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21世紀の社会と科学技術を考える懇談会
―  第5回会合 議事録  ―

1.日  時:平成11年7月8日(木)  10:00〜12:00   

2.場  所:東海大学校友会館  「望星の間」

3.出席者:

  (委  員) 井村、石塚、廣田、村上、吉川、雨宮、石井、今井、小出、河野、後藤、立花、玉井、中西、中村、丸島、安井、山崎、米本、鷲田の各委員
   矢田部政策委員
  (事務局) 科学技術庁 青江科学技術政策局長  他
   文部省 佐々木学術課長  他

4.議  事

・座長  本日は、「日本の存立・発展と国際社会の課題」、その2として「科学技術と地球規模問題、国際政治との係わりを中心に」というテーマでご議論をいただきたいと考え
ている。

・委員  私は今日が初めての出席なので、何か話すようにと言われたのだが、これまでの議論の積み重ねを拝見して、私の意見を若干述べさせていただきたいと思う。与えられた時間では十分な説明ができないので、いろいろつくってきた資料を含めてざっと説明する形にしたい。
  今日の演題である「科学技術創造立国の遠い夢」という意味は、日本の現状は科学技術創造立国などとても考えられないひどい状態にあるということを端的に申し上げたいということである。
  その主たる論点は幾つかあるが、1つは、今の日本の高等教育というのは、本当にどうしようもない状態になっているということ。これは既にこれまでの議論の中で、山崎先生初め何人かの方がおっしゃっているが、これは大学教育の現場で現在の大学生の本当の知的水準に触れているかどうかによって全く認識が違う。しかし、実は1週間ぐらい前に、ここにいらっしゃる先生もご一緒だったが、宇宙科学委員会の評議員会があった。そのとき私の隣に座ったのが西村先生という、少し前までの宇宙研の所長で、今はたしか山形の方の工科大学の学長さんをなさっている。西村さんは、学長だけではなく、実際の現場で教鞭をずっととっていらっしゃって、それで今の2年生から愕然とするほど知的水準が変わった、驚くほど変わったとおっしゃっている。これは本当に日本の国は滅びます、と言っているわけである。
  その要点は、これからご説明するところにかかわってくる。その同じ評議員会でもう1つ、これは今の所長の西田さんがおっしゃったことだが、とにかく今あらゆるサイエンスの領域でアメリカの一人勝ちという状況が非常に強く出ている。それで、これまで、例えば宇宙研のかかわる領域だと、例えばNASAも日本の宇宙研というのはそれなりに高く評価していた。それだけの実績があるわけである。ところが、これまでNASAと宇宙研との関係を自分がずっと国際協力をやってきたが、ここのところ、愕然とするほど向こうの態度が変わった。要するに、完全にアメリカ一人勝ちの状況を踏まえた国際協力という態度になってきた。まだ宇宙研がやっていることは、いろんな分野でNASAがやっていることに拮抗する水準にある。しかし、これは恐らく日本のいろいろな研究教育機関の中でも少数の例外に属するところであって、本当に拮抗するレベルで研究学術をやっているところというのは、非常に少ない。しかも、それが将来どうなるのかといったら、これはもう暗たんとせざるを得ない状況にある。
  それは、1つは、その次の世代。次の世代というのは、つまり今大学で学んでいる連中にそういうレベルの水準がまるでない。そして、さらに次の次の世代である子供たちが科学技術というものに対して、劇的に離れてしまっている。それに対して、その原因を追求するとか、それをどうすればいいのかというような政策は今のところ本当にない。しかも、それをもたらした頑強の連中が何の反省もない。このままいったら、さらにさらにひどいことになるだけである。
  それで、資料の方にいくと、大学の学力崩壊というような話がこれまでもいろいろ出てきている。今日はあまり時間がないのでざっと申し上げる。学力崩壊の話題が出るときに一番よく出てくる話は、ここにある「分数ができない大学生」という本で、この帯に『信じられないでしょうが、大学生の10人のうち2人は小学生の算数ができません』と書いてある。これが本当で、どれだけ本当かということを、数週間前に、あるテレビ局が実証してみようということで、小学生代表1グループと大学生代表1グループ、どちらもたしか20人弱だったと思うが、同じ問題を用意ドンでやらせた。それで大学生が完敗だった。小学生は実はできる小学生を集めていた。大学生は平均的な大学生。それで、とにかく時間も成績も惨敗だった。大学生の中には0点というのがいた。これは分数レベルの算数をテレビで全部顔映しでやって、0点の大学生にマイクが突きつけられて、「恥ずかしくありませんか」と聞かれて、学生は憮然として「恥ずかしくありません」と仕方なく答えていた。本当にどれほどひどいかという話題が出るときに一番使われる資料というのが、実はこの資料番号1、2、3の1、2がその問題である。これは京都大学の先生と慶応大学の先生と、もう1人どこかの先生で、共同調査を相当のサンプルをとってやった結果である。
  問題一覧をばっと見ていただくと、小学、中学、高校レベルといろいろあって、3枚目の「資料C●私立文系平均点」というものの下に私のメモで、問題小学生レベル、これを5点、これが5点とある。要するに、全問題、単に・×でつけたという、こういう点数のつけ方になっている。中学レベルが12点、高校レベルが8点、合わせて25点が満点である。その25点満点に対して、この左側のアルファベットで書いてあるのが個々の大学名である。これは全部隠してあるが、aとbと、そのあたりは相当有名な、名前を出せばだれでも知っているような一流と言われている大学である。
  下の方にいくと相当落ちるが、要するに、この点数というものを今の点数の配分がどうなっているかをごらんになっていただければ、25点が満点だから12.5が半分。半分以下しかとれていないというのが数学未受験を見ると、もう下の方はほとんどそれである。それで、さすがに数学で一流大学に入ったという人間は、ある程度の点数はとっているが、資料1、2の問題と照らし合わせて見ていただければ、これは本当に今の大学生はそんなに点数が低いのかという感じになると思う。
  それで、実は、例えば東大の理  I  ですら相当の知的レベル低いのが入っているというのを示すのが資料5である。これは東大で理  I  の学生に物理を教えており、電通大でも講義を持っている先生がいて、自分の教えている学生たちに、これは実は問題が全部で10問あるが、ここに1番が地球1周の長さで、2番が東京−札幌間の直線距離。いわゆる知識を問う問題ではなくて、正常な頭の使い方を問えば間違いようがないというか、ぴっしり答えが出なくてもある幅を持って当然当たる、正解に近い答えが、少なくともそういう分布を示す得点が出るであろうと思われる問題を、たしか全部で10何問でしたか並べたものである。これを見ていただければわかるが、愕然とする答えを理  I  ですら相当の人間がしている。
  例えば東京−札幌間は 100キロ以下と答えるのが3人いる。こんなのは本当に信じられない。それから、このほか、実はこの2問しか持っていないが、もっと愕然とする答えが答え全部を見たら本当にある。これは何を問わなければいけないかと言えば、要するにそういう人間をセレクトしてしまった東大の入試を問うべきである。これはもうどう考えても頭が正常に働いていない。どっかとんでもない欠陥がある。そういう人間を入れて、それで日本の最高の大学の一番水準が高いと言われているコースを通った人間が、要するにこういう程度であるということを知っていただきたいと思う。
  それで、もう1つ、資料4の方は、こういう算数とか東大でたまたま先生がやったテストではなく、要するにあらゆる面でこれまでの大学の教育水準、特にいわゆる専門課程に進んだ学生に対して、これまでの標準的な大学教育を施そうとしても施せない。つまり、その基礎となる知識が全く欠けている。だから、今ほとんどあらゆる大学で補習が始まっている。東大でも補習をやっている。補習という名前はつけていないが、事実上の補習をやっている。それでも本郷の方では困っている。それは東大だけではない。もう日本全国でそれがなされている。どういうレベルの補習が今大学でなされているかを示すのが、この資料4の新聞記事である。
  そして、後ろの方を後で読んでいただければ、今もう大学によっては、大体大学にそんなにお金がないので、補習までとても手が回らない、しようがないから、丸投げで予備校に委託して予備校の先生が大学へ来て補習をやっているというう実態がある。
  先ほど言った前の宇宙研の西村さんがおっしゃっていたのも、本当に信じられない学力水準の低下というものがある。その原因はいろいろある。いろいろあるが、この資料4の左下の円グラフでどのあたりから学力低下が出たかというので、圧倒的に多いのが3〜5年前からということになっているが、これはどういうことが大きな原因になっているか。これはほかのいろいろな資料を照らし合わせると、実は非常に鮮明に浮かび上がってくるのは、後からお配りした短い方の資料だが、「高校理科科目と必修単位の変遷」というのがある。これで要するに高校で要求される勉強の水準というのが変わっている。その水準が変わると同時に、履修科目の何単位必要かという単位数と、それから科目そのものの数が変わっているわけである。それにあわせて大学の入試が変わった。大学の入試は別の理由もあって変わるが、要するにだんだん大学の経営が難しくなってきて、お客さんをたくさん集めるためにどんどん入試のバリアを下げていって、お客さんの呼び込み競争みたいなことをやって、どんどん楽な入試、楽な入試の方向にいくわけである。
  その結果として、大学入試で、これまでは常識としてやっていた科目をそもそも制度としてやらなくなってよくなったということもあって、しかも大学入試に出ないということになると、実際に勉強を放棄してしまう。それが数学の場合にどうあらわれているかが、先ほど示した資料3の数学受験組と未受験組の愕然とするほどの学力差である。この未受験組ですと、つまり小学・中学生レベルまで完全にできていれば、先ほどの点数の配分でわかるように17点とれるはずである。それすらとれていない。つまり、中学以下のレベルになっている。同じように、この制度変更によって、特にサイエンス系は2科目は一応高校でやるけれども、2科目は中学生レベルのまま大学にきている。これは制度的にそうなっている。その人たちが、例えば非常にいろんな不合理があって、センター試験の日程で物理と生物が同じ日になっているから、これを両方とるという人はいない。そうすると、頭がいい子は、実は物理というのは数学と同じで点数がとりやすい。そうすると物理をとってしまう。そうすると、生物とらないで理  III  にいくという人間は物すごく多い。だから、理  III  、つまり医学部にいく4割が生物をとらずに、ほかの科目、物理か何かをとっていたわけである。
