一 学制における小学校の制度

学制の実施と小学校重視の方針

 学制は国民教育組織の全般について定めたものであり、したがって、文部省でもそのすべてをただちに実施できるものとは考えていなかった。そこで学制の実施に当たって、文部省では着手の順序を定め、学制の全面的な実施は将来に期していたと見ることができる。

 先に述べたように、学制の制定に際して文部省が学制原案に添えて太政官に提出した文書の中に学制の着手順序を示したものがある。これによると、将来の事情を考慮し、学制発布後ただちに着手すべき実施の順序として九項目を掲げているが、その第一項に「厚ク力ヲ小学校二可 レ 用事」とあり、第一に小学校の普及充実に努めるべきことがあげられている。これによっても、文部省が学制の実施に当たってまず全国民の就学する小学校を重視し、ここに重点をおいていたことが知られる。これについては次のように解説し、文部省の方針を述べている。

一厚ク力ヲ小学校ニ可用事

 夫レ人ノ学業始メアルニ非サレハ善ク終リアル鮮シタトヘハ高キニ登ルカ如シ若初段ヲ不経マサニイツクヨリユカントスサレハ老成ノ練熟ハ少壮ノ研業ニアリ壮盛ノ進達ハ幼時ノ習学二基ク是文明ノ各国二於テ小学ノ設盛大隆壮ナルユエンナリ皇邦従来ノ風凡ソ人八九歳若シクハ十二三歳ヲ過ク尚学問ノ何物タルヲ不弁漸ク長スルニ及ンテ其営生二汲汲タリトイヘトモ素ヨリ天然ノ良智ヲ其以テ可進達ノ時ニ棄テシメタルヲ以テ志行賤劣求ムル所モ亦随テ得事不能流離落魄自ラ活スル不能者不可勝数タマタマ学フモノハ之ヲ其可学ノ時不学ヲ以テ其基礎已二不立タトヘハ無櫓舟ノ如シ至ル所繋留シ其学遂二上達スル不能コト多シ然ハ則世ノ文明ヲ期シ人ノ才芸ヲ待ツ之ヲ小学ノ教ノ能ク広普完整スルニ求ムルニアルノミ故二力ヲ小学ニ用ユルコト当今着手第一ノ務トス。

 この着手順序から学制発布後しばらくの学校制度整備の方策はそのほとんどすべてが初等教育に向けられたということの理由が明らかにされる。政府は小学校を数年充実してその卒業者が出てから漸次中等教育機関の整備に努め、さらに中等教育を完了したものが多数輩出するに至って、高等教育機関に力を注ぐ計画であったことがうかがわれる。そして事実、学制発布後明治十年代にかけての文教政策はほとんど小学校の設置に集中されていたのである。このように学校が下から築きあげられ、しだいに上の段階に発展させられてゆくのは近代学校の体制をつくる際の定石ともいうべきものであって、維新直後の新政府の文教方策が大学から着手されるようになっていたことと比較して興味深く感ずることである。

学区と学区取締

 学制は学校を設立し学校制度を運営する機構として学区制を採用したのである。それによると全国を八大学区(明治六年国月に七大学区に改正)に分け、さらに各大学を三二の中学区、各中学区を二一〇の小学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を各一校設けることとした。小学区は人口約六〇〇人を基準とし、ここに小学校一校を設けるものとしている。このように学区制によって全国に小学校を設立しようとしたところに学制の大きな特色がある。右の規定によれば、全国に五万三、七六〇校の小学校が設けられるはずであったが、後にも述べるように、この規定どおりに小学校を設立することは当時の実情からしても不可能であった。しかし大学区・中学区・小学区の制度が実施され、学制実施後短期間に全国に多数の小学校が設立されたことは当時において注目すべきことであった。

