第1章 2025年ノーベル賞の研究成果との社会実装に向けた取組

 研究現場で生み出される新たな「知」は、それがイノベーションにつながることで、私たちの社会を変えるほどのインパクトを有しています。例えば、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥・京都大学iPS細胞(※1)研究所名誉所長・教授が作製した人工多能性幹細胞(iPS細胞)は、当時の生命科学の常識を覆す画期的なものであり、iPS細胞から様々な細胞を作製し、人の体内に移植することで、体の機能を回復させることが期待されています。また、病気の人の体細胞からiPS細胞を経て患部の細胞を作製することで、病気の原因の解明や、患部の細胞に効く薬の探索等を行う研究も期待されています。2026年3月には、我が国において、重症心不全及びパーキンソン病を対象とした2品目のiPS細胞由来の再生医療等製品が、条件及び期限付で製造販売承認を取得し、同年中の実用化が想定されています。

 本章では、近年の「科学とビジネスの近接化」の動向を解説するとともに、2025年にノーベル賞を受賞した2名の日本人研究者の研究を紹介し、基礎研究の研究成果として生み出された「知」からイノベーションの創出に至るまでの取組の実例を紹介します。

第1節 科学とビジネスの近接化

 2024年のノーベル物理学賞と化学賞は、現在の人工知能(AI(※2))の根幹を成す機械学習やAI技術を用いたタンパク質構造予測の研究に授与されました。これは、世界の科学技術の新たな潮流を象徴する出来事でした。特筆すべきは、アカデミアで培われた基礎的な理論や概念が産業界における革新の駆動力となっており、最先端の科学的探求とビジネスの現場がもはや不可分なものとして融合している現実を浮き彫りにした点です。AI技術や量子コンピュータ技術などは、数十年の基礎研究の蓄積の上に成り立っています。しかし、現在は、科学に対する官民の投下資本が巨大化する中で、かつてのように基礎研究から応用研究・開発段階を経て事業化に至るという段階的プロセスをたどるのではなく、科学的発見とビジネスの現場や社会変革との境界が極めて曖昧になり、両者が渾然(こんぜん)一体となって展開されるようになっています。これは、単なる時間短縮ではなく、ビジネスや社会課題の解決において最先端の科学の知見が不可欠となり、その距離が構造的に重なり合う「科学とビジネスの近接化」が進展していることを意味しています。

1.イノベーション・モデルの変容と基礎研究の重要性の高まり

 「科学とビジネスの近接化」が進む中で、イノベーション創出のモデルも構造的な変化を遂げており、従来のような、基礎研究から応用研究・開発段階を経て実用化に至る単線的な「リニア型」から、基礎研究の段階から事業化・社会実装を見据えた研究開発が同時並行的に進行する構造が主流となりつつあります。この新たなモデルにおいては、イノベーションの源泉となる「知」を創出する基礎研究そのものの重要性が、かつてないほど高まっています。既存の知識の組合せだけでは解決できない複雑な課題に対し、現象の原理を解明し、全く新しい概念を生み出す基礎研究こそが、イノベーションの限界を突破する力となるからです。科学とビジネスが近づいた現代においては、基礎研究は社会実装の前段階ではなく、価値創出の中核を担う存在となっているといえます。

 そして、こうした独創的な基礎研究を牽引(けんいん)する原動力となるのが、研究者自身の内在的動機です。外部からの要請ではなく、研究者自身の知的好奇心や探究心に基づいて行われる研究が、予見困難な未来における新たな産業の創出や社会変革の「種」を生み出し、同時に、産業・社会において必要となる人材を育成します。このように、基礎研究はイノベーション・エコシステムの根幹を成すとともに、それを担う高度人材を育成する場としても極めて重要な役割を果たしています。

2.国際情勢の変化と国力の源泉としての科学

 世界に目を転じれば、地政学リスクの高まりや自国第一主義の台頭など、国際秩序の不確実性が増大しています。こうした中、科学技術・イノベーションは、各国の経済成長のツールにとどまらず、安全保障や外交、社会課題解決を含む国力の源泉としての性格を強めています。欧米諸国のみならず、中国やグローバル・サウスを含む諸外国は、研究開発投資を増大させており、国際的な研究開発競争は激化の一途をたどっています。特に、先端科学技術の研究開発等を官民挙げて促進していくことが、将来の我が国の戦略的自律性・不可欠性の確保につながり、ひいては国際優位性・将来性のある科学技術力の強化と産業創出の鍵となります。世界的な巨大企業が豊富な資金力を背景に研究開発への集中投資を行い、成果を独占しようとする動きも見られます。資源の乏しい我が国が国際的なプレゼンスを発揮し続けるためには、変動する世界を見据えた戦略性と、不確実な未来に対応できる多様性を兼ね備えた、卓越した科学の力を有することが不可欠です。

3.新たな「知」の創造と社会実装の好循環に向けて

 このように、世界的な潮流として科学とビジネスが急速に接近し、融合する中で、新たな「知」をイノベーションにつなげる仕組みであるイノベーション・エコシステムと科学は本質的に切り離せない関係にあります。我が国が将来にわたり、安全・安心で豊かな社会を維持・発展させていくためには、こうした変化を直視し、ビジネスや社会的課題解決の基盤となる科学を抜本的に強化することが急務です。すなわち、研究者の独創的な基礎研究を持続的に推進し、そこから生まれた成果を迅速に社会実装へとつなげていく、この「知」の創造と活用の好循環を実現することが重要となります。

 こうした世界的な潮流の中で、2025年には、坂口志文・大阪大学特別栄誉教授・免疫学フロンティア研究センター特任教授。(以下「坂口教授」という。)がノーベル生理学・医学賞を、北川進・京都大学特別教授・理事・副学長。(以下「北川教授」という。)がノーベル化学賞を受賞しました。1990年代に始まった両氏の基礎研究の成果は、現在では企業との共同研究やスタートアップ創出へと発展し、新たな市場や社会的価値を生み出す源泉となっています。このように、アカデミアで生まれた科学的発見や高度な専門知は、経済的な付加価値を生み出し、国力を支える重要な基盤となっており、科学とイノベーションは切り離せない密接な関係にあります。

 次節以降では、2025年の日本人ノーベル賞受賞者が示した「知」の軌跡と、そこから見えてくる我が国の進むべき道筋について紹介します。

第2節 ノーベル賞につながる「知」の創出とイノベーション

 本節では、2025年のノーベル生理学・医学賞、ノーベル化学賞を受賞した坂口教授と北川教授の研究とその研究成果の社会実装の取組を通じて、私たちの暮らしを豊かにする「知」が生まれるまでの道のりとイノベーション創出に至るまでの流れを覗(のぞ)いてみましょう。

1.私たちの暮らしを変える「知」の創出 ~ノーベル賞の研究成果の概要~

(1)2025年ノーベル生理学・医学賞

 2025年のノーベル生理学・医学賞は、「末梢(まっしょう)性免疫寛容の発見」に貢献した坂口教授を含めた3名の研究者が受賞しました。坂口教授らの研究成果は、私たちの体でも起こっている免疫反応の新たな仕組みの解明に大きく貢献したものです。

 免疫反応とは、私たちの体の中でウイルスや細菌等の侵入物等の異物に対して行われる一連の防御の仕組みのことです。簡単にいうと、侵入物を認識し、適切な対応をとるために情報伝達を行い、侵入物に対して攻撃するという一連の仕組みです。この仕組みにおいては、免疫細胞と呼ばれる体内の細胞がその中心的な役割を担います。免疫細胞は、それぞれの役割に応じて、種類が分かれており、例えば、マクロファージ(※3)やB細胞(※4)、そして、今回のノーベル賞の研究成果にも関わるT細胞(※5)等が存在します。

 免疫反応が本来どおりに働く場合、私たちの正常な細胞には攻撃をせずに、異物に対してのみ攻撃を行うようにうまく制御されています。一方で、この働きがうまくいかず、私たち自身の正常な細胞を攻撃してしまうことがあり、様々な症状を引き起こすことがあります。このような疾患を自己免疫疾患と呼びます。

 坂口教授は、私たちの体に存在する胸腺(※6)という器官で作られるT細胞に注目し、自己免疫疾患のあるマウスに特定の細胞を注入したところ、症状が起こらなくなることなどを、実験を通じて証明することで、免疫反応において、正常な細胞に対して攻撃をしないように制御する働きを持つT細胞(制御性T細胞)が存在することを発見しました。さらに、その後の研究で、制御性T細胞の発生・機能の制御を行う遺伝子も特定しました。これらの成果は、これまでに明らかになっていなかった自己免疫疾患等の原因や発症に関わる免疫反応の仕組みを解明することに大きく貢献しました。また、この研究成果は免疫疾患の治療や予防への応用だけでなく、がんの免疫治療や転移の予防、臓器移植への応用等も期待されています。

(2)2025年ノーベル化学賞

 2025年のノーベル化学賞は、「金属-有機骨格体(MOF(※7))の開発」に貢献した北川教授を含めた3名の研究者が受賞しました。北川教授らは、私たちの身の回りの様々な社会課題の解決に寄与する可能性を秘めた新しい多孔性材料を開発しました。

 私たちの世界は全て、原子、分子やイオンといった物質でできています。例えば、水は二つの水素原子(H)と一つの酸素原子(O)が結合することでできた水の分子(H2O)が多数集まって構成されたものです。また、同じ種類の原子から構成されるものでも、その数や結合させる位置を変えるだけで、性質が変わるものもあります。私たちは、こうした物質の性質を暮らしに応用してきました。

 多孔性材料とは、製品等のもととなる材料の中でも、分子レベルで多数の孔の構造を持つ材料を指します。多孔性材料の分かりやすい例では、消臭剤等の用途で活用される活性炭や石油化学工業、農業、畜産業で広く使用されているゼオライトといったものが挙げられます。多孔性材料の大きな特徴として、その微細な孔の構造に他の物質を選択的、大量に取り込むことができる点があります。私たちは、社会を豊かにするために多孔性材料を暮らしに応用するとともに、研究者たちは、より性能の良い多孔性材料の開発に向けて、研究を進めてきました。そして、研究が進められる中で、北川教授は、多孔性配位高分子(PCP(※8))/金属有機構造体(MOF)と呼ばれる新しい材料を発見、開発しました。

 MOFは、配位結合(※9)と呼ばれる化学結合を利用して金属イオン(※10)と有機物がつながり、一定の大きさの微細な孔を無数に持つ構造の多孔性材料です。MOFには三つの大きな特徴があると言われています。一つ目は、表面積が大きいことです。表面積が大きくなると、より多くの物質を取り込むことができ、大量貯蔵や濃縮など選択的な反応を起こしやすくなります。二つ目は、自由自在にデザインができることです。MOFを構成する金属イオンと有機物の組合せ等を変えることで様々な構造の異なるMOFを作り出すことができ、今後更に新しい種類のMOFが生み出されることが期待されています。三つ目は、容易に作れることです。事前に構造を設計しておけば、その構造に必要な有機物の溶液と金属イオンの溶液を混ぜることにより、繰り返し簡単に作り出すことができます。このような特徴を持ち合わせていることから、MOFは様々な分野への応用が期待されています。

2.「知」の創出までの道のり

 研究者は、新たな「知」を生み出すために、日々様々なことに取り組んでいます。例えば、実験前に使用する道具や材料等を準備し、予備実験を通じて前提条件を決めた上で実験を行い、実験後に得られたデータを分析・考察することなども、新たな「知」を生み出す過程で重要なプロセスです。また、他の研究者の論文等を読み、先人たちの経験や知識を取り入れることは、研究計画を立てる上で必要不可欠な作業です。さらに、研究結果を学会等で発表することは、他の研究者からの意見や交流を通じて、自身の研究に対する新たな気づき等を得る機会にもなります。そして、結実した研究成果を発信する一つの形として、論文を執筆し、学術雑誌等に投稿します。このほかにも研究資金を調達するための申請作業など様々なことに取り組んでいます。

