二 教育令・改正教育令と小学校の制度

学制への批判と教育令

 明治五年の学制は欧米の教育制度を模範とした雄大な構想のもとに制定された近代学校制度であったといえる。そして政府は全国民の就学を目標として小学校の普及発達を図り、地方の学事関係者もその意図にそって管内の学事の奨励に努めた。そこで全国に小学校が設立され、就学者もしだいに増加した。しかし当時の日本の社会は、このような近代学校制度を受け入れるにはなおかなり大きな距離があった。学校を設立維持するための経費の負担は当時の貧困な民衆の生活にとってあまりにも大きく、また教育の新しい考え方や内容に対しても伝統的な思想や社会意識からの強い抵抗があった。徴兵令や地租改正などとともに学制の実施もまた明治新政府の一連の政策として民衆の不信不満の対象となり、そのため当時の農民暴動に際して学校焼打ち事件などが各地に発生した。ちょうどこのころ文部大輔田中不二麻呂はアメリカ視察から帰国したが、彼はアメリカの自由主義的、地方分権的な教育行政に強い関心を寄せ、学制の中央集権的な政策を改めて、地方分権的な教育政策への転換が必要であると考えた。このことと関連をもって文部省の首脳が十年から十一年にかけて地方の教育の視察を行ない、西村茂樹・九鬼隆一らの各犬学区巡視報告書が提出されている。これらの報告書はいずれも学制をそのまま維持することは困難であり、民度に応じて学制を改革すべきことを述べている。そこで田中不二麻呂は文部省内に委員会を設け、学制の改革に着手したのである。当時は西南の役後の国庫財政の窮乏や自由民権運動に対処しなければならない政治情勢の変化などもあり、学制の改革は当時の政治的・財政的条件からも強く迫られていたといえる。

 すでに述べたように、学制の改正案として文部省は「日本教育令」を起草し、その趣旨を述べた上奏文とともに太政官に提出した。太政官では、この文部省原案を当時参議で法制局長官であった伊藤博文のもとで審査し、かなり大きな修正が加えられ、さらに元老院での審議修正を経て、十二年九月に「教育令」として公布された。教育令は、全国画一的で中央集権的な学制を改めて、教育の権限を大幅に地方に委譲し、教育の地方管理を基本としており、その条文も学制に比べてきわめて簡略なものであった。教育令では学区制を廃止し、学校の設置や就学義務についても国の統制を緩和して地方の自由にゆだねる方針をとっている。

教育令における小学校の規定

 教育令は明治十二年九月二十九日、太政官布告第四十号をもって公布された。教育令に定められた小学校に関する規定の要点は次のとおりである。

 (一)学制では八か年就学させることを原則としたが、教育令では学齢期間中少なくとも十六か月就学すべきものとした。

 (二)公立小学校は八か年制を原則としたが、四か年まで短縮できるものとし、毎年四か月以上授業すべきものとした。

 (三)学制では学校で教育を受けるものと定められていたが、教育令では学校に入らなくても別に普通教育をうけるみちがあれば就学とみなすこととした。

 (四)学制では学区を設けて小学校を設置することとしていたが、教育令では町村ごとに、あるいは数町村連合して公立小学校を設置すべきものと定めた。また私立小学校があれば別に公立小学校を設置しなくてもよいとした。

 (五)学校を設置する資力に乏しい地方では教員巡回の方法によることをも認めた。

 (六)学制では私立小学校の設置も認可を必要したが、教育令では府知事県令に届出ればよいこととした。

 (七)町村内の学校事務を幹理させるために、町村人民の選挙による学務委員を置くこととした。

 (八)小学校教則すなわち教育課程の全国的基準を定めず、公立学校の教則は文部卿の認可、私立学校の教則は府知事県令に届け出ることとした。

 右のような内容をもった教育令は、学制に対する非難にこたえて教育を地方の実情に即応させようとしたものであった。ところが教育令公布後の教育の実情は、文部省の期待に反して、学制実施によって積み重ねられた初等教育の成果が一挙に崩壊するかと憂慮される状況も現われ、各地に教育の衰退や混乱を見るに至った。そこで教育令に対する批判の声が高まったのである。

