一 幕末期の教育

近世の教育から近代の教育へ

 明治維新後のわが国近代の教育は、その源をさぐれば江戸時代に遡る。近世封建社会の中で教育の近代化がしだいに進められていたのである。特に幕末開港後は近代化の傾向が顕著となり、これが明治維新後の文明開化の思潮とともに一挙に開花したものと見ることができる。明治維新後の近代教育は、欧米先進国の教育を模範とし、その影響の下に成立し発達した。その意味で、わが国近代の教育は近世の教育と明らかに区別され、そこには教育の一大転換を認めねばならない。

 しかし、他面から見れば、わが国の近代の教育の内容は、必ずしも欧米の近代教育と同一であるとはいえない。そこには江戸時代までの長い歴史の過程を経て形成された生活と思想があり、文化と教育の伝統が継承されている。その意味で、わが国近代の教育は近世の文化と教育を基盤とし、その伝統の上に成立したものといえよう。明治維新後において、わが国の近代化が急速に進められ、短期間に高度な近代社会を成立させることができたことについても、その背後に幕末において、わが国の文化と教育が高い水準に達していたことを見のがすことができないのである。その意味において、江戸時代特に幕末の教育について考察しておくことが必要であろう。

 江戸時代には封建社会の構造に基づいて、士・農・工・商の身分制が確立しており、特に武士と庶民は厳格に区別され、大きく二つの階層に区分されていた。このことは江戸時代の社会生活と文化を全般的に特色づけでいたが、教育についても基本的には武家の教育と庶民の教育が、それぞれ独自の形態をとって成立していたのである。

 江戸時代の武家は、近世社会の支配者であり、また指導者としての地位を保っていたのであり、したがって、それにふさわしい文武の教養をつむべきものと考えられていた。そのために設けられた教育機関が「藩校」であった。他方庶民は日常生活に必要な教養を求めた。そのために、「読み」・「書き」を主とする簡易な教育機関として「寺子屋」が成立している。藩校と寺子屋は江戸時代後期、特に幕末にかけて著しい発達を見た。そして近代の学校の主要な母体となったのである。このように武家の学校(藩校)と庶民の学校(寺子屋)が別個に設けられ、二系統の学校が併立して、それぞれ独自の発達を示したところに近代と異なる近世の教育の特質が認められる。しかし、江戸時代にはその他の教育施設も発達し、また幕末にはそれぞれの教育の近代化が進められていた。そして武家の教育と庶民の教育がしだいに接近し、両者の融合化も行なわれて、近代の教育へと近づいているのである。

武家の教育

 江戸時代の武家は、近世封建社会において、その地位を保持する上からも、学問を学び教養をつむべきものとされ、文の教育がしだいに組織化された。まず藩主は、自らの教養を高めて藩の統治にあたるために、儒学者や兵学者を招いて講義させ、重臣たちにもこれを聴講させた。また、一般の藩士にも学問を奨励し、武芸とともに文の教養をつむことを求めた。江戸時代の学問は、幕府の方針に基づいて儒学を中心とし、中でも朱子学が正統として尊ばれた。中世の武家は、寺院において僧侶を師として学問修行に努めたが、近世の武家は、城下に学校を設けて儒学者を師として学問を学んだのである。この学校が藩校(藩学)である。藩校は、江戸時代の初期には一部の藩に設けられていたに過ぎなかったが、中期以後は急速に普及して小藩にも設けられ、二百数十校に達している。

 江戸時代の最高学府として、諸藩の藩校の模範ともいうべき地位を占めていたものは、幕府が江戸に設けていた昌平坂学問所(昌平黌)であった。その起源は、将軍家光が学問奨励のために儒臣林羅山(道春)に与えた上野忍岡の地に設けられた孔子廟であり、その学問所である。その後、将軍綱吉の時代にこれを湯島に移して聖堂を建て、孔子を祀るとともにここを教学の中心とした。これを湯島聖堂と称し、また付近の坂の名称にちなんで昌平坂聖堂とも呼ばれた。当時は、孔子を祀る聖廟を主体とし、林家の家塾ともいうべき学問所がこれに附属する形態であり、これを総称して聖堂と呼んだ。これがのちに「昌平坂学問所」あるいは「昌平黌」と呼ばれるようになったのである。

