一 中央の教育行政機構

文部省の創設

 維新による新政府が成立して後、明治四年七月廃藩置県が行なわれ文部省が創設されるまでの間、諸藩を除く全国府県の教育を統轄する中央教育行政機関は大学(二年十二月以前は大学校と称した。)であった。維新の際において新政府は文教についての最初の方策を大学創建の計画によって着手し、まず大学を設置してこれを新時代の最高学府たらしめるとともに、全国のすべての学校をこの大学に統轄させ、これを通じて新政府の教育に関する諸方策の実現を図ろうとした。このため、維新直後明治元年末には昌平学校に知学事・判学事(のちに副知学事)等の職をおいて学事を掌らせたが、藩籍奉還後の二年七月には大学を官庁として教育統轄機関としての機能を担当させ、その長官を大学別当とし、その下に、大・中・少博士等の教官のほか、大・少監、大・少丞等の行政官を置いた。このように大学は、最高学府と中央教育行政官庁としての二重の機能を兼ね、医学校(二年十二月以降大学東校と改称)・開成学校(二年十二月以降は大学南)と改称校を管轄したことはもちろん、天文歴道、図書の出版、国史の監修、各地病院などの管轄のほか、全国府藩県の学政を総判する機関とした。すでに同年三月には大学(昌平学校)に府県学校取調局を設け、新政府に直属した府県の学校の施設および指導に当たることとした。この仕事はまもなく民部省に移されたが、このことは当時すでに新政府が府県の学校教育に対して積極的な方策を講じようとするところまで進んでいたことを示している。しかし、廃藩置県が行なわれるまでは、新政府の行政機能は、府県にはともかく諸藩には直接及ばなかった。

 四年七月十四日廃藩置県が行なわれて新政治の統一がみられるに及んで、同月十八日教育の分野についても全国の教育を統一的に管掌する中央教育行政官庁として文部省が設置され、従来の教育統轄機関としての大学の機能は廃止されることとなった。文部省創設と同時に、その最高責任者として江藤新平が文部大輔に任命され、教育行政を総括する地位に就任した。江藤はまもなく、同月二十八日大木喬任が初代の文部卿に任ぜられるとともに左院一等議員(副議長)に転じたのであるが、在任中、省内に人材を登用し、箕作鱗祥と協議して文部省の官制と職掌の大綱を決定し、学校制度案の研究にも着手して、文部行政の基礎を築いた。

 創立当初の文部省には、長官として文部卿を置き、卿の下に大輔、少輔、大・少丞等の事務官と、大・中・少博士、大・中・少教授等の教官を置くこととした。また、文部卿の職掌は、1)本省及付属諸官員各学局及大中小学を統率して其事務を督理す、2)全国の人民を教育し其道を得せしむるの責に任ず、3)省中管掌の事務は正院に対し其可否を論弁するを得、となっていた。従来の大学が府藩県の学制を総判することになっていたにもかかわらず、その実があがらなかったのに対して、文部省においては、国家が進んで諸学校を施設して国民を開明の域に達せしめる方策を立て、積極的に全国民の教育を指導し推進する責任をになったのである。その後同年十一月二十二日全国府県の廃合が完了するとともに、同二十五日付太政官布告をもって全国府県の諸学校はすべて文部省の管轄となり、諸事そのさしずを受けることとなった。ここにおいて、文部省における教育行政の範囲や任務が決定することとなった。

 文部省には、創設直後の七月三十日、南校・東校・記録・受付の四掛が置かれ、九月に編輯寮(五年九月廃止)が加えられたが、まもなく四掛が廃されて、九月二十九日、教師・会計・職員・記録・書籍・受付の六課が置かれ、さらに同年十二月これを改めて学務・記録・職務・用度・書籍・受付の六課を設け、六課事務章程を定めた。ここにおいて文部省は教育行政に関する中央官省としての事務機構を備えることとなった。文部省はこれらの職掌分課を通じて、中央において各府県に対し学校の施設を命じ、またこれを監督する中央教育行政機関としての実質を備えることとなり、わが国における近代的教育行政の端緒が開かれた。

