コラム9 個の創造性を大切に

 今後我が国はどのようにして科学・技術を振興していけばよいのか。我が国と米国で企業研究者として大きな業績を上げられ、教育者としても活躍を続けられている、1973年ノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈博士にお話を伺った。


写真提供:江崎玲於奈博士

サイエンスの心

 はじめに、「サイエンスの心」というものがあれば、それは何であろうかと問うてみたいと思います。一言で言いますと、それは「cogito(自我の深い思考作用)」でしょうが、もっと広い見方を取りますと、サイエンスの基礎を築くことに心血を注いだ「多くの偉大な自然哲学者達の論理的思考力」であると言ってよいのではないでしょうか。
 「サイエンスの心」を持つ代表格に、デカルト(1596〜1650)がいます。彼は鋭い理性のもとに、知識を論理の枠組みの上に展開しました。そして、法則が支配する宇宙は合理的に構成され、すべてが因果で結びつき、数理解析ができると、それを薦めました。彼は中世の不確実な学問に飽き足らず、数学のように形式論理に基づく確実性を持つ学問(サイエンス)を築こうと努めたのです。また、全体を分析できる小部分に分解して研究する、いわゆる還元主義も彼が提唱したものです。この数理解析と還元主義の二つが近代科学を飛躍的に発展させる強力な武器となりました。「cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)」はデカルトの考えを示す、よく知られた言葉です。
 ニュートン(1642〜1727)は、「あなたはどうして未来に通ずる偉大な業績を挙げられたのか」と問われた時、「私が他の誰よりも遠くの方を見ることができたとするならば、それは何としても、背の高い巨人の肩の上に立ったからです」と答えています。ニュートンが言う巨人の代表はデカルトであったと考えてよいでしょう。

 サイエンスにおいては、このように次々と巨人の肩の上でなされる仕事は、すべて論理的整合性をもって積み重なるので、止むことなく進歩は続きます。私のエサキダイオードや半導体人工超格子の仕事を考えても、ブロッホ、ゼーナー、ショックレーなどの巨人の肩の上でなしたのだと言えるでしょうし、また、私の肩の上でも新しい仕事が次々となされているのが現状です。
 科学文明の強さは、何としても、「進歩」が内蔵されていることです。芸術や文学などの文化について考える時、それらは変貌を遂げますが、必ずしも進歩という概念は当てはまらないように思われます。デカルトではないが、今でも論理に基づくサイエンスは確実性が最も高い学問であることをもっと誇りにしてよいのではないでしょうか。
 私は18歳の時、戦時中でしたが、旧制第三高等学校で土井虎賀寿(とらかず)という学内では有名な先生の名講義に感動した覚えがあります。「論理学は古代ギリシャに始まる。最初に触れたのはソクラテス、次いで、その弟子プラトン、さらに続いて、その弟子アリストテレスの手で進展した。」講義に使った彼の著書「原初論理学―ヘーゲル的ロゴスの発展」のはしがきに、自分は青春の十幾年、心血をしたたらせながら、労苦の限りを尽くして仕上げたと記しておられました。この彼の理想に燃えて学問に取りつかれた心は学生たちの心をもとらえて離さず、われわれを論理の世界に引きずり込みました。このように、「サイエンスに取りつかれた心」を持つ先生こそが高校生に「サイエンスの心」を伝えることができるのです。

個の時代

 さて、20世紀最大の発明は現在の高度情報化社会を可能にしたバーディーンとブラッティンによる半導体トランジスタ(1947)でしょうし、最大の発見と言えば、ワトソンとクリックによる遺伝子DNA(1953)が挙げられるでしょう。
 我々各人は固有の遺伝情報により、自分だけの特徴ある容姿、素質、個性を持っています。今ここに、任意の二人を選び、ヒトゲノムDNAの30億に及ぶATGC4種の塩基配列を比べますと、99.9パーセントは同じですが、約1,000に1の割合で違うのです。このわずかな違いで個人の識別が可能になるので、犯罪捜査や親子の鑑定などに使われています。