教育令への批判と改正教育令

 教育令は学制の中央集権的画一的な性格を改めて、教育の権限を地方にゆだね、地方の自由にまかせる方針をとった。しかし政府のこの緩和政策は学制に対する批判とは異なる新しい批判をよび起こす原因となったのである。教育令によって小学校の設置も就学の義務も著しく緩和されたため、地方によっては学校の建築を中止し、あるいは学校を廃止するものもあり、就学者が一挙に減少する地方も現われた。学制頒布以来、学校の設置と就学の督励に非常な辛苦を重ねてようやく成果を見るに至っていた初等教育が、教育令の公布によって混乱を引き起こし、一挙に衰退するという状況も各地に現われたのである。ことに政府の方針に従って学制の実施に努力してきた地方官をはじめ、学区取締など地方の教育行政関係者は、この混乱と衰退の中で窮地に立たされる結果となった。明治十三年二月の地方官会議においても、この実情が問題とされた。教育令は政府が教育を地方にまかせて自由に放任するものであるとの非難をうけ、激しい批判を浴びることとなったのである。

 文部省においても教育令公布後の教育の実情に対して憂慮し、教育令の改正に着手することとなった。十三年二月河野敏鎌が文部卿に就任し、その翌月教育令制定の直接の責任者であった文部大輔田中不二麻呂が司法卿に転任した。河野敏鎌はただちに教育令改正の準備を進め、同年十二月九日改正原案を太政官に上申した。その後元老院の審議修正を経て十二年十二月二十八日に公布された。これがいわゆる「改正教育令」である。

 改正教育令は、教育令に対する批判にこたえて、国家の統制を強化したものであり、教育令の条文に修正を加えるほか、一部条文の加除を行なっている。修正の主要な点は、教育行政上重要な事項については「文部卿の認可」とし、また府知事県令の権限の強化を図った。このほか小学校の設置や就学の義務に対する規定の強化などが大きな修正である。

改正教育令における小学校の規定

 改正教育令に定められた小学校に関する規定を教育令と比較してその改正の要点を見ると、まず就学義務の強化が注目される。その内容を列挙すれば、1)教育令における小学校就学の最短規定一六か月を改めて三か年とし、毎年少なくとも一六週間以上就学させる義務があるとした。また三か年の課程を終了しても相当の理由がなければ毎年就学すべきものとしている。2)学齢児童の就学を督励するため、就学督責規則を定めるものとし、その規則は府知事県令が起草して文部卿の認可を受けることとした。3)学齢児童を学校に入れず、また巡回授業にもよらないで別に普通教育を授けようとするものは郡区長の認可を要し、郡区長は児童の学業をその町村の小学校で試験させることとした。4)小学校の年限は三か年以上八か年以下とし、授業日数は毎年三二週間以上とし、授業時間は一日三時以上、六時以下とした。

 次に小学校の設置については教育令と比較して地方官庁の権限を強化し、学齢児童の就学にじゅうぶんな数または規模の小学校の設置を規定したことである。すなわち教育令では単に町村ごと、あるいは数町村連合して公立小学校を設置すべきであると規定していたのを改め、「各町村ハ府知事県令ノ指示二従ヒ、独立或ハ連合シテ其学齢児童ヲ教育スルニ足ルヘキ一個若クハ数個ノ小学校ヲ設置スヘシ」と定めている。また巡回授業によって普通教育を行なう場合にも町村は府知事県令の認可をうけることが必要であるとした。なお私立小学校による代用についても府知事県令の認可制とした。

 小学校の教則についても重大な修正がなされている。教育令では公立学校の教則は文部卿の認可、私立学校の教則は府知事県令に開申と規定していたに過ぎなかったが、これを改め、小学校の教則は文部卿の頒布する綱領に基づき、府知事県令が土地の状況を考慮してこれを編制し、文部卿の認可を経て管内に施行することと定めた。この規定に基づき明治十四年に小学校教則綱領が制定されたのである。なお小学校の学科についての規定で「修身」を首位においたことも重要な修正であり、教学聖旨後の文教政策の変化と関連して注目される。

 小学校の教員については、町村立学校の教員は学務委員の申請により府知事県令が任免すること、また町村立小学校教員の俸(ほう)給額は府知事県令がこれを規定して文部卿の認可を経ることと定めた。さらに、各府県は小学校教員を養成するために必ず師範学校を設置すべきことを明確に規定した。

 学務委員についてもその選任方法に重大な修正が行なわれている。教育令では、町村人民の選挙と定められていたが、これを改め、町村人民がその定員の二倍もしくは三倍を薦挙し、府知事県令はその中から選任することとした。また薦挙の規則は府知事県令がこれを起草し、文部卿の認可を経るものとした。学務委員にその人を得なければ教育は振るわず、そのためには適格者を任命する方式に変えなけれ社ならないという意見は河野文部卿の「地方教育視察報告書」に強調されていたところである。

 最後に、小学校に対する国の補助金が廃止されたことである。すなわち国の補助金についての条文が削除されたのである。文部省は学制実施の明治六年以降委托(たく)金、小学校扶助金、小学補助金などの名称で、各府県に補助金を配付してきたが、国庫財政の窮迫等により十四年以降廃止された。

