第1章 4.2.(2)メディア・リテラシー教育の教材を改善・充実させる

 現在は様々な情報が氾濫している。その中から必要な情報を取捨選択し分析、加工して知識として活用していくことが求められている。この能力はまさに国語教育の中で培うものである。これまで国語では主として文字となった情報を扱ってきているが、映像や音声といった情報から読み取る力についても国語で教えるべきである。現に諸外国では文字となっていない言語情報を扱う国が多い。現在の教科書においてもメディア・リテラシーを扱っているが、その範囲を拡大し取り上げていく必要がある。

1 メディア・リテラシー教育の改善・充実の検討(その1)

a.国語科メディア表現能力・理解能力を育てるための教科書改善に向けて

 「メディア・リテラシー教育」という概念は、学校教育の課程における「国語科」という枠を越えて、もっと幅広い用語として使用されてきている。そのために、国語科の枠組の中から「メディア・リテラシー教育」を考えていくと、様々な問題にぶつかる。
 そこで、以下に、従来の「メディア・リテラシー教育」の考え方について検討を加えてから、国語教科書改善のために「メディア・リテラシー教育の改善・充実」に向けた提案を行っていきたい。
 これまで「メディア・リテラシー」と言えば、一般には「読み書き能力」とか「情報識別能力」と言い換えられて、主にテレビや新聞などのメディアから送り出されてくる情報を批判的に読み解いていく能力のことと考えられてきた。つまり、文字と共に映像や音声として送り出されてくる情報の意味するところを批判的に読み解く能力を育成する教育が提唱されてきた。
 このように考えられてきたメディア・リテラシー教育における「リテラシー」の実態は、文字であれ音声、映像であれ、それを読む(解釈)読み手、すなわち受け手主体の問題に多くの比重がかけられてきたことは否めない。
 身近にある「メディア・リテラシー」関係の文献の大半がそのような実態を物語っており、これは問題である。
 「メディア・リテラシー」とは本来、「読み書き能力」と呼ばれてきたはずである。にもかかわらず、「リテラシー」のもう一方の大切な要素である「書く能力」に関してはあまり取り上げられてきていない。「話す能力」、「聞く能力」に至っては全くと言ってよいほど欠落してしまっている。メディア・リテラシー教育が「音声を読む」という象徴的な意味を含んでいるとするなら、当然「話す・聞く能力(oracy)」も一緒に取り上げていかなければならないはずである。
 したがって、国語科教育の立場から「メディア・リテラシー」を問題にするとき、これらの「書く能力」と「話す、聞く能力」とは等分に取り上げられていかなければならない。要するに、従来の「メディア・リテラシー教育」では専ら情報を読み解く能力を育成するための教育という印象が強すぎたのである。
 そこで、本報告では、情報を「読み解く能力」に加えて、「書く能力」「話す・聞く能力」の育成を意識的に視野に入れていくという意図からあえて「国語科メディア教育」という言い方をすることにしたい。そして、ここで育成する能力を「国語科メディア表現能力」、「国語科メディア理解能力」と呼んでいくことにしたい。
 ところで、小学校に入学する前の子どもたちがすでに一定の「読み書き能力」を身につけてきている状況が出現してからかなりの年月が経っている。こうした能力は主にテレビなどのメディアを媒介として身につけられていることが判明している。メディアの持つ力は、子どもたちが物心ついた時から作用しており、メディアやメディアから発信される情報は知らず知らずのうちに子どもたちの生活の中に深く浸透していてその恩恵に浴している。
 だから、メディア教育というものは殊更に新しいことを始めるということではないのである。すでに子どもたちの中にある様々なメディアに対する能力、すなわちメディア表現能力やメディア理解能力を意識的に引き出してやり、それにさらに磨きをかけてやることなのである。
 さて、水越伸氏は「メディア・リテラシー」を「メディア使用能力」、「メディア受容能力」、「メディア表現能力」の三層(注1)からとらえている。つまりこれらの三つの能力の「階層化された能力」として複合的にとらえているのである。そして、これら三つの能力は、どれかが中心で重要だという性格のものではないと述べている。三つの能力は「たがいに関係しつつ全体としてメディア・リテラシーの総体を構成している」というわけである。
 確かに、コンピュータのインターネットの接続の仕方というメディア使用能力が優れていても、メディア表現能力が劣っていては実効性を持たないという場合があろう。しかし、従来の「メディア・リテラシー教育」の多くは、第二の「メディア受容能力」に力点を置いた実践が圧倒的に多かった。その点、国語科メディア教育では、先に述べたように「書く能力」や「話す・聞く能力」にも相応の力点を置いた実践の創造が目指されている。情報を読み解く能力は、メディアを活用して価値ある情報を積極的に創り出していく活動と併せて育成していくこともできるのである。
 情報を批判的に読み解くことをいくら強調しても、それがこれまでのように「受容能力」中心の「メディア・リテラシー教育」では、急速に変貌していく今日のようなメディア社会をたくましく生き抜いていくことのできる人間の育成はおぼつかない。本提案で、国語科メディア理解能力の育成と共に、国語科メディア表現能力の育成を目指した教科書の改善・充実を提案していきたい。

  • (注1) 「メディア・リテラシーと教育のゆくえ」谷川彰英他編 『21世紀教育と子どもたち3 学びの地平を求めて』
    平成12年3月 東京書籍

b.現行の小学校国語教科書の現状分析・考察

 前述したように、情報を読み解く能力はメディアを活用して価値ある情報を積極的に創り出していく活動と併せて育成していくこともできる。
 そこで、以下には国語科メディア表現能力を育てるための教科書教材のいくつかを取り上げて分析考察を行っておくことにする。

ア) 映像メディアを活用し表現する能力を育てる教材

―「写真や絵を見て伝えよう」(小4)―

 B社の平成12年度版国語教科書(4上)に「写真や絵を見て伝えよう」という単元がある。思い出に残る写真や心に残っている絵を友達に紹介することを目的にした「話すこと・聞くこと」、「書くこと」の単元である。
 家族との写真、友達と撮った写真、本や絵はがきに載っていた絵などの中から好きな写真や絵を選んで、文章に書いたり話したりして友達に紹介するという趣向である。
 「写真」や「絵」という映像メディアが語りかけている内容を読み取って言葉に表していくという学習である。
 メディアを活用し表現する能力を育てる国語の授業としては、最もシンプルな形の授業であろう。社会に氾濫している多様なメディアを取り上げて授業づくりをする場合でも、意識的に映像なら映像に焦点を絞って言葉との関わりを見据えた教材づくりが必要となろう。

イ) マスメディアを活用し表現する能力を育てる教材

―「新聞記者になって伝えよう」(小5)―

 同じくB社の平成12年度版国語教科書(5年上)に「新聞記者になって伝えよう」という単元がある。身近な事柄に取材して、新聞を作ったりニュースキャスターになって報告したりして「書くこと」「話すこと・聞くこと」の活動を仕組んだ単元である。
 この単元には、「みんなで新聞を作ろう」という教材と「ニュースキャスターになって伝えよう」という教材とがセットになって組み込まれている。後の教材は前の「新聞づくり」の実践の発展であり、どちらも取材した事柄は同一のものを使用することになっている。「ニュースキャスターになって伝えよう」では、前に自分が作った新聞記事をもとにして、その内容をニュースキャスターになって伝えるという趣向となっている。
 新聞づくりは、決して単純な作業ではない。「書くこと」の学習としては、指導すべきことがたくさんある。実際に新聞づくりをすることによって、「新聞」というマスメディアの表現上の特徴を理解することにも通じていくであろう。
 また、同一のニュース記事をニュースキャスターとなって話しことばで伝えるという体験を通して、文字メディアと音声メディアとの間の表現上の長短得失を比較しながら理解することが可能となる。
 この単元のように、同一のニュース記事を相異なる二つのメディア、文字メディアと音声メディアとを活用することで、両者の表現上の長短得失について体験的に理解させるという方法も今後に開発されていくことが期待される。

ウ)「CM」というメディアを活用して表現する能力を育てる教材

―「人物の魅力をCMにして伝えよう」(小6)―

 「人物の魅力をCMにして伝えよう」(小6)(『伝え合う力を高める国語教室』平成13年7月、B社)という実践がある。B社の平成12年度版国語教科書(小6)に収録されている「心をひかれた人物について研究しよう」という単元に基づいて行われた実践である。
 この単元では、本来、読書やインタビュー、フィールドワークなどの情報収集、小論文づくりや発表原稿づくり、プレゼンテーションなどの表現活動といった様々な学習活動が想定されている。
 この実践では、これらの活動のうち、やや趣向を変えて「心をひかれた人物」の魅力を「CM」にして学級の友達に伝えようとする活動が仕組まれている。例えば、「与謝野晶子」の伝記を読んで、自分が「コピーライター」になったつもりでこの人物の魅力を「キャッチコピー」の形で表現させるという趣向である。
 その人物の魅力をアピールして、その人物についてもっと詳しく知りたいなと思わせるような「キャッチコピー」に表現するというわけである。
 「CM」というメディアの表現上の特徴を理解しその長所を活用して表現する能力を育てようとした実践である。
 なお、このような広告・宣伝コピーづくりの実践に関しては、大内善一編著「新しい作文授業・コピー作文がおもしろい」(注2)に詳しい。

