二 東京大学の創設

東京大学の創設

 東京開成学校と東京医学校の両校では、明治八、九年ごろには専門学科の教授がしだいに充実され、本科の学生も増加し、多数の外国人教師を雇い入れて、学芸に関する教授も著しく進められた。ここにおいてかねてから計画されていた大学創設の方策を実現しようとしたのである。この際学監モルレーはアメリカにおける大学教育の経験に基づいて種々画策、献策し、それらが基礎となって、東京大学の規模および創設計画が成立したのであった。

 明治十年四月十二日東京開成学校および東京医学校を合併して、東京大学と称する旨の布達が発せられた。その際開成学校には法学部・理学部・文学部の三学部を設け、医学校には医学部が設けられ、あわせて四学部編成とした。十年の文部省第五年報には、大学成立の事情を次のように述べている。

 「東京開成学校東京医学校ハ開設以来稍年所ヲ経体制漸ク備ハルヲ以テ明治十年四月之ヲ合併シテ東京大学ト改称し其法学部理学部文学部ヲ旧東京開成学校ニ置キ其医学部ヲ旧東京医学校ニ置ケリ而シテ東京英語学校ハ原ト東京開成学校ニ進入スヘキ生徒ニ予備学ヲ授クルノ地タルヲ以テ之ヲ東京大学予備門と改称シテ大学ニ隷シ又教育博物館小石川植物園ヲ更メテ大学二隷セリ」

 これによって見ると、東京大学を構成するに当たっては、最初から四学部の編成をとった総合大学の計画を実現したばかりでなく、ここに進学すべき生徒のために東京大学予備門を設置し、予科教育の機関を附属させたのである。さらに教育博物館・植物園を大学の所管としたので、これらを概観すれば当時の大学としては、相当に整った形をとったと見るべきであろう。十年東京大学創立の際の法理文三学部の学生総数七一〇人、予備門生徒六三〇人、教員数内国人三二人・外国人二四人・合計五六人、医学部学生総数一、〇四〇人、教員内国人二四人、外国人一一人合計三五人、その他医員二二人であって、付属病院一か年の入室患者八三六人・外来患者四、二九〇人を数えている。また学術の水準はそれほど高いものとはいえないにしても、わが国における最初の近代の大学として力強く発足した有様が明らかにされている。

 各学部の構成は、学部内に置かれた科によってこれを知ることができる。法学部は法学の一科を置き、理学部には化学科・数学物理学および星学科・生物学科・工学科・地質学・採鉱学科の五学科を設け、文学部には史学哲学および政治学科・和漢文学科の二科を置き、医学部には医学科・製薬学科の二科を設けている。修業年限は各学科によって同一ではないが、大部分は四か年であって、各学科の教授の大綱は、これを学科課程として示したのである。それらによって、当時の東京大学における学科の構成がそれぞれ専門化した学理を探究する組織になっていたことを知ることができるのである。このような東京大学の制度が、十九年帝国大学令を公布するまで実施されていたのであって、この期間を通じて、工部省の工部大学校を除けばわが国にはただ一つの大学が設けられていたにすぎなかった。

大学予備門の設置

 明治十年東京大学が成立すると同時に、文部省は東京英語学校を東京大学に付属させ、東京開成学校の予科の生徒を合わせて、十年四月十二日に東京大学予備門を設けた。その性格は「専門学科ニ昇進スヘキ生徒ニ階梯ヲアタヘ予備学ヲ教授スルノ旨趣」としるされていることによってこれを知るのである。当初は法・理・文三学部の予備門であり、医学部は別に予科を設けていたので別個に扱われていたが、十五年六月から医学部の予科が予備門に合併され、ここにおいて東京大学予備門は、各学部に入学すべき全生徒に対して基礎教育を施す機関となった。

 十一年六月に「予備門通則」が定められ、大学予備門の構成が明らかにされた。それによると予備門は、「東京大学ノ法学部・理学部・文学部ニ進ムカ為ノ予備ニシテ博ク普通ノ課目ヲ履習セシムルモノトス」とし、四年間の教育を授ける機関となった。医学部予科は予備門に合併された後は分校として扱われ、学科課程・修業年限を異にし、四年制度をもって予科教育を行なった。

 東京英語学校を改造してできたこの大学予備門は、十八年八月東京大学の管理から離れて文部省が直轄することとなり、その制度を改めて、単に大学の予備教育機関であるばかりでなく、他の官立学校に入学すべき生徒をも養成する機関とした。その後十九年に高等中学校の制度が成立し、大学予備門は第一高等中学校となったのである。

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