そうすると、実際に生物を高校できちんと−きちんとまではいかなくてもいいが、予備知識的な学習をやったかどうかによって、大学に入ってからの点数が非常にはっきり出てくる。そのままではというのは、特に医学部では、現在の医学というのは、ほとんどが分子医学化している。医学の最先端は分子生物学がわからないと全くフォローできない。薬の効き方から何から何まですべて分子生物がわからないとわからない。そういうことになっているのが、それじゃとても学生に教えられないので、何とかしろということでいろんなことをやっているわけだが、そういうだめな制度がどの辺からどうできて、それがどう変わったかということを示すのが後からお配りした「高校理科科目の必修単位の変遷」、これを見れば一目瞭然、どういうふうに大学で要求される科目が減ってきたかということがわかる。それが教科書の採用という観点から見てどう変化したかを示すのが資料6である。ここで驚くのは、この94年で最近の一番大きな変化がある。これで要するに半分中学生レベルの知識しかない連中が大学院にどどっと来て、そのままという状況がきている。
  それで、先ほどの西村先生がおっしゃっていた、とにかく今の2年生から驚くほど水準が変わったというのは、要するに94年高校に入って、その新しい制度のもとで教育を受けた連中、が今大学2年生になっているということである。だから、その前から少しずつ変わっているので、大きな変化があらわれているが、これが劇的に変わるのが要するにそこである。だから、あと数年すると、その人たち、本当にこれはもう日本は絶対このままいったらだめだと、みんなわかるような水準の連中が社会人としてどどっと出てくる。そのとき、本当に既に大学の教育現場にいる人たちは、もう何年も前から何度もそのことを体験して悲鳴を上げて、かつ警告を発し続けている、その話がやっと社会の人全体にわかってくるはずだと思う。特に日本の企業などは、その新しい連中を迎えたときに愕然とすると思う。要するに、日本の高等教育というのは、本当に今破綻状況にあるということがわかると思う。
  それで、これはここでお配りも何もしていない資料だが、割と最近、産業構造審議会の情報、産業部会の情報化、人材対策小委員会の中間報告というのが出ている。これが要するに日本のこれからの日本の生き方を考える上で、科学技術がどの辺が戦略的に重要かということは、2つで、1つは情報、もう1つはバイオ、これは多くの人の意見が一致していると思うが、その情報面でいかに日本の情報、これからの情報産業の担い手をつくるような教育が日本の教育に欠けているかを、これは詳細に報告している。それで、もう大学には望みをかけられないから専門学校に望みをかけるべきではないかぐらいの感じの書き方になっている。
  そして、これは私は随分前から実際にそういう連中にいろいろなことをさせてきた立場として、日本の情報教育というのは、いかにひどい、事実何にもないと言ってもいいと思う。もちろん大学によって違う。割とちゃんとした情報教育を有名でない新しい大学でやっているところがある。しかし、そういうところは新進の大学だから必ずしもいい子が集まらない。やっぱり国立、東大のような大学などは、いずれにしろ結局は次世代の担い手を育てるわけだが、形ばかりは情報教育を数年前からやっている。そしてハードもいろいろそろえている。しかし、教育はどうかというと、ほとんど何も教えてない。
  実は、私は興味があって、自分の学生たちに「君らこれ習ったか、これ習ったか」と聞くと、何も習っていない。そもそもコンピューターが何かということを教えていない。何を教えているかといえば、要するに手先の技だけ。例えばユニックスにどうエントリーして、どうすれば何ができるという、要するに自動車運転の運転技能のだけで、その背景にある仕掛けが何かということを基本的に教えていない。コンピューターが何かというときに一番大事なことは、そもそも今の学問の先端というか知識の先端では、記号論理学と、それからブール代数と電気回路理論というのが、これが一体になっている。それを半導体で実現することができる、そのプロセスの進歩と、三者一体、四者一体というこのポイントがコンピューターが何かというときに一番大事なことである。実は、これは例えば情報教育、何とか受験のための参考書みたいなことにはみんな書いてある話です。
  私は、数カ月前に駒場の2年生、2年生というのは、つまり教養課程から専門課程に進む学生に話してくれというので、そのとき話して、そこの会場で聞いた。コンピューターというのはこれが基本なんだけど、このことを知っている人いるかと聞いたら0である、1人もいない。もう1つ、僕はバイオに興味があるので、そのとき標準的なワールド・ワイドのバージョンの分子生物学レベルの知識の教科書を通して有名な『細胞の分子生物学』という、そちらの中村先生が中心になって日本語版をお訳しになっている本があるわけだが、それを持って行って、読んだことがある人はと聞いたら、たしか  500ぐらいいる中で2人ぐらいしか手を挙げない。
  それで、僕は、要するに大学レベルの分子生物学、つまりその中に、そもそもあらかじめ理  II  、理  III  の人はどれぐらいるか。大体、僕は何かやるとほとんどバランスよく理科、文化、しかも理科もバランスよく来るので、大体間違いないが、念のために理  II  、理  III  の人はどれぐらいいるかと聞いたら、たしか3分の1ぐらいいる。その人たちがみんな読んでいない。僕の常識としては、大学レベルの分子生物学というのはあそこから始めなければいけないと思って、あれを読んだ途端に今の学問の最先端、そういう分子生物学の世界がどこまで行っていて、自分たちとどれほど隔絶したレベルにあるかというのがわかって、それから物すごいショックを受けてはりきって勉強するはずである。しかし、そういう連中がいない。
  それで、今の大学に行くと、教え始めた最初のときにいろんな先生にいろいろ忠告されたのは、「今の大学生は、要するに高校生と思って下さい」ということである。授業にはよく出るが、本当の意味で学ぶという気持ちが全くない。もうそれこそ高校生、予備校生の難易度でいる。
  それで、先ほどの『細胞の分子生物学』は、実は今出ているのは第3版だが、それが出てたしか6、7年経つ。あれはそもそも原著の版を重ねるのが、それまでの新しい版をつくるのとテンポがちょっと遅れているということがあって、どうしたんだろうと思っていたら、割と最近、これは今年日本版がでたが、『エッセンシャル細胞哲学』というのは、これは実は細胞の分子生物学と同じ筆者グループがつくっている大学用の教科書で、これはアメリカで去年出て、日本で今年出ている。
  実はこの訳者が書いている頭書きを読むと、これを本当にショックを受けると思うのは、今やMITとかハーバードでは、要するにこのレベルの生物学というのが単に生物関係、その方向の学生ではなく、いかなる学問をやる連中にとっても必修になっているということである。そして、かつ関係がない学科をやっている教官にも学習が進められている。つまり、もうその辺で知識水準が全く違ってくる。これは先ほどの『細胞の分子生物学』は、ちょっと少し中身が古くなっているが、これは最新のところまで出している。しかも、あれはもともと大学上級生レベルのつもりで書いたと言っているので、確かに大学初級生には大変かもしれないが、これは読める。本当にもし日本がこれからグローバル・スタンダードで、特にバイオをきちんとやっていこうと思ったら、つまり大学生レベルで必ずしも生物系の学問にいかない人間もこれを読める程度、本当はそこまで教育水準を上げなければならない。そこに全くいっていない。
  それで、もう1つ、資料の7は、教科書記載事項の発見年代頻度分布というもので、これは後からお配りした英語のものと同じで、アメリカの「SCIENCE」という雑誌に私が書いたものである。実はここでこれまでのいろんな議論の積み重ねで討論されているようなこととほぼ重なるような内容がここに書かれている。これはとてもご説明している暇がないので、後で読んでいただきたい。一部の方には、たしかこの論文を書いた時点でお送りしてあるので、ご存じのものもあると思う。この下の方にあるグラフが、「SCIENCE」の下の注釈書きに「Authorized by the Ministry of Education 」というのは、これは私と「SCIENCE」の編集部のちょっとした連絡の行き違いで、このままだとこのグラフそのものが文部省のオーソライズを受けたみたいに読めるが、そうではなくて、文部省検定済みの教科書で高校の「SCIENCE」の教科書が扱っているそれぞれのアイテムが何世紀に発見されたことかということをまとめたのがこのグラフである。
  これを見ればわかるが、要するに物理と化学ではほぼ19世紀のことで、20世紀のことはほとんど教えていない。これは、20世紀のことを教えるための基盤を教えてないから教えられないということである。生物だけは20世紀のものが中心になっているが、これは要するに生物学の世界が完全に分子生物学をバックグラウンドにするようになった。20世紀の生物学を教えようと思ったら、それしかないわけで、そうするとどうしてもこうならざるを得ないというだけである。実際のその水準は何かということになったら、ほとんどこの左側と同じようなところ、つまり数学の本当の基盤となる知識、つまりこういうレベルにたどり着けるような基礎を与えるようなレベルではないということである。
  それで、今の日本の科学技術の水準がどれほどグローバル・スタンダードで、先ほど言ったアメリカ一人勝ちという状況で差がついているかを示すのが資料8である。これは主要国で生産されている科学技術論文の論文数のグローバル・スタンダードで、何%シェアがあるかというのは、この右側の軸。縦軸は、そういう論文のうち、要するに他者から引用される、つまり内容が学問の世界で評価を受けてクォートされるような水準の論文がどれだけあるかということを示す。だから、この斜めの線がその論文数と被引用度がイーブンになるラインで、これより下の方にあるのは、論文数では多くても、要するに数ばかりいろいろ生産されているが、さっぱりそのグローバルでは読まれていないという論文の生産者だということ。逆に、斜めの線の上にどれだけ離れているかによって、水準が高い論文がどれだけ出ているかということである。
