四 海外留学生と雇外国人教師

海外留学生制度の整備

 草創期の高等教育と関連をもち欧米文化導入の上で重要な役割をもったのは海外留学生制度であった。海外留学の端緒は幕末期の諸藩がひそかに派遣した海外留学生にみられるが、維新後その数は著しく増大し、明治元年から五年までにアメリカに留学した者だけでも五〇〇人に達したといわれる。政府は三年十二月二十二日「海外留学生規則」を制定し、留学生をすべて大学の管轄とするなどの措置をとったし、三年八月には大学南校から、同年十一月には東校から、それぞれアメリカ、ドイツ等へ留学生を派遣した。しかし一般に留学生の選抜・給費・規律などについては必ずしも当をえていないという世評が高かった。

 そこで学制本編の第五八章から第八八章まで、および六年三月の学制二編で文部省は詳細に新しい規則を制定した。すなわち、留学生を官選と私願とに分けそれらはすべて文部省の管轄にはいるものと規定した。官選留学生を初等と上等の二種類にわかち、前者は中学卒業者より一五〇人、後者は大学卒業者より三〇人以内を選抜することとした。初等留学生については督学局が、上等留学生については大学教師が試験を行なって選ぶこととした。初等留学生は五年間、上等留学生は三年間、それぞれ本人の希望と教師の見込みに従って、官より命ぜられた学科を修得することとし、帰朝後はふたたび試験を受ける必要があった。初等留学生にあっては年間八〇〇円から一、〇〇〇円、上等留学生にあっては同じく一、五〇〇円から一、八〇〇円が往復旅費とともに支給されたが、帰朝後は官に奉職するか、あるいはこれを返還しなければならなかった。私願留学生は官選留学生に準じた学科を修めたものを、その教師の見込書に基づいて認可したが、私費で留学に耐えるだけの財力を持つことが必要とされた。留学中は官選・私願にかかわらず、その地の公使を通じて文部省の厳重な監督を受けた。公使は留学生を監督し、毎年その勤惰・進退等、明細書を作り本省へ報告すべきことを定めた。

文部省の留学生

 明治六年の文部省第一年報の示すところによると、当時官費生二五〇人、私費生一二三人計三七三人の留学生があった。元来文部省としては、将来高等諸学校の教授を担当すべき人材の養成を目的として留学生の派遣に意を用いたのである。しかるにこれら留学生は多く従前の各藩から選抜された人々であって、その選択について必ずしも適当ではなく、国費の濫費であるとさえみられたので、六年十二月遂に海外留学生をすべて帰朝させることとした。

 八年五月、「文部省貸費留学生規則」が制定され、先に定められた「文部省留学生監督章程」が改正された。それによって留学生の選抜は慎重に行なわれるとともに、またその管理・監督を厳にしたのである。この規則公布後文部省は留学志願者を募ったが、資格があまりに厳格なため応募者もなく、そこで東京開成学校生徒中から選抜し、同年七月にアメリカに九人、フランスに一人、ドイツに一人、翌九年四月にはさらにイギリスに八人、フランスに二人を派遣した。かれらは十二歳から二十二歳の優秀な青年で、それぞれ法学・化学・工学等を専攻しようとする者であった。文部省ではこのほか、八年七月に伊沢修二ら三人をアメリカに、また十一年二月には三人をイギリス・フランス・ドイツにそれぞれ派遣して、師範学科を学ばせた。

 十年、十一年には派遣しなかったが、十二年に至って東京大学の法・文・理各学部卒業生から四人を選抜し、イギリス(三人)およびフランスに派遣、医学部卒業生から三人をドイツに留学させた。さらに十三年には五人、翌十四年には八人をそれぞれイギリス・フランス・ドイツに留学生として派遣した。

