人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第6期)(第4回) 議事録

1.日時

平成23年12月19日(月曜日)15時30分~18時

2.場所

文部科学省3F2会議室

3.出席者

委員

樺山主査、鎌田委員、金田委員、瀧澤委員、伊井委員、大竹委員、鶴間委員
(科学官)
縣科学官、池田科学官、高山科学官

文部科学省

倉持研究振興局長、永山振興企画課長、伊藤学術企画室長、高見沢学術企画室長補佐 その他関係官

オブザーバー

(有識者)
大阪大学 沼尾正行教授
東京大学 大桃敏行教授

4.議事録

【樺山主査】

定刻になりましたので、まだおいでにならない委員の方々等々おいでになりますけれども、開会させていただきます。

ただいまから、科学技術・学術審議会学術分科会人文学及び社会科学の振興に関する委員会第6期第4回ということになりますが、これを開会させていただきます。

それではまず初めに、事務局から配付資料の確認をお願い申し上げます。

【高見沢室長補佐】

失礼します。お手元にお配りしています議事次第のとおり、資料を配付しております。資料1から資料5までご用意しております。あと、参考資料が2点ございます。それから、机上のほうですが、先日行われました日・韓人文振興政策懇談会という懇談会の資料を机上に配付させていただいております。以上です。

【樺山主査】

はい、ありがとうございます。それでは、これらにつきまして欠落等ございましたら、そのたびごとにお申し出いただきたいと思います。

それでは、これから議事に入らせていただきます。本日も前回と同様でございますが、まず1、人文学・社会科学の学問的発展(文理融合)及び2、政策的課題や社会への貢献を視野に入れた人文学・社会科学の機能の強化(社会貢献)に関する発表と意見交換を行いたいと存じます。

また、その後にでございますけれども、先日行われました日・韓人文振興政策懇談会について、簡単にご報告をいただきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

それでは、意見発表に移らせていただきます。前回、11月2日の委員会での発表者の方々と委員の皆様の間でもって、ご発言及びご意見等ございましたので、これらにつきましては参考資料1にまとめてありますので、適宜ご参照いただければと存じます。

それでは、本日でございますが、まず初めに、人文学・社会科学の学問的発展についてということで、大阪大学教授の沼尾正行先生からお願い申し上げます。

沼尾先生には大変お忙しいところをお願い申し上げましたところ、ご快諾いただきましてありがとうございます。それでは、一応お願い申し上げてございますとおり、40分程度のご報告をいただきたいと思います。なお、前回と同じでございまして、この沼尾先生のご発表及び、続きまして大桃先生のご発表と、この2件を相次いでご報告いただきまして、その後、短い休憩をとりました後で、全体討論に移らせていただきたいと思います。

それでは沼尾先生、よろしくお願い申し上げます。

【沼尾教授】

大阪大学の沼尾と申します。よろしくお願いいたします。本日は文理融合というようなタイトルで話をせよということで仰せつかりました。私、実は最初のスライドに経歴をちょっと書かせていただいたのですが、バックグラウンドとしては完全に工学部の人間でございまして、人文学の基礎的な素養は全くない人間ですので、ちょっと場違いかなとは思います。最初は、電気電子工学科からスタートしているのですが、学部の途中から情報のほうに興味を持ちました。その中でも人工知能という分野に興味を持った関係で、人文系の学問も少しはかじらないといけないというふうに周りの先生から注意をされた経験があります。そういう関係で、人文系のことにも首を突っ込んでおりました。ただし素養は全くなくて、工学部ですので、ここで何か私がしゃべると非常に違和感があるのではないかなとちょっと心配しております。その点はいろいろとご注意いただいて聞いていただければと思います。よろしくお願いいたします。

私に与えられたお題は、人文学・社会科学の学問的発展ということになっています。このお題ですと、私にはよくわからない事柄になってしまいます。ただし、その中で、研究分野や研究課題の細分化と固定化の克服が必要であるとか、そのための異分野間の交流に関して、理系の立場から何か述べることは可能です。そういった理系の立場から見た、やぶにらみというか、かなり門外漢の人間の発言をさせて頂きたいと思います。特に、細分化に対する課題を克服するということと、異分野間の融合の促進について、ご参考になることがあればいいなと考えています。

最後に、これらの審議事項と検討事項について、一応私なりに回答を試みるつもりです。それが、何かの議論の種になればよいのではないかと思います。

ここで、私の研究の背景として、「知能とは何か」について述べたいと思います。私は人工知能という分野を研究しておりまして、コンピュータを知的にするための技術を研究しています。まず、それに関して、大学の1年生向けの講義のさわりをご紹介いたします。人工知能学会の What’s AI というホームページを開けると実はいろいろと具体例が出ておりますので、ご興味があれば、ご参考にしていただければと思います。

人工知能は、コンピュータが実現されて後、1950年代に研究が始まった分野で、たとえば、チェスや将棋などのゲーム、数式の自動処理などが研究されました。1980年代には、高度な知識が扱えるようになり、エキスパートシステムが企業から注目されました。各個人に適応するようなインタフェースは、仮名漢字変換などに応用されています。視覚を扱うコンピュータビジョンも、人工知能の周辺分野です。近年は、高度な知識を活用するだけではなく、知識を発見する技術が研究されています。データマイニングと呼ばれる分野では、データベースの中から種々の知識を発見することができます。

一見すると、人文学とは関係がなさそうに見えますが、これらのことを一つ一つやる中で、人文関係の先生にもいろいろとご指導を賜ったことがあるというような体験をお話しさせていただきたいと思います。

まず、「知能とは何か」の第一段階では、人文学とは関係は少なかったと思います。最初にコンピュータ、すなわち、計算機の概念が数学者のアラン・チューリングにより提案されました。提案された時点では、コンピュータは架空のものでした。それが実際に第二次世界大戦後に具体的に製作されるようになりました。

