三 専門学校の創設

専門学校の諸類型

 学制期の専門諸学校のなかから、東京開成学校や東京医学校のように「大学」へと成長発展した学校、あるいは官立英語学校のように大学予備教育機関へと吸収された学校を除くと、あとには、明治後期の専門学校や大正期以降の公・私立大学の源流となる公・私立諸学校が残る。それらの諸学校は、文部省の統計の上では「専門学校」として掲げられていた。

 それらの「専門学校」のなかには、私塾的な小規模のものも多く含まれていたが、当時において主体となったのは、1)学制前から存在していた外国語関係の私立学校、2)宗教主義の私立学校、3)学制後明治十年代にかけて各地に設けられた公私立医学校、4)明治十年代以降隆盛となる政治法律関係の専門学校などである。

外国語関係の私学

 幕末から明治初年にかけて外国語と近代科学を授ける学校を政府および各藩が重く見るようになった。これに応じ、民間においてもまた外国語を主とする学校が多く設けられ、新しい語学および原典による近代学を教えることとなった。学制頒布ごろに設けられていた主要な私立学校は次のような諸学校である。

主要な私立学校の名称、創立者、創立年

主要な私立学校の名称、創立者、創立年

 これら外国語を教授し原典講読をしていた私立学校の数は明確にすることはできないが、東京においてばかりでなく、地方の都市にもまた多数設けられていた。家塾を開いて教授をした学者の中には、学力もあり識見に富んだ時代の先覚者が少なくなかった。

 これらの諸学校は、明治五年学制頒布後になってあるものは廃校し、またあるものは組織を改めて新制度による専門学校となり、または中等学校程度の外国語学校として存続したものもあった。文部省第二年報によると、七年の外国語学校数は、官立の九校、公立の八校に対して、私立が七四校を数え、これが翌八年には八六校に増加している。しかし専門学校の形を備えた学校として取り扱えるものは少なく、教員数一、二人でそこに数十人の学生を集めた、単に外国語を教える私塾にすぎないものがその大半を占めていた。これらの中には、官立あるいは有数な私立学校へ入学しようと希望する学生に対して、語学の基礎教育を授けていたものもあったが、これらの学校は小規模な学校であっても、明治初年の教育に寄与したところが少なくない。

宗教主義の学校

 明治政府がキリスト教禁制を解くとともに、多数の外国人宣教師が渡来し、青年たちに外国語を教えるとともに、キリスト教の感化を与えた。まだキリスト教主義の学校は存しなかったが、ここで洋学を修めた青年たちの中から、後年キリスト教界の指導的人物が出たのである。横浜のブラウン学校から、本多庸一・押川方義・井深梶之助・植村正久・熊野雄七らを出し、熊本洋学校からは、ジェンズの感化により横井時雄・宮川経輝・小崎弘道・金森通倫・海老名弾正らが、また札幌農学校からは、クラークの影響を受けた新渡戸稲造・大島正健・宮部金吾・内村鑑三らが出た。またキリスト教信者となって外国から帰り、キリスト教主義の学校を開くものもあった。

 明治八年十一月に、新島襄が京都にキリスト教主義を標傍する同志社英学校を設立した。これはわが国におけるキリスト教主義学校の初めをなすものである。新島は元治元年(一八六四年)に渡米し、ボストンに約十年とどまり、この間アマースト大学教授シーリー、ウイリアムス大学のマークホッキンスらに従って神学を修め、七年に帰国した。そしてまず青年を集めて、キリスト教の精神を鼓吹する考えでこの英語学校を設けたのである。九年九月には同志社神学校と改められた。この年熊本洋学校が閉ざされたので、ジェンズの感化を受けた横井・浮田・海老名・小崎らが京都にきて同志社神学校に加わった。これらによって、同志社は長足の発展をとげ、キリスト教主義私立学校を代表するものとなった。十二年、メソジスト教会監督クレマー博士は横浜に横浜伝導者学校をおこしたが、十五年、東京英学校と耕教学舎とを合併して、東京英和学校を設立した。翌十六年青山に移ったが、これが後年の青山学院となったのである。十九年以後になると、著名なキリスト教主義専門学校が相次いで設立されるようになった。

 仏教界においても、古い歴史をもっている各宗派の教育機関が、明治にはいって新たに学校として再組織された。四年五月に三重県河芸郡に私立真宗勧学院が創立され、六年には東京に天台宗大学林が開校された。天台宗大学林は二百有余年前、天和二年(一六八二年)、上野東叡山に創立された勧学講院に由来するもので、のちに私立天台宗大学と改称した。十一年には京都に現在の龍谷大学の前身である大教林が仏教の研究を目的として設立された。これはおよそ三百年前寛永十六年十一月、本願寺良如上人の創立した学黌に由来するものである。このようにして十五年には曹洞宗大学林が創立され、また今日の大谷大学の前身である真宗大学寮が再組織された。