 このようにして選抜・管理を厳格にした留学生制度は、かなりの成績をおさめた。文部省としては当時外人教師が中心であった大学教授の職を邦人教師に移したかったのである。しかるに、これまでの留学生の学ぶ学科については本人の希望にまかせられていたので、文部省が自己の計画において必要とする学者を得るのに必ずしも適切な制度とは考えられなかった。そのため、十五年二月「貸費留学生規則」および「貸費留学生条規」を改め、「官費留学生規則」を制定したのである。これによると、貸費海外留学生は官費海外留学生に改められ、東京大学卒業生中、将来大成の望ある者の中から文部卿がこれを選命し、その学科・邦国・年限・校所等は文部卿がこれを指定することとし、帰国の上は留学年限の倍数に当たる年間は文部卿の指命する職につくべきことと定めた。このようにして、十五年には新たに七人を、十六年には四人を官費留学生として送った。

 十七年三月には、東京大学職員で五年以上奉職するものは、その願いにより学術研究のため一年または一年半を、本官のまま私費で海外に留学することを許可した。これによって三人がドイツに留学した。十七年の調べでは、同年末において二二人が欧米に留学していたが、その内訳はドイツが圧倒的で二〇人、イギリス・アメリカがそれぞれ一人であった。十三年に満期となった留学生一〇人が帰朝し、次いで年々帰る者があったが、十七年には総数三二人の帰朝者があり、そのうち一五人が教職に、おのおの七人が官吏および技師に就職し、二人が民間にあり、一人が死亡している。十八年十二月に官費留学生規則を改正し、東京大学卒業生のほかに、文部省直轄学校の専門科もしくは師範学科の卒業生も留学しうることとなった。八年から十八年までの留学生の数を年度別に示すと、前ページの表のとおりである。

表8 留学生数の推移

表8 留学生数の推移

文部省雇外国人

 明治初期のわが国高等教育は、外国人教師に依頼するところがはなはだ多かった。明治六年四月の学制二編追加によれば、外国人教師を雇って西洋における学芸・技術を教授する高尚な学校は、これをすべて専門学校と称することとなっている。外国人教師から学習すべき学芸・技術は、法律学・医学・星学・数学・物理・化学・工学等であった。この制度に従って東京開成学校・東京医学校・東京外国語学校およびその他若干の官立外国語学校が官立の専門学校として取り扱われたことは先に述べた。

 東京開成学校はこれより先、明治五年に南校と称し、普通科生徒約四四〇人をもって発足していた。これらの生徒は専攻する外国語によって英学生、独学生および仏学生に分かれ、多数の内外教師が授業を担当していた。そのうち、外国人教師は教頭フルベッキをはじめ米英人八人・ドイツ人四人・フランス人五人であった。また、東京医学校は四年十月ドイツの軍医ミュレルおよびホフマンの両人を迎えて、ドイツ医学を教授する方針のもとに、東校と称して開校されていた。その後外国人教師は年々増加を見たが、八年には七二人を数えるようになった。その配置は文部省一人、東京開成学校に二一人、東京医学校に九人、東京英語学校に一〇人、愛知・大阪・広島・長崎・新潟・宮城の各英語学校に各若干一七人、東京外国語学校一二人、東京女学校二人であった。東京開成学校、東京医学校においてはそれぞれ専門の科学を教授していたが、その他は外国語教師であった。文部省の雇外国人は学監モルレーであった。

 文部省雇外国人の数は、これに代わるべき留学生が相次いで帰朝するに及んで減少をみたが、明治中期以後再び増加するようになった。七年以降大正十二年(明治十六年以後は十年ごと)に至る外国人教師の数を示すと、上の表のとおりである。

表9 外国人教師数

表9 外国人教師数

 これらの外国人の中には、明治教育の発展を助け、あるいは明治文化を築きあげるのに多大の功績を残した人々が多い。明治初期に限って見ても、モルレー・フルベッキ・スコット・ベルツ・モース・フェノロサ、札幌農学校のクラークなど著名な人々をあげることができる。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --