三 近代教育制度の確立と整備

 明治二十年代の初めは憲法発布、国会開設によって立憲政治が行なわれることとなり、明治初年以来の改革が一つの段階を築く時代となった。十八年内閣制度が創設され、文部省に初めて文部大臣が任命されることとなり、森有礼が着任した。森文相は学校制度全般にわたる改革を断行し、基本となる近代学校の体系をつくりあげた。二十年代の後半に井上毅が文部大臣となり、森文相による学校制度改革のあとをうけて、実業教育、女子中等教育などについての改革を行なった。森、井上両文相によってわが国における近代学校制度の基礎が確定したのである。三十年代になってこれらの制度についての検討を重ね、教育全般の整備を進めた。次いで義務教育年限延長により、小学校の体制を明確にして発展の基本を決定した。三十年代においては中等学校についても改善の方策が立てられ、専門学校の制度も確定し、高等学校を大学予科としての教育を行なう機関として位置づけた。このようにして明治五年学制によって出発した学校制度は三十年を経て近代学校として安定した体系をとることができた。大正年代から昭和初年にかけてはこの制度を基本として学校制度を拡充・整備したのである。明治二十年代から三十年にかけての教育改革はわが国の教育発展に一時期を画する意味をもっている。

 森文相は、学校体系の基本となっている小学校、中学校、大学と教員養成機関を重視して師範学校の四つの学校制度を確定した。これらはいずれも五年学制頒布に当たって創始されたものであったが、小学校の設立に主力を注いでいたため、学校全体を一貫した原則によって組織するまでには至らなかった。また、これらの学校制度は、学制と教育令の中において規定され、簡単な条文をもって規定したにすぎないため、この規定によって制度を運営することは困難であった。森文相は十九年に学校令を公布し、四種類の学校については、それぞれに独立した学校令によって制度としての性格を規定したのである。学校体系を組織するに当たっては、小学校、中学校、師範学校いずれも尋常・高等の二つの段階をもって編制した。

 小学校は尋常小学校四年、高等小学校四年、合わせて八年の学校であることは学制以来変わりはなかった。しかし、この小学校令において尋常小学校を義務制とすることを明確に規定し、はじめて就学の義務を明らかにしたのである。わが国の義務教育制度は十九年の小学校令をもって発足した。しかし、当時はすべての学齢児童を四年課程の尋常小学校に入学させることは困難であったので、半日学校で三年の簡易科を設けることも認めた。当時は就学率が五〇%に達していなかったので、これによって、小学校教育の普及を図ったのである。中学校は、五年制の尋常中学校と二年制の高等中学校とし、全国に設置して、小学校卒業者に進学の機会を与えようとした。公費をもって経営する尋常中学校は各府県に一校を設けることとし、高等中学校は全国を五区に分けて、その区内の尋常中学校卒業者の中から選ばれたものが入学する制度とした。これによって、従来は必ずしも制度として明確でなかった中学校がこの学校令の規定によって整然となり、一時は多数設けられていた中学校が全国において五〇校ほどになった。尋常中学校においては実務に就くものと上級学校へ進学するものとを教育することとなっていたが、この性格は高等中学校においても同様であった。したがって高等中学校には専門教育を行なう機構も作られたが、帝国大学へ進学するための基礎教育を行なう教育が発展し、後に高等学校に改められて、大学への予科教育を行なうようになった。この性格は大正八年の高等教育制度の改革まで変わらなかった。師範学校も小学校教員を養成する尋常師範学校を各府県に一校ずつ設け、中等学校、尋常師範学校の教員を養成する高等師範学校は東京に一校設ける制度とした。高等教育機関としては、帝国大学一校を東京に設ける制度とし、ここには大学院も設けることを規定に掲げた。しかし、明治十年代からすでに開設されていた多様な専門学校については制度化を行なわなかった。

 二十年代後半において井上文相の時代となって学校制度についての改革が行なわれた。その一つは女子の中等教育制度であって、従来は中学校令の一部に加えて制度化してあったのを独立した学校として位置づけることを企画して、まず「高等女学校規程」を公布した。しかし、最も大きな教育制度の改革は、当時急速に興隆してきた近代産業、特に工業に従事するもののために実業学校制度の基礎を築いたことである。徒弟学校、実業補習学校、簡易農学校などの制度化について施策をしたが、これは三十年代になって実業学校の制度を整えることができる発端を開いた。三十年代にはいると、二十年代から着手していた学校制度の近代化をさらに進めて整備した全学校体系をつくりあげた。このために三十年代前半には小学校令、中学校令、高等女学校令、実業学校令、師範教育令などを定め、三十六年の専門学校令をもって高等教育のための専門教育を施す諸学校が制度化された。それらと高等学校令、帝国大学令とをもって、近代学校の全制度体系がすべてそろえられて確定した。これによって近代学校が整備されてきて、各学校がすべて制度として位置づけられ、それぞれの機能を発揮できるようになったのであって画期的な改革の時代とみられる。四十年に義務教育年限が二年延長されて、尋常小学校六年、高等小学校二年の制度となったが、これは高等小学校の一部を移行させたのであって小学校の基本体系についての改変ではなかった。この時代から第二次世界大戦後の学制改革に至るまで、学校体系は安定していて、基本となっていた編制を改める問題はなかった。

