一 明治初期の高等教育

学制前の高等教育

 明治維新後、新政府は旧幕府直轄の昌平坂学問所および開成所・医学所を復興し、まず和漢両学を中心として、これに西洋近代実学を配する高等教育機関(大学校)の設置を計画していた。次いで学制発布の二年前(明治三年二月)ヨーロッパの大学を範とする大学の創建を企画した。しかしこれらの構想は、大学本校内部での和漢両学派の対立、さらに和漢両学派と洋学派の対立のため頓挫(とんざ)した。すでに東京では、開成所・医学所の後身である南校・東校(一時は大学南校・大学東校とも称した。)が文部省直轄の高等教育機関として存在し、将来高度の専門教育機関となるべく整備の緒についていた。一方、この時期に東京をはじめ各地に明治政府直轄の長崎医学校・舎密局(大阪)その他慶応義塾・三浅学舎・攻玉塾などの洋学私塾や、東京洋語学校・名古屋洋学校などがあり、分野によっては南校・東校とも比肩しうる高い水準の洋学教育を行なっているものもあった。このような時、学制が発布された。

学制における高等教育

 「学制」では大学は高尚な諸学を授ける専門科の学校とし、その学科を理学・化学・法学・医学・数理学(後に理学・文学・法学・医学と訂正)とした。大学卒業者には学士の称号を与えることも定めた。

 六年四月学制の条文を追加し、大学のほか、外国教師によって教授する高尚(しょう)な学校をすべて専門学校と称した。専門学校の入学資格は小学教科を卒業し、外国語学校下等二か年の教科を履修し、年齢十六歳以上の者とした。専門学校を法学校・医学校・理学校・諸芸学校・鉱山学校・工業学校・農業学校・商業学校・獣医学校等とし、修業年限は、法学校・鉱山学校・工業学校は予科三年、本科三年、医学校・理学校・諸芸学校は予科三年、本科四年、農業学校・商業学校・獣医学校は予科三年、本科二年とした。それらの専門学校において、その学科を卒業した者はこれを大学卒業者と同じく学士の称号を与えることとした。

 外国語学校は外国語学に熟達するのを目的とし、専門学校に進学するもの、あるいは通弁(通訳)を学ぼうとするものを入学させた。入学資格は年齢十四歳以上、小学校卒業以上と定め、修業年限は四年で、六か月をもって一級とし、下等を四級、上等を四級に編制した。通弁だけを学ぶものはこの学校で上下二等の学科を卒業することを必要とした。大学教員の資格は学士号を持つものとした。

開成学校と医学校

 学制発布後、南校は第一大学区第一番中学となり、東校は第一大学区医学校となって、学制の構想のなかに位置づけられた。しかし前者は明治六年四月専門学校となり開成学校と称したが、七年五月には東京開成学校と改称、また医学校も東京医学校と改称され、専門学科を充実させていった。東京開成学校には法学・理学・工業学・諸芸学・鉱山学の五学科をおいたが、東京開成学校では本科三年予科三年とし、本科を法学・化学・工学の三科とした。また七年から十年まで、工業関係の基礎教育と実習のため、製作学教場という速成教育機関(東京工業大学の源流である。)もおいた。

 東京医学校は、ドイツ語による西洋医学の教育機関で、修業年限も予科二年の上に本科五年を置き、当時としては最も整備された医学専門教育機関であった。このほか製薬学科や、速成教育機関である通学生教場なども置いた。

外国語学校

 明治のはじめ、高等教育、特に高等な専門教育を学ぶためには外国語の知識は必要不可欠のものであった。学制発布ころまで、南校や東校の学科課程はほとんど英・独・仏などの語学が中心であり、特に重視されていたのは英語であった。政府は、学制発布後、南校・東校を専門教育機関として充実させる一方、全国各大学区に官立英語学校を設置する方針をとった。明治六年十一月、既設の第一大学区独逸学教場と外務省の外国語学所とを開成学校内の外国語学校に合併して官立東京外国語学校を設置した。また七年三月から四月にかけて愛知・大坂(阪)・広島・長崎・新潟・宮城に官立外国語学校を設置した。同年十二月東京外国語学校から英語科を分離して東京英語学校とし、右の六校も各英語学校と改称した。これらの英語学校は課程の種類や規模などはさまざまであったが、九年ごろには卒業生を開成学校へ送りだすようになり、東京大学とその予備門が設置されるまで重要な役割を果たした。

文部省所管外の専門教育機関

 学制期の高等専門教育は、文部省所管の諸学校でだけ行なわれていたのではなかった。最も有力な機関として、明治四年八月設立の工部省の工学寮に起源をもつ工部大学校があった。七年工部学校規則が制定されたが、それによると修業年限は予科学二年、専門学四年で、十年一月に工部大学校となり、イギリスから招聘(へい)された技師たちの指導のもとに、理論研究と実地修練を組み合わせた高度な工学教育を行なっていた。農業関係では五年四月に開拓使が東京に設けた開拓使仮学校があり、北海道の開発が進んだのに伴って八年札幌に移転し、九年から札幌農学校と改称された。九年アメリカから招聰されたW・S・クラークの指導のもとに、アメリカ式の大農経営の理論と実際を教育する専門教育機関となり、予備科三年本科四年で化学・数学・物理学など幅広い自然科学の基礎を授けた。このほか東京には農商務省所管の駒場農学校や東京山林学校などが置かれていた。法学部門では明法寮に起源をもつ司法省の法学校があり、国内諸法の立法事業を兼ねてフランス法を中心とする普通学四年、法律学四年という高い程度の法学教育を行なっていた。

 これらの機関のうち、工部大学校は十八年十二月文部省に移管され、翌年東京大学の工芸学部と合併して、帝国大学工科大学の母体となったし、司法省の法学校も十七年文部省に移管され翌年東京大学法学部に合併された。また東京山林学校と駒場農学校は東京農林学校として合併されたのち、二十三年六月帝国大学農科大学となり、札幌農学校も二十八年四月北海道庁から文部省へ移管され、のちの北海道帝国大学の母体となるなど、後年いずれも文部省の所管に属するようになるが、学制発布後明治十年代を通じて重要な専門教育機関としての役割を果たした。

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