二 地方の教育行政機構

学制下における地方教育行政区画

 明治維新後、新政府は、学制以前においてもすでに、直轄区域となった府県の学校教育に対して積極的な施策を講じようとする意欲を示し、明治二年二月の「府県施政順序」の中に一項を設けて「小学校ヲ設ル事」を指示し、翌三月には、特に東北の府県に布達して早急に小学校の設置を命じ、また、すでに述べたように三年三月には大学(昌平学校)に府県学校取調局を設置するなど、府県における学校教育の普及を図った。

 藩についても三年九月には藩政改革を指示してはいるが、しかし、廃藩置県までは、新政府の行政機能は諸藩に直接及ぶことがなく、藩の区域における地方教育行政は各藩ごとに行なわれて統一されていなかった。

 学制は、主としてフランスの地方教育行政制度を参考とし、地方教育行政に関して、一般地方行政とは独立の行政区画・機構による中央集権的な制度を構想した。

 まず、教育行政区画についてみれば、学制は、「全国ノ学政ハ之ヲ文部一省ニ統フ」と規定し、全国の教育行政は文部省に統轄されるべきことを定めるとともに、学区制を採用して、全国に八大学区、二五六の中学区、五万三、七六〇の小学区を置くことを計画した。これらの学区は単に学校設置の基本区画を構成するだけでなく、同時に、地方教育行政の単位ともした。このように学制は教育行政を一般地方行政区画とは独立の特別の教育行政区画によって行なうことを計画した。しかし、この学制の構想はそのままの形では実現しなかった。

 のちに述べるように、大学区はほとんど教育行政区画としての機能を果たすことなく終わった。また、中・小学区についても、地方の実際においては、当時の一般行政区画である大区・小区、あるいは幕政時代の遺制として残存する町・村等を基礎として学区が設けられた例が多かった。

 学制によれば、小学区は、一般地方行政区画とは独立に、人口六〇〇人を基準として設定し、小学校設置の主体となり、また、小学校設置・維持の経費を負担する特別の行政単位として構想した。しかし、実際には、小学区は、単に小学校の設置区域あるいは通学区域として受け取られているのが一般であり、小区あるいは町村を基礎として小学区が設定されている例が多かった。

学制下における地方教育行政機関

 学制下における地方教育行政機関は、督学局、地方官(府知事・県令)および、学区取締であった。学制においては、一般地方行政組織から独立した地方教育行政の機構を構想したのである。しかし、一般地方行政機関である地方官を督学局と学区取締との中間に教育行政機関として介在させた。

 学制の規定によれば、全国の学校を監督するために文部省に督学本局を置くとともに、各大学区本部ごとに督学局を設置し、督学局に督学および付属官員を置きそれぞれの大学区内の学政を監督させることになっていた。督学は本省の意向を奉じ、また、地方官と協議して、大学区内の諸学校を監督し、教則の得失、生徒の進否等を検査し、これを論議改正しうるほか、学区取締に対しても場合によってはこれを直接呼び出して本局の意向を論示できるものとした。

 また、各中学区には、地方官の任命する学区取締を一〇人ないし一二、三人置いて、それぞれ小学区二〇ないし三〇を分担し、それぞれの分担する学区内の就学督励、学校の設立・保護、学費の調達等、学事に関するいっさいの事務を担任することとした。就学者は学区取締に届け出なければならないし、また六歳以上の子弟で未就学のもののあるときは、その理由を学区取締に届けなければならないこととした。

 以上のような学制の規定は、しかし、そのまま実現されたわけではなかった。特に、大学区督学局の規定はほとんど実施されずに終わったのであるが、その経過は次のようである。まず学制発布の翌月、五年九月十四日、学制の規定に基づいて設置される大学区督学局の事務に従事させるために、文部省内に大・中・少督学を置いた。十月十三日にはまず第一大学区督学局を東京に設けたが、六年一月には文部省内に移した。同年四月、大学区の数を七大学区と改め、同五月、少督学以下の官吏を派遣して第一大学区を巡視させ、同六月、文部大・少丞以下の官吏を手分けして、まだ督学局が設置されていない第三から第七大学区までを巡視させた。これが学制下における学事視察の最初である。同年七月三日には各大学区合併督学局が仮に文部省内に設けられ、官員二、三人をおいて各大学区の学務を分担させることとなったが、八月十二月には、ここに従来の大・中・少督学のほかに大・中・少視学をおくこととなった。以上が、学制発布から七年三月に至る間の督学の機構であるが、この時期までの督学局ならびに督学・視学は、仮に文部省内に置かれてはいても、地方教育行政機関とみなされるものである。しかし、七年四月十二日に至って、学制の規程を改め、各大学区合併督学局を本省の外局としてその職制を定めた。それまでの合併督学局は、その性格上、各大学区督学局の連合体というべきものであったが、この改正によって、制度上文部省に吸収され、中央教育行政機関としての性格を有することとなったのである。同年六月十日「学区監視条例」・「督学巡回規則」・「視学巡回規則」を定め、それ以後、文部省は毎年数回、督学・視学を派遣して、地方の学事視察を行ない、就学の督励に当たったのである。しかし、十年一月十二日に至り、督学局は廃止され、学事視察の事務は便宜上文部省書記官が当たることとなった。その後十八年十二月、視学部を設けるまで、八年間にわたって督学・視学の職は置かれなかった。