  これで、このグラフの右側、これを見れば、要するにアメリカとその他の国というのがもう本当にどうしようもないほど離れているということが、これはもう一見すれば明らかである。しかも、その数ではなくて、まさに内容において、被引用度において圧倒的な差がついている。それで、同じラインではとても比べなれないので、そのグラフの左下のところだけを拡大すると、日本やヨーロッパ各国が全部入ってくるんで、それを拡大したのがこれです。これを見ると、点々の一つ一つが年度による違いを示している。日本の場合は、ほぼ一本調子で、つまり年度による違いをずっとトレースしていくと、アメリカはなどはいろいろな変化があるが、日本の場合はほぼ一貫して論文数だけがふえているが、水準はさっぱり上がらない。つまり斜めのラインからこっち側に離れたままの状態で、ただ論文数だけが上がっている。
  この議論の中にもあったが、日本は既に科学技術に対してどれだけ予算を投じているか、どれだけ研究者がいるか、そういう水準ではとっくにグローバル・スタンダードになっている。しかし、では何を生産しているのかという、その産物の水準を見ると、アメリカ一人勝ちで、それに対する展望が全く開けないという状況のままきているということが、このグラフで明らかだと思う。そのことは、科学技術関係の人たちはみんな知っていることで、みんな知っているというのは、最近の科学技術の人は自分の領域しかほとんど知らないので、自分の領域に関する限りということなのだが、この資料9は、たしかここの場で既に科学技術庁からお配りされている資料の中に入っているものである。その中の、これは日本とアメリカだけ、それも基礎と開発研究・応用研究がそれぞれの分野をやっている人たちが、自覚的にどれほどアメリカと日本の差がついているかというものを聞いた、その答えをまとめたものがこのグラフになっている。
  これは、それ以上の説明は不要だと思うが、資料10と11は、これも10はたしか既にこの場でお配りされている資料の中にある同じものです。子供の理科離れというのがどれほど深刻に、しかもひどい方向にいっているかというのは、この資料10と資料11を見ていただくと非常に明らかである。つまり、子供のときはやっぱり理科はおもしろいと思っているのに、高学年に進むほどおもしろくなくなってくる。これは、要するにそういう教育しか文部省ができていないということだと思う。だから、理科離れというのは、本当に文部省自身が非常に深刻な反省をしなければならない。その結果として、どういう現状になっているかというと、資料11のように、これはOECDか国連かどちらか忘れたが、そこでやった調査に2つの答えを1つのグラフにあわせたもの、つまり「将来、科学を使う仕事をしたいと考えている生徒の割合」と「理科が大好き、また好きな生徒の割合」この2つの点において日本は最低である。
  今日は持ってきていないが、やっぱりOECDなどの調査で、日本の一般の人のサイエンスの知識水準を調べたものがある。サイエンスの知識水準ではなくて関心である。両方調べているが、これがいずれも世界で最低である。実は、この小中学生の知識だけをテストしたものだと、実はグローバル・スタンダードで悪くない水準にいっている。しかし、悪くない水準にいっているのに、将来そっちの方にいきたくないと思っている。
  このほか小中学生の理科に対する知識水準のひどさというものを示す資料はいろいろあるが、今日はとてもご説明している時間はないだろうと思って持って来ていない。しかし、数年前から日本の理科教育がとんでもないことになりつつあるということで、これは東大の教養学部の先生たちが中心になって、さらに先ほど東大と電通大で調査をなさったものは、物理学会でできている−大学の物理教育の研究会がやっている大学の物理教育という雑誌があるが、それに出ている資料で、このうちの後からお配りした資料も、たしかそれから持ってきたものである。
  それで、後からお配りした資料の左側にあるが、小中高理科の時間数の変遷で、これは愕然とするほど減っているというのは、この時間数の変化だけを見ていただければわかると思う。もちろん、じゃあ詰め込み教育に戻ればいいのかとか、すぐそういう議論が出るが、そうではなくて、詰め込み教育そのものはやっぱり変える必要がある。しかし、やっぱり教えるべき内容をきちんと教えるための時間数というのは、下げるととんでもなく下がってしまう。だから、先ほど言ったように、2科目は中学生の頭の大学生というのが、今や大学生のマジオチになっている。これがさらにレベルダウンが続く。たしか2000何年からは何科目かは小学生レベルでいいというような、そういう感じの大学生が制度的にできてしまう。そういう状況にあるということを知っておいていただきたいと思う。
  そういう状況に危機感を持った大学が、例えばそもそも大学の入試そのものを変えないと、本当に欲しいと思う学生の知識水準を得られない。それを変える試みをした大学が幾つかある。幾つかあるが、これは文部省がすさまじい監視をして、それは今の学習何とか水準の何とかの何とかを外れているとか言って、これはつぶされている。それは、実は教育系の国立大学で、これは要するにこういう小学生の理科の先生を今つくれないというわけである。なぜつくれないかというと、そもそも大学に入ってくるときに無知のままで入ってきて、その無知を補う教育が大学でできない。だから、そういう無知の再生産がこれからどんどんどんどん日本では繰り返されていく。
  そして、ある大学では、やっぱりその知識ばかりを問うから間違いだというので、実は実験そのものをその場でやらせる。その場で実験のやり方とかレポートの書き方を見ていて、それで入試にする。それは取り入れた大学があるが、そうすると、これは受験教育の弊害で、学生はそういうことが行われるということを知った途端、要するに実験を全部暗記してしまう。暗記に基づいて答えを出す。ところが、実験というのは要するに現実そのものだから、教科書どおりには必ずしもならない。そうすると困ってしまう。そういうことを一生懸命教えようとすると、学生はすぐ正解は何ですかと聞く。これは僕自身も経験があるが、要するに正解がすべてあって正解を覚えるのが勉強だと思っている。そういう教育で大学までずっときている。大学に入って、本当に最前線に出たときには、正解がない答えに次々にぶつからなければならない、それが全然わかってない。それを大学でそもそもそこの大転換というものを教えるという体制もない。そういう国が創造立国などできるはずがないということである。
  それで、もう少しだけまとめ的に述べさせていただくと、私は本当にこういうひどい状況にしたことに対しては、文部省というのは大変な責任があると思う。その責任の相当部分というのは、自分たちがやってきたこれまでの政策の結果がどう出たかということに対するきちんとした評価がなされていない。つまり今、文部省は盛んにかけ声をかけて、大学はみんな評価機関をつくって、大学だけではなくて国研もすべて、評価をやれやれ言っているが、文部省自身がこれまでやってきたことに対する外部評価はちゃんとしてもらったのか、自分たち自身の評価はしているのか、これがないわけである。この問題を論じると、いつもそこで大変な議論が出る。
  それで、そういう連中が、この後、科学技術庁と一緒になって日本の科学技術を導こうなんていうのは、これはもう本当にとんでもない話である。あの省庁合同をやる前に、私は科学技術庁と文部省側が徹底的にお互いに相手の官庁が何をやってきたのか、それが日本の科学技術をどれほどだめにしたかということをきちんとした反省をして、相手に問いかけて相当深刻な議論をやるべきである。その場合、私は科学技術庁の方にも相当問題があると思う。これは細かくは今できないが、その象徴は核融合である。核融合がどうしようもない水準になって、今実用化を目指す研究レベルと言いながら、実用化などははるか遠く、我々が生きている間には絶対にできないということは、これはもうその周辺の人たちはみんな知っていることである。もう何年も前からあれはだめだねというのが、これはもうサイエンティストの間で常識になっている。
  だから、例えば今若い連中の中には、若いときに核融合の夢をかきたてられて、核融合にいこうか、あそこにいこうかと迷った人間がいる。私が知っている非常に有名な知能工学の人が、やっぱり大学を卒業するときにものすごく迷ったというわけである。でもあっちにいかなくてよかった、あっちに行っていたらおれは一生台なしだった。一生台なしになった連中が山のようにいる。科学技術庁は、あそこにお金をがばがば注ぎ込んできたわけである。それで、実用化ははるかに遠い。これはその本当の評価というのをきちんと科学技術庁自身がやっていないからである。その評価の欠如というのは、無知とか何かでは結構ある程度やっているが、ああいうシビアな自己評価というのを、これまでやってきたことに対してきちんとしなければならない。この会も含めてこれからの日本の科学技術をどうするかを論じるときに一番大切なことはそのことである。要するに評価というものが常に伴わなければ、科学技術の未来というのは語れない。
  いろんな適当な言葉を並べたレポートというのは、幾らでもつくれると思う。そういうものは、もう既に実はいっぱいいろんな機関から出ている。今必要なことは、むしろそもそも科学技術立国に向けて、日本の科学技術をリードしていく一番大きなシステムの根本的な性格、あり方などについて、ここでいろんなふうにテーマをブレイクダウンして適当に何かしゃべったことを官僚がまたまるめて適当なレポートをつくって終わりということでは、これはもう全くだめである。将来とも日本の本当の未来というものを考えなければ、そこのところをきちんとやらなければならない。
  特にこういう科学技術会議みたいな、こういう大仕掛けなシステムの根本のところをどうするかという問題で大事なのは、やっぱりそもそも官庁というものは、執行官庁と企画立案に携わる官庁とがあって、科学技術庁は科学技術庁で執行部分が、例えばさき程の核融合なんか、あれは我が手でやってしまっているから、自分で首を切るわけにいかなくなって動きがとれなくなっている。これはやっぱり執行者は、本来、企画立案する人間の外において、そういうふうに厳しい評価をきちんと下せて、だめなときはそれを切るという、そういうことができるような体制をとらなければだめである。そして、評価機関というのを、つまり最近の官庁の中で一番評判がいいのは、金融監督庁だが、あのような非常にシビアな評価というものをきちんとやって、その評価に基づいて切るべきは切る、これをやらない限り、日本の科学技術の再生、これからの戦略目標を立てることも、その戦略目標を実現するだけの体制づくりもできないと思う。

・座長  教育の問題、それから評価の問題など盛りだくさんだった。時間の都合もあるので、先へ進ませていただいた後でそれぞれ質疑したいと思う。

・委員  私は、国際政治の立場から21世紀の科学技術のあり方ということでお話をさせていただく。今、冷戦が終わって次の時代はどんな時代だろうかということで、多くの人が非常にさまざまなイメージを描いて「世界はこうなる」とか、「いやああなる」と論争が行われている。国際政治的には、恐らく21世紀は10年前に始まったと言われているわけだが、そういう中で21世紀の世界はこんな世界になるというような様々な21世紀イメージが描かれている。中心になっているコンセプトに着目してごく大ざっぱに考えてみると、5つぐらいの21世紀世界のイメージが今、世界でいろんな論議として想定されている。その中で「我々はどう生きていこうか」という選択の議論が行われているだろうと思う。
  第1は、新しい西力東漸というか、まずやはりベルリンの壁が崩壊した。つまり、代表的にはアメリカのフランシス・フクヤマという学者が言ったような、いわゆる「歴史の終わり」現象。西の世界史的勝利により、もうイデオロギーの対立はない。その意味で「歴史は終わった」というわけです。言いかえると、この東側のシステムは崩壊して冷戦に勝利した西側のシステム、「市場経済」と「民主化」という根本理念が全世界を網羅していく、そういう世界秩序になるだろうというわけである。
  2つ目は、いわゆる「文明の衝突」といったパラダイムである。アメリカのハンティントンなどの議論がしきりに取りざたされるわけである。確かにいろんな地域紛争、宗教紛争みたいなものが世界じゅうで頻発するのはなぜだろう、こういう問題意識は多くの人が共有している。
  3つ目は、簡単に言うと、やはり21世紀はむしろグローバリズムが極限までどんどん進んでいく時代だろうと。フクヤマのような1つの価値観の支配というのではなく、地球が全き意味で1つの生活単位になるということを非常にストレートに考える、そういうイメージである。いわゆる「宇宙船地球号」イメージである。そして、国家は急速に意味をなくすとアプリ・オリに考え、いわゆるさまざまな”グローバルシュー”というものがこの世界のあり方、あるいは各国のさまざまな政策や政府の存在価値全体を根本的に変えていくだろうという見方である。
  4つ目に、やはり地域主義的な流れが中心になってきて、欧州は欧州、北米、アジアというような経済圏が中心になって、世界秩序が形成されていくだろうというような経済中心に考える地域主義的な流れである。
  5つ目は、少しオーソドックスに、21世紀はやはり代表的な幾つかの大国、あるいは非常に影響力の大きい国々や地域がどのような協力あるいは競争するか。いわゆる大国間の協調と協力、もとをいえば、古典的なバランス・オブ・パワーみたいなものがやっぱり21世紀も世界のなりゆきを決めていくだろうと。こういういろんなイメージが交錯して議論されているわけである。
  恐らく、これらはいずれもお互いに排他的に考える必要はないだろうと思う。どれか1つであるわけがないからであるが。こういうさまざまなイメージが交錯している中で、人々はしかし、実際日々の政策のアプローチというものを考えてゆかねばならず、ある程度の試行錯誤は避けられない。しかし、いつまでも立往生している国は、大きな未来を失うことになる。あるいは具体的な政策を論じる議論の場合に、どんなコンセプトがやはり実態として全面に出ているんだろうかというようなことを考えてみると、目下、最近10年間に出された国際政治にかかわるさまざまな雑誌や研究所のリポート、あるいは政治家の演説、国際会議、あるいは二国間・多国間交渉等での声明文や合意、こういったもののテキストをいわゆるキーワード的にずっと見ていくと、一番頻繁に使われている言葉、この10年で使用頻度が格段に上昇した言葉というのは、「市場経済」でもなければ「民主化」でもない。「民族」というような言葉でもなければ、「文明」という言葉でもない。それは「国益」という言葉である。冷戦後、この10年間に使用の頻度がこれほど格段に増した言葉はない。その意味では、国益ということが実は世界の大多数の国では、日々のさまざまな議論の中で最も浮かび上がっている言葉であるというふうに言えると思う。
  しかしやはり、この「国益」という言葉が使われている文脈というものは、従来とは異なっていることは確かである。今日のグローバル化、いわゆるグローバリゼーションが今や経済中心に、明らかに1つの現実になっている。したがって、このグローバル化が1つの現実になったという意味で、最近よく使われる言葉で「グローバリティー」という言葉が盛んに使われている。そして、その言葉が使われる文脈は、明らかに「グローバリティー」と「ナショナリティー」、国家単位で考えたり行動したりする傾向と、それを超えてしまおうとするトレンドの2つが、同時に生まれ、強まっている。この2つの傾向がさまざまなせめぎ合い、絡み合い、お互いに促し合い、あるいは打ち消し合う、そういうダイナミズムみたいなものの中に今の世界像を見ていこう、というような兆しが大きな文脈としてはっきりと読み取れるわけである。
  さて、そういう世界像とようやく見えはじめた趨勢の中で、日本の科学技術がいかにあるべきか。少し大きな視野から21世紀における科学技術をめぐる「日本の選択」というような観点で私なりに考えてみたい。まず国際社会との係わりという点では、もう皆さん方ご存じの通り、さまざま国際協力や国際貢献の枠組みというものが積み重ねられてきているわけである。こういう方向の推進ということは、言うまでもなく重要なことであるが、しかし、もう1つ、「グローバリティーVSナショナリティー」というような、こういう新しい世界秩序のもう1つの流れみたいなものを念頭に置くと、やはり各国とも科学技術の問題に関しては、冷戦後の姿勢というものがはっきりとある種の戦略性を帯びた動きというものが強く意識して打ち出されているようにも見える。これは、やはりある場合には、国単位で科学技術を囲い込んでいこうというような底流ともどこかでつながるときがある。
  特にこれからの日本には、ある意味では、「協調を通じての国益」というものを科学技術面でももっと戦略的・体系的に考えていくという大きな展望と姿勢が求められる。この場合、科学技術に関しては、これまでもやはり同じような議論はいろいろさまざま行われてきたが、今は各国の使う国益という言葉が少し従来よりは狭い意味で解されていることを日本としてどう考えるか、ダメならダメだ、あるいは日本もその流れにもっと沿うべきか、そろそろはっきりさせてゆかねばならない。そういうように感じることが最近、しばしばある。
  こういう状況は、長期的に日本にとってどういう意味があるかということは、やっぱりそろそろ真剣に考える必要があって、こういう傾向、過度に戦略的に考えて行動するというような傾向が強まる場合には、やっぱり日本にとって日本のさまざまな国際的立場を考えると、それはおかしいのではないか、それは少し行き過ぎているのではないか、というような声を体系的な政策として発信していくことも時には必要であって、やはり冷戦期、60〜70年代にアメリカを中心にして持ったある種の歴史的なオープンネスみたいなものをやはり日本がどういうふうに世界的に維持、発展という方向を確保していくかという議論をしなければいけないんだろうと思う。しかし、同時にまた、協力一点張りということで、日本だけそのパラダイムでずっとワンパターンに物を言い続けるということは、日本の狭義の国益を害するだけでなく、逆に国際社会で一体日本は何を考えているのか、という疑問にもこれまた結びつくわけで、現実の基盤を欠く理念主義を日本のような国が説くとかえって理解されず、広義の国益も害する恐れがある。
  これはやはり非常に難しい、常に多くの国が歴史上、このジレンマを感じてきた問題なわけである。日本の場合、幸か不幸か冷戦期には比較的そういうジレンマは、我々は余り身近なものに感じる必要はなかったわけだが、冷戦の終わり、世界的な秩序の変化、その中で冷戦の末期に日本が科学技術大国という地位に達したといっためぐり合わせが非常に大きいんだろうと思う。もう1つ言えることは、21世紀にさまざまな点でその国の「国柄」というようなことが問題になってくる。いわゆる”アイデンティティーゲーム”と言われるような潮流がある。この民族や宗教にかかわるさまざまな紛争が発生して、世界的に価値観や対立といったものが取りざたされやすい、そういう歴史の回帰というか、世界秩序というか、そういうものの浮上傾向が一方にはある。
  日本としても、やはりこれまでよりはっきりとした国家目標、ナショナル・アイデンティティーといったものを発信していく必要があり、それは国内的にも、教育の分野においても社会意識の上においても非常に必要なことだと思うが、そういうときに、とかくさまざまな魑魅魍魎が交錯しやすい。そういう難しい価値観とか意識とか、アイデンティティーといった問題では、非常に難しい時代が多分21世紀初頭なんだろうと思うが、その中でやはり「科学技術による立国」という1つの明確な国家像というものは、私は新しいインパクトを持ったコンセプトとして、日本はこれまで以上にはっきりと打ち出していく、そういう「日本の選択」として、21世紀の科学技術を考えるときの国策的意義づけが改めて必要なときだと思う。いわゆる日本の国家目標、ナショナル・アイデンティティーといった議論のときに、やはり「科学立国」というキーワードみたいなものを常に挟み込んでいく、そこへぶつけていくという努力が大切なように思う。
  国際的に見ると、以上2つの点を申し上げたが、最後にもう1つだけつけ加えさせていただくと、やはり国際政治と科学技術ということになると、どうしても安全保障という問題に目が向くわけであるが、安全保障に関しては、やはり現在、狭義の−狭い意味の安全保障という国際目標は、我が国の中長期的な国策としての重要性は高まることはあっても、決して低下することはないはずである。1つは、例の情報衛星の問題、あるいはTMDというような言葉が最近新聞紙上でこぞってよく論議されている。これは何百発も同時に飛んでくる状況に対しては、非常に遠い可能性の問題であるが、TMDといういわゆる戦域の対ミサイル防衛は短期的にも日本としてメリットの大きい構想で、いわゆる攻撃的機能を持たずに飛んでくるミサイルを打ち落とすという純防衛的なシステムです。ただそれをより完成形態のレベルに高めるには国の科学技術研究としての大きなコミットメントが求められる。というのもこの技術が、「弾丸を打ち落とす弾丸」という意味で、その技術というものは、まさに情報衛星どころか、情報処理の体系そのものである。ハードウェアの話ではなくて、まさに情報処理のシステムそのものがいわゆる「ミサイル防衛システム」というものといってよい。情報と宇宙というものは、狭義の安全保障においてもワンセットのコンセプトになりつつあって、こういう情報衛星だとかTMDとか今日わが国のジャーナリズムでも話題になるような話から、コソボの空爆に見られた画期的な変化とか、今のロシア、中国による欧米に追いつこうとするハイテク化の試みも中心のコンセプトは「情報化」である。つまりそういう話でもやっぱり基本的に「情報」の科学と技術ということが狭義の安全保障において決定的なテーマとなっている。
  また、「情報セキュリティー」という問題が広義の安全保障においても重要になる。これはいわゆるハッキングなんかに対する情報の安全というようなことが今、主要国の非常に重大な関心になって議論が進んでいるが、こういう狭義の安全保障というような話とは別に、やはりもう少し広義に安全保障と科学技術というような次元でも考える必要があるのだろうと思う。そうなってくると、やはり「情報能力にかかわる技術」が特に有事にどう対応するか、あるいはそういった軍事力の行使みたいな話とむしろ直結しない平時において情報にかかわる技術とその保全というものが国の安全保障にとって大変重要な決め手になってくる。むしろ純粋な防御的抑止、紛争を起こさせないシステム作りという、情報の安全保障にかかわる科学技術の体系というものがさまざまに構想されている。また、ニューサイエンス、これまでの常識で考えられないような、ブレークスルーを伴った技術の地平、これが将来の世界の安全保障を維持する非常に重要な柱だというような議論も出ている。これはアメリカなどが非常に力を入れて論じているわけだが、その中にはたとえば非常に大量の輸送能力とか瞬時に大きな力を発揮できるような無人の軍事システム、そういう安定力、または政治上リスクの少ない抑止力の構築の可能性も構想されている。特にこの「安定力」というスタビリティーパワーというような概念を用いて、将来的なシステムを考えてゆくことは日本の平和的な国是としても重要である。
  それから、安全保障にかかわる問題で、やはり知的所有権の問題は一段と重要になる。ある国が知的所有権の問題について1つの政治的なヘゲモニーをとったとき、それが広義の安全保障問題に波及し、非常に難しい知的所有権をめぐる政治紛争になりやすい。我々日本の常識では、余り安保上のインプリケーションを考えず、比較的、脱安保的コンセプトですんなりすっと議論してしまうが、外国の場合、やはりヨーロッパだけでなく今後はロシア、中国もそこへ参入してくるんだろうと思うが、対米の安保インプリケーションがあるような、そういう知的所有権問題等については、非常に難しい多国間の政治のプロセスを覚悟しなければならない。3年や5年ではこれは片がつかない、相当長く引っ張ってしまうような、また激烈な綱引きに至る可能性が多々ある。
  それから、広義の安全保障ということでもう1つ大切なことは、やはり一国が持つ科学技術の水準そのものが、それが軍事転用だとかさまざまな実用化に至らなくても、技術の水準そのものが安全保障に大きくかかわるということが21世紀の国際関係では、私ははっきりしてくる傾向ではないかと見ている。冷戦期のような緊張、あるいは現在のようなさまざまな小さな地域紛争への介入力が政治的影響力になっている。こういう時代は比較的、過渡的な格好で終わってくるんだろうと思うが、その後がやはりもっとポテンシャルとしての科学技術の国際的インプリケーションが、重要な広義の安全保障上の決め手となろう。軍事システムよりも国のポテンシャルとしての科学技術というものが安全保障面に決定的な意味を持ってくるというわけで、必ずしも軍事利用しなくても政治的にどの国がどれほどの科学技術水準を持っているかということが、その国の政治や安保がかかわるような国際秩序が浮上してくるということである。
  甚だ抽象的な話が多かったが、私の方としては、そういう日本にとっての我が国の世界の中で生きていく科学技術こそ「日本の理想と生存の支柱」というもっとはっきりした哲学を明確にしておくことが、日本の広い意味での国家戦略として、今どうしても必要になっているのではないかと、そういう問題提起としてお話をさせていただいた。