 学区は学校設置の基本区画であるとともに、教育行政の単位でもあった。そこで中学区には学区取締を置くこととし、各中学区に一〇人ないし一二、三人をおいて、各学区取締は二〇ないし三〇の小学区を分担し、これを指導監督させることとした。学区取締には土地の名望家を選んで地方官が任命することとし、担当学区内の就学の督励、学校の設立・保護、経費のことなど学事に関するいっさいの事務を担任するものとしている。

小学校の種類と教育課程

 学制の規定によれば、小学校は「教育ノ初級」で、「人民一般必ス学ハスンハアルへカラサルモノトス」と定め、これを尋常小学・女児小学・村落小学・貧人小学・小学私塾・幼稚小学に区分した。

 尋常小学は小学校制度の本体をなすものであって、上下二等にわかれ、男女ともに必ず卒業すべきものとし、下等小学は六歳から九歳まで、上等小学は十歳から十三歳までとしている。その教科は下等小学では綴字・習字・単語・会話・読本・修身・書牘(とく)・文法・算術・養生法・地学大意・窮理学大意・体術・唱歌の一四教科であり、上等小学はこのほかさらに史学大意・幾何学大意・罫(けい)画大意・博物学大意・化学大意・生理学大意を加え、土地の状況によっては、外国語の一、二・記簿法・図画・政体大意を加えうることとした。

 女児小学は尋常小学の教科のほかに女子の手芸を教え、村落小学は僻(へき)遠の農村において教則を少し省略して教えるものとし、多くは夜学校を設け年齢の長じたものにも余暇に学習させようとした。貧人小学は貧者の子弟を入学させるもので、富者の寄進によるため、仁恵学校とも称し、小学私塾は小学の教科の免状を持つものが私宅で教えるものであり、幼稚小学とは六歳までの男女に小学入学前の予備教育を施すものとした。尋常小学の教科の順序を踏まずに小学の学科を授けるものを変則小学といい、私宅でこれを授けるものを家塾といった。

 学制では、下等小学(四年)、上等小学(四年)を基本とし、その教科をも示したので、学制実施とともに各府県ではまずこれを設置することに努めた。またその教育課程の基準として文部省は明治五年九月に「小学教則」を公布した。その内容、実施の状況等については後に述べることとする。

小学校の経費

 小学校の設立・維持には多額の経費を必要とし、学制の実施に当たってこれが重大な問題であった。ところがそのための国庫補助金がきわめて少額であり、大部分を「民費」により、地方住民の負担であったことは先に述べた。学制には、第八九章の但書に、「教育ノ設ハ人々自ラ其身ヲ立ルノ基タルヲ以テ其費用ノ如キ悉ク政府ノ正租二仰クヘカラサル論ヲ待タス」とあり、学校の経費は地方住民の負担、すなわち、受益者負担の原則がとられている。そのため大部分の経費は授業料でまかなうこととし、高額の授業料を徴収することとした。学制の規定によれば小学校の授業料は月額五十銭を相当とし、ほかに二十五銭の一等を設けている。ただし相当の授業料を納めることのできない者は戸長里正がこれを証明し、学区取締を経てその学校の許可を受けることとしている。また一家で二人の子弟を学校に入れている者は、戸長もしくは里正の証明を待たずに、その旨を述べて下等の授業料を納めればよく、三人以上ある時は二人のほかは授業料を出すに及ばないとしている。しかし学制が定めた月額五〇銭は、当時にあってはきわめて高額であり、この規定を実施することはほとんど不可能であった。実情としては、少額の授業料を徴収し、貧民に対しては無料とする場合も多かった。国庫負担金も授業料収入も少額であったため、結局、学制発足当初の小学校の運営は主として学区内集金と寄附金によってまかなわれたといってよい。明治六年の公学費統計によれば、文部省補助金は全体のわずか一二%余を占めるにすぎず、これに対して「学区内集金」すなわち人民の貧富の程度等に応じて課した各戸割当金が約四三%を占めて最も多く、その他の寄附金が約一九%であり、授業料収入は約六%であった。このように過重な民費負担に対する民衆の不満は大きく、教育内容に対する不信などと合わさって学制に対する批判が高まっている。

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