 次に、府知事・県令は、一般行政事務とともに府県の教育事務をも統理する地方教育行政官庁とされ、学区の設定、学区取締の任命、学校設立と就学督励など、すべて督学局と協議して行なう仕組みになっていた。府県の制度は、四年十月二十八日の「府県官制」の制定、および、十一月の「県治条令」によって一応の制度的基礎が確立し、新たに府知事・県令が任命されて、一般地方行政は政府直属の地方官を中心に行なわれていたのであるが、督学局の規定が結局じゅうぶん実施されなかったこともあって、地方官は、制度的にも実質的にも、地方教育行政の中心的責任をになうこととなったのである。

 教育事務に関する府知事・県令の補助機関については、当初は各府県に学務専任吏員一、二人を置くことが認められていた。しかし、その後、督学局の規定が実施されず、府県が地方教育行政の実質的な中心となるに伴って、府県の教育行政機構もしだいに整備されるようになり、八年四月には府県に学務課が新設され、同五月には学務専任吏員の増員がなされた。

 学区取締は原則として「其土地ノ居民名望アル者」から地方官が任命し、給料は地元負担としたが、区・戸長による兼任も認められた。このため、当初から学区取締の過半数は区・戸長等の兼任であったが、その後しだいに兼任が増加した。学制は、学区取締と一般地方行政機関との関係について、そのほかにはなにも規定しなかったが、区・戸長は、学区取締を兼任しない場合でも、区町村内にある学校等のことについて事実上かなりに関与したものと思われる。また、当時、いずれの府県においても自発的に小学区に学校役員あるいは学校世話役ともいうべきものをおいて、直接個々の小学校の世話や運営に当たっていた。その名称・員数・権限・選任方法等は区々であったが、多くは地方の名望家などから選ばれ、一面、学区取締の指示をうけ、他面、戸長等と相談して、学校の管理や就学の督励などの末端の教育事務を直接担当した。これらの学校役員や学校世話役の中には県によっては地方官の任命ないし認証の手続きがとられているものもあった。

教育令下における地方教育行政機構

 学制の構想は、教育行政を一般地方行政の区画・機構から独立の特別の区画・機構によって行なうとして結局じゅうぶんな実現をみないで終わったのであるが、学制期に続く、明治十二年の教育令制定後十八年ごろまでの時期は、教育行政機構の面からみれば、教育行政が一般行政機構のわく組にしだいに一元化され、二十年代になって成立する地方教育行政機構の原型が形成されていった時期とみることができる。

 五年以降、一般地方行政は、府県=地方官、大区=区長、小区=戸長の制度によって行なわれ、町村は地方行政制度上の法的地位を否定されていたのであるが、十一年七月の「郡区町村編成法」、「府県会規則」、「地方税規則」のいわゆる地方三新法および十三年の「区町村会法」の制定により、地方行政制度は画期的に改革されることとなった。この改革によって大区・小区の制度は廃止され、町村は、国の行政区画であると同時に地方自治体としての性格をももつものとして、行政系統上の地位を法認されることとなった。その結果、一般地方行政の区画は、まず府県があり、府県は市部である区と町村地域である郡に分かれ、郡の内に町村があるということになった。そして、町村の首長たる戸長は「行政事務二従事スルト其町村ノ理事者タルト二様ノ性質」を有するものとなった。