・委員  私の方に振られるのは、遺伝子組み換えの規制とか生命倫理の−私は、生命倫理という言葉は余り好きではないが、そういう課題で何かもしかしたらというふうに思っていたが、環境外交ということで少し話せということなので、むしろその環境外交の裏側にある現時点の技術の状況をかなり私の独断と偏見で、むしろわかりやすく、かなり強引にまとめてみたいと思う。
  もともと臓器移植とか組み換えの自然科学の論文と、広い意味の政治的な文書を同時に読むようなポストにいるので、ついでにというと何だが、主として温暖化、あるいは酸性雨、あるいは生物多様性条約その他をフォローし始めた。しかし、こういうものを見ていると、結局は90年代に入ってのアメリカの冷戦からの撤退、撤収、もしくは再編の上積み部分であって、本当にやりたい−やりたいというか、90年代のアメリカの科学技術政策というのは非常に単純で、ここのレジュメに書いておいたが、91年からのアメリカの科学技術政策の基本コンセプトは、軍民転換である。これはディフェンス・コンバージョンという言葉を確実に使っており、非常に明確なメッセージが2つある。
  1つは、基本的にアメリカは50年戦争を戦ってきて、アメリカというのはもともとモンロー主義の国だったが、第二次世界大戦で初めて戦争の開始初期から日本と直接戦争当事国になった。それで一時戦時経済になったが、それは4ページ目を見ていただくと、まさしく90年代のアメリカの科学技術政策のイントロの政府報告なのだが、基本的に我々は今アメリカは巨大な軍事国家だと思っているが、いわゆる国防費というのはもともとアメリカは全然持っていない国で、基本的にはモンロー主義の国だった。第一次世界大戦は、むしろ武器強要といって、これは完全に対外援助であった。だから、もともと国防費というのはほとんど何もなかったのだが−何もなかったというのはおかしいが、GNPでは大変に低い状態で、第二次世界大戦ではアメリカ史上初めていきなり戦争当事国になって、それで戦時経済になって戦争が終わったと思ったが、そのまま冷戦の当事国になって、90年までちょうど半世紀間、科学技術の歴史を見てみると、冷戦というのはともかく変な時代だったと思う。ともかく大変変な時代だと思う。これは国防費でいうと、冷戦国家というのは定義できて、要するに非戦時、戦争していないのに平時でありながら常時国防費を、GNPでいうと5%から1割近くを国家の国防費という名目で直接ぶん投げていたという問題が起きた。国防というとんでもない部分を常時抱えていた平時であったという、非常に変わった時代である。
  それで結局アメリカは50年戦争を戦ってきたわけで、90年に入ってだれが大統領になっても一人勝ちしてしまった冷戦体制の撤収、あるいは改編、あるいはデュアルユースというが、それをやらないといけない。だから、最初のターゲットというのは、ディフェンス・コンバージョンであって、技術開発するのに絶対に何かのミッション性がいるわで、このコンバージョンというのを辞書を引くと、これは収支がえという意味なので、要するに何か物を研究する、何か目的、合理性がないといけないわけで、それまでの50年間のアメリカの科学技術研究の総体の本音であるディフェンスという主たるテーマから、何かほかのテーマに変えないといけない。最初に挙げたのが地球環境への転用だったが、これはすぐやめた。
  もう1つ申し上げておくと、冷戦の特徴は核兵器の開発、維持展開である。だから、私はとっかかりで入ったのは、地球環境問題、何でこういうことが始まったのかということで入ったが、結局は世界じゅうに張りめぐらした核査察、あるいは核のコントロールのための情報システムを何かほかの、要するに核兵器抜きの世界同時巨大通信システムをほかのものに転用しないと示しがつかないというので、地球環境問題の転用でやろうとしたのだが、これはすぐやめた。やめたというのは、例えば今、中西先生のお話にあった早期警戒衛星というのがある。これは熱線を察知するのだが、それを例えばクロロフィルの吸収バンドに変えて世界じゅうの植物資源の活性を図る資源衛星にいわゆるダブルユースしようとしたが、これはすぐ計算をやめて、要するにそんなのだったらタンノウ衛星を上げた方が安上がり。国防というのは、ある意味でコスト無限大、要するに場合によっては血を出してでもある目的を実現するものであって、ともかく滅茶苦茶に金がかかる。科学観測というだけだったら、タンノウ機を飛ばした方がはるかに安いということがすぐわかったので、これは実はやめた。
  第1番目は、情報ハイウエイ構想でして、これは最初、グラスファイバーを置こうとしたのだが、要するにそれのメーカーは全部日本だというのがわかったので、これをすかさずインターネット社会にすりかえてしまって、それで情報通信社会をつくろうと。
  3番目は、民生転換であった。なぜそんなことになるのかというと、アメリカの科学技術の歴史を非常に単純に区分けすると、1940年までと、それから1941年から90年までと91年からに分かれると思う。
  2枚目を見ていただくと、もともとアメリカの技術開発イデオロギーというのは、プラグマティズムと自助努力で、これを2つ合わせると技術動員型現世改良主義という、ともかく科学技術を滅茶苦茶にに使って自分たちの生活条件をよくしようと。そのための科学技術でないと、余りもう最初から研究する動機がないということである。
  ただ、その場合は、1940年までは基本的には巨大農園を管理する技術。つまり、ともかく農業というのは科学技術を動員する特殊な最先端産業であって、それからもう1つは、通信とか自動車とかいうものは、第二次世界大戦が始まる以前は、ともかく西へ西へ巨大化する巨大農園を管理する通信技術、あるいは管理技術であったということになる。それが20世紀に巨大消費社会として、我々はどちらかというと都市文明しか見ていないが、ともかくアメリカの技術開発というのは、やっぱり巨大農園が頭にあると思う。
  それがすっ飛んで、現在改めてアメリカの農業というのは、要するにともかく科学技術を大動員する社会で、80年代の初めにアメリカの一部の巨大化学メーカーがアグリビジネスに大転換して、それが今完全に実用化になりつつある。アメリカが再投資しているから、もう1回世界も再投資しないと、ともかく遅れるとやばいというので、今改めて世界的なバイオの再投資の動機になっているが、どちらかというと、アメリカの80年代のかなりの大転換を今から日本とヨーロッパの化学メーカーが後を追うという、そういう状況だと思う。その状態で現在、ちょうど、この2年ぐらい、特にイギリスとアメリカで組み換え農産物の規制問題、ラベリングの話だが、それが技術の使い方、あるいは農業観がともかく全然違う。それが多分、特に最近の英語の雑誌を見てみると、何でイギリスとアメリカはこんなに組み換えでぶつかるのかという理由は、どうも農業観、あるいは農業に対する技術の動員感、あるいはアメリカにおける農園の位置が人の住んでいるところから全然離れているから、ともかく技術をぼんぼん使っても、だれもきっと文句言わないのではないかとか、そういういわゆる農業政策の違いが技術観に反映しているのではないかということを盛んに今言い出している。
  ところが、それを一言でまとめると、1940年までは、ともかくアメリカというのは、国は次を見ていただくと、連邦政府というのは、しょせん自由州が宗主国イギリスから独立するためにつくったたかだか一時的な連合体なので、内政には何も力を持っていない。ともかくアメリカの政策というのはせいぜい農業。戦前というのは、科学研究というのは州立大学による農業研究と、それから巨大財団による基礎研究しかなかったわけだが、日本といきなり戦争することになって、要するにそれによって中央政府は力を持てるようになって、初めて国家による科学動員が可能になって、それで初めて国家としての科学技術政策が本格化して、半世紀間は安全保障という名目で滅茶苦茶なお金をつけていた。
  先ほど中西先生の話にあったが、ポスト冷戦後はこのだぶついたお金と、要するに核というのは滅茶苦茶に破壊力があり過ぎるので、この核のコントロールのために巨大な通信システムと、それから巨大な国際政治機構をつくっていたわけなので、今度、核兵器抜きの核兵器文明体系というのは、この核兵器というのは非常に破壊力がでか過ぎるので、そのためのコントロールシステム、巨大通信システム。これは発射システムと、それから相手側の監査システム。それから、もう1つは、水爆設計のためにスーパーコンピューターがいるので、そういう意味では、実は核兵器という巨大システムをつくる体制が冷戦国家だったわけだが、その破壊力のコントロール、あるいは設計、あるいは相手国の査察のために核兵器文明の附属部分として巨大な通信情報コンピューター弱点システムが軍事としてアメリカの中では抱え込まれてきたということだと思う。
  90年代に入って、研究部門と技術部門を何とか民生部門に積極的に渡さないと、過去の半世紀間の莫大な軍事投資が何とも正当化できないというのがアメリカの科学技術政策の90年代の本音だろうと思う。