 学校において授けられる教育内容については、学制頒布の際から小学教則によって基準を示し、これをもととして各府県管内の教則が編制され、各学校はこれによって教科目を設定し、教則に示された要旨によって各教師は授業を行なっていた。十四年の小学校教則綱領においても同様な方針であったが、十九年の学校令時代から、簡単な「学科及其程度」を小学校・中学校の教育内容の基準として示した。教育内容の実質は教科書にあるとみて、教科書についての検定制度をとることとなった。二十五年ごろから多数の検定教科書が刊行された。二十年代の後半になって検定をうけた教科書の内容について批判的意見が出たが、議会においてもこれが論議され、基本となる教科書は文部省が著作するようにと要望された。三十年代になって検定教科書の採択に関して贈収賄問題がとりあげられて、いわゆる教科書事件となった。ここにおいて小学校教科書は国定の制度とすることが急に決定した。小学校教科書国定制はこれから戦後の教育改革まで続けられる方策となった。小学校教科書が国定制となって、全国一種類の教科書が使用されることとなって、教育内容は統一され、さらに教師用教科書も文部省が出版することとなった。この時代には教授理論によって定まった段階による授業の方式を重視するようになって、教育内容とともに方法も定型化されるようになった。また各教科の授業内容は小学校令が公布されてから、施行規則の中に示されることとなり、これによって教材の基準を示すという方策が続けられた。中学校についても、十九年に「学科及其程度」として規準を示したが、三十年代になってからは、各科の教授要目によって教授する内容の項目を定める方針をとり、教科書はこれを基準とし戦時中まで検定制度のもとに著作されていた。高等女学校においても教授要目に基づいて、検定教科書による教授が行なわれていた。これらをみると、わが国における教育内容についての行政は統一的に進めることを基本方針とし、基準の指示や、検定教科書制度からさらに国定教科書の制度へ向かう方向をとっていた。このようにして中等学校における教育方法も定まった教材を一せい教授の方法によって授ける様式が支配的となっていた。

 社会教育の機能を果たす活動は江戸時代にもあったが、明治初年から近代教育の制度の一部として、企画していた。社会教育施設の発端となったのは博物館と図書館である。その名称は教育令の中に学校の種類とともに掲げられていた。しかし、社会教育の機能を果たしている諸活動を広くとりあげて、これに対する教育施策を行なうようになったのは、四十四年に公布された「通俗教育調査委員会官制」の公布があってからである。ここでは読物、図書館、文庫、展覧会に関すること、幻燈および映画、講演会についての調査を行なって通俗教育を振興することとした。通俗教育調査委員会は大正二年に廃止されたが、この間社会教育振興の基礎がつくられた。また三十八年に文部省が地方の青年団体の指導と設置奨励について地方長官に通牒を発したが、これは青年団を社会教育の一部として発展させようとした意図によるものである。大正四年に文部省は、内務省とともに訓令を発して青年団体の性格を明らかにし、設置についての標準を示して、青年団体の組織を整備するための基本方針としたのである。しかし、当時はまだ社会教育としての体制ができたとはみられないのであって、積極的な振興方策が立てられるようになるのは第一次世界大戦以後昭和初年にはいってからである。

 森文相は学校制度全般にわたる改革を行なったが、これらの改革の基本計画を設定する際に教育会議を開いて諮問する方法はとらなかった。しかし、その後学校の整備拡充を進める基本方策を立てるに当たっては、文部省に審議機関を設けることが必要であるとして、二十五年からこの問題がとりあげられて教育会議の規程案がつくられた。翌年は井上文相のもとで、高等教育会議および地方教育会議を設置するための法案もつくられた。続いて二十九年に蜂須賀文相当時に「高等教育会議規則」を勅令をもって公布した。このようにして文部大臣の最初の諮問機関として高等教育会議が開かれることとなった。この会議は、大正二年六月廃止されて教育調査会がつくられるまで、教育制度を確立し整備する重要な期間に、多くの教育方策について諮問に答えて意見を開申したり、教育に関する事項について意見を具申する任務を果たしていた。二十年代から三十年代にかけては学校制度改革の論議が現われ、民間から学制改革案が出されたばかりでなく、議会においても学制改革案をとりあげた。高等教育会議はこれらの動向の中で、学制改革案について意見を明らかにすることを重要な任務の一つとしていた。三十五年菊池文相が学制改革案を高等教育会議に諮問した。これは大学と高等学校の連絡に関することと、専門学校を制度化することなどの問題であった。このうち専門学校を設けることは決定をみて、三十六年専門学校令を公布した。また四十三年小松原文相は高等中学校設置に関して諮問し、長い間懸案となっている年限短縮問題に答えたが、これは可決されたまま実施には至らなかった。また高等女学校に家政を主とする実科を設けることを諮問して可決され、四十三年高等女学校令を改正して実施することとなった。このほか重要な施策や改善方針はこの会議において審議され、可決したものはただちに実施に移した。このようにして高等教育会議は大正二年までの間に七〇件の諮問に答申し、一六事項の建議を行なった。これに続いて大正二年に設けた教育調査会は、内閣に臨時教育会議が開設され、教育制度全般の改革にとりくむこととなって廃止された。

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