 十二年の教育令によって、地方教育行政機関としては、地方長官(府知事・県令)およびその補助機関のほか、従来の学区取締を廃して新たに学務委員が置かれることとなった。学務委員は、「町村内ノ学校事務ヲ幹理」するために、当該町村人民の選挙によって選任され、府知事・県令の監督に属し児童の就学、学校の設置・保護等のことを掌るものとされた。また学務委員の数・給与の有無等はそれぞれの町村の適宜にゆだねられた。この学務委員の制度は、アメリカ合衆国の教育委員の制度を参考にしたものであるといわれるが、このような権限を有する独立の機関を町村に置くことは、一般行政事務を掌る戸長との関係に問題があり、その後両者の関係を調整するための措置がとられていくことになった。

 十二年の教育令は、学制下におけるきびしい督励主義に対する批判から、中央統制をゆるめ、教育をかなり地方の自由にゆだねる政策に転換したのであるが、同時に、教育行政単位としての学区制を廃止し、一般地方行政事務を行なう府県および区町村に教育行政事務をも一元化することとした。だいたいにおいて、初等教育は区町村に、中等教育は府県にその経営を一任する方針をとった。

 この教育令は小学校については、毎(区)町村あるいは数町村連合して公立小学校を設置すべきことを規定して、(区)町村が小学校設置・維持の主体であることを明らかにした。小学校以外の学校・幼稚園・書籍館等についても、府県および区町村が設置しうるものとした。

 教育令はそのほか、学校に公立・私立の区別を認め、公立学校の設置・廃止は府知事・県令の認可を経なければならないとし、またその教則は文部卿の認可を必要とするものと定めた。他方、私立学校の設置・廃止ならびに教則は地方長官に対する開申(届出制)とした。

改正教育令下における地方教育行政機構

 明治十三年の改正教育令は、政府の督励なくしては教育の所期の普及は期待できないとする考え方に立って、就学規定を強化するとともに、教育行政について、学制実施期におけると同様な、強制的・中央集権的な方策に転換した。そのため、地方教育行政に対する文部卿の権限を強化するとともに、地方長官の教育に対する指示・監督権を拡大し、また、町村人民の選挙による学務委員の制度を改めた。

 まず、文部卿については、従来からの小学校教則の認可権のほか、小学校教則綱領の制定権が付与され、地方長官の制定する就学督責規則、学校等の設置・廃止規則、学務委員薦挙規則、町村立小学校教員俸給額規定などの認可権が新たに付与された。これに基づきこれらの諸規則の基準・起草心得を文部省は作成し、十四年一月、「小学校設置の区域並びに校数指示方心得」および「府県立学校幼稚園書籍館等設置廃止規則」、「学務委員薦挙規則」、「就学督責規削」、「町村立私立学校幼稚図書籍館等設置廃止規則」等の起草心得を公布した。

 教育行政に対する地方長官の権限も強化され、町村の教育行政に対する指示・認可・督励の権限が拡大された。すなわち、府知事・県令は新たに、小学校の設置を指令すること、学務委員の数・給料の有無およびその額を認可し、区町村会の推薦した学務委員を選任すること、学務委員薦挙規則、就学督責規則、学校等の設置・廃止規則を起草して文部卿の認可を求めること、学務委員の申請によって町村立小学校教員の俸給を定め文部卿の認可を受けること、学務委員の申請に基づき町村立学校教員を任免すること、小学校教則を編制・施行すること、町村立学校の設置・廃止のほか私立学校の設置を認可することなどの権限が明示された。なお、改正教育令では郡区長の教育行政に関する職務についても明示されている。

 次に、学務委員については、その職務内容に関しては教育令におけるとほぼ同様であった。しかし、教育令に定めてあった公選制度は廃止し、区町村会が定員の二~三倍を推薦して、その中から地方長官が選任することに改めた。また、学務委員の数、学務委員薦挙規則は地方長官が起草して文部卿の認可を要することとした。そしてさらに、学務委員の中に必ず戸長を加えなければならないと定めて、学務委員と戸長との関係の調整を図った。その後、十八年八月の教育令の再改正によって、学務委員の制度は全く廃止されて、その職務は戸長が掌理することとなり、以後、町村の教育事務は一般行政事務を掌る戸長の権限に吸収されることとなった。なお、戸長は十七年以降官選となり、その権限も拡大されていた。

 なお、十三年の改正教育令以後、府県の教育行政事務が拡大するに伴い、府県および郡の学事事務機構も整備されていったが、この間、初等教育行政に関する末端の補助機関として、十六年八月の文部省達により督業訓導の設置を勧奨している。督業訓導は、教則や授業法など教育内容に関して直接教員の指導を行なわせるために学制期から教育令期にかけて多くの府県で自主的に実施していたものであり、のちの視学の前身であるが、十七年三月からは小学督業と改称した。

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