(一) 学術の発展

 わが国においては幕末期に新しい学問としての洋学に注目し外国の近代科学を導入することを始めた。しかし、当時の洋学は語学が中心であって、近代科学の一面は理解できたが、これを摂取して学術的研究を展開するまでには至らなかった。近代科学の発展は教育の充実と深い関係があり、特に大学における研究と切り離してみることはできない。しかし、明治維新後における近代科学は文部省所管の施設以外の機関においても研究に着手し、近代的な学術発展への萌(ほう)芽となった。たとえば、工部省は欧米の科学技術を導入することに対して積極的であって、工部大学校を設けて近代的な科学と技術の基礎を急速に築こうとしていた。そのほかの省においても近代科学を導入するために方策を立てて、積極的に学術的研究を進める情勢となっていた。明治二十年代までは全般として近代科学発展への創始時代であった。

 文部省はこの創始時代に三つの方策によって近代科学の導入に当たった。その一つは、外国人教師や学者を傭(やと)ったことで、各省にも傭外国人の指導者が着任していたが、文部省は大学そのほかの学校へ外国人教師を加えて、教育の分野から、近代科学の導入に努めた。特に草創期の東京開成学校時代から十年の東京大学開設に当たり、外国人学者が科学研究の基礎をひらいた業績は大きなものがあった。これとともに海外留学生を諸外国へ派遣して学業を重ねる機会を与え、帰朝後わが国の教育と学術の近代化に寄与させようとした。この方策は十年代にはいってからの学術の進展に大きな力となった。また、近代科学に関する書籍を移入して原書として読解することを奨励し、外国語に通じた教師のもとで新しい学問の探究が始められるようになった。また、文部省はこれらの原典の翻訳を始め、これを普及させる方法をとったことは、それが学校の教科書として用いられたばかりではなく、近代科学発展への道を開拓するために役だった。

 先進諸国においては、すでにアカデミーを設け学術の発達を図り、教育の基礎をつくるために、有数の学者を集めて活動していた。わが国ではこれにならって十二年に東京学士会院が発足し、その後に学術の発展に重要な役割を果たしてきた学士院の第一歩を踏みだした。また、十年代には専門学者の集りである学会が主要な近代科学の分野において設けられた。東京数学会社、化学会、東京生物学会、東京地学協会、日本工学会などは十二年までに設立された。そのほか地震学、薬学、植物学、気象学、人類学、農学、医学などの諸科学も二十年までに設けられ、それぞれの分野における近代科学発展のために寄与することが少なくなかった。これらのほかに多くの学会が設けられて学会活動を行なうようになったのは次の学術発展の時期においてであった。また、国家が必要とする調査研究を行なうための機関を政府が開設する方策をとって、専門学術の発展にも力をもつこととなった。水路部、東京衛生試験所、東京気象台、地質調査所、陸地測量部、統計院などは、二十年以前に設けられていた。これらはすべて文部省所管ではなかったが、国民生活に深い関係をもつ学術研究の機関となっていた。

 以上のように二十年以前の学術はすべて外国の近代科学を移入し、欧米の学界活動にならった研究機関・学術団体や学会の組織に着手した時代であった。当時は政府の各機関が必要にせまられて、一せいに学術研究の創始に当たったのであって、文部省がこれら多方面にわたった学術研究を統轄して推進する方策を立てていたわけではなかった。学術行政がどのような政府機関によっていかなる方針で進められてきたかは、わが国における近代科学の発展を広く展望するために必要である。文部省の学術行政はその一部を担当していたのであって、今日においても、政府の多くの研究機関には明治初年における創始期の性格が継続されているものもあるとみなければならない。