 湯島聖堂は幕府の保護をうけ、半官半私の教育機関であったが、やがて幕府は直轄の文教施設の必要を認め、寛政九年(一七九七)、聖堂の学問所を直轄の学校とした。これによって、官学としての昌平坂学問所(昌平黌)が確立され、学問所(学校)を主体として聖廟はこれに附属する形となった。昌平坂学問所が幕府の直轄となったために、従前の林家の家塾としての性質を改め、塾生を廃してもっぱら幕府の直参、すなわち旗本・御家人の子弟を教育することとなった。しかし、その後しだいに拡充され、広く諸藩の家臣等にも教育の道を開いた。昌平坂学問所は、寛政期の学制改革以後幕府の教学の中心として、また当時の最高学府として隆盛となったが、幕末には江戸幕府の衰退により、また洋学の発達等によって、かってのような高い権威を保ち続けることはできなかった。なお、昌平坂学問所の主宰者は「大学頭」(だいがくのかみ)と呼ばれたが、これは将軍綱吉が当時の聖堂の主宰者であった林信篤(鳳岡)を大学頭に任じたことに始まり、その後幕末まで林家が引き続いて大学頭に任ぜられ、幕府の学問所を統轄する地位にあった。

 昌平坂学問所は江戸時代において藩校の模範ともいうべき地位を占め、これにならって藩校を設立し、整備した藩も多く、また昌平坂学問所の出身者を儒臣として招き、あるいは藩士の中から俊秀を選んでここに留学させた藩も多かった。その意味で、昌平坂学問所は最高学府であるとともに、藩校の教員養成の機能をも果たしていたといえる。

 藩校には漢学中心の家塾や私塾に起源をもち、後に藩の直轄学校、すなわち藩校として拡充・整備されたものが多い。教育の内容もしだいに拡充され、漢学のほか国学(皇学)などをおき、また幕末には洋学や西洋医学を加えるものも多くなっている。藩校の教科目は、幕末になるに従って一般に増加している。さらに、武芸の教育も藩校と関連をもって行なう傾向が強くなり、藩校内に文と武の施設をあわせもつものも多くなっている。このように幕末における藩校は藩士のための総合的な教育機関としての性質をもつに至っている。

 藩校の教育は漢学特に儒学が中心であったが、当時における漢学は一般に経・史・詩文を学ぶべきものとされ、著名な経書・史書・詩文集などが教科書として使用された。儒学の教科書としては孝経、四書(大学・中庸・論語・孟子)、ついで五経(易経・書経・詩経・春秋・礼記)などが一般に重んぜられた。また入門書としては千字文や三字経なども用いられた。朱子学派では小学や近思録も四書や五経と並んで尊ばれた。

 幕府は、朱子学者である林羅山を登用し、これを継承する林家は朱子学を祖述したため、昌平坂学問所では朱子学を正統とした。しかし、江戸時代には儒学の諸学派が発達し、朱子学以外の学派に属する儒官も多かった。これに対して、寛政二年(一七九〇)のいわゆる「異学の禁」以後は朱子学を正学とし、他の学派を異学とする幕府の方針が明示され、諸藩の藩校においても朱子学派が盛んとなっている。

 藩校の中で創立が古く、また規模も大きく著名なものには名古屋藩の明倫堂、会津藩の日新館などがある。名古屋藩の明倫堂は、藩祖徳川義直の時代、会津藩の日新館は、藩祖保科正之の時代に起源をもち、藩主の保護のもとに設けられた儒臣の家塾が後に藩の直轄学校、すなわち藩校として整備・拡充されたものである。その発達の過程は昌平坂学問所と類似しており、その点でも藩校の代表的な例といえよう。また岡山藩主池田光政によって設立された花畠教揚も創立の古い藩校である。藩校は元禄時代から増加し、江戸時代中期以後急速に発達した。その中で著名なものを創立年代順に列挙すれば、米沢の興譲館、佐賀の弘道館、和歌山の学習館、萩の明倫館、仙台の養賢堂、熊本の時習館、鹿児島の造士館、金沢の明倫堂などがあり、創立の時代はやや下るが、このほか注目すべきものには水戸の弘道館などがある。

 幕末の藩校は各藩の藩士の教育機関として充実・整備され、同時にその教育内容はしだいに近代化の過程をたどっている。藩士に対する就学の義務制は早くから実施されたが、さらに庶民の入学を許すものも増加している。また学習段階による等級制も成立し、教育内容に洋学関係の科目を加えるなど、近代学校の萌(ほう)芽を見ることもできる。藩校は廃藩置県後廃止されたが、学制発布後の中等・高等諸学校の直接または間接の母体となった。また、藩校で養成された人々が明治維新後の近代日本を建設する中心的な役割を果たすこととなったのである。