 改正教育令の小学校に関する規定の要点は右のとおりであるが、これは基本事項のみを定めたものであり、文部省は改正教育令公布後これらの規定に基づいて施行上必要な法令を整備した。すなわち文部省はまず改正教育令に基づいて府県で定める諸規則の基準を示している。十四年一月に「小学校設置ノ区域並ニ校数指示方心得」を府県に達したが、これは小学校設置の区域としての学区について定めたものである。学制の学区制は廃止されたけれども、改正教育令後は小学校設置の区域としての学区が新しく設けられることとなったのである。また同時に「就学督責規則起草心得」が定められたが、これは改正教育令における就学義務の強化に伴って府県で定める就学督責規則の基準を示したものである。さらに「学務委員薦挙規則起草心得」を定めているが、これも学務委員の薦挙について府県で定める規則の基準を定めたものである。

 小学校の教育課程の基準については、十四年五月に「小学校教則綱領」が定められた。これは改正教育令により各府県が小学校教則を定めることとなっていたので、その基準を示したものである。これによって小学校は、初等科(三年)、中等科(三年)、高等科(二年)の三段階編制となった。学制では下等小学(四年)、上等小学(四年)の四・四制であったが、その基本となる「小学教則」は十一年五月に廃止されており、その後は各府県または各地方で多様な小学校の課程編成が成立していた。下等小学・上等小学の名称を存続しているもののほか、普通科・高等科とし、あるいは尋常科・高等科とするものもあり、また四・四制のほか、三・三制、三・二・三制、三・三・二制、六・二制など各種のものがあった。そのほか村落小学教則など簡易な課程を別に設ける地方もあり、女児のために女児小学教則を設けるものもあった。右のように多様な小学校の課程編成が小学校教則綱領によって統一化されることとなったのである。小学校教則綱領制定後は各府県で小学校教則を定めて管内に施行したが、それはいずれも綱領に基づいて初等科(三年)・中等科(三年)・高等科(二年)の三・三・二の編制であった。このようにして小学校の編成は全国的に統一化された。

 右のほか教員については、「小学校教員免許状授与方心得」などが定められ、また教学聖旨後の文部省の文教方針に基づいて「小学校教員心得」や「学校教員品行検定規則」も定められている。

教育令の再改正と小学校の規定

 改正教育令後の地方の教育と深い関連をもつものは当時の経済的不況であった。紙幣整理による政府の財政緊縮政策は激しい不況を引き起こし、ことに明治十七年ごろにはこれが頂点に達して会社・銀行の倒産、不況と凶作による農村の窮乏は深刻化した。そこで政府は地方農村の経済的救済策を企図したが、地方財政中に占める教育費の割合はきわめて高く、したがって教育費を節減する方策を講じなければならなかった。そのため教育令の再改正が行なわれることとなったのである。このようにして十八年八月教育令が再び改正されたが、その改正の要点は右の事情によって主として地方の教育費の節減を目的とするものであった。

 再改正教育令に定められた小学校に関する規定の要点を列挙すれば次のとおりである。

 (一)小学校のほかに「小学教場」を設けることができることとした。この小学教場は当時の文部省の説明によれば、「校舎ハ必スシモ別二設ケス社寺ノ廡下若クハ民家ノ一隅等ヲ以テ充用シ従来ノ家塾様ノ体裁ニテモ妨ケナキモノ」としており、簡易な寺子屋風のものをも認め、この制度と巡回授業による方法とをあわせて行なうことによって、資力に乏しい貧寒村僻地でも義務教育の責任を果たすことができ、教育費の節約ができるという考えであった。

 (二)小学校および小学教場は「児童ニ普通教育ヲ施ス所トス」と規定し、教科についての規定を削除した。これによって地方の実情に応じて簡易な教育ができるようにした。

 (三)土地の状況により午前もしくは午後の半日または夜間に授業することも認めた。

 (四)学務委員を廃止し、その職務を戸長に掌らせることとした。これも経費節約のためである。

 (五)学齢児童の就学期間については明確な規定を設けず、単に「普通科ヲ卒ラサル間已ムヲ得サル事故アル二アラサレハ毎年就学セシメサルヘカラス」と定めた。

 以上のように十八年の教育令は、十三年の改正教育令の積極的な教育振興政策を後退させ、地方教育費の節減を図つた。そのため学校数は減少し、就学率も低下した。しかしこの教育令の施行された期間は短く、やがて十九年にははじめて小学校令が制定され、小学校教育にとって新しい時代を迎えることとなるのである。

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