計算機というのは言われたとおりに計算するものだと言われました。アルゴリズムというものがありまして、言われた手順、人間が指定した手順のとおり計算をするわけです。幾らコンピュータが賢くなっても、それは人間の言うとおりに計算しているだけだと、言われたわけです。それを越えて、人間以上の知能を発揮するために、人工知能の分野では、「探索」の手法が研究されました。知的な仕事に探索が必要であることは、今では当たり前のことになっております。たとえば、車のナビゲーションシステムにおけるルート検索、チェスとか将棋の対戦プログラムなど、知能的なプログラムの多くに探索が組み込まれています。チェスにおいては、1997年に世界チャンピオンを破っておりますし、将棋についても、プロのすぐ下のレベルにまで強くなってきています。

ルート検索の例を少しご説明しましょう。これは、かなり前に私の研究室で作ったものなので、格好は良くないですが、ナビゲーションシステムの一例です。目的地に行く際にルートを検索します。ルートの検索は、単に最短ルートを求めるというだけではなく、高速料金や景色などの複雑な要素も勘案して、計画せねばならず、知的な処理にするためには、工夫が必要です。最近では、携帯電話を活用して、多数の情報を集めて最適なルートを検索するというようなことも行われています。災害の支援などでも活用されているというのはニュースなどでお聞きだと思います。その基礎に探索の技術があるわけです。

ここまでは、人工知能が単にコンピュータ科学の分野であった時代です。他の分野、たとえば、人文系の分野とかかわる必要はありませんでした。

ところが、1970~80年代にかけて、スタンフォード大学のエドワード・ファイゲンバウムが、知識工学と呼ばれる分野を提唱しました。知能で大事なのは、探索などのメカニズムよりも、むしろ、知識であるというのが、その骨子です。知識をコンピュータの中に入れ込まなければ、コンピュータは賢くならないと言ったわけです。その結果、人間の知識をコンピュータの中に表現するための技術として、知識表現が研究されるようになりました。知識を表現し、専門家(エキスパート)システムと呼ばれる人工知能に組み込むわけです。

たとえば、製鉄所で、鉄を溶かして、銑鉄を作り出すための高炉の運転は、高度の専門技術が必要です。その他にも、たとえば、コンピュータの構成の決定、すなわち、コンピュータをどう組み合わせて実際お客様のところに納入するか、を決めるのも専門家の仕事です。当時のコンピュータは非常に大きかったので、その大型の、この部屋一杯とまではいきませんけれど、この部屋の一角を占めるような大きなコンピュータの構成を決めます。それでも、当時としては小型化したものなので、ミニコンピュータと呼ばれていました。その構成をお客様のニーズに合わせて決めて、納入するわけです。これらのことを自動的に行う専門家システムが、実際に作成され、実用化されました。

これがなぜ人文学に関係するかをお話しします。そのころ知識表現の最先端を行っていたのは、MITからスタンフォード大学に移られたテリー・ウィノグラードでした。1970年代の初めに、英語を理解するコンピュータシステム SHRDLU を開発したので、著名な先生です。その先生が、1986年に『Understanding Computers and Cognition』という本を書きました。その三年後に、平賀譲 訳の日本語版『コンピュータと認知を理解する』も出版されており、サブタイトルが「人工知能の限界と新しい設計理念」となっています。

この本は、ウィノグラードがみずから進めていた知識表現研究の反省になっています。そんなこともあり、ウィノグラード他、人工知能関係の著名な先生方がおられたスタンフォード大学の Center for the Study of Language and Information (CSLI)、日本語でいうと、言語・情報研究所に滞在しました。この研究所には、コンピュータサイエンス、言語学、哲学、学習関係の心理学の研究者が集まって、学際的な研究をしていました。当時は、これらの研究者が激烈な議論を繰り返していましたので、コンピュータサイエンス中心に研究していた私は、消化し切れませんでしたが、非常に刺激的な経験をしたわけです。

その当時、人工知能の研究者が考えていた知識の表現というものは、要するに外部世界に対象物がいくつかあって、それらと一対一に対応するものを知識として表現するというものでした。そこで知識表現をどんどん詳しくしていけば人間と同じように知的になっていくと考えたわけです。

実は、そのようには話はなかなか進まない。非常に困難な問題が生じるということを、ウィノグラードの本では言っています。哲学者の先生にその話をすると、「世界全体は頭の中に入らないでしょう?」というような言い方をするわけです。これは何を言っているのかよくわかりませんでした。勉強をしてみると、確かにフッサールとかハイデッガーが現象学の研究で、外部世界が客観的に存在するということをかなり批判しているわけですね。

その辺は、私は哲学の先生に言われてもあまりよくわからなかったのですが、啓蒙書を読んで、後で分かったわけです。すなわち、客観的な外部世界があるわけではなく、自分に起こっている現象を皆さんは言語で言い当てているだけである。それで、話しているうちに、皆さん、かなりばらばらなことを言っているのだけれども、だんだんつじつまが合ってきて、共通の了解が生じる。その結果、何となく客観的な外部世界が存在するという信憑が生じるわけです。そこで重要なのは、信憑が生じるだけなのであって、実際に客観的な外部世界があるわけではないことです。そのようなことを、たぶん哲学者は言いたかったのだと思うのですけれども、当時はすぐには分かりませんでした。

ここまでの話を聞いて、人工知能ではずいぶん難しいことを考えているのだな、こんな難しいことを聞きに来たのではないぞ、と思われていますよね。しかし実は、この部分で、私の話が入れ子になっているのです。気づかれたでしょうか。まさに客観的な外部世界が存在しないからこそ、異分野の人の間で話が通じないのです。異分野交流をすべきだと、簡単におっしゃる方は、異分野の人たちの間で、客観的な外部世界があると思っておられる。それで、簡単に異分野交流が行えると思ってしまうのです。このことは、最後のまとめで、もう一度、少しだけ触れます。

ちょっと脱線しましたが、私がさらに困ったのは、哲学者は彼らの専門の最先端で話をしているので、よく聞いてみると微妙に見解が異なるのです。ある程度は、客観的に外部世界が存在すると考えている人も居て、専門外の私には、なおさら訳がわからなくなるわけです。