庶民の教育

 江戸時代の庶民は、封建社会の構造に基づいて、庶民としての道徳が要求され、また庶民の日常生活に必要な教養をつむべきものと考えられた。江戸時代の庶民の教育は、一般に家庭生活および社会生活の中で行なわれた。当時は、徒弟奉公や女中奉公などの奉公生活、また若者組などの集団生活が広く行なわれ、その中での教育も重要な意味をもっていた。また社会教育施設としての教諭所も発達し、心学講舎や二宮尊徳の報徳教なども庶民教育の上に大きな役割を果たした。しかし、江戸時代中期以後は寺子屋が発達し、庶民の子どもの教育機関としてしだいに一般化して、重要な位置を占めることとなった。寺子屋は、近代の学校教育との関連からも特に注目すべきものである。

 寺子屋は、庶民の子どもが読み・書きの初歩を学ぶ簡易な学校であり、江戸時代の庶民生活を基盤として成立した私設の教育機関である。寺子屋の起源は、中世末期にまで遡(さかのぼ)り、それは、中世における寺院教育を母体として発生したものと見ることができる。「寺子屋」といい、「寺子」という呼称もここから発生したものといえる。寺子屋は江戸時代中期以後しだいに発達し、幕末には江戸や大阪の町々はもとより、地方の小都市、さらに農山漁村にまで多数設けられ、全国に広く普及した。明治五年に学制が発布され、その後短期間に全国に小学校を開設することができたことは、江戸時代における寺子屋の普及に負うところがきわめて大きいといえるのである。

 寺子屋の教師は師匠(手習師匠)と呼ばれ、生徒を寺子といった。寺子屋の師匠の多くは同時に寺子屋の経営者でもあった。その身分について全国的に見れば平民が最も多く、武士・僧侶がこれに次ぎ、そのほか神官・医者などが経営する寺子屋もあった。寺子屋という名称から僧侶が多いと考えられがちであるが、実際には平民が多くなっているのは、江戸時代後期における庶民教育の普及の結果であるといえよう。寺子屋の師匠(経営者)の身分は地方によっても異なっており、平民に次いで武士より僧侶の多い地方もあり、平民より武士の多い地方もあった。

 寺子屋は藩校のように東洋の古典などによって高尚な学問を授けるものではなく、庶民の日常生活に必要な実用的・初歩的な教育を行なう施設であった。寺子屋の学習の大部分は「手習」(てならい)であり、それに読物(よみもの)が加わった。江戸時代の町人の生活と密接な関連をもつ「算用」(さんよう)すなわちそろばんは、多くは家の生活の中で、または「そろばん塾」で学んだ。しかし幕末になると読・書・算の三教科をあわせ授ける寺子屋も多くなり、この点でも学制以後の小学校に近づいている。寺子屋の手習は、まず「いろは」・数字などから始め、十干・十二支・方角・町名・村名・名頭(ながしら)・国尽(くにづくし)などを学んだ。初めは師匠が書いて与えた「手本」(てほん)を見ながら書き習ったが、初歩の手習が終わると、次には「往来物」(おうらいもの)などを学んだ。

 往来物は手習の手本でもあり、また同時に読物の教科書であった。 往来物は往来本ともいい、わが国で著作された教科書である。わが国では、古くから中国の有名な古典、すなわち儒学の経書や史書・詩文集、さらに仏教の教典などを教科書として用い、またわが国の古典も教科書として使用された。しかし、往来物はこれらの典籍と異なって、本来教材としての目的をもってわが国でつくられた教科書である。往来物はその名が示すように、最初は往復の手紙文を集めたものであった。その後さまざまな内容の教材がその中に盛り込まれ、さらにこれが分化し独立して各種の往来物が生まれたのである。

 往来物の源は平安時代末期にまで遡るが、中世においては主として武家の教科書としてつくられ、近世になると庶民のための教科書として発達したのである。往来物の中でも有名な「庭訓(ていきん)往来」は、中世において武家を対象としてつくられた往来物であるが、江戸時代にも代表的な往来物として広く用いられた。また、江戸時代には庶民の生活を背景として新しく多数の往来物がつくられた。中世の往来物は漢文体・候文体であったが、近世の往来物には庶民に親しみやすいかな交り文のもの、さらに韻文体のものなどもあらわれている。