 このように研究者は日ごろから、たゆまぬ努力と絶やすことのない探究心を持って、新たな「知」の創出に取り組んでいます。「科学とビジネスの近接化」が進む中、基礎研究の重要性はますます高まっていますが、こうした研究の成果としての「知」が生み出されるまでには、何十年の長い年月が必要になることも少なくありません。

 2025年にノーベル賞を受賞した2人の日本人研究者の研究を例として見てみましょう。

 坂口教授が今回のノーベル賞受賞につながった制御性T細胞に関する研究を開始したのは、1979年でした。当時の免疫学では、抗体の構造こそ分かっていたものの、「自己免疫による疾患の発症」という現象においては、外敵から自分を守るためのシステムである免疫が、なぜ自分自身を攻撃し、破壊してしまうのか、という根本的な仕組みが十分に解明されていませんでした。坂口教授は、免疫応答を抑制する特殊なリンパ球の存在に着目し、その役割の解明に挑みました。しかし、そのような細胞の存在を裏付ける明確な証拠は乏しく、研究は決して容易なものではありませんでした。

 そして、制御性T細胞の存在を発見し、その免疫学的な重要性を世界で初めて示したのは1995年のことで、研究開始から15年以上を要した大きな成果でした。このとき、免疫の働きを抑える特定の細胞を取り除くと、自己免疫疾患が発症することを発見したのを機に、免疫応答を積極的に抑制する細胞集団が実在することが明らかとなりました。この成果は、免疫系が異物を排除するだけでなく、自らを制御する仕組みを備えていることを示し、免疫学の発展に大きな転換点をもたらしました。その後も研究を続け、制御性T細胞の発生や機能を制御する遺伝子を発見したのは、更にその8年後の2003年のことでした。

 これら一連の研究成果は、自己免疫疾患やアレルギー、移植医療、がん免疫療法など幅広い分野に大きな影響を与え、現在の医療研究の発展につながっています。坂口教授の研究は、長年にわたり粘り強く追究する基礎研究の重要性を示す代表的な事例として高く評価されています。

 北川教授のMOF研究は、突然生まれたものではなく、配位高分子化学における構造研究の積み重ねから始まりました。大きな転機となったのは、1992年に報告した銅(I)錯体のハニカム構造です。この結晶では、金属イオンと有機配位子が作るネットワークの空間に有機分子が取り込まれていました。北川教授は、この構造解析の過程で「この空間は利用できるのではないか」と直感し、密なネットワーク構造から、分子を取り込むことのできる多孔性ネットワークへと研究の方向を大きく展開しました。

 その後、1997年には、安定な細孔を持つ金属─有機骨格体を合成し、酸素、窒素、メタンなどの気体分子を吸蔵できることを世界で初めて実証しました。これは、MOFが単なる結晶構造上の空間を持つだけでなく、実際に気体を取り込み、放出できる機能性材料であることを示した重要な成果でした。この発見により、MOFはガス貯蔵、分離、濃縮などに応用できる新しい多孔性材料として認識されるようになりました。

 さらに、北川教授は、MOFの細孔は常に硬く固定されたものだけではなく、外部刺激や取り込む分子に応じて構造を変化させる「動く空間」になり得ることを提唱し、実証しました。これは、従来のゼオライトや活性炭のような剛直な多孔性材料とは異なる概念であり、「ソフトな多孔性結晶」という新しい材料観を切り拓くものでした。

 この流れは、分子を設計する化学から、分子が集まってできる結晶そのものを設計する化学への転換を意味します。北川教授の研究は、配位高分子から剛直なMOF、さらに、柔軟に応答するソフト多孔性結晶へと発展し、「設計できる結晶」と「動く結晶」という新しい考え方を化学にもたらしました。これらの成果が、2025年ノーベル化学賞で高く評価された重要な理由です。

 このように、坂口教授と北川教授のいずれも、最終的にノーベル賞の受賞に至る高い評価を得るまでに、長い時間をかけて研究に打ち込んできたことが分かります。長期間研究を続けていくことは、研究者個人の資質や能力だけで成り立つものではありません。例えば、研究を行う設備や機器、実験の材料等をそろえるためには資金が必要となり、様々なデータを集めて研究を進めていくためには、研究を行う体制や様々な協力関係の構築等も重要となります。一方で、こうした研究資金の調達や研究環境の整備を研究者が独力で十分に行うには限界があることから、政府としても研究者が研究に専念できるよう、様々な支援に取り組んできています。2025年にノーベル賞を受賞した研究者も、政府の支援制度等を活用しながら研究を進め、大きな成果を挙げられたこと等からも分かるように、政府としては、引き続き基礎研究をはじめとする研究への支援を行っていくことが重要となります。