  • (注2) 大内善一編著 「新しい作文授業・コピー作文がおもしろい」 平成9年7月 学事出版

c.国語科メディア表現能力を育成するための教材の改善・充実のための方策

 国語科メディア表現能力を育成するための教材を開発する際のポイントは題材とメディアの選び方にある。学習者の実態に沿って題材を選ぶところまでは、従来の表現能力を育てるための授業と変わるところはない。
 異なるところは、取り上げようとする題材とメディアとの組み合わせにある。どのようなメディアを活用すればその題材の学習活動を円滑に効果的に進めていくことができるかがポイントとなる。
 表現能力を育てるための題材は何等かの制作活動を伴う。その活動によって何等かの作品が制作されることが多くなろう。そして、メディア表現能力を育成する授業では、この制作される作品自体が一つの「メディア」でもある。「ポスター」や、「CM」、「パンフレット」、「紙芝居」といった具合にである。
 要は、これらの作品を制作するのに最適なメディアとして何を選ぶかということが問われてくるのである。例えば、コンピュータやデジタルビデオカメラ、デジタルカメラといったニューメディアと呼ばれる機器を活用する場合も出てくるであろう。
 大切なのは、これらの機器を活用する際に言葉との関わりについて留意していくことである。様々な機器メディアは「文字」だけでなく、「映像」や「音声」といった要素との関わりが深いものが多い。国語科メディア教育ではこれらの「映像」や「音声」と言葉との関わりを絶えず念頭において教材を開発していくことが絶対的に必要な条件となる。

ア)ローテクメディア「紙芝居」からハイテクメディア「電子紙芝居」づくりまで

 栗原祐一氏の「紙芝居で育てる表現力」(中3)という実践がある。この実践のポイントは、あえて「紙芝居」というローテクメディアを活用している点にある。なぜ「紙芝居」なのか。紙芝居というメディアには、「映像」と「文字」と「音声」の三つの要素が含まれていて、これらが密接に関わっている。今日の電子メディア社会におけるハイテクメディアの最も素朴な形がこの紙芝居には含まれている。
 この着眼もそこにあったと思われる。実践の中身は4枚の絵から紙芝居のストーリーを考えるという趣向である。4枚の絵から意味を読み取ってそれをひとまとまりのストーリーとして構成して「紙芝居」に仕立て上げ、上演するわけである。この学習過程には、まず、映像を読むという段階がある。しかし、それは4枚の絵の相互の関連を考えながらひとまとまりのストーリーとして構成するという読み取り方が求められている。そして、まとめられたストーリーを「紙芝居」として音声化する活動が最後に設定されている。紙芝居を上演するのである。
 これらの三つの過程がいずれもメディア教育の基本となる。しかも、ローテクメディアとは言いながら、それぞれの活動は国語科の学習として重要な意義を持っている。活動としても決してたやすいものではない。映像を読む活動はメディア理解能力の育成に通じている。読み取った内容をストーリーとして構成する活動と、それを紙芝居として上演するという活動がメディア表現能力を育成する学習過程となる。
 このメディア表現能力を育成する学習過程のうち、紙芝居の上演の活動は、ストーリーを「語り」、登場人物の台詞をキャラクターにしたがって、「読み分ける」といった技能が要求されるので、かなり本格的な音声言語活動が展開されることになる。
 このように、4枚の絵から「紙芝居」を制作して、これを上演するという題材での学習活動は、メディアとしては紙芝居というローテクメディアでありながら、メディア表現能力を育てる上では充実した学習活動になっていくのである。

