(四) 学術・文化の国際交流

 第二次世界大戦後における学術・文化の国際交流は著しく進められ、戦前には考え及ばなかったほどの発展を示している。占領下においては日米間の交流が最も盛んで、研究者・教員が多数招待されて渡米している。また、アメリカ合衆国が設定している資金によって来日する学者や教育関係者も増加した。平和条約成立以後は多くの国と文化協定を結んだので、各国との間の人物の相互交換がしだいに多くなった。アメリカ合衆国との交流の新しい形として科学協力に関する日米委員会が設けられ、また、昭和三十七年には文化および教育の交流に関する日米合同会議も始められ、その結果人物交流、語学教育、大学の提携などについての活動が活発になった。わが国側からの交流としては、日本学術振興会が中心となって外国人研究員を受け入れたり、外国人の研究者に奨励金を与えて研究に専念させることも行なわれた。教職員海外派遣については三十四年から毎年海外の教育を視察させて国際的視野に立つ識見をもたせる方法をとっている。

 文部省は国際交流の事業として国費による外国人留学生を招致する制度を二十九年から始めて多数の東南アジア留学生を受け入れている。また、開発途上にある国の人的資源の開発と質的向上のための技術協力を行なってきている。このため海外協力事業団をつくって援助を強化し、アジア・アフリカ諸国へ協力者を日本から派遣し、研修生をこれらの地域から受け入れている。学術の国際交流については日本学術会議が国際学術連合に参加して、わが国の学界が国際的な連絡協力の体制をとるように努めている。国際地球観測年の活動に参加したり、南極地域観測に参加したことなどはすべて国際的な協力による学術活動であって、このほか多くの学術協力に参加し、観測そのほかの共同研究の成果によって、世界の学術研究に寄与している。近年世界各国において開催されている国際的な学会や研究集会に多くの日本人研究者が参加して学術協力に努めている。また、国際学会がわが国において開かれることも多くなり、このような機会には多数の外国人学者が来日して学術協力の実をあげている。

 戦後における教育・学術・文化の国際協力で最も多くの期待がかけられ、日本を世界の舞台に登場させて、敗戦からの脱出に力を与えたのはユネスコ活動である。二十七年にユネスコ活動に関する法律を公布し、この活動の目標や組織を定め、日本ユネスコ国内委員会を発足させた。委員会は、ユネスコ活動に対する助言・企画・連絡・調査のための事務を担当する機関として文部省に設けられた。この委員会を中心として国と地方教育機関によるユネスコ活動が行なわれ、ユネスコ協会も設けられて国際理解と協力の活動を行なっている。ユネスコ活動の一つとして国際理解のための教育内容と方法についての実際的な研究が行なわれて、この分野の教育を推進させるのに寄与している。アジア地域の教育発展への協力が特にカラチプラン設定以後進められ、初等義務教育制度を確立する計画に参加して、これら諸国の教育発展の推進に協力している。この計画の実行についての会議を日本において開催し、また日本人の専門家を現地に派遣して現地で多数の教育者と協カして、教育による開発に協カしている。四十六年のシンガポールにおけるアジア地域文部大臣会議で、バンコクに設置されることとなったユネスコの「開発のための教育革新アジア地域センター」の設立とその事業にわが国が積極的に参加することが求められている。ユネスコにおける科学技術の発展についても政府間の共同事業を実施し、海洋学、天文学、地震学、地震工学、微生物学、天然資源研究などについて共同計画に参加している。このほか文化交流のための事業を行ない、東アジア文化研究センター、ユネスコ東京出版センター、ユネスコ・アジア文化センターなどにおいてアジアの文化振興のための諸活動が行なわれ、わが国は国際文化交流、特にアジアにおける文化振興のためのユネスコ活動の進展に特に努めている。

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