3.「知」を活用したイノベーション創出までの流れ

 研究者の絶え間ない努力から得られた新たな「知」は、人類がこれまでに知り得ていなかった知識であり、その存在そのものが私たちの財産となるものです。私たちは、研究によって得られた「知」を基にイノベーションを生み出し、生活に生かすことで、暮らしを豊かに、そして便利にしてきました。イノベーションを引き起こす構造は、第1節に記載のとおり、時代の移り変わりとともに変わってきていますが、研究者の自由な発想から得られた「知」が基になることは変わりません。

 基礎研究で得られた「知」を社会実装につなげる手段としては、企業との共同研究や技術移転機関(TLO(※11))を介した研究成果の移転、あるいは研究成果を生かしたスタートアップの創業等の様々な形が見られています。坂口教授と北川教授も、研究活動だけでなく、その成果を社会実装に結びつける取組を進めています。ここでは、それらの取組例を通じて、「知」を基に新しいイノベーションが生み出されるまでの流れを見ていきましょう。

 坂口教授は、制御性T細胞がウイルスや細菌といった侵入物に対する免疫反応等を制御する仕組みに大きく関わることを明らかにしただけでなく、その原因について研究を進める中で、自己免疫疾患等の患者の細胞には遺伝子に特異的な異常があり、制御性T細胞がうまく生成されないことを発見しました。これは、免疫反応が制御性T細胞の量の増減によって制御されており、制御性T細胞を増やすことで免疫反応を抑える方向に調節されるということを示唆しています。

 この制御機構が明らかになったことは、自己免疫疾患に対する治療方法の開発等につながることはもちろん、様々な疾患の治療への応用等にも期待されています。例えば、がんは正常な細胞の遺伝子に異常が生じ、がん細胞へと変化することなどによって発症します。免疫細胞は、がん細胞を異物と認識し、攻撃・排除する仕組みを備えていますが、がん細胞は、制御性T細胞が免疫反応を抑える仕組みを巧みに利用します。具体的には、がん細胞が、免疫細胞等による攻撃を逃れるために、制御性T細胞を自らの周囲に呼び寄せ、その免疫抑制機能を活性化することで、他の免疫細胞による攻撃を逃れるのです。その結果、本来であればがんを攻撃するはずの免疫細胞等の働きが抑えられ、がん細胞が増殖すると考えられています。

 言い換えると、坂口教授が発見したこの制御機能は、私たちの免疫反応に関わる疾患に対して、制御性T細胞の量や働きを制御することで、新たな治療法に結び付く可能性(※12)を示しています。こうした「知」を基に、実際に制御性T細胞の働きに着目した社会実装の動きも見られています。

 レグセル株式会社(以下「レグセル」という。)は、自己免疫疾患患者の免疫寛容を回復させる新たな免疫関連医療を創出し、自己免疫疾患の治療法を根本的に変革することを目指すスタートアップ企業です。坂口教授も創業に携わり、その研究成果を生かした取組が進められています。政府としては、国立研究開発法人におけるスタートアップ企業向けの出資や、創薬ベンチャーが実施する実用化開発の支援等によって同社の取組を後押ししています。また、坂口教授の研究成果を基にした企業との共同研究等を通じて、医療等への応用に向けた研究開発等が進められています。

 北川教授が開発したMOFは、その後の研究の進展により、更に多様な機能を有することが明らかになっています。MOFは、分子レベルの微細な細孔を利用して気体や分子を効率的に貯蔵できますが、細孔の大きさや内部環境を精密に設計することで、複数の物質が混在する場合でも、特定の分子のみを選択的に吸着し、分離する機能を持たせることができます。さらに、MOFの骨格内に特定の金属イオンや機能性分子を組み込むことで、吸着した分子を化学反応によって別の物質へ変換する機能も期待されています。このように、MOFは貯蔵・分離・変換といった多様な役割を担い得る材料として、大きな可能性を有しています。