 江戸時代の往来物を内容の上から見ると、まず手紙文や日常用語を集めたたぐいの往来物が多い。これは一面では中世からの伝統であるが、また寺子屋では庶民の日常生活に必要な手習を主としたためであるといえる。次に地理関係の往来物が多数つくられているが、これは江戸時代における経済生活の発展や交通の発達によって庶民の生活圏が拡大され、地理上の知識が要求されたためであろう。「国尽」や「東海道往来」(都路往来)などはその代表的なものである。また「商売往来」・「百姓往来」・「番匠往来」などのような産業関係の往来物も多数あらわれている。これらは庶民の産業生活と直接関係をもつ教材を内容とする往来物であり、そこに近世教育の特色が端的に示されているといえる。さらに教訓的往来物も多いが、これらは近世封建社会における庶民道徳を内容とするものであり、ここにも近世教育の特色が見られる。当時広く用いられた「実語教」や「童子教」も同様な性質のものであった。

 江戸時代には町人の経済生活と関連して、計算すなわちそろばんの教育が手習とともに重要な位置を占めていた。そのための教科書としてつくられたのが「塵劫記」(じんこうぎ)である。塵劫記は江戸時代の初期につくられたそろばん書(珠算教科書)であるが、その後「何々塵劫記」と題した多数のそろばん書がつくられ、塵劫記といえば珠算教科書を意味するほどになっている。幕末において計算の教育が庶民の間に広く普及していたことは、これによって庶民の計算能力が培われ、近代において筆算が導入される際にも、その基礎がつくられていた点において、大きな意義を認めねばならないであろう。

女子の教育

 江戸時代の社会は武家社会の主従関係に基礎をおいていたが、さらにこれが家庭内にも及び、親子の関係、夫婦の関係も主従の関係と同様に見なされていた。そのため女子の教育は、このような人間関係を基礎とし、男子の教育と全く区別して考えられていた。この点では庶民の場合にも武家とほぼ同様であった。江戸時代には、女子は男子のように学問による高い教養は必要がないものと考えられ、女子は女子としての心得を学び、独自の教養をつむべきものとされた。女子の教育は主として家庭内で行なわれ、家庭の外でなされる教育も、お屋敷奉公や女中奉公を通じて行儀作法などを学ぶことが重視され、学校教育のような組織的な教育の必要は認められなかった。上流の女子は手習や読書を学び、さらに古典文学や諸芸能を学ぶ者もあったが、それは一部の女子であり、一般には近世封建社会における家庭の中の女子として、また妻としての教養が重んぜられた。

 江戸時代には女子のための教訓書が多数あらわれている。「女大学」をはじめ、「女論語」・「女訓孝経」・「女今川」・「女実語教」などのように、当時有名な教訓書に特に「女」の語を冠したものが多いことも、女子の教育を男子の教育と区別して独自なものと考えていたことを物語っている。このような女子教育観は明治維新後も継承され、近代の学校教育の中にも根強く残されている。また女子は男子とちがって学校教育を必要としないとする伝統的な考え方は、明治維新後も長い期間にわたって女子の義務就学率が男子に比べてはるかに低かったこと、またその後も上級学校への進学率が男子よりも低かったことと関連をもっていると考えられる。

 右に述べたところは江戸時代の女子教育の一般的傾向であるが、幕末には寺子屋に学ぶ女児もしだいに増加し、また女子のための独自な教養施設も設けられている。しかし、寺子屋への就学者は男児に比べてはるかに少なく、また女子教育の内容は、裁縫・茶の湯・活花あるいは礼儀作法などの女子的教養、すなわち女の「たしなみ」が重視され、男子の教育とは異なるものがあった。このような実情ではあったが、幕末において、女子が家庭の外で組織的な教育をうける形態がしだいに発達していることは、近代の学校教育に近づいていることを示すものである。

郷校(郷学)