  もう少しそれを見ると、3ページ目を見ていただくと、アメリカ国内的には、せいぜい農業政策保護ぐらいで、産業政策でやってはいけないわけで、連邦政府というのは、いろんなことをやろうとすると大体が選挙民の方を向いているので、巨大資本を規制する側に回る。なるべくアメリカのロビーストというのは、政府が何にもやらないようにつぶす側になるわけで、その中で唯一国防という名目で莫大なセクターを抱えられたのが軍産複合体で、これが60年に冷戦体制が完成した時点でアメリカのアイゼンハワーがこれはちょっとやばいんじゃないかというので、変なものを抱え込んだということを言う。これはアメリカの言葉で言うと、ディフェンス・ゲットーと言って、とんでもない研究という動機でも、それから産業という動機でも非常に変わった産業を抱え込んでしって、これは軍規格・軍仕様、ミルスペック、ミルスタンダードという、そういう軍のスタンダードにあうためだけの製品をただただつくる。ともかくアメリカの経営者のノウハウ、最低のいろはであるマーケティングという言葉すら知らなかったという、そういうとんでもない巨大セクターである。
  その中に今申し上げたが、60年代は軍産複合体、ミリタリーインダストリー・コンプレクスと言っていたが、90年代の軍民転換の文脈では、ニュークリア・インダストリー・コンプレクスと言っている。その中で核兵器複合体というのをどう解体、再編するのかというのが90年代の科学技術政策の核になると。一部として、大学がそこにかかわってということになる。
  アメリカというのは、国内の産業政策、経済政策で実は何にもないわけで、唯一やれたのが軍事ケインズ主義と、それから金利動向、この2つしかアメリカの冷戦期の産業政策はなかったわけだが、結局、世界最強の軍事産業をつくることによって、国防という名目で巨大な公共投資を抱え込んで、そこを世界最高水準の産業システムにすることによって、そこからのスピンオフ効果によって、航空機、通信・弱電、コンピューターという、これがアメリカの間接的な軍事、要するにソ連がえらいことをやっているぞという名目で軍事費用、不況になると大きくして、それで非常にクローズドな軍産複合体をつくって、そこからのスピンオフ効果でアメリカの世界1級の通信、航空、コンピューターシステムができることによって、アメリカの軍事ケインズ主義が間接的に議会で承認されていたという構造だろうと思う。
  アメリカの理想的な研究の事由というのは、57年のスプートニクショックによって、初めてアメリカの理想的な大学の研究の事由というのは出現して、60年代に特に理工系ブームが起こって、大変に理想的な科学技術の大学が出現するが、これはやっぱり冷戦という巨大なドームの中で実現した非常に例外的な状況であって、やっぱりポスト冷戦というのは、これはアメリカが言い出したのだが、何のための研究、公的なお金をぶん投げるかということになると、これはもう国益しかないと。ですから、どちらかというと、国際政治も、それから基礎研究というものも冷戦のときに過剰になってしまったものをポスト冷戦時代にどうやってダブルユースするかというのが90年代のアメリカだと思う。
  特に例えば6ページを見ていただくと、このエネルギー省関係で滅茶苦茶な研究費、要するに核研究である。左側を見ていただくと、三大核兵器研究所で92年時点で年間予算10億ドルだから、日本の科研費相当分を1個の核兵器研究所が持っていたわけで、これが全部クローズドでやっていたのだから、それをともかく外側にくみ出すための予算措置が92年以降ものすごく増える。だから、これは要するに国防という名目で、ともかく物すごい技術投資をしているはずなので、それを見える形で外にくみ出すというのがアメリカの90年代の表向きの理由だと思う。
  もう1つ深刻なのは、実は冷戦維持のためのコストが非常に多くて、90年代に入って核浄化のための見積もりをやっている。これから75年間かけて大体 3,000億ドルぐらいかけてアメリカ国内の核浄化をやる。これがポスト冷戦時代の最大の環境問題の1つになる。
  それでもう1つは、国際政治とリアクションをやり出したかという、IPCCという温暖化に関する最新の科学知見を温暖化交渉にインプットする正式の科学的なアセスメントという作業の仕組みが国連で98年から承認されるが、それに至るまでにじわじわと基礎研究が国際政治のフレームワークの中で統合していくという過程がある。
  ところが、この自然科学研究そのものが国際政治のフレームワークをつくるというのは、ヨーロッパにおける酸性雨問題が非常にいいモデルであり、例えば10ページを見ていただくと、これはヨーロッパにおける酸性雨交渉のプロセスというのは、イーメップという共通のモニタリング組織があるが、これは1980年代には共通のコンピューターモデルでどの国はどのぐらい飛ばしているかというのは、既に共有されていた。それが冷戦後、一気に自然科学と国際政治が融合合体して、94年のオスロ議定書、11ページを見ていただくと、これはヨーロッパ全域のSOX  についての許容度をもう既に外交文書として承認して、12枚目を見ていただくと、ともかく2001年までに最終的な被害0の前の外交文書にあわせて2010年までに60%削減するのにどうしたらいいかというのを国別で最適回を出して、それをコンピューターで出して、そのままこれは外交文書にしてしまった。だから、これは外交交渉が全部コンピューター計算になってしまう。要するに科学研究と外交の合体というのは、共有のデータだけではなくて、被害が全部調査されていてそれが外交文書になって、しかもその間のやりとり、あるいは政策チョイスが全部コンピュータープログラム化されていると。結局、外交がやるべきことというのは、コンピューターのプログラミングの透明性を確保することが外交であって、いわゆる古典的な外交交渉というのは、全部コンピューターの計算にさせてしまうというような状態になった。
  だから、現在、例えば東アジアで酸性雨問題どうのこうのと言っているが、何が重要かというと、1つ、8ページに戻っていただくと、こういう国際交渉が成立するためには、共通の研究者集団が出現しないといけない。これは国際関係論でエピステミック・コミュニティーと言って、しかし、東アジアではこのレベルの研究資源を持っているのは日本だけなので、日本がお金を出して、しかし日本が取り仕切るのではなくて、日本がお金を出して、あたかも韓国、中国が自主的にやっているような国際共通の観測システム及びコンピュータープログラミングをつくらないと、こういう国際フレームワークはできてこないと。要するにヨーロッパで行われていることというのは、先進国の間でかろうじてできた。要するに環境の価値が高い。それから、要するにお互いに手を突っ込んで文句を言っても、いわゆる国家の体面を崩さない。そういうところで環境外交は初めて成立するということだろうと思う。
  先ほどヒューマン・セキュリティーとあったが、非常に問題なのは、13ページを見ていただくと、冷戦崩壊後に社会主義国の国家そのものが、いわゆる国家そのものというのは、社会システムそのものが崩壊して、ロシアにおける男性の平均寿命が急落して、今58歳代の前半に落ちている。これは歴史上、巨大戦争、あるいはいろいろな、例えばペストがはやったということを除くと、人類史上初めてであって、ヨーロッパはいろいろな形である種の国益という観点から見て、共有財として旧社会主義圏にいろいろな研究支援に入っており、これは崩壊してしまった旧社会主義圏の基礎研究をヨーロッパがそれぞれ支援しているわけで、EUの研究費にロシアの研究者はアプリケーションホームを出してよろしいということで、今言ったエピステミック・コミュニティーという国際共同研究の資材を日本が全部出して、あたかもそれを国際的な科学者の管理に任すということ自体が外交のカードになる。あるいはそういうことをつくることによって、国際緊張をむしろ緩和させる、要するに科学研究をすること自身が新しい国際秩序をつくるということになる。
  そういう意味では、東アジアにおける外交という意味では、共同研究に対して日本が全部お金を出す。それ以前、一番難しいのは、関係国がほとんど途上国なのだが、既にやっていないといけないのは、ロシアの極東研究に対して日本がお金をとっくに出しているだろうとヨーロッパの連中は思っているが、極端なことを言うと、日本の科研費とか科学技術庁の振興調整費にロシアの研究者がアプリケーションホームを出してもいいぐらいの、要するに日・欧米というのは、そういう資源の供給国である。
  例えば、今アメダスという国内で気象庁が非常に精緻なコンピューター予測システムをやっているが、かつては投資の割には非常に精緻で日本は予測がよくなったのだが、突然国内で所管だけを投資していても予測感度が悪くなった。これはなぜかというと、最大の原因は、多分、シベリアの通常のインフラ業務がなくなってきてしまったために、要するに一番重要な西側のデータが入ってこなくなったために、国内だけ精緻な投資をしても全く予測ができない。温暖化という名目、あるいは地球の環境保全という名目でも、極東ロシアの自然研究、あるいはヒューマンセキュリティーに対する、あるいは核汚染に対する、あるいは水系の汚染に対する支援に対して、日本はとっくに支援が入っているのだろうという感じなのだが、どうもそういう問題意識がなさ過ぎるという感じをしている。
  資料を持ってきのだが、これはだから、核システムの撤退のために予算がいるので、アメリカのエネルギー省は、これは90年までこんな写真を持っていたら絶対につかまるようなものを、さすがに見せるだけである、要するに、一切データを出さないのだが、核施設の写真データを全部出して、議会に核浄化のための莫大な業務費をとらせようとしている。だから、今、アメリカのエネルギー省の環境管理局、エンバルメンタル・マネジメントエージェンシーは、アメリカのEPAよりも去年で予算は大きくなっているので、アメリカ国内の最大の環境問題はもう核浄化ということになっている。

