二 近代教育制度の創始

 明治四年、廃藩置県が行なわれ、中央における政府の行政機構がつくられることとなり、教育行政の府として同年七月文部省が設置された。これから文部省が全国の諸学校をすべて統轄する制度となった。文部省の長官としては初めに江藤新平が文部大輔となったが、間もなく大木喬任が文部卿となり、文教行政の首脳部を構成した。文部省は全国の学校を統轄したばかりでなく、積極的に国民を教育する責任を果たさなければならないとした。ここにおいて江戸時代からの諸学校の普及を基礎とし、さらに欧米諸国の教育制度を参照してわが国の学校教育制度を創始することとなり、ただちに起草に必要な資料を集めて制度立案の準備を始めた。四年十二月に一二人の学制取調掛が任命されて学制条文の起草にあたった。五年一月には学制の大綱を定め、詳細に各条を審議し条文として整え、五年三月ごろに案文が上申され、六月二十四日に太政官において認可された。その後府県への委托金についての条項について決定ができないため、この条文は確定しないまま、五年八月三日に太政官の布告をもって「学制」として公布した。この太政官布告は、学制実施に当たっての教育の宣言ともいうべきもので、教育における学問の意味を明らかにし、従来の学問観や学校観を批判した。そして新しい学校へ人民一般が入学して新時代の有用の学を修めなければならないとした。また、子どもを就学させることは父兄の責任であって、必ずこれを果たさなければならないとした。学制条文のうちには当時問題となっていた海外留学生規則やのちに育英制度となる貸費制規則も加えられている。

 学制の条文は、その多くが学校制度の体系を決定し、これを実施する行政組織をつくるための条章であった。学校制度の体系としては小学、中学、大学の三段階を基本とした。小学校は八年制で上等小学、下等小学各四年の学校となっていた。小学校は学校制度の基礎となる教育を施す機関であって、すべてのものが入学しなければならない学校として企画してあった。小学校には種別があり、尋常小学は、基本となる普通教育を施す学校であって一般の児童はここに入学するとした。そのほかにさまざまな教育を行なうことのできる小学校を企画した。中学は、小学を修了したものが入学する学校であるとし、小学校教育を受けたものの中から選ばれた生徒がここに入学することとした。中学校にも実業教育のための諸学校や補習を行なう学校などの種別があると定めていた。中学校を修了したものの中から選ばれた生徒が大学に入学するとし、大学教育の基礎となる外国語学習のための外国語学校やその他の諸専門学校についても定めている。これらが高等教育を行なう諸種の学校として規定に掲げられていた。このようにして小学、中学、大学を基本となる学校体系として、そのほかに多様な教育を行なう諸学校も計画して近代学校の全体を展望できるようにした。

 これらの小学、中学、大学を設けるために学区制をとり、全国を五万三、七六〇の小学区に分け、ここに小学校一校を、二一〇小学区をもって中学区とし、全国二五六の中学区に中学校一校を設置することとし、三二中学区をもって大学区とし、ここに大学一校、全国に八大学を設けることとした。これは学区制による小学、中学、大学の設置計画であって、新学校制度を創始するにあたってのすぐれた着想として注目しなければならない。これらの学区制は、学校を開設する際の基準となる計画であったが、この学区制によって、小学、中学、大学が全国一せいに設置されたのではなかった。文部省は、まず小学校の開設から始めることとしたが、これは急速に進められ、三、四年の間に、わが国が必要とする二万六、〇〇〇ほどの小学校が設置された。中学校は漸次に設けることとしたが、学区制によって中学校を設置する企画は実際には行なわれなかった。大学についてはただちに八大学の設置には至らなかったが、十年にようやく東京大学一校が開設されるにとどまった。ただこの間に成立した大学予備門や私立専門学校の発端となった諸学校が学生を集めて教授するようになってきた実情が注目される。このようにして学区制による学校の開設は、小学校設置についてだけ学制条文に基づいて設置されることに終わったが、計画された五万三、七六〇の小学校を設けることには至らなかった。しかし、学区制が新しい小学校を創設する際の重要な目安となったことは認めなければならない。各府県ともに学制頒布後ただちに管内を小学区に分けて編制したこと、ここに小学校一校を設けることを目標として学制実施にあたった地方住民の努力、これを推進した各地の学区取締の活動などは、小学校設立の際の大きな業績として記録されなければならない。なお、これらの各府県小学校の設立運営の経費は、管内各戸への賦課金や、授業料、有志の寄附金などによったのであって、これについても各地区の住民に多くの経済的な負担をかけることとなった。