本日の話は、異分野交流はどうあるべきかが主題ですので、それについてのコメントとしては、たとえば、私みたいな理系の人間ですと、人文系の先生の言っていることは相当難しくて分からないことが多い。特に哲学者――そう言うと哲学者の先生に怒られますけれど、哲学者の先生が言っていることは特に難しかったなという体験をお話ししました。

異分野交流と一口に言っても、理系の中の交流でしたらテクニカルタームが難しい、用語がよくわからないとかいうことになると思います。しかし、かなり遠い分野間では、用語が表面的に分かっても、考え方はそう簡単には分からないというぐらいのギャップがあります。その一つの体験をお話ししました。

その研究所では言語学者もおりました。たとえば、日本語とか英語の構文を解析して、その結果により、コンピュータが言語を理解する研究をしていました。コンピュータ関係者と、英語とか日本語を研究する言語研究者の方が、構文を解析する問題を議論されていました。それはかなり分かりやすいものでした。

言語の意味の問題になると、やはり相当難しい問題があって、その研究所は言語の意味の問題を議論するというところをかなり主眼にしていて、状況理論というものを提案してその辺を解決しようとしていたわけですが、かなり難しい問題がありました。先ほどの哲学の問題ともかなり結びつくような問題でした。

言語や知識の学習や獲得も精力的に研究されていて、私は学習をかなり研究してきたので、少し触れたいと思います。人工知能を考えたときに、80年代に知識をコンピュータに植えつければいいということが研究されました。知識を書き込むのは、大変な作業ですので、それを自動化したいわけです。一つは知識が膨大だからということもあります。先ほども言いましたように、客観的な外部世界があるということならば、それをどんどん書き込めばいいわけです。しかし、客観的な外部世界がないというようなことを哲学者に言われますと、それを書き込もうとしても、その時その時の信憑に応じて知識はどんどん変わってきますから、そういった意味でダイナミックにコンピュータが対応していく必要があります。人工知能の研究では、その後、それを解決する手段として、機械学習とか、コンピュータが学習する機能を持つというようなことを研究するようになったわけです。

そういう中で、心理学者の先生もおられまして、そういう先生は人の学習モデルを研究しているわけですが、これはコンピュータをやっている理系の人間にも比較的わかりやすい。人の学習モデルとか類推とか、そういったものを扱うということは比較的わかりやすくて、それなりに研究を進められました。

ただし、心理学者は実験というものを非常に大切にするので、人工知能の関係の人にとっては、心理学者が要求するような精密な実験をどうやって行うかが難しい。今でも、人工知能の研究者で心理実験をやられる先生はたくさんおられますが、そこら辺では苦労されていることが多いです。コンピュータ科学の研究者は、プログラムが動いたら、それでよしとしてしまいます。それに対して、心理実験で実際にデータを積み重ねるというところは、ノウハウがいろいろ有って、難しいと思います。

それに関係して、私の研究の一つとして、適応インタフェースの話をしたいと思います。先ほど探索の話の中で、ナビゲーションシステムの話をしました。ルート探索をするときに、例えばスタート地点からゴール地点まで行くわけですが、その行き方として、単純に考えれば、最短距離がいいというようになるかもしれません。しかし実際には、眺めのいい道がいいとか、高速料金がかからない道がいいとか、人によって好みが変わってくる。そうしたものに適応するのが適応インタフェースです。その他に、たとえば、レストランに行きたくてルート検索をすることもあります。レストランを検索して、ついでにルートも出してもらうことができれば便利で、そういった製品が徐々に今、世の中に出つつあります。その場合、たとえば、和食が好きかとか洋食が好きかとか、大阪だったらお好み焼きが好きだとか、たこ焼きが好きだとか、ある程度コンピュータが人間の側に合わせて適応してやって、その上で、レストランを選ぶ必要があります。その際にも、適応インタフェースが活躍します。

それを、もう少し拡張したような研究を1つやっておりまして、これは音楽の研究です。音楽の専門家とも時々はディスカッションしていますが、音楽の専門家に話すときには、なかなか難しいコメントが多いです。それ以外の方々に話すときには音楽というのは直感的に理解しやすくていいので、この研究を、よく異分野の方と話すときには紹介しています。ルート検索のように、幾つかの選択肢の中から選ぶのではなく、ユーザーに合うような音楽を新たに構成します。そこで「構成的」適応インタフェースと呼んでいます。デモをやるのにちょっといいような研究ですけれども、その研究の過程で異分野交流があって、いろいろと改善することができたというお話をします。

『Scientific American』などで紹介されたこともありますが、この種の話でよく聞くのは、モーツァルトが作曲した曲を真似て、モーツァルト風の曲をコンピュータが自動作曲するというような研究です。それと似たストーリーで、まず、デモを作りました。

それを心理学者に紹介したところ、それはまねしているだけで認知モデルがないというコメントが出ました。コンピュータが何か感じられるように、人間の感じ方を模倣するようにしてみてはどうか、ということです。それで、人間の感じ方をモデル化する研究をしました。それ自体で研究としては非常におもしろくて、今でもそのための基礎研究は世界的に続いています。難しい問題はたくさんあるのですが、せっかくそれだけの研究をしたので、編曲をしたり作曲をしたりして、デモンストレーションをしました。その後、センサデータに基づく作曲ということで、近ごろユビキタスコンピューティングとか、さらにそういったセンサを使ったようなアンビエント・インテリジェンスというものが出てきていますから、そういったデータを使ったシステムに進展をしています。

最初に、物真似による作曲をしたときは、人間の作曲家の作曲結果との和音の一致率を基準にしました。これはコンピュータによる機械学習とか人工知能の世界ではかなり当たり前のことで、正確度ですね、要するにどのくらい合っているかという正解率を基準にして評価したわけです。

