六年以来継続してきた小学扶助金および小学補助金の制度は十四年度を最後に打ち切られることとなり、以後小学校の維持に要する経費はほとんどすべて町村の負担とされることとなった。この措置は当時の財政事情を反映するものではあったが、改正理由書にも認めているように「遺憾ナキ能ハ」ざる措置であった。なお、授業料に関する前述の規定はそのまま踏襲された。

 改正教育令は、教育令に比して教育の普及に貢献するところがあったが当時の経済事情もあって町村教育費の確保には多くの困難が生ずることとなった。このため、地方長官に町村の教育予算案の審査・認可の措置をとらせたり、町村教育費を協議費から分離して町村費に含め、その滞納者に公売処分ができるようにしたりするなどの方策を通じて地方教育費の確保に努めたのであるが、経済不況による地方財政の窮乏は教育費を圧迫し続けた。結局十八年教育令の再改正によって小学校の二部授業・夜間授業を認めたり小学教場の設置を認めたりするなどの措置によって教育費の節約を図るとともに、学務委員を廃止して戸長に学事を担当させることとし、また、同年八月十九日付けの文部省達「町村立学校ニ於テ授業料徴収ノコト」によって、町村立学校の授業料の徴収を義務化した。この結果、教育費財源の不足は授業料に転嫁されることとなり、父兄の負担が増大し就学率は減少する結果となった。

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