 教員養成のために師範学校を設け、卒業生を教師として小学校へ派遣する方策は、江戸時代には全くなかったことであった。学制実施に当たって新しい時代に即応した教育を行なうことのできる教師を養成することは、緊要な問題として学制実施の着手順序に掲げられていた。このためまず東京に師範学校を開設することが決定されたのは五年五月であって、学制頒布以前のことであった。これがわが国における教師養成の学校の最初の試みであって、ここで教育を受けた教師を府県に配置して、地方の教員養成機関を発展させようとした。また、六年から各犬学区に一校の官立師範学校を設置したが、これを地方における教員養成の中心機関とする方針であった。各府県は、管内に教員養成のための学校を設け、中央において教育を受けた教師の着任によって、新時代の小学校教師の養成ができることとなった。これらは府県によって伝習所、講習所、養成所、師範学校などの名称をつけていたが、いずれも府県師範学校の発端となった。

 学制実施期において主として文教行政にあたっていたのは文部大輔田中不二麻呂であった。田中は学監として文部省に六年から着任していたダビット・モルレーと協力し、学制実施の経験を基として教育制度に改善を加え、近代教育の基礎を固める方策を立てる任務を果たすこととなった。十二年九月には「学制」を廃止して「教育令」を公布した。教育令において基本となった方策は、中央統轄による画一的な教育を改めて教育行政の一部を地方に委任することであった。学制の重要な方策であった学区制を廃止し、府県に学校の運営をまかせることとした。また、督学局学区取締による地方教育の統轄を改め、学務委員を町村住民の選挙によって決定するという進んだ方法も加えた。これはアメリカにおける方式によったもので、近年になって実施された教育委員会制度に似た方策であった。小学校就学の期間についても最低時間を定め、弾力性をもった運営ができる規定をつくった。このような方策は、世間で当時の自由民権運動などの思想とも関連があるとみられ、自由教育令などという世評を受けた。府県によってはこの教育令が学校の設置経営を自由にしたということで小学校を廃校するものもでき、地方によっては就学率が低下する情況も現われた。田中不二麻呂はこのような世評をうけて司法卿に転じ、河野敏鎌が十三年二月、文部卿に任ぜられた。河野文部卿は、地方の教育実情を視察、民情に即した方策をくふうし、早急に新しい改善方策を実施するため、十三年十二月に教育令を改正した。これによって府知事、県令の権限を強めたり、文部省の行政力を強めて中央統轄の方策を立て、学校の設置や就学についての規程を強化して学校教育が弱体化する傾向を改めようとした。このようにして教育全体にわたってしだいに中央で定めた規則が徹底し、教育の実際が中央の方針によって定まった形をとる傾向になった。このことはわが国の近代教育を統一された形へと編成する出発点となったので、十五年ごろまでに教育令改正による全国教育の改善が一段落を告げた。しかし、その後世間の不況も影響し、就学率も停滞してきたので十八年八月教育令を再び改正した。この再改正は、地方の教育費を節減するためであって、簡易な小学教場を設けることを認めたことなど、当時の経済情勢に応ずるための方策によるものであった。しかし、翌十九年には学校制度全般の大改革があり、教育令を廃止したので、十八年の再改革はわずかの期間実施したにすぎなかった。

 近代学校教育の創始期における制度は、明治十年代の終わりにかけて試みの段階を終わったが、創始期の中心になっていたのは小学校であった。この小学校でどのような教育を行なうかについても、最初からそれを文部省が指示する方針をとっていた。小学校において授ける教科目については学制条文のうちに掲げたが、これに基づいた「小学教則」を公布して、教科目と時間配当、教科書、授業の要点などを明らかにした。これをもって小学校の教育内容と方法を改革する基本とする方針であった。しかし、当時の小学校の多くは新しい教科目をじゅうぶんに理解して、教材を編成することは困難であったために、多くの小学校は、旧来の読書算を授けるにすぎなかった。十年前後には、東京の師範学校で編成した教則に準じて、各府県が小学校の教則を定め、管内の小学校に指示していた。十四年には「小学校教則綱領」を公布したが、これは学制当時の教則を根本から改めたものであって、実施できる形で近代教科目を定め、学科課程の基本となる事項を初めて公に示したものである。この教則においては、小学校を初等科三年、中等科三年、高等科二年として、この三つの学年段階をもとにした科目の編成と教授の内容とを規定した。この場合、小学校初等科では修身のほかに読書・習字・算術・体操を科目とした。中等科においては初等科の科目のほかに地理・歴史・博物・物理・裁縫などを加えることとした。これらはその後における小学校の教科目と教育内容を編成する基本となった。