それを見せたところ、やはり学際的な集まりで、心理学者が同じ研究グループの中にいて、一致率では心理学的なモデルにならないので、人間の感じ方を実際モデル化しなきゃだめだというようなことを言われました。それで、ちょっと変わった研究を始めたというのが次の音楽の認知モデルというもので、その心理学者の研究していた分野というのは、セマンティック・ディファレンシャル(SD)法、日本語では、意味微分法でした。アンケート調査で用いられている手法です。そういったアンケート調査の結果を使って、被験者の感性のモデルを獲得し、他の曲に対する印象を予測するわけです。

最初は、コンピュータ、人工知能分野の機械学習手法だったのが、結局、心理モデルとの融合をやったということになります。まず、和音列を解析し、心理実験で印象を測定して、それを使ってコンピュータが学習するというようなことをして、別の曲の印象を予測しました。

具体的には、曲をアンケートによって、嫌いとか好きとか、暗いとか明るいといった形容詞の対に関して、5段階で評価しています。その結果を参考にして、人間がどう感じているかをコンピュータが一人一人のユーザーの個性として獲得します。獲得したものの例はこれで、非常に単純なものを出していますが、こういった三つの和音の列があったときに、その和音の列の組み合わせによって、どう感じるかを抽出します。

それを行うのに、このような論理式として取り出します。コンピュータによる機械学習の結果を、論理式として取り出す手法を研究していたわけです。

そういうわけで、論理学者との交流というのもありました。論理学といいますと、私は東京工業大学の学生のころには吉田夏彦先生という偉い先生がおられて、論理学のいろいろな推論の方法を教わった記憶があります。その当時は何にそれを使うのか自分ではよくわかっていなくて、ただ、後に研究するようになって、コンピュータの、計算機科学の1つの分野として、一階述語論理という論理学の分野を研究したわけです。そこでよく使われたのは融合原理による論理式の推論というものでした。

ただ、計算機科学者と論理学者というのはやっぱりかなりギャップがあるというのはその後わかりました。それは、実は先ほど説明いたしましたスタンフォード大学のCSLIという研究所には、論理学者がかなりおりました。ジョン・バーワイズとジョン・エチェメンディという偉い論理学者がおられて、その話を聞く機会があったのですが、計算機科学者というのは、その計算が効率よくできる――効率よくというのは、要するに計算機であまり時間をかけずに計算できるということです。そうやって、計算できる場合に、計算機科学者は、元気になるわけです。工学部では、どのような分野でも、そういった具体的に動くということを動機付けにして、研究を進めていると思います。それで、計算機科学者は、一階述語論理というものだけを使って、その中でもある程度形式を限って、計算ができるようなものとして、ホーン節というものを研究していました。論理プログラミングと呼ばれる分野がそれで、計算ができて、動くということを動機付けにして研究をしていました。

ところが、人文系の論理学者――まあ人文系なのか数学者なのか、その間ぐらいだと思うのですが、そういった人が使うのはゲンツェンの自然演繹とか様相論理とか、あとはスタンフォード大学で研究されていたのはインフォン代数というものでしたけれども、こういったものは確かにおもしろいので少しは勉強したのですが、少なくとも当時は――今でもそうだと思いますが、計算機に載りにくく、計算しにくいのです。それで、工学的にはぴんと来なかったということがありました。

異分野間の交流というと、ほんとうに交流すると何かすごいことがいっぱい出てくるということのように、夢物語として言いたいところですが、実際にやってみると、価値観の相違がかなり出てきたということがあります。ですから、結局、論理学者と交流して、おもしろい面もあるのだけれども、むしろ、おもしろいのが2割ぐらいで、残りの8割ぐらいは価値観の相違に苦しめられるというような経験をしました。

そういう紆余曲折があって、論理を使って研究をしていました。その具体的な応用例が、作曲とか編曲です。この辺は私の研究なのであんまり詳しくやってもしようがないのですが、ざっと紹介すると、被験者に音楽を聞かせて、その評価を収集します。コンピュータの学習システムがその評価を基に認知のモデルをつくって、それを使って編曲をします。編曲した結果をもう1回被験者に聞かせると、被験者に合ったような曲になっていることが確かめられます。たとえば、オリジナルの曲に対して、より明るい曲を作ってみると、その被験者が明るいと感じる曲がある程度出てくる。安心する曲とか、嗜好度はちょっと難しいのですが、うれしい曲とかそういったものを作ることができます。少しユーザーに合わせた曲ができるようになります。

ここまでの話で、結局どういう人文関係の先生とどういう議論をしているかというと、哲学の先生とも議論しましたし、先ほど言いましたように心理学の先生とも議論しましたし、それから論理学者の先生とも議論して、こうしたシステムを作りました。それを心理学者がやるように有意水準で評価をしましたら、それについても、いろいろと議論が多かったというような経験をさせていただきました。

再び、「知能とは何か」という最初の議論に戻りますと、人工知能に関して言われることがもう一つあります。知能というのは人間の体に結びついているので、人間の体の大きさとか、人間の体でさわれるとか、そういったようなことが知能の大事な要素であって、決して脳だけでできているわけではないということです。それを実際体現しているのがロボットの研究だと思いますが、もう1つは生体信号の測定も関係があります。

どういうことかといいますと、アンケート調査では、調査をされるユーザーの負担はかなり大きいのです。SD法を用いて、曲の評価をアンケートで数時間にわたってやらされるのは、かなり大変です。そのため、最近は、アンケートではなく、たとえば、脳波などの各種生体信号を使ってやろうという研究が、盛んに行われています。一筋縄ではいかないのですが、脳の中の賦活部位を調べるような研究とも関連があると思います。簡単なところでは、音楽演奏中は警戒度が上がるという位であれば、脳波を解析して、分かるわけです。脳は非常に複雑で、その内部を調べる場合、ちょっとわかっただけで論文が書けるぐらい大変なことだと思います。もう少し簡単に調べられる血圧とか血流とか、それから皮膚抵抗と関連させるという研究もやっております。医学関係者や、心理学者と議論しながら、引き続き研究を進めているという状況です。