 神道においても、十五年四月宇治山田に神宮皇学館を創設した。しかし当時の私学において、キリスト教主義の学校が最も大きな力をもっていた。それらは単に不足していた官公立学校の教育を補ったばかりでなく、キリスト教倫理、英語・英文学を通じて西欧思想をわが国に移入し、近代文化の進展に寄与したのである。

医学専門学校

 数の上でも、教育程度においても、専門学校の本体をなしていたのは医学専門学校であった。公立(府県立)がその大部分を占め、地方にも有力な医学校が存在していた。その多くは府県立の病院に実習をかねた医師研修機関として付設されたものであり、京都・大阪・愛知・新潟・金沢・熊本・長崎などの医学校が著名である。また、私立では東京の済生学舎・慶応義塾医学所・明治医学社などが教員数・生徒数も多かった。明治十五年五月二十七日に「医学校通則」を、同年七月十八日には「薬学校通則」をそれぞれ公布したが、これらは教育令の基本規程に基いて詳細に定められた医学・薬学に関する専門学校制度の規程であった。医学校規則によると、医学校は甲乙二種に分かれ、甲種は初等中学科以上の学力を有するものを入学させ修業年限は四か年以上、乙種は簡易な医学教育を施すもので、修業年限は三か年であるが、入学資格は甲種と全く同様であった。すなわち、これは中学校四か年の課程を終わったものが入学し、三年ないし四年の専門教育を受ける制度であり、専門学校としての体制を備えたものといえよう。教育令の時代には最も多く医学校が設置されており、十七年には公立三〇校、私立二校を数え、生徒数は四、一八八人に上った。

政治・法律の専門学校

 私立の法学校としては、明治七年元田直により東京神田五軒町につくられた法律学舎をその初めとする。次いで九年、北畠道龍の東京有楽町における講法学舎、十年大井憲太郎の湯島天神町における明憲学舎を初めとして地方にも同様の学校が数校設立された。しかしいずれも生徒数少なく、かつ永続したものがなかった。

 十二年以後、自由民権思想が盛んであったときに、法律・政治学校が相次いで設立された。十二年二月、薩た正邦その他の人々が相はかって、東京神田駿河台西紅梅町に法律学教授の目的をもって東京法学社を設けた。同校は十四年東京法学校と改称した。これは十九年に辻新次らによってつくられた東京仏学校と二十二年五月に合併、和仏法律学校と改称した。今日の法政大学の前身である。十三年七月に、東京京橋南鍋町に法律および経済を教授する専修学校が設立された。今日の専修大学である。また十四年一月に、法律・行政・経済・財政等を教授する明治法律学校が有楽町にできたが、のち神田駿河台に移り明治大学となった。十五年十月に大隅重信・小野梓らにより東京専門学校が創設された。ここでは他の専門学校と異なって、学問は邦語をもって修めるのを原則とすべきで、外国語によって研究する必要はない。ただその研究の範囲をひろげるために外国語を学ぶ必要があるとの方針であった。はじめ政治科・法律科の二科を置き、のち幾多の変遷を経て早稲田大学となった。十七年に独逸学協会学校は専修科を置いて法律学を授けた。十八年七月には、今日の中央大学の前身である英吉利法律学校が東京神田錦町につくられた。当時法学を修めるものは英法学あるいは仏法学を主としていたので、多くの学校はそのいずれかをとった。東京法学校・明治法律学校では仏法学を主とし、英吉利法律学校においては英法学を、独逸学協会学校の専修科では独逸法学を主として教授した。十八年において私立の法律学校は全国に九校、教員六三人、生徒一、五七五人を数えている。

 以上のように、明治初年に各種の私立専門学校の成立をみたが、それらの大部分は一つの学科を教授する意味においての専門学校であって、厳正な意味で高等教育機関の体制を備えたものということはできない。しかし、それらはその時代の要求に正しくこたえてできた学校であって、今日存在する有数な私学の濫觴(しょう)をこの時代に見るのである。東京大学成立の明治十年において官公立大学および専門学校の校数一九校、教員数一七三人、生徒数三、二三八人に対し、私立専門学校は校数三四校、教員数七九人、生徒数一、八七四人である。これが帝国大学令の出る前年十八年においては官公立の五七校、教員六六一人、生徒数七、二〇九人に比べ、私立は四五校、教員数一七八人、生徒数四、三二一人となって、高等教育段階においては、官公立と並んで大きな教育上の力となっていたのである。

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