 武家の藩校と庶民の寺子屋は江戸時代の代表的な学校であったが、江戸時代にはこのほかにも種々の教育機関が設けられていた。その一つとして注目すべきものは郷校(郷学)である。従来郷学あるいは郷校と総称されているものの中には大別して二種のものがある。その一つは藩校の延長あるいは小規模の藩校ともいうべきもので、藩主が藩内の要地に設け、あるいは家老・重臣などが領地に藩校にならって設けたものである。この種の郷学は武家を対象としている点でも、また教育の内容から見ても藩校と同類のものである。他の一つは、主として領内の庶民を教育する目的で藩主や代官によって設立されたものである。この種の郷校は庶民教育機関としては寺子屋と同類のものであるが、幕府や藩主の保護・監督をうけていた点で寺子屋と区別される。また、郷校には武士のほかに庶民の入学をも認める両者の中間的なものもあった。郷校の中には、岡山藩主池田光政によって設立された手習所を統合した閑谷(しずたに)学校(閑谷黌)などがあり、この郷校は、創立も古く規模も宏大で特に著名である。幕末から明治維新にかけて設けられた郷校には民間有志の設立経営によるものも多く、この種の郷校あるいは郷学校は、その経営形態からも近代の小学校の前身と見るべきものである。

私塾の発達

 江戸時代の教育機関として藩校・寺子屋などとともに注目すべきものは「私塾」である。私塾は一般に教師の私宅に教場を設け、学問や芸能を門弟に授ける教育施設であった。私塾は本来古代・中世の秘伝思想の流れを受けて、師弟の緊密な人間関係に基づき、特定の学派や流派の奥義を伝授することを目的として設けられたものである。しかし、近世においては、時代の推移とともにしだいに公開的性格をもち、近代の学校へと発展する条件をそなえるに至っている。

 幕末の私塾には、漢学塾・習字塾・算学塾(そろばん塾)・国学塾・洋学塾などがあり、またこれらを合わせ授けるものもあって、各種の私塾が発達している。幕府は漢学、特に儒学を教学の中心とし、学問を奨励したので、多数の儒学者があらわれ、儒学を主とする漢学塾が江戸時代を通じて隆盛であった。有名な儒学者の開設した塾には多くの門弟が集まり、すぐれた人材を輩出して歴史上にその名をとどめている。古くは陽明学派の中江藤樹の「藤樹書院」、古学派の伊藤仁斎の「古義堂」(堀川塾)、また江戸時代後期には広瀬淡窓の「威宜園」、幕末には吉田松陰の「松下村塾」などがあり、それぞれの特色によって広く知られているが、そのほか幕末には全国各地に多数の漢学塾が設けられていた。漢学塾は明治維新後は衰微したが、その内容をなす儒学思想は、近代日本の教育思想および教育内容の中に強い伝統をもって継承されている。

 習字塾やそろばん塾などのように、主として庶民を対象とする私塾は幕末にかけて広く設けられたが、これらは寺子屋と区別しがたいものも多く、寺子屋とともに学制発布後の小学校設立の母体となった。幕末維新期の尊皇思想と関連をもって国学(皇学)塾も盛んとなったが、当時は国学とともに漢学を合わせ授ける私塾も多かった。また幕末から維新期にかけて欧米文化の導入とともに洋学塾も発達した。洋学塾については後に述べる。

 幕末の私塾は、幕府や藩などの制度によるものではなく、自由に開設されたものであり、また、藩校や寺子屋とちがって身分上の差別も少なく、多くは武士も庶民もともに学ぶ教育機関であった。幕末の私塾は、近代の学校の一つの源流をなすものであり、特に近代の私立学校の前身あるいは母体として重要な意義をもっている。

洋学および洋学校の発達

 幕末から明治維新期にかけて「洋学」が急速に発達普及したが、これによって欧米の近代文化がわが国に導入され、教育の近代化が進められた。洋学の発達とともに多くの洋学校や洋学塾が設けられた。これらの洋学校や洋学塾は、学制発布後の中等教育機関の源流をなし、また直接の母体となった。その意味で、幕末維新期における洋学および洋学校の発達は、近代の学校教育と重要な関連をもっている。

 洋学は、広く西洋の学問を意味するものであったが、江戸時代の洋学は最初はオランダ語による学問、すなわち「蘭学」であった。このことは幕府の鎖国政策によって西洋との接触はながい間オランダに限られていたためである。しかし、幕末開港後は欧米諸国との接触が深まり、またその重圧を感ずるようになると、外交のほか国防軍事等の見地からも各国語による学問の必要にせまられた。そこで蘭学に始まった洋学は幕末になると英学をはじめ、フランス学・ドイツ学などを含むものとなった。中でも英学が最も盛んで、洋学の大勢は「蘭学から英学へ」と動いていった。また洋学の内容も、航海・測量・造船・砲術など国防軍事関係の学問・技術が重視されるようになった。しかし、当時の洋学は、専門学よりもむしろ専門技術を学ぶ基礎としての語学が中心であった。