 こうした知見の蓄積により、MOFの社会実装に向けた研究開発が世界的に進展しています。例えば、既存の多孔性材料と比較して極めて大きな表面積を持つMOFを利用することで、ガスを高効率に貯蔵・輸送する技術への応用が期待されています。また、細孔構造や金属イオン、有機配位子の組合せを最適化することで、従来は分離や精製が困難であった物質を、低エネルギーかつ高効率で分離する技術への応用も期待されています。

 北川教授の研究成果を活用した具体的な取組も始まっています。例えば、経済産業省が新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO(※13))に造成したグリーンイノベーション基金による「CO2の分離回収等技術開発」プロジェクトでは、二酸化炭素(CO2)の分離・回収を担う材料としてMOFを活用する研究開発が進められています。こうした技術は、産業分野における脱炭素化への貢献が期待されています。

 また、MOFの実用化を目指すスタートアップ企業も登場しています。株式会社Atomis(以下「Atomis」という。)は、北川教授の研究成果を基盤として、多孔性材料に特化した研究開発やサービス提供を行っています。同社は、MOFの社会実装を推進するため、大学における基礎研究と企業ニーズを結び付ける役割を果たしており、政府による支援も行われています。

 このように、北川教授によるMOF研究は、新しい学術分野を切り拓いただけでなく、エネルギー、環境、化学産業など幅広い分野におけるイノベーション創出へとつながっています。

 坂口教授や北川教授だけでなく、様々な研究者の研究活動によって生まれる「知」は、新たな価値が見出され、実用化に向けた取組等を経ながら、製品やサービス等として、私たちの元に届いています。第1節で述べたとおり、近年の基礎研究からイノベーションの創出までの構造はより複雑化していますが、新しい「知」を生み出す科学技術そのものと、イノベーションを創出し、経済発展や社会課題等に結び付ける取組を我が国全体で増やしていくことが重要であることは明らかです。一方で、「知」を生み出す研究現場を取り巻く環境には様々な課題が存在しています。また、社会実装に向けた取組を進めていく中でも、研究開発や事業化における障壁があります。

 第2章においては、こうした課題を解決し、「知」とイノベーションの創出を増やしていくための具体的な取組も含め、我が国の科学技術・イノベーション政策の方向性を示した、第7期基本計画の解説を行います。


  • ※1 Induced Pluripotents Stem cell
  • ※2 Artificial Intelligence
  • ※3 免疫系を担う白血球の一種。体内に侵入した細菌やウイルスなどの病原体や死んだ細胞の破片を飲み込み、分解する。「食細胞」とも呼ばれる。
  • ※4 骨髄にある造血細胞から作られる白血球の一種。白血球の中でもリンパ球に分類され、体内にあるリンパ球のうち約20~40%ほどがB細胞に当たる。
  • ※5 免疫系を担う白血球の一種。骨髄に存在する造血幹細胞から生まれた後、胸腺に移動して成熟する。T細胞の名前の“T”はThymus(=胸腺)から来ている。胸腺に移動した後、幾つか異なるタイプのT細胞に成熟する。
  • ※6 胸骨の裏にある組織で、骨髄で作られた未熟なリンパ球が正常に働くようにする役割を担っている。
  • ※7 Metal-Organic Framework
  • ※8 Porous Coordination Polymer
  • ※9 一方の原子が非共有電子対を提供し、他方の原子がそれを受け入れて生じる共有結合
  • ※10 原子が電子を失ったり受け取ったりして、電気を帯びた粒子になったもの
  • ※11 Technology licensing Organization
  • ※12 参考:国立がん研究センター研究所「免疫のブレーキ役『制御性T細胞』とがんの関係」
    https://www.ncc.go.jp/jp/ri/about/our_research_focus/h_nishikawa3/index.html
  • ※13 New Energy and Industrial Technology Development Organization

お問合せ先

科学技術・学術政策局研究開発戦略課

(科学技術・学術政策局研究開発戦略課)