そろそろまとめに入らねばなりません。ここで質問された審議事項例の抜粋のところですが、学問的発展についてどういうふうに進めていくかということで、課題としては、欧米の学問の成果の受容にとどまることなく、日本の人文学者・社会科学者がみずから置かれた歴史や社会と直接向き合った上で学問を展開していくことが必要だろうということでした。これに対して、コンピュータ科学者の私が、手前味噌かつ勝手なことを言わせていただこうと思います。

近年は、情報洪水というぐらいにデータがあふれていまして、たとえばスーパーマーケットとかコンビニエンスストアなどで買い上げる商品について、レジでデータを入力したものは、昔でしたらその場でレジのシートに印刷されただけでした。今は、すべて本部に送られています。こうして本部に送られたデータを使って、需要の分析が行われているわけです。

私の知り合いでも、商学部の先生がそうしたデータに取り組んでいて、データから商学にどう生かしていくかということを考えておられる。そういうことを考えますと、コンピュータがネットワークで集めているデータというものに基づいて、日本国内のデータで研究をする、もしくは日本だけではなくて、例えばアジアのそれぞれの国々で研究をすることが、これからますます重要になると思います。基礎となるデータが今は非常に充実しているのですから、そこから日本独自、もしくはアジア独自といいますか、欧米とは違うことを考えることが、ボトムアップに出てくるのではないかと考えられます。

次に2番の、人文学や社会科学が「人間とは何か」「正義とは何か」といった認識枠組みの創造という役割・機能を果たしていくためには、研究分野や研究課題の細分化と固定化の克服が必要ということで、これは多分、私に与えられたきょうのお題だと思います。

研究分野や研究課題の細分化と固定化の克服ということですが、これは、用語の問題とかそういったこともありますし、研究分野が蛸壺化して、それぞれの仲のいい専門家だけが集まって研究しているのではないかということはよく言われています。しかし、実際に私がその専門家の外にちょっと出ようとしてみると、相当難しいというのが実感でありまして、先ほど言いましたように価値観の差がある。論理学者とは、話はしないことはないけれども、ちょっと話してみると、話が通じないわけです。こちらの興味があることは、向こうは「えっ」という感じだし、向こうが一生懸命言っていることが、こっちは「え、そんなことやってどうなるの」というようなことがありました。そういった価値観の差をどう埋めるかというようなことが大事で、そうすると多分、これは前にも言われているのですが、仲介する人材の養成が急務です。研究のフロンティア全体に関してお互いに議論しているとかみ合わないことが多いので、その中でかみ合う場所を見つけてくれるような人材が必要かなと私は思います。

学問のすべての、例えば論理学者が興味を持っているすべてのことに工学者が興味を持つわけはないので、すべてについて議論をしていると非常に効率が悪い。ただ、そういうことを仲立ちしてくれるような人がたまたま出てくることがあるのです。そうすると、そういった人は、両方のかみ合う場所を――ごく一部ですが、かみ合う場所は――そういうところを知っていますので、そこでちょっと、ここでかみ合わせてみたらどうかということを言ってくれる場合があります。そういった人材がいればいいんじゃないかと思います。

しかし、これは非常に難しいところもあって、単にそういう人材を養成すればいいというふうにここでは書きましたけれど、養成するというか、ある程度偶然もあります。そういうふうに、両方が喜ぶような場所を見つけるというのは、いつも成功するわけではありません。

それから、さらに内容に入って、研究の細分化に関する課題を克服するための共同研究の推進ということですが、これは、1つは、細分化したときのいいことというか、細分化した中で議論をしていると話が通じやすいのです。そうすると、あまり議論の能力がなくても、ちょっと話すとあうんで通じてしまう。日本人同士がムラ意識で話しているのとよく似ていて、あうんで通じるというところが、専門家が集まることのうれしいことなのです。それで、私も実際、ある種の専門家のところに、コミュニティに属していますから、そこで話すとすぐ通じて、すごくうれしいわけです。

この話の前の方で、客観的な外部世界があるかどうかという話をしましたが、同じ専門家の間では、長年の議論の結果、客観的であると見なせる位、精緻な外部世界が構築され、信じられているわけです。それを基にして、現実世界の問題が解決された実績が積み重ねられているのです。

しかし、そこを無理して、ちょっと違う分野の人と話せと言われても、ちょっと話すと通じないわけなので、そういうときにはやはりある程度ディベートの技術が要るといいますか、ディベートの技術をある程度身につけたような人であると、ほかの分野に行ってもちゃんと話を通じさせてくるというところがあります。私の知り合いでも、そういうディベート技術に長けた人が活躍しているような場面を見ることがあります。

私自身は、ディベートは若いころはやっていなくて、年を取ってから、しようがないから議論を一生懸命しているという状況です。ディベートの基礎教育があることによって、話が通じない人にも話を通じさせるというか、そういう技能が出てくるのではないかなと思います。

独創的な研究成果を創出できる人文学者・社会科学者の養成ということですが、実務家との交流をすることでそういうものは出てくるのだろうなと、勝手に想像をしています。この辺は、私には口出しできることではないと思います。

専門分野の深化及び異分野との融合の促進ということで、これは先ほどもう言ってしまいましたが、いい協力点を見つけるというのが重要であって、そこを見つけるというのは、人材の養成が必要と書いてはみましたが、ある程度偶然もあるし、そういう人がいればいいなと思っています。

研究体制、研究基盤の整備・充実については、マネージャーがいればいいんだろうなと思います。それから、人文学・社会科学の特性を踏まえた研究評価のあり方の検討ということで、これは実際、研究費などの評価などでよく遭遇する場面です。私も、こちらの先生方に機会を与えていただいて、研究の評価に参加させていただきましたけれども、他分野の人に理解させる能力が重要ではないかなと思います。