 従来は、「99.9パーセント同じはすべて同じ」と見なされ、人々は画一に取り扱われ、教育されました。しかし、今や0.1パーセントの違いから来る各々独自の「個」が重視される「個の時代」を迎えるようになったのです。
 ここで、我が国のサイエンスを一層発展させるためには、理数の論理に優れた才能を持つ「個」の活躍に期待せねばなりません。そのような才能に恵まれた子供は米国では200人に1人いると言われています。そして、これらの子供の才能を特別教育で伸ばすことに米国の教育界は大変力を入れています。日本でも、スポーツ選手になり得る子供や、音楽や絵画の才を持つ子供に対すると同様、様々な機会を設けて、理数の天性に恵まれた子供を見いだし、その育成に努めなければなりません。我が国の多くの高校生が積極的に科学オリンピックに参加するのも、才能を見いだす良い機会を与えるのではないでしょうか。
 我々の知的能力は二元性を持っています。一つは、「分別力」で獲得した知識に対する、解析、理解、判断、選択の能力です。もう一つは「独創力」で、それには、核心をとらえ実体を見抜く独自の洞察力と、豊かな想像力と先見性のもとに新しいアイディアを生み出す創造力があります。洞察力は発見に、創造力は発明に結びつくでしょう。
 天性を育成する教育には二つあります。「教わる教育」と「自ら学ぶ教育」です。「教わる教育」は真似る、聴く、読む、覚えると受身型で、これにより「分別力」が身につきます。一方「自ら学ぶ教育」は、疑う、考える、探求する、実行すると自主的で、これにより、サイエンスを進歩させる原動力となる「独創力」が培われます。
 「教わる教育」が重視されがちな我が国では、「分別力」は育成されても、洞察力や創造力などの「独創力」の育成については不十分である場合が多いように思われます。サイエンスの世界では、「大器晩成」とか「年功序列」などは適切な言葉ではありません。現代の科学の進歩は若者たちが発揮する「独創力」に大いに依存しているのです。我が国においても、女性を含めて若者たちが自由闊達(かったつ)に活躍できる環境づくりが一層望まれる次第です。

知の世紀

 先進国での個人と集団について考えてみましょう。これまでは、とかく集団全体の安定と繁栄に主眼を置き、個人は全体に尽くすとする集団志向が社会のあるべき姿と見なされてきましたが、これからは、個人の独創力発揮による発展に焦点を当て、集団全体は個人の活動の場であるとする個人志向の強い社会に移りつつあるように思われます。
 今や、多様な才能が開花する「個の時代」を迎えた先進国では、集団志向より個人志向の社会へ、上下の階層社会から横並びのネットワーク社会へと移り、「個」の独創性に依存する知識集約型の「知の世紀」へとパラダイムは大きくシフトしています。ここでは、経済産業から文化教養活動にいたるまで、何ごとも知識主導で行われ、サイエンスを含め、体系づけられた知識が社会の原動力となる「知の世紀」を迎えています。そこで、日本を発展させるためには「知力立国」に積極的に取り組まねばならなくなりました。我が国の大学における「知」を創(つく)り、「知」を伝え、「知」を活かす活動の重要性は一層高まったと言えます。
 さて、目的に応じて「知」を大きく分類してみますと、(1)基礎知識(物理、化学、生物、数学など);(2)社会基盤のための知識(工学、社会科学など);(3)人間のための知識(医歯薬学、人文科学など);(4)人類生存のための知識(環境科学、国際関係など)の四つの分野になるでしょう。もちろん、いずれの「知」も重要であることには変わりはありませんが、最近、先進国では(3)と(4)の分野の研究が重視され、この分野における進歩が特に著しいと思われます。
 今日、進んだ情報技術のもとに急速に「知」が伝わるインターネットカルチャーはますます栄え、グローバルな「知」の創造競争は激しくなっています。ここでは、「個」の鋭い洞察力と豊かな創造力が最強の武器であり、それを基に優位に立てば、やはり大きな満足感を味わうことができるということをつけ加えて、私の話を終わります。

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