 文部省が設置されると、ただちに文部省は全国に施行する学校制度を創設する準備に着手した。欧米教育制度の研究、全国教育の調査などを行なって準備を進め、四年十二月に学制取調掛を任命して「学制」の起草を開始している。そして五年八月二日政府は学制の趣旨を宣言した太政官布告第二百十四号とともに学制を公布し、文部省は翌八月三日(太陽暦九月五日)に学制を全国に頒布したのである。

文部卿の更迭

 学制発布の翌年、明治六年四月十九日、文部卿大木喬任は参議に転じて、文部卿はしばらく空席となり、その間、三等出仕田中不二麻呂が省務を管理した。七年一月二十五日、参議木戸孝允が文部卿を兼任することとなったが、同年五月十三日にはその職を辞し、その後十一年五月までの四年間は文部卿を欠くこととなった。この間、田中不二麻呂は、はじめ文部少輔として、七年九月二十七日以降は文部大輔として引き続き省務を摂行した。十一年五月二十四日、西郷従道が参議兼文部卿に任じられたが、同年十二月二十四日、陸軍卿に転じ、翌十二年九月、参議寺島宗則が文部卿を兼任するまでの間、大輔田中不二麻呂がまた省務をとった。このように学制の実施から十二年の教育令の公布・施行に至る時期の文部省の行政は実質上田中不二麻呂の指導のもとに行なわれていた。

 教育令公布の翌十三年二月二十八日、寺島宗則は文部卿の兼官を解かれ、元老院副議長河野敏鎌が文部卿に任じられた。同三月十五日、文部省に多年にわたり貢献してきた文部大輔田中不二麻呂は、司法卿に転出した。河野文部卿は就任後、いわゆる改正教育令を制定し、翌十四年四月七日農商務卿に転じ、先に第二代文部大輔として学制の制定公布に関与した元老院議官福岡孝弟がこれに代わった。十六年十二月十二日、福岡は参議兼参事院議長に転じ、参議大木喬任が文部卿を兼任した。

文部省の機構の整備

 明治五年から七年にかけて、文部省の機構・事務分掌はしばしば変わっているが、七年十一月には省内の分課を学務課・会計課・報告課・準刻課および医務局の四課一局とし、おのおのその局課長を置いたが、このうち医務局および準刻課を翌八年六月、内務省に移管した。なお、この間七年四月には督学局を文部省の外局として位置づけた。八年十一月には「文部省職制及事務章程」が定められ、文部省の職掌は「文部省ハ全国教育ノ事務ヲ管理スル所ニシテ督学局及学校ヲ管ス」と定めた。

 この時期における督学の制度・機構の変遷については次項(二「地方の教育行政機構」)でまとめて記述することとするが、文部省機構に直接関連する事項を摘記すれば次のようである。

 まず、五年学制発布の翌月九月十四日に文部省内に大・中・少督学を置き、翌六年一月には第一大学区督学局を文部省内に移し、同年七月には各大学区合併督学局を仮に文部省内に設け、翌七年四月、合併督学局を文部省機構に吸収して文部省の外局として督学局とした。

 なお、六年六月文部省顧問に招かれたモルレーのためには、同八月、督務官の職を設け督務詰所を文部省に置いたが、七年、学監と改称し、督学局に併合した。その後十年一月、督学局廃止に伴い学監事務所を新設したが、十一年十二月、モルレーの任期満了とともに廃止した。

教育令以後の文部省機構の整備

 明治十二年の教育令の制定手続きについてみると、十年に文部省内に委員会を設置し、別に学監事務所で作成された『学監考案日本教育法』などをも参考として、原案の作成を行ない、十一年五月十四日「日本教育令」草案として上奏文とともに太政官に提出した。その後参議兼法制局長官伊藤博文に回布され、そこで大幅な修正を受け、さらに元老院による審議・修正および上裁を経て、十二年九月二十九日太政官布告第四十号をもって「教育令」として公布された。