大体そんなようなことで、勝手なことをいろいろ言いましたけれども、私のバックグラウンドと、それから、お題に対する私なりの答えを述べさせていただきました。

【樺山主査】

沼尾先生、ありがとうございました。冒頭のところは大変難しい問題を提示していただいて、どうなっちゃった、難しいなと思ったんですが、だんだん具体的なお話になりまして、とりわけ今後の戦略、あるいは人材の養成も含めた問題まで論じ及んでいただきましたので、後ほどゆっくりと皆様からもご意見を発表していただきまして、議論が可能になったと思います。ありがとうございました。

それでは、前回と同じく、お二人からそれぞれご報告をいただいた上で総合討論という形にいたしたいと思いますので、引き続き先へ移らせていただきます。ご準備はよろしいでしょうか。

それでは、引き続きまして、政策的課題や社会への貢献を視野に入れた人文学・社会科学の機能の強化についてということで、東京大学教授の大桃敏行先生からお話をいただきます。前回と同じく、40分程度でご発表いただきたいと存じます。

では大桃先生、よろしくお願いいたします。

【大桃教授】

東京大学教育学研究科の大桃です。きょうはこのような機会をいただきありがとうございます。今、先生からありましたように、ここの検討課題の2番目、政策的課題や社会への貢献を視野に入れた人文学・社会科学の機能強化についてお話をということでお声かけいただきました。

私は、この人文学・社会科学の社会貢献につきまして、実際の政策展開と研究との関係を素材にお話をさせていただきたいと思っています。

きょうの発表の構成ですが、そもそも人文学・社会科学の社会貢献とはどのように考えたらいいのか、その若干の整理から始めたいと思っています。

次に、私はアメリカ合衆国の教育政策について勉強してきましたので、その中で、1960年代以降の連邦政府の教育政策と研究との関係を題材に、より大きな制度設計あるいは制度変革への貢献と、より実際的な施策や実践への貢献に分けて、研究の社会貢献の問題を検討したいと思っています。

そして、それらを踏まえて、現在私がかかわっているプロジェクト研究での取り組みも含めまして、社会への貢献を視野に入れた人文学・社会科学の推進について、少しお話しさせていただきたいと思います。

その人文学・社会科学の社会貢献について考えるに当たってですが、まず第1に、社会貢献をどのくらいのスパンで考えるのかの問題があります。人文学・社会科学には、既存の秩序のあり方自体の点検、既存の価値の問い直しの課題があります。広く自然科学も含めまして、例えば地動説、天動説と地動説の地動説ですが、地動説にしましても進化論にしましても、当時の価値体系、その当時の権威や体制との間に厳しい緊張関係がありました。そういった中で、現体制には不都合でも、真理の探求を認めることが、長い目で見れば人類の幸福につながるといった考えもあったのだと思いますが、学問の自由が認められ、その学問の自由を守るために大学の自治が構築されてきました。

現社会への貢献と人類史的貢献との緊張関係はそれほど大きな形態でないにしても、よりよき社会システムの構築とかかわって、いろいろな政策展開の場面で見られるものかと思っています。

第2に、社会貢献をどのレベルで考えるかの問題です。政府の政策形成や評価への貢献、産学官連携による貢献も言われてきました。また、地方レベルでは、地域の課題や個別の機関の課題への対応といった形態での貢献もあります。

私の専攻分野である教育学の領域では、個々の機関の例として学校がありますが、学校の課題解決にどのように貢献していくのか、あるいは学校でのカリキュラム内容をどのように構成していくのか、そういったことへの貢献があります。

ただ、ここで注意しなければならないのは、先ほどの1の、現社会への貢献と長い目で見た制度変革への貢献との間の緊張関係と同じような構図が、この政策レベルでの貢献と個々の実践レベルでの貢献の間にもあるということであります。

個々の実践レベルでの貢献がより大きな社会変革につながっていく一方で、国の政策のありようが個々の実践のありよう、そしてそれにかかわる研究のありようというものをまた制約していくことにもなります。

それから第3に、社会貢献の内容をどのように考えるかがあります。社会科学には規範科学と実証科学の2つの側面があります。前者、規範科学は、新しい規範の構築、システムの設計とかかわり、実証科学、実証研究では、量的・質的なアプローチを通じて成果が蓄積されていくことになります。

私は、この規範と実証の間には、相互補完性と独立性があるものと思っています。例えば、私の領域ですと、貧困や格差の問題のように、個々の実証研究の積み重ねが価値選択に役立つ、あるいは実証研究が政策選択を支える一方で、量的な実証を超えて価値判断を行わなければならないような場面もあります。少数派の権利擁護などがそれに属するかと思います。

これを政策との関係で言えば、政府の政策の作成や実施のための実証的なデータの提供を科学研究の本務ととらえ、価値選択は政治の役割とするのか、あるいは政策選択にかかわる価値の問題まで踏み込んで議論を行っていくのかといった、研究者と現実の政策との距離のとり方にもかかわってくるものと思います。

そして第4に、こういった社会貢献を考えた場合、人文学・社会科学の発展を支えるシステムをどのように再構成していくかです。研究環境の整備、研究の振興の支援が重要なことは言うまでもありませんが、その場合、個々の研究を支える基盤経費をどのように保障するのか、あるいは課題設定型の競争的資金で研究を水路づけていくのか。これはいわゆるボトムアップ型研究をどう保障し、トップダウン型研究でどのように仕掛けていくのかといったことにもかかわるものと思います。

その際、大学だとか研究所だとか学会だとか学術会議だとか、そしてこちらの審議会だとか、それぞれの組織や機関の役割分担をどのように考え、連携を図っていくのか、あるいは成果を統合していくのかということでありまして、これは学術体制自体を再検討していくことにもなろうかと思います。

それでは、この4点を踏まえて、具体的な政策展開を素材に、政策と研究との関係について考えてみたいと思います。先ほど申しましたように、アメリカ合衆国の連邦政府の教育政策、それも1960年代以降の政策展開を例に検討したいと思っています。