・座長  少し討議の時間が短くなってしまったが、今日お話しいただいた、それぞれ違ったテーマだが、それについて残りの時間でいろいろご意見を伺いたいと思っている。
  その前に、ブタペストでの世界科学会議にご出席された委員から、簡単にご報告をいただきたい。

・委員  今、座長からお話があったように、ブタペストで世界科学会議−ワールド・コンファレンス・オン・サイエンスという非常に広い幅の会議が6日間にわたって行われたわけだが、これは1996年にユネスコの総会でこれを開くことが決められ、3年間の経過期間を経て開催に至ったということで、その途中に国際科学会議というイクス(以前は、「インターナショナル・カンスル・フォー・サイエンス・ユニオンズ」で、現在は「インターナショナル・カンスル・フォー・サイエンス」と言われている)が共催ということで、結果的にはユネスコとイクスの共催で行われた。形式は、プレナリーとセッションという形に分かれていて、プレナリーは3つのフォーラムに分かれ、そのテーマは、1つは科学、その成果、欠点、チャレンジとでも言おうか。それから、フォーラムの2番目は、社会における科学。フォーラムの3は、将来問題と、こういうように分かれており、それに付随して、それがプレナリーのセッションをそれぞれ持つと同時に何十というセッションが行われて、全部出ることはとてもできないような会議だった。
  簡単に申し上げると、科学が極めて社会、人類に対して大きな影響を持ち始めたが、その状況を見ると、2つの大きな問題点が指摘される。それは科学自身が持っている、豊かさを増すとか安全さを増すというような意味での恩恵と、一方で例えば先端医療に見られるような人類に不安を与えるいわば科学自身が持っている脅威という問題、すなわち恩恵と脅威という問題である。
  2番目は、恩恵の不均衡ということで、非常に大きな恩恵を受ける国があるかと思えば、全くその恩恵を受けられない国がある。こういうことで、いわばユネスコ的発想と、それからイクスというのは、まさに先端科学の研究集団、これはピュアサイエンスが主体だが、そういった2つの合体がそれなりに意味を持つような会議であったのではないかと思っている。
  そういう問題点をどうやって解決するかということが語られたと、こういう会議だと定義していいかと思うが、さまざまなことが語られたが、それぞれ抽象的だったような気もするし、最終的にはステイトメントという形で公表された、最終日によってそれは採択されたということだが、ステイトメントを見ると、要するに今言ったような2つの問題を整理しているが、純粋な科学というのはあり得ない。そうではなくて、これは表現の問題があるのかもしれない、知識のための科学、平和のための科学、開発のための科学、社会のための科学と、この4つの「ための」というのをつけた科学。そういった形で科学を論じなければいけなということで、具体的には科学者の責任問題、これは教育問題。あるいは科学的知識へのアクセス、これは先ほど言った恩恵の不均衡というのをどうやって解決するかということ。これには情報技術というものが生かされるのではないか。さらには、先ほど来お話も出ておりましたファンディングの不均衡ということがあって、これは均等にファンディングを世界じゅうに及ぼさなければならないと、そのための政策といったようなさまざまな角度から語られた。
  そういったことで、ステイトメントの中身は、もうご紹介している暇はないが、私なりの感想を申し上げると、依然として科学的知識というのが科学者という集団、空間、そういうところから生産されてくる。それに一般社会がどう応用するかという、この図式において問題を理解しているということである。私は、発表する機会があったが、そうではなくて、科学自身が知識生産の形態自身を変えなければいけないと、こういう提案をした。それはある意味ではマイノリティーだったような気がしている。ただし、この会議の表立ったいろんなセッションの組み方とかステイトメントとは別に、やや動きもあって、これは実は先ほど申し上げたイクスというのは純粋科学のユニオンだが、そのほかにISSCというのがある。これはインターナショナル・ソシアル・サイエンス・カンセルというのがあって、これはいわゆる自然科学じゃない方である。それから、ワールド・セジュレーション・オブ・エンジニアリング・ゴーガナイゼーション、これは工学の学会の集まり。これは大きさからいうとイクスの方が圧倒的に大きいが、こういった3つの集団、組織が将来何らかの形で協力しようではないかというような話し合いがインフォーマルに行われていた。
  したがって、こういう動きそのものは大変好ましい。すなわち文化と理科と、あるいは工学と純粋科学が分かれているというような状況自身が、やはり先ほど申し上げたような恩恵と共有、あるいは恩恵の不均衡を生んでいるんだという発想もないわけではない。しかし、表立った結論は必ずしも出なかった。こんなことで、しかし、こういうユネスコとイクスというような、組織論的には近いが、いわば方向性の直行したようなものがこうやって共同して会議を開いたということ自身には、科学の問題を見つめる上で大変有効であったのではないかと感じている。

・座長  問題を絞らないで、今日の3人のご発言について、どの問題でも結構なので、少しご意見を伺いたいと思う。

・委員  実は、それではどうすればいいのかということに関して、いささか言いたいことがあるが、科技庁で今後の生命科学研究の推進のあり方に関する懇談会というのあって、そこの報告案みたいなのがつくらているが、これは非常に中身がいい。だから、まずこれをなるべく早い機会に、この委員の方全員に懇談会のメンバーの方にお配りするのが非常に役に立つのではないかと思うが、これでいかに日本の生命科学の現状がおくれているかという、この分析も非常にちゃんとしているし、それを踏まえてこうすべきであるというポリシーの提案があるが、これも私は非常にいいものだと思う。
  細かいことはしゃべらないが、簡単に言えば、ここで新しい生命科学を切り拓くための「新世代型先導研究機関」というものを複数提案している。具体的にいろいろな領域があって、そういう研究所の組織原則をこれまでの日本の国研のような、要するにだめな研究ではなくするためにはどうすればいいかということをきちんと書いている。私はこういう方向しか恐らく科学技術の我々の次の世紀のものを切り拓くのはない、これは非常にいいアイデアだと思う。これが生命科学の世紀に向けてであるが、これと同じように情報科学の世紀に向けてということで、これと同じようなものをもう1個、だれか非常に大胆にやってくださると、この全体の方向づけというのが見えてくるのではないか。
  これはなるべく早い機会に配布していただきたいと思うのだが、ここで日本のこれまでの大学、研究所、すべてこういうふうにだめなんだというのがいろいろ書いてあり、これは実はこれまでの学術審議会のこういう報告の中でもそうだし、そもそも科技庁の科学技術基本法をつくった主である尾身さんの基本法の逐条解説的な本があって、科技庁の人は全員これを読んでいるはずだが、この66ページから67ページあたり、これがそういう欠点というのを非常に鋭く描いており、これはまさに、要するに日本のこれまでの科学技術の足を引っ張ってきたものの根本にあるものとして日本の国民性、そういういろいろな社会組織のすべての基盤をなしているみたいな基本性格みたいなところが一番だめであると。それは簡単に言えば年功序列型のシンオリティーシステムとか、規制が強くかかってくることとか、コンセンサスがまとまらないとうまくいかないこととか、結果として出る杭を打つとか、それから創造性つぶしというような感じで、日本の科学技術の世界も全部足を引っ張ってこれまでだめにしたという。それに対して、今度の生命科学の方は、そういうものを打ち破るためにはどうすればいいかという、非常にちゃんとした視点を出していると思う。こういうものをきちんと、単に生命科学だけじゃなくて全面的にやっていくということが基本になるかと思う。