 教育令制定以後においては、文部卿の職掌および文部省の機構を次のように改革した。まず、文部卿の職掌については、教育令で「全国ノ教育事務ハ文部卿之ヲ統摂ス」と定めたが、十三年一月の文部省職制及事務章程の改正に際して、さらに「道徳知識ノ上進ヲ賛導ス」る責任を加えた。文部省の機構は八年の学務・会計・報告の三課に、十年に内記所を加えたが、十三年三月二十五日、学務課および報告課を廃して新たに官立学務局・地方学務局・編輯局・報告局を設置し、会計課を会計局と改めて、内記所とともに五局一所とした。さらに同年十月十四日、調査課を置き、十一月、「事務章程」を定め、十四年三月二十九日、内記所を廃して内記局を置いたが、十月二十四日には、官立学務局・地方学務局・内記局を廃して、専門学務局・普通学務局・庶務局・内記課を置いたので文部省機構は六局二課となった。さらに、十五年四月二十七日に新たに褒(ほう)賞課を加えた。この間十二年十月七日以降、音楽取調掛を設けていたが、十五年一月からは国歌の選定に着手している。その後、十八年二月九日にはさらに局課の改廃を行ない、内記局・学務一局・学務二局・編輯局・会計局・報告局の六局とした。同時に、学務二局庶務概則を定め学務二局に六地方部をおいたが、同年七月には五地方部に改めている。

教科書行政とその機構

 文部省はその設置後まもない明治四年九月、省内に外局に当たる編輯寮を設けて教科書の翻訳編集に着手したが、五年九月これを廃止して十月省内に教科書編成掛を置き、十一月には師範学校に編輯局をおいたが、六年教科書編成掛を編書課と改め、師範学校編輯局をこれに合併した。このように文部省は積極的に新しい教科書の編集・出版を行なうとともに、府県に対して、文部省および師範学校の編集した教科書の翻刻を許可して、その普及を図ったのである。

 その後、文部省は、教育政策の転換に伴い、十三年三月、省・内に編輯局を設けて、「小学修身訓」をはじめとする標準教科書の編集に着手するとともに、六月には、地方学務局に取調掛をおいて、各府県で使用されている教科用図書の調査を開始した。調査の結果は八月以降数次にわたって発表し、府県に通達しで「教育上弊害アル書籍」その他不適当と認められる教科書の使用を禁止している。

 十四年五月小学校教則綱領を制定し、これに基づいて各府県は小学校教則とともに、各教科で使用する教科書を定めることとなり十五年ごろから小学校教科書は府県ごとに統一されるようになったが、文部省は、各府県に対して、小学校教則とともに教科書についても文部省に開申すべきものとした。さらに、十六年七月には小学校および府県立中学校・師範学校等の教科書については文部省に伺い出て認可を受けなければならないとした。

文部省雑誌・文部省年報等の刊行

 文部省は明治五年八月、はじめて「文部省日誌」を木版によって創刊し、省務に関する報告事項を収録したが、六年一月これを廃刊し、四月から新たに「文部省報告」および「文部省雑誌」を活字印刷によって発刊した。文部省雑誌は、わが国最初の教育雑誌で、教育に関する外国の新聞記事や教育論説などの翻訳紹介が多く含まれていた。その後九年四月「教育雑誌」と改題し、十五年十二月さらに「文部省教育雑誌」と改題したが、第一七四号までで十七年一月廃刊となっている。文部省報告は文部省の処務報告事項を収録した一~二ページのものであったが、「官報」の発刊に伴い十七年三月廃刊した。この間、先に廃刊した文部省日誌を十一年二月活字印刷によって再刊し、十六年二月まで続刊した。さらに、文部省報告および文部省雑誌と並行して、八年一月「文部省年報」をはじめて発刊した。文部省年報は、文部省の所管事項に関する公式の年次報告書であり、その後毎年公刊し、現在まで継続しているが、文部省所管事項に関する各種の記録や統計資料を収録している。

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