ご存じの方も多いと思いますが、アメリカの1960年代は、民主党のいわゆるリベラルと言われる人たちを中心に、平等保障策が展開された時代です。教育に関しましても、そこに示しました初等中等教育法――1965年ですが――が成立し、連邦政府が教育の平等保障に向けて大きく乗り出すことになります。

しかし、これも多くの方がご存じかと思いますが、アメリカでは教育は基本的に各州の権限事項とされ、多くの州が地方に多大の裁量権をゆだねる形で公教育の制度化が図られてきました。いわゆる地方分権であります。

このような憲法上の原則と地方自治の伝統の中で、教育における連邦の役割は、基本的には情報の収集・提供と、財政援助に限定されてきました。この1965年の初等中等教育法も、財政援助法であります。

ですが、1980年代になりますと、いわゆる政府機能の見直しが行われます。レーガン政権のころであります。平等保障のための国庫補助にはお金がかかる。その補助金がちゃんと使われているかどうかを見るためにはいろいろな規制が必要になります。レーガンは、冷戦期において、外に対して強いアメリカを訴える一方で、国内的には金のかからない政府、規制の少ない政府、つまり小さな政府を求めることになります。

この大きな政府か小さな政府かという対立の中で、民主党の中道派の人たちは、自分たちをニューデモクラットと名乗って、第3の道、サードウェーを指向していくことになります。

このような中で成立するのがクリントン政権で、このクリントン政権期には、そこに示したような法律が制定され、教育の管理システムの大きな転換が図られます。「2000年の目標:アメリカを教育する法」、大変な名前の法律です。それからアメリカ学校改善法などが成立します。簡単に言いますと、各州が教育のスタンダードを設定し、それに基づいてアセスメントを行う。より具体的には、州の統一テストでアセスメントを行って、その結果に対してアカウンタビリティーを求めるというシステムへの転換です。それまでのインプット、プロセスを重視した公共管理から、結果重視の管理への転換ということになります。

2000年代に入りますと、ブッシュ政権のもとで「どの子も置き去りにしない法」、No Child Left Behindといいますが、日本の法律の場合は、例えば学校教育法だとか社会教育法だとかの名前が多いのですが、アメリカの法律はなかなか魅力的といいますか、内容が示されている法律が多いです。「どの子も置き去りにしない法」という法律が制定され、よりアカウンタビリティーを厳しく求める政策が実施されています。また、現在のオバマ政権でも、「頂点への競争」、Race to the Topという政策のもとで、競争的補助金によって、共通の基準の導入や成果を重視する政策が進められています。

政策動向の説明が少し長くなって恐縮なのですが、ポイントは、このような政策が研究と結びついて展開されてきたことであります。

次にこれを見ていきます。先ほどの1965年の初等中等教育法の前の年に、公民権法という法律が制定されました。この法律もアメリカの平等保障を考える上で極めて重要な法律ですが、その402条に、ここに示したような規定があります。ザ・コミッショナー――当時はまだ連邦教育省ができる前でして、連邦教育局と呼ばれていて、その長がコミッショナーですが、文面に下線を引いたところですが、コミッショナーは教育の機会について調査して、2年以内に大統領と連邦議会に報告しなさいというものであります。

この調査は連邦教育局の教育統計センターを中心に行われたのですが、ジョンズ・ホプキンス大学の社会学者、ジェームズ・コールマンなどの研究者が加わって実施され、この報告はコールマン報告と呼ばれているもので、教育機会に関する実証的な研究であります。

当時のアメリカの大統領はジョンソンで、ジョンソン大統領は「偉大なる社会」、グレート・ソサイエティというものをスローガンに掲げて政策を進めました。当時は、平等の実現への教育の役割への期待、あるいは社会科学への期待があったものと思います。

しかし、このコールマン・レポートが示したところは、生徒の成績は学校の状況よりも家庭環境によって大きく規定されるというもので、これは学校改革による平等の実現という構想にとっては否定的な研究成果でありました。

このコールマン報告の後、教育の平等あるいは不平等に関する研究、さらには効果を上げている学校に着目して、効果を上げる学校の要因というものを分析するエフェクティブ・スクールの研究、そしてまた、個々の学校ではなくて、より体系的にシステム全体の改革を求めるシステミック・スクール・リフォーム等の研究が進められていきます。地方分権が原則であったアメリカにおいて、一貫性のある体系的な改革を目指すものでありまして、先ほど言いましたクリントン政権の制度改革はこの延長線上に生まれてくることになります。

ここでのポイントは、トップダウン型の研究をどう定義するかにもよりますが、上からの研究、つまり連邦レベルで法律に基づいて調査研究を行う、それも極めて基礎的な、実証的な研究が大きなインパクトを持ったということで、それによってボトムアップ型の多くの研究が積み重ねられて、それが大きな制度変革へとつながっていったということであります。

同じことは1990年代の改革にも見られまして、先ほど言いました1965年の初等中等教育法は時限立法で改定が重ねられ、クリントン政権期のアメリカ学校改善法、IASAですが、これも1965年のESEA、初等中等教育法の改定ですが、この改定にかかわって法律が制定されています。そこに示した、ナショナル・アセスメント・オブ・チャプター1・アクトというものであります。

このころはもう連邦教育省ができておりまして、教育省の長官がセクレタリー・オブ・エデュケーションですが、そこの第2条、下線の部分ですが、教育長官は1965年の初等中等教育法のタイトル1、チャプター1の効果に関する全米的なアセスメントを、総合的なアセスメントを行いましょう。そのために、Such assessment shall be planned,reviewed,and conductedとありますが、このアセスメントはインディペンデント・パネル・オブ・リサーチャーズ、研究者や州の実践家や地方の実践家等の独立のパネルとコンサルテーションしながらやりましょう。さらに、3番目のところですが、このアセスメントにおいては、連邦教育局によって行われてきているすべてのリサーチというものをちゃんと見る。チャプター1の他のプログラム・アスペクツもレビューという大がかりなものでありました。