イ) 「デジタルカメラ」や「デジタルビデオカメラ」の活用

 「思い通りに場面構成!ビデオっておもしろい」(小4)(注3)という実践がある。公共広告機構のCMの発想にヒントを得て、小学校4年生の子どもたちに1学年下の3年生の子どもたちに向けてのメッセージをビデオ映像で伝えるという趣向の授業を行っている。
 子どもたちの選んでいるメッセージは「みんなで地球をきれいにしていこう」とか「働くおじいさん(地球の人たちへ)」といったものである。これらのメッセージを伝える方法として、「デジタルビデオカメラ」で撮影された映像が効果的に活用されている。
 また、「とっておきのスペシャルメニューをあなたに」(小5)(注4)という実践では、「デジタルカメラ」を活用した「架空のレストランのシェフとして料理の添え書きづくり」をさせるという実践が行われている。
 「料理の添え書きづくり」を行わせるので、そこで使用する写真は料理雑誌や広告から選ばせてそれらを自由に切り張りさせるという手法を用いている。中には、料理の本などから切り抜くのが難しいものもある。それらについては、「お客の五感においしさを訴える効果的な表現」として「デジタルカメラで作成した料理の合成写真」を活用させている。この実践は、「デジタルカメラ」を効果的に活用した注目すべき事例である。
 以上見てきたように、国語科メディア教育においても、「デジタルビデオカメラ」と「デジタルカメラ」という機器メディアの活用は、その扱いやすさからかなり有力な活用メディアとなりそうである。ただ、一部の実践の反省の中にも出てきているように、これらの機器を初めて使用させたために、十分に活用しきれなかったという実態も見られる。
 また、これらの機器を使って創り出した映像をより効果的に活用していくためには、それらの映像を「コンピュータ」を使ってうまく取り込んでいく技術が必要となるようである。
 こうした課題をどのようにクリアしていくかが今後に残されている問題点であろう。

  • (注3) 井上尚美編集 「国語科メディア教育への挑戦 第2巻 小学校編2(中学年~高学年)」 2003年 明治図書
  • (注4) 井上尚美編集 「国語科メディア教育への挑戦 第2巻 小学校編2(中学年~高学年)」 2003年 明治図書

ウ) 様々なソフトの活用

 「1年生だって、パソコンでカルタづくり!」(小1)(注5)という実践がある。小学1年生に「パソコン」で「カルタづくり」をさせるという趣向の実践である。提案者は小学1年生にパソコンでカルタ作りをさせるというこの実践に驚かされたものである。しかし、この実践では子どもたちにパソコンの「お絵かきソフト」を活用させている。今の子どもたちにとっては「コンピュータを使用するということ」がそれほど「特殊なことではなく、テレビを見ることと同じ次元で考えることができるような物」でしかないのである。子どもたちは、この「カルタづくり」において、コンピュータを使用して、「ゲームに親しむように、マウス操作で文字や絵の入力をしていた」のである。
 もちろん、小学1年生にコンピュータの操作をさせるには、この子どもたちに、「お絵かきソフトやパレット入力による文字で書き表したものを各個人がフロッピーに入れたり、サーバーに残したり」といった、メディア使用能力を身につけさせておくことが必要となる。
 ともあれ、この実践では「学校生活の思い出」が一年間にわたってコンピュータにデータとして保存されていて、コンピュータを使用してその「データのコピー・貼り付けという操作」が効果的に行われている。これらのデータが「カルタ」の材料として活用されているのである。そしてこの実践からは、パソコンの「お絵かきソフト」を活用することで子どもたちの表現意欲が高められている様子が如実にうかがえるのである。
 こうした実践を見ると、これからの国語科教育でもコンピュータやプロジェクターと一緒にこのような「プレゼンテーションソフト」を活用することがそれほど珍しいことではなくなっていくであろう。国語科教育においても様々なコンピュータソフトを活用した表現能力の育成が目指されていくことになろう。

  • (注5) 井上尚美編集、望月之美 「1年生だって、パソコンでカルタづくり!」『21世紀型授業づくり41 メディア・リテラシーを育てる国語の授業』 2001年 明治図書

2 メディア・リテラシー教育の改善・充実の検討(その2)

 国語科の全領域(読み書き、話し聞く)において、各種のメディアがもつ表現(作品等)を、さらに多く導入すべきである。そのためには、カナダやヨーロッパの諸国のように、学習指導要領に規定をいれることが先決である。その誘いとして、以下のような事項を掲げておきたい。