・座長  今の案は、案がとれ次第、次回には21世紀の方向という議論になるので、そのときに皆さんに配付したいと思っている。

・委員  今の委員のお話にも関係するが、特に今日はご4方のお話を伺って、大変頭の整理や何かができてよかったと思う。
  委員のお話、最初のお話の中にもあったが、要するに教育の問題のところでの生命科学的なことに関して、私自分自身の過去を思い出して、自分で医学部を受けたときは、物理と生物で受けたら、結局はやっぱり医学部の中で生化学が非常に点数が悪かったという記憶があって、やっぱり基礎的な科学というのは非常に大切なのだが、生命科学を今もう既にいわゆる諸外国、日本も含めてだが、いってしまっている細胞のレベルまでの科学みたいなことで、教育のレベルは落とし切れないと思う。大分前から言ってはいたが、中学、高校のところでいわゆる人体の生理学をもう既に取り込んだ方がいいのではないか。だから、生物学みたいな自分に密着していないことだと、特に経験のない今の子供たちは、全く実感を持って受けとめられないのだが、人体であれば自分のことだから、そして人体というのは生命体の1つなわけだから、まず人体のところの科学を取り込んであげるということが一番身近だし親しみやすいのではなかと、前々からそういう話は文部省にもしていたつもりではあったが、とりあえずそういうふうに思った。
  だから、科学に親しむというときに、数字だとかバーチャルな中でではなくて、なるべく身近に引き寄せて、だけど今ちょっとした方向で、いわゆるおもしろおかしくやらせてあげればいいというのがはやっているが、興味を持つということとおもしろおかしくやったらできるというのは違うと思う。もともと興味を持つ資質をつくらないと無理だというふうに思う。
  それから、これは別に委員に反論するわけではないが、いわゆる科学技術に関する論文の件で、アメリカダントツで日本以下ヨーロッパなんかが大体だんご状態になっているというグラフがあったが、これはやっぱり科学技術政策において非常に大切なことだと思うが、例えばアメリカがバイオテック、遺伝子組み換えなどをやったときに一番最初につくっていたのは、持ちのいいトマトとか、それから虫に食われない野菜をつくったりした。でも、日本の場合には、学者がやっていたことは、高血圧に効くトマトとか、ここにはもう文化的にも、それからいわゆる倫理観というか哲学的にも全くレベルの違いがあると思う。
  先ほどの、要するにアメリカとか軍事ということで物事が進んできている国は、基本的には人体というのは、抹消する方向ですべての倫理観があるわけで、それに対してどう防御するかという話なのだが、日本の場合には、ここ50年だが、科学は純粋科学として進んできた珍しい国なわけで、そういう意味では、やっぱり持ちのいいトマトとか、それから防虫効果のある野菜とかをつくるのではなくて、やっぱり高血圧に効くようなトマトとかという、経済効果が優先するのではなくて、生命体にとってのよし悪しが優先するような、そういう科学技術というものの方が私はいいような気がする。それはやっぱりどんなに文献が認められようが認められまいが、そちらの方向でかなり私はある意味では、これは1つの例だが、日本ではいろいろバイオのトイレとかいろいろ各国では認められないような、しかし、いい科学技術というのはある程度あると思う。その方向性というのは、地球レベルで受けとめられるか受けとめられないかというのは、プロパカンダ、その他、ほかの問題に非常にたくさんかかってきているような気がする。だから、そういうところまでひっくるめて考えて話は進めていった方がいいのではないかなと思うのだが。
  特に公害先進国である日本としては、やっぱり大気汚染、その他の問題も含めて、公害という形で逆にとらえたところで物を考える。例えば原爆という形で物を考えるというような、世界とは違う部分というのをむしろ一致協力して出していくということで、今持っている技術がすごいレベルが低いのではないと思う。低い部分もあるが、そうではない部分に自分たちが気がついてないから自分たちの特徴を出せないということもあるのではないかと思うので、その辺は大切にしなければならないと思う。石灯籠や飛び石の時代から、日本というのは、そういう意味では科学的だったし合理的だった民族だし、そこの部分は残しているような気がする。
  それから、次の委員のお話の中で、世界各国の持っているいわゆる地域主義的な部分と、それからあとは地球レベルのグローバリーゼーションのいわゆる振興ということなど、それは例えばコスタリカなんかに行ってみると、ほとんどの農園その他もろもろ、いわゆる種苗戦争、種子戦争の中で、既にいわゆる先進国の特に欧米が多いが、国々ともう提携ができ上がっていて、何らかの新しいバイオテクがその中にある種でつくられた場合のそういったものに関するいわゆる経済的なすみ分けができている。そういう国がたくさんあって、それというのは、先進国は持っていないが、持っている中進国ぐらいの国と既にそういうことが始まっているということで、地域主義的なものプラス、昔でいう植民地主義的な部分ももう始まっているというふうに見える。日本の場合には、昔、植民地というのもやってみたが、やり方が同化政策だったので、それももう違っていて、だから日本も各国へ出て行って木を植えたりいろんなことをしながら、そのバイオのテクニックなんかもやってはいるのだけれども、そのやり方がいわゆる欧米とやり方が違う。だから、その辺のところもどういうふうにして、どっちへ持っていくとかということではなくて、国策としてはどういう方向にいったらいいのかというような検討も必要なのではないかと思う。

・委員  結局のところ、こういう場で何を議論すべきなのかの一番基本的な前提は、そもそも国というのは何をどの程度になすべきなのかということだろうと思う。つまり、それは基本的にはおのずから限られた1つの国家が持っているリソースをどう配分するかという問題で、直接的にはそれはお金の問題であり、それから人的資源をどちらの方に振り向けるか。それを直接的にコントロールするということではなくて、どちらの方に向くかという、その方向づけみたいなものを政策的に実現していくためにはどうすればいいかというような問題だろうと思う。
  それで、簡単に、突然大胆なことを言わせてもらえば、私は高等教育のシステムそのものを根本的に組み換えるようなことがまず恐らく必要であろう。それは大学という装置を使って次の世代に何をどう教えていくかという、その枠組みも関係するが、まず基本的にそれ以上に今の文化の相当部分を実は科学技術がベースになった部分が占めている。
  ついこういう話をすると、文科と理科をとうするああするみたいな話になって、この科学技術会議のたしか頭の方にも、ピュアに人文科学というものを除くとか何とかなっている。だが、日本のこれからというものを考えたときに、やっぱり人文科学と理系のサイエンスというものをどうやって次の世代に伝えていくか。そこの根本的なところを検討することを含んだ高等教育というか、つまり手っ取り早く言えば、私は文科の方は現行のままで構わないと思っている。しかし、サイエンス系は根本的に変える必要がある。事実問題として既に変わっている。それはどういうことかと言うと、例えば東大で言えば本郷で3年生、4年生では、どの学部、学科も教え切れない。だから、ほとんど、学科によっては恐らく90%、少ないところだと80%以上が大学院へ進学している。だから、そもそも教育内容も大学院を含んだ一貫した教育体系を教える内容を含めて既に組み直す必要がある。そういうものをバックグラウンドにして、そもそも教養課程的な部分で日本の若い世代にミニマムな教養としてサイエンス系の知識をどの程度どこで与えるべきかという、そういうことを含めてきちんと議論しなければならないと思う。
  まだ出ていないが、あと数日後に出る中央公論で、名前をど忘れしたが、国連大学の副学長の猪口さんがお書きになっている文書があって、これは日本の英語教育全体がとれほどひどい状態になっていて、それでこれが日本をグローバル・スタンダードにあらゆる意味で追いつかせるための足かせになっているということをおっしゃっていて、それをどうすればいいかをいろいろ提案する中で、そもそも高等教育におけるこれからの次世代の担い手のために与える教養全体をとう見直さなければいけないかみたいなことを述べてる。
  だから、その論文レベルの議論というものをもう一度やって、日本の高等教育全体を本当に考え直さないとどうしようもない。特にサイエンス系に関しては、もう修士までは完全に中にビルトインした教育システムというものを考えなければならないと思う。

・座長  残念ながら今日は時間がなくなってしまったが、教育の問題はやはり従来は、文部省の仕事であるということで、科学技術会議も発言をしてこなかったと思うが、今はやはりそうではいけないだろう。だから、この中でも科学教育のあり方というものについてやはり発言していく必要があると思ってるので、また時間の都合を見て一度ご議論をいただきたい。これは恐らく初等、中等教育から高等教育、さらには社会教育、パブリックへの教育と、そのいろいろなレベルで考えていく必要のある問題だろうと思っている。
  次回は、「21世紀の科学技術の展開方向」ということで、生命科学技術、情報科学技術、環境科学技術を中心として、ご意見をいただくことになっている。


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