 明治初期の欧米近代科学導入の時期から進んで、わが国独自な科学研究が認められるようになったのは、二十年代から、大正年代初期に及ぶ三〇年間であった。この時代における文部省の学術行政は大学における科学の発展に最も大きな期待をかけていた。十九年の「帝国大学令」において、大学は国家の須要に応ずる学術技芸を教え、その蘊奥(うんのう)を攻究することを目的とすると定め、学術研究の機関としての任務も明示した。法学・医学・文学・理学のほかに工学、二十三年からは農学も加えて、六つの分科大学を設けることとなった。特に学術研究を深めるために分科大学卒業生を入学させる大学院を設けるとともに、学位令も定めて博士の学位を授与する制度を設けた。当時帝国大学は東京に一校だけ設けられていたので、ここに諸学の専門学者が集まり、研究を進めて業績を発展させるとともに、後進の学者を育成することに努めた。このようにして文部省は、高い水準の学術研究は帝国大学において進められるとして、その施設運営に努めた。文部省は、学術と高等教育発展のために帝国大学を増設する方策をとり、三十年には京都帝国大学、四十四年には東北帝国大学、九州帝国大学の開設をみて、四帝国大学となり、各大学それぞれに研究のための施設設備を拡充したので、これらがわが国における学術研究の水準を決定する機関となった。文部省の学術行政はこのようにして帝国大学に集中し、順次に分科大学と学科の増設を行ない、これらに学術・技芸の進歩に寄与する研究活動を待望した。

 この時期には文部省関係の研究施設はまだ多くなかった。緯度観測についての国際協力を目ざして、三十二年に岩手県水沢に臨時緯度観測所が設けられたが、これが文部省直轄の唯一の研究所であった。ここで発表された研究は国際的に高い評価を受けた。このほか三十一年には測地学委員会の発足、三十三年には理学文書目録委員会の設置などがあったが、いずれも文部大臣の監督下において、国際的な学術活動に努めた。また三十九年に東京学士会院を改組して、帝国学士院が成立し、文部大臣の管理に属して学術の発達を図る機関となった。四十三年からは帝国学士院授賞規則が定められ、優れた学術研究に賞を授けることが行なわれてきた。

 第一次世界大戦後、学術研究は急速に発達し文部省の学術行政も積極的に進められ、注目すべき発展の時期にはいった。それは大正五年以後であって、それから第二次世界大戦の終わりまでを発展の第一の時期とみることができる。大学制度が改められ、八年から国・公・私立大学が増加し、約五〇の大学をもつこととなった。これら多くの大学は高等教育を授ける任務をもっていたが、それとともに学術研究を発展させる役割を果たしていた。大正末年から昭和初年にかけて多数の教授が研究の業績を発表し、学術の進歩に寄与したことは注目しなければならない。この時期において大学に附置研究所が設けられ、学部の規模では行なうことのできない研究を進める機関となった。東京帝国大学に附置された伝染病研究所、航空研究所、東京天文台、地震研究所、京都帝国大学の化学研究所、東北帝国大学の金属材料研究所などは大正年間に開設されて活発な研究活動を行なった。また、文部省直轄の研究所として、第二次世界大戦中設けられた資源科学研究所、電波物理研究所そのほかの研究所が、特定の専門分野の研究を促進した。この時代には民間の研究所も設けられたが、大正六年に発足した理化学研究所は最も著名であったが、そのほかいくつかの有力な研究所が設けられ、政府補助金と民間寄附金とをもって運営され、それぞれに研究業績をあげて、学術の発展に寄与した。

 第一次世界大戦の後に学術研究の新しい国際組織をつくることとなり、八年ブリュッセルに万国学術研究会議が設けられた。これにわが国が参加したので、九年文部省は学術研究会議を創設し、科学とその応用に関して内外の研究の連絡と統一とを図り、研究の促進奨励を行なうこととした。この会議には学識経験者から委員を任命して、国際的な学術活動の中心としての任務を果たすようにした。また国内においては、学術の発展か国力の基礎であり産業や国防の根底を培うために学術研究を振興することが重要であるという考えから、学術振興のための各種の機関を設けることとなり、昭和七年に日本学術振興会が設けられ、研究費の補助、研究委員会の設置、学術文献の刊行などを進めて、学術振興のためにつくした。文部省は自然科学の研究奨励金、のちには精神文化に関する研究を奨励するために研究費を用意する方策を行なった。