このレビューパネルのメンバーを見ますと、先ほど法文にありましたように、政策担当者、実務家だけではなくて、ハーバード大学のエルモア、彼はパネルのチェアは務めませんでしたが、こういった研究者が含まれていました。連邦政府の研究、さらにはそれ以外の研究もレビューされ、多くの方が発表を行っています。

1993年に、そこに示したような報告書がつくられます。リインベンティング・チャプター1というところで、そのタイトルにニュー・ディレクションズというのがありますが、研究のレビューだけではなく政策提言を含んでいて、それが法律に反映されていくことになります。

さらに、当時は、こういった政府がつくった調査委員会だけではなくて、チャプター1コミッションという任意組織もつくられました。これはシンクタンクの研究者等が加わってやっていくもので、これも政策形成にかかわって意見等を出して、政策形成にかかわっていきます。主張は先ほどの政府の委員会のものと似ていまして、政策の中に織り込まれていくことになります。

研究の改革への影響ということで言えば、行政学の研究、その影響というものも指摘しておく必要があるかと思います。規制緩和や成果の重視は、ニュー・パブリック・マネジメントと言いますが、いわゆるNPM型の改革の手法でもあります。アメリカでこのNPM型の改革に強い影響を与えたとされるのが、オズボーンとゲーブラーの共著『Reinventing Government』でありまして、オズボーンは、そこに示したものは民主党の先ほどのニューデモクラットの組織ですが、そのシンクタンクの改革文書、これはクリントン政権の方向を示していくことになりますが、そこで2つの章を書いていたかと思います。実際にクリントン政権のタスクフォースのアドバイザーの役割も務めていくというところであります。報告書のタイトルが『From Red Tape to Results』で、まさにタイトルそのものに成果の重視というところが示されています。

ここまでの検討を整理しますと、アメリカの場合、ボトムアップ型の研究、個別の研究の蓄積と、トップダウン型の研究、いわゆる政府の法定調査研究委員会の研究とが合流する。で、後者による前者のレビューが、制度設計、制度変革の1つの動因になっているということであります。もちろん、政策選択には政治が大きくかかわりますが、その背景にはこのような研究のかかわりというものを見ることができます。これはまた、アカデミズムとアドミストレーションとの交流、あるいは研究者と政策・行政の担当者との協働であり、人事交流を含むものであります。

政府の調査研究への研究者の参画というのはまさに研究面の協働ですが、先ほどの行政学者のオズボーンもそうですし、政府の政策策定や実施に研究者が実際に参画していくことがあります。この人事交流の教育政策面の1つの例が、そこに示しましたマーシャル・スミスでありまして、彼はハーバード大学で博士号をとって、ハーバード大学の准教授、それからウィスコンシン大学の教授も務めています。スタンフォード大学のディーンも務めて、先ほどのコミッション・オン・チャプター1のメンバーでもありましたが、クリントン政権への移行の中で辞任し、クリントン政権ではアンダーセクレタリー、長官がセクレタリー・オブ・エデュケーションですが、その下の教育次官に就任して、クリントン政権の教育政策で中核的な役割を担っていくことになります。

このスミスが、先ほどのシステミック・スクール・リフォームの提唱者でありまして、共著の、まさにタイトルが「Systemic School Reform」ですが、これはスタンダード・ベーストの改革に理論的な基礎を与えたというふうに評価されているものであります。

日本においても、政策策定の場合は審議会や検討委員会が設けられて審議や検討に研究者も学識経験者として加わっていくことにもなりますが、正確なデータ、数量的な比較データは持ち合わせていませんが、政策への研究者のコミットということで言えば、日本よりもアメリカのほうがやはり強いのかなと思っています。

次に、施策・実践への貢献のところですが、まずエビデンスに基づく施策・実践への要請というところです。

近年、教育の領域でも、エビデンスに基づく政策、あるいはエビデンスに基づく実践ということが各国で言われるようになりました。文部科学省に国立教育政策研究所というのがございまして、そこの岩崎さんは、エビデンスを実証性を伴った科学的根拠を意味するとして、活用に刺激された研究への需要が高まっていると指摘しています。その要因として挙げられているのが知識社会、いわゆる知識基盤社会だと思いますが、その知識社会と、研究に対するアカウンタビリティーの要請です。

知識社会については、岩崎さんの表現ですが、質の高い科学的に体系化された知識、特に良質な研究手法で産出されたエビデンスが重要になっているということであります。また、研究に対するアカウンタビリティーについてですが、限られた財政の中で政策や実践のアカウンタビリティーが求められる。研究の資金提供においても、助成の条件として研究成果の社会的有用性というものが問われるようになってくるということであります。この委員会でも、人文学・社会科学の社会貢献というのが議題になっているという背景には似たようなものがあるのかなと思うところでございます。施策・実践と科学研究、両レベルでのアカウンタビリティーの要請でありまして、そのエビデンスに基づく施策・実践と科学研究の社会への貢献の要請であります。

この点について、具体的にアメリカの政策を見てみますと、先ほどのNCLB法、これは正式には「An Act To close the achievement gap with accountability,flexibility,and choice,so that no child is left behind」という名前の法律でして、法律の名前に目的が明確に書かれています。アカウンタビリティーとフレキシビリティー、これは各地方や学校に対する規制を弱めて柔軟性を高めるということ、それから親に選択の自由等を認める、そのようなアカウンタビリティー、フレキシビリティー、選択でもって、アチーブメント・ギャップ、学業成績のギャップを埋めるんだと。それによってどの子も置き去りにしないんだというところが示されている、非常にわかりやすい名前になっています。

このNCLB法の中には、サイエンティフィカリー・ベースト・リサーチという表現があちこちでよく出てきます。例えば、そこに例を示しておきましたが、スクールワイド・リフォームは・・・「use effective methods and instructional strategies that are based on scientifically based research」というような言い方で出てきます。この法律自体が、サイエンティフィカリー・ベースト・リサーチについて定義しておりまして、この定義が結構長いので一部引いてきましたが、「The term scientifically based research」