a.多様な表現媒体の必要性

 説明文の領域に、新聞、雑誌、放送(テレビ)、図鑑、手紙(紹介状、案内状、プログラムなど)、宣伝、インターネットのホームページやその記事など、学習者が手にし、耳にし、見ることのできる「多様な表現媒体」をとりいれる必要がある。
 現下では、各種のメディアの洪水にあい、流されるままになっている。
 興味本位の作品に時間をうばわれ、おちついて学習する時間の確保がむずかしい。時間確保の課題を解決しなければならないが、その場合、考えておくべきことがある。それは、児童の興味がそれほどまで表現媒体にそそがれていて、その現象が避けられない実態ならば、それらの媒体を禁止するだけではなく、まずは、媒体がもつ特性をあきらかにすることである。問題がどこにあり、制限すべき内容・範囲・時間などをとらえ、さらに、興味ある媒体の故に、学習に生かせる利点は何なのかなどの検討が欠かせない。指導者は、学習者とともに、この問題にとりくまなくては、いたずらにメディアの洪水に流されるばかりである。対応をせまられている領域であって、毎日のように出会う媒体であるから、日常的に、この問題を検討するのが当然ではないか。そのためにも、教材化が必要である。
 問題は、教材化するにあたり、特定の会社や、固有名詞が記載されていることが避けられないことである。検定上、この点が緩和されないと、実際に活用されているものは、教材化しにくい。批判していくためにも、実物が最適である。社会的な問題をふくみ、考量すべき課題ではあるが検討すべきといえよう。

b.自ら表現に生かす学習活動の導入

 読む教材で媒体の表現形態がもつ特性を学んだら、その知識の一部でよいから、自らの表現に生かす学習活動を導入する。これまでのいわゆる「作文」で意識されてきたような、原稿用紙に書く活動に限定されない広くて多様な表現活動に導く。長短さまざまな表現媒体から発想するだけに、そこには分量、語彙、文型など、さまざまな可能性(学習者の個性)にうったえることができる。連日のように出会う媒体なので、児童の日常生活に密着した表現となり、表現の必要性を自覚させるためにも効果がある。

c.視覚的な作品の教材化

 話し聞く領域においても、もっとも活発な活動が予想される話題となる。もっとも身近な事柄に属するものだから、友達同士の語り合いの気分でとりあげることができる。
 たとえば、アニメを、一連の絵コンテで示しておけば、物語の冒頭、展開、クライマックス、結末などの構成要素の学習もできる。人物と人物の関係、事件(伏線となる出来事、盛り上げる展開、決定的な事件)、それらを支える場面・背景(時と場所)、会話の効果など、文章表現で学ぶ事柄をも、愉快に指摘しあいながら、具体的に(映像化しながら)習得することができる。フランスでは、早くから、漫画が教材として推奨されてきていた。美術の国フランスなので、教科書中に、名画、挿絵などを豊かに活用してきた歴史があり、視覚的な作品の教材化を推進してきた伝統が漫画を教材と評価し認知し活用してきた。
 漫画は、一例で、他にも、映画のスチールを用いるなど、幅広い教材化が見られる。
 広告の写真一枚についても、話し合えば、きりのないほどの検討課題がみつかる。ロラン・バルトは、一枚の広告を分析することに、(文庫本)一冊の分量をさいている。もちろん、それは高度な記号学の分析で、学校で学習する内容ではないが、ゆっくり考察することのできる対象であることは、それからも分かる。

d.聞くことの教育のさらなる推進

 聞くことの教育をさらに推進するためにも、これらのメディアを教材に使うと、興味をもってとりくませることができる。児童は、先生の読み聞かせに楽しんで耳を傾けるのであるから、説教でなく、楽しい内容なら、すすんで聞いてくれるはずである。問題は、楽しさに加えて、注意して聞く活動をどのように用意するかである。ごくごく簡単な設問(ただし、楽しさを阻害しない、やさしく、すぐに回答できるレベルの設問をつくるのは難しい)を設けるだけで、二回目からは、何に注意して聞いておればよいかが分かる。聞くポイントを簡単な選択肢で示しておけば、楽しさと同時に学習する緊張感をゲーム感覚で味わわせることができる。

e.まとめ

 要は、多様な表現形態に出会わせ、その中から、自分にできる表現形態を習得させる点にある。興味のあるもの、自分でも試みたいもの、みんなに示してその効果を確かめられるもの、これらの活動が支えとなって、多様な語彙、文型、表現様式などを習得していくことが期待できる。マスメディアは、これらの諸特性をもっている。他の特性も数多くあるが。
 それぞれの形態の基本を学ぶことで、確実な批判もまた可能になる。基本を知らなくてもできる批判もあろう。それなら、苦労することはない。経験させるだけでできる。しかし真に、根拠をもって、批判に確実性をもたせるには、媒体に直面し、検討し、その基本を知って、長短を考えていくのは、かえって近道になるのではないか。

(大内 善一、中西 一弘)

-- 登録:平成21年以前 --