 十二年以後は、長期にわたる戦時本制にはいり、戦争遂行の原動力としての科学技術の重要性が提唱され、科学に対して国が関与する力が強められ、しだいに戦時下の科学動員体制にまではいるようになった。十三年の科学振興調査会の設置、科学研究費の増額、内閣に設けられた科学審議会の活動、企画院に科学部が設けられて科学動員を進めたことなどを経て、文部省は十七年科学局を設けて、戦時下の情勢に対応する科学研究活動を進めることとなった。さらに科学動員委員会を設けて科学動員の中心機関としての体制をつくった。しかし、十八年からは生産力が低下し、研究に必須な資材も入手することができなくなり、研究動員は要求された結果をあげることができないで終戦となった。

 終戦後は平和的・民主的文化国家をつくるという方向が二十年の秋から文部省の方針として示され、戦後の困難な条件のもとで努力を重ね、学術研究が著しく発展した。その後現在に至るまで三〇年間は従前にみられなかった学術進展の時期を迎えたのである。まず何よりも注目しなければならないことは学術研究にあたる研究者が激増したことである。これは官・公立や民間設立、特に産業界における研究機関が増加したことによるのである。また、これと深い関係をもっているのは、大学の増設であって、四年制大学をとってみても、戦前の大学数の六倍にも達している。これらの大学において教授にあたっている学者の数は著しく多くなった。これらの大学教師は、大学あるいは研究機関に所属してなんらかの学術研究に従事している。また新制大学には大学院が設けられ、修士課程、博士課程において研究にあたっている学生数も近年は激増している。これらの学生を現在すべて学術研究者としてみることはできないにしても、将来重要な研究者として公私の研究機関で活動する人材は、この中から出てくると考えるならば、新制大学にみられる学術研究の発展には画期的な意義を認める。

 大学に附属し、附置されている研究所は戦前と比較して著しく増加している。その多くは従来の大学の機構では研究を進めることができなくなってきた大きな研究、あるいは従前の科学の限界領域にある研究やいくつかの専門学術の総合によらなければ成果をあげることができない研究などを進展させる目的で設立され、多数の研究者が専門学術の研究に専念している。また一つの大学に専属する研究所とは別に共同利用の研究所をつくってきていることは、戦後の研究体制と研究機関の運営の方式として注目されている。また巨大科学の研究を進める施設は従来の研究所の方式では設置・運営できないことが確認され、国家的事業として考えられている。また、研究所よりも規模の小さいものが、国立大学に研究施設として設けられているが、その数も最近は多くなり、ここにおいても学術研究の機能が発揮できるように方策を講じてきている。研究技術の高度化に伴って近代的な機器を利用する共同研究の必要から将来はさらにこのような研究施設を拡充しなければならないことが認められている。これら大学そのほかの研究所、研究施設などで行なわれている科学研究に対する研究費補助はこれを格段に増額し、これによる研究費の配分についても、研究の特質によって、特定研究、総合研究、一般研究、試験研究、奨励研究、海外学術調査に区分し、それぞれの性格に応じた研究費の配分を行なってきている。さらに重要基礎研究については、新しい研究体制をつくり、これらの学術の特別な発展のために、今までにない構想で研究を進める方策に着手している。

 戦後の学術研究の発展は、新しい構想で設けられた学術行政体制と深い結びつきをもっている。従前から設けていた学術研究推進のための機関や機構は多く改編された。日本における学界の代表としての役割を果たしてきた日本学士院は三十一年新しい法律によってその性格が改められた。これは戦後民主的な学術体制をつくる一つの方策として、二十四年日本学術会議が発足したことによるのである。日本学術会議は総理大臣の所管として開設したが、全国の科学者の選挙によって定められた会員をもって構成し、科学者の意向を学術研究の行政に反映させることをその任務としている。したがって学術行政を行なっている文部省とは特に深い関係をもっている。また三十一年に総理府の外局として科学技術庁が設置され科学技術についての行政を総合的に推進することを任務としている。このような新しい政府機関が科学技術の基本政策について企画や立案を行なったり、科学技術行政についての関係行政機関の事務の調整も行なうようになり、以前には文部省が学術振興の中心であった時代とは大きな変化がみられることとなった。こうした情勢のもとにおいて、文部省内の学術行政の機構を改め、新しい審議機関も設けて学術の発展に努めている。

お問合せ先

学制百年史編集委員会

-- 登録:平成21年以前 --