 幕末の緊迫した情勢の中で、幕府が洋学の中心機関として初めて「蕃書調所」(蕃書調所)を設置したのは安政三年(一八五六)であった。その源流は、江戸幕府が早くから設けていた「天文方」(てんもんがた)であるが、ここでは天文暦道のほか、のちには測地、地図の作製、洋書の翻訳、さらに海外事情の調査、外交事務なども取り扱い、洋学方面を総括する幕府の重要な機関となっていた。幕府は対外関係の緊迫化、外交事務の重要性の増大と関連して、洋学の中心機関として「洋学所」を設置することとした。安政二年(一八五五)、洋学所頭取を任命し、また、洋学者を挙用して設立の準備を進め、翌三年(一八五六)二月に至って洋学所を「蕃書調所」と称することとし、ここにはじめて蕃書調所が幕府の洋学機関として正式に設立されたのである。蕃書調所ではただちに生徒を募集し、幕臣の子弟を入学させて安政四年一月から授業を開始している。当時、生徒は一九一人であったという。その後蕃書調所は文久二年(一八六二)五月、「洋書調所」と改称、さらに翌三年八月には「開成所」と改称されて幕末に至っている。

 蕃書調所には当時の高名な洋学者(蘭学者)が挙用され、最高水準の陣容を整えていた。当初の教授職には箕作阮甫・杉田成郷、教授手伝には高畠五郎・東条英庵・川本幸民等、さらに同年中に市川斎宮らが任ぜられた。その後、幕末の開成所に至るまでに教官となった人々には、西周助(周)・津田真一郎(真道)・杉田玄端・村上英俊・箕作秋坪・加藤弘蔵(弘之)・箕作貞一郎(鱗祥)・神田孝平・柳川春三等をはじめ、幕末から明治初期に活躍した著名な人々が名を連ねている。

 蕃書調所は、創設の当所は蘭学中心で教官もすべて蘭学出身の人々であったが、開港以後は欧米各国語が導入された。中でも英学が最も盛んで生徒数も多かった。また各国語学とともに、近代科学や技術を学ぶための専門諸学科がしだいに新設された。開成所は幕府滅亡とともに閉鎖されたが、明治維新後は新政府によって復興され、開成学校・大学南校等を経て東京大学創立の母体となった。

 幕末の洋学機関として、蕃書調所と並んで重要な意義をもつものに長崎の「海軍伝習所」がある。この伝習所ではオランダ人から直接科学技術の教授をうけた。長崎海軍伝習所は、ペリー来航後まもなく、幕府が長崎奉行を通じてオランダから艦船の寄贈をうけ、また教官隊を招聰して、航海術・砲術等の伝習をうけるために設けられたものであった。安政二年(一八五五)に第一回の伝習が行なわれ、次に安政四年(一八五七)から第二回の伝習が行なわれている。この伝習所は、安政六年(一八五九)に閉鎖されており、設置の期間は短かったが、当時においてきわめて重要な役割を果たした。

 海軍伝習所ではオランダ語学をはじめ、航海術・造船学・砲術・測量術・機関学などを教授し、またその基礎として西洋数学、さらに天文学・地理学なども授けられた。ここには幕府関係者のほか、諸藩からも多数の者が参加し、オランダ人から直接伝習をうけた。これらの人々の中から、勝麟太郎(海舟)をはじめ、幕末維新期の指導的人材を出している。長崎海軍伝習所のほか、当時の洋学の発達と関連して注目すべきものには、幕府が安政四年(一八五七)、築地の講武所内に設けた「軍艦操練所」などがあった。

 幕府の洋学について、右には主として語学および専門諸科学等について述べたが、西洋医学は洋学の中でも独立の分野として早くから発達していた。蘭学はもともと医学を中心として発達し、わが国の西洋医学は蘭学者によって始められたのである。幕府の医学館は漢方医学の機関であり、ここには西洋医学を取り入れなかった。そこで、西洋医学の教育は最初は民間の塾において行なわれていた。幕府が「西洋医学所」を設けたのは文久元年(一八六一)であるが、その源は安政五年(一八五八)に蘭医伊東玄朴等が江戸に設けた種痘所(種痘館)である。これが万延元年(一八六〇)、幕府直轄の「種痘所」となり、翌年「西洋医学所」と改称された。その後西洋医学所は、文久三年(一八六三)に「医学所」と改称された。その間、文久二年に緒方洪庵が頭取に挙用され、その没後松本良順が頭取となって医学所は整備され、当時における西洋医学の最高機関として幕末に至っている。明治維新後は新政府によって復興され、開成所とともに、大学創設の母体となった。