 中学校は、この期における中等諸学校の中で正系となる学校であったので、中学校で授ける教育内容については、学制条文の中で学科目を規定した。五年九月には「中学教則略」を定めて学制の中に示された科目のほかに教科目を加えて、各級別に学科目を配列した。しかし、当時は中学校が少なく、また、その性格も実際においては明確でなかったので、この規則が、すべて中学校に実施されたのではなかった。十三年に教育令改正によって教育改革が行なわれた際に、中学校の教則については十四年七月に「中学校教前大綱」をもって教育内容の基準を示した。この大綱においては各科目の要旨を加え、これを教育内容編成の基準とした。これによって制度上中学校の教育内容を明示したが、明治十年代の中学校には一教員で開設し、数十人の生徒を教えている学校もあり、公布した中学校教則をただちに実施したとみることはできない。また、師範学校の教則については十四年八月に「師範学校教則大綱」を定めて、教科目と学年による配当と教授時数も示して基準を明らかにした。

 教育内容を決定する基本となった学科目と教育の要旨や教科書名については教則をもって指示したが、学校においてはこれらの学科の授業で使用する教科書を入手することが緊要であった。小学校については学制頒布とともに文部省で教科書の編集を始め、各科目において使用する多くの教科書を取り急ぎ刊行した。江戸時代を通じて用いられてきた伝統的教科書も使用させたが、欧米の教科書を翻訳してこれを全国に普及させる方策をとった。この翻訳教科書は、府県において翻刻して普及させることとしたので、文部省刊行の教科書は多数の翻刻版として全国の小学校に普及した。それらのうち小学読本、地理、歴史などの文部省出版教科書はほとんどすべての小学校で使用された。これらの教科書、教材が創始期の小学校における主要な教育内容となっていたことはいうまでもない。これらの教科書を教授する方法も、学制頒布とともに師範学校において試みられた。それは学級編制による一せい教授の方法であって、寺子屋で行なわれていた個人教授の方法を改革する実践であった。これは米人スコットが師範学校の教師として着任して試みたものであって、各地の小学校の校舎が整うとともにこの方法が全国に普及した。このような教科書を用いて進める一せい授業に対して生徒の自律活動を尊重する心性開発教授の方法が主唱された。これはアメリカから伝えられたペスタロッチ教育法の原理によるものであった。この方法は実物を用いたり、問答教授の方法をとったりする試みであった。これは当時開発教授術として注目されたが、小学校の教育実践をこの方法原理で改めるまでには至らなかった。

 学制頒布から十年代にかけて実施された学校教育は、文明開化の一つの標識であって新築の校舎も教育の内容や方法も欧米風であった。これに対して、東洋道徳に基づいて教育の本末を正す方策をとることについて提唱があった。十二年には天皇の意向を体して元田永孚が『教学聖旨』をしるした。この文書においては、明治初年以来の教育が欧米の知識技芸を移入することに力を注いだため、教育の根本にある仁義忠孝を忘れている、今後は東洋道徳を基本として徳性を涵養し、その上に知識技芸の教育を行なうように教育の基本思想を改め直す必要があるという趣旨が述べてある。この文書は文部卿や内部卿に示されたが、そこには学制以来の教育全般の性格を検討し、すみやかに改善の方法を立てるようにと要望してある。この教育精神を実現するため、教育令改正に当たって修身を諸教科の初めに掲げたり、「小学教則綱領」の際に修身、歴史の内容にその趣旨を加えたり、「小学校教員心得」や「学校教員品行検定規則」を公布して教員の考え方や行動をこの精神によって形成し、教育において徳性を高めるための教育方策とした。

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