 江戸とともに、長崎が幕末における西洋医学の中心であった。長崎ではオランダから招かれた第二次海軍伝習隊とともに来日したオランダ軍医ポンペ(Pompe Van Meerdervoot)によって西洋医学の伝習が始められ、安政四年(一八五七)に開講している。これが長崎の「医学伝習所」であり、そこには後に医学所頭取となる松本良順等が学んでいる。ここでは西洋医学のほか、化学・物理学・生理学等も授けられ、またオランダ語の教育も行なわれた。その後西洋式病院「養生所」および医学所が設立された。ポンペ帰国後は後任としてボードウィン(A.F Baudin)が着任した。当時は諸藩から学ぶ者も多く、長崎の医学所(養生所)は隆盛となっている。元治元年(一八六四)、物理・舎密(せいみ)(化学)の研究所として「分析究理所」が設立され、その教官としてハラタマ(K.W.Gratama)が招かれた。このころから長崎の医学所は、病院および分析究理所をあわせて「精得館」と呼ばれた。明治維新後は長崎府所管となって「医学校」と改称され、次いで文部省所管の「長崎医学校」となった。

 江戸時代の長崎はオランダを通じて西洋文化を摂取する窓口であり、洋学者の多くはまずここで蘭学を学んだ。幕末には蘭学のほか、英学その他の外国語の教育機関も設けられている。安政五年(一八五八)、「英語伝習所」が設けられ、文久三年(一八六三)には「洋学所」あるいは「語学所」と称し、英語のほか、蘭・仏・露・清の諸国語および西洋数学を授けた。その後「済美館」と改称したが、ここではフルベッキ(Guido F.Verbeck)等の外人教師が教授にあたっており、明治維新以後活躍する著名な人々がここに学んでいる。維新後は長崎府の「広運館」となり、次いで文部省所管となった。

 右には主として幕府関係の洋学校や西洋医学校について述べたが、幕末維新期には、諸藩においても洋学および洋学校が発達した。佐賀藩、薩摩藩、信州の松代藩、また水戸藩などは早くから洋学を導入したことで有名であるが、初期の洋学は好学の藩主によって奨励され発達したものであった。しかし、幕末になると多くは軍事上または実用上の見地から洋学が奨励され、洋学校が設立された。たとえば薩摩藩では、長崎の海軍伝習所に多くの藩士を派遣して軍事科学を学ばせているが、西洋式近代産業技術の導入にも力を注いだ。また、加賀藩(金沢)では安政元年(一八五四)、西洋砲術を導入するために「壮猶館」を設けたが、これが洋学校として発展した。山口藩(萩)でも藩校明倫館に早くから洋学を取り入れたが、安政三年(一八五六)には独立の「西洋学所」(博習堂)を設け、航海・砲術のほか科学一般を授けている。福井藩では安政四年(一八五七)に藩校明道館内に「洋学所」(洋書習学所)を設け、藩士に西洋兵学および洋書を学ばせている。その他の諸藩でも、藩校に洋学関係の科目を加え、あるいは独立に洋学校や西洋医学校を設けている。

 幕末には時代の動きを反映して、民間の洋学塾も発達した。江戸時代の洋学は蘭学に始まり、オランダ医学が中心であった。そこで蘭方医学の塾が早くから設けられ、江戸では伊東玄朴の「象仙堂」、大阪では緒方洪庵の「適々斎塾」(適塾)などが特に有名である。これらは本来蘭方医学の塾であるが、同時にオランダ語を授ける蘭学塾であった。また幕末には近藤真琴の「攻玉塾」のように科学技術方面の洋学塾も設けられている。

 以上のように、幕末には江戸および長崎を中心として、幕府関係の洋学機関が発達し、諸藩でも積極的に洋学を取り入れるものも多く、また民間でもしだいに洋学が発達している。このようにして明治維新後急速に展開される近代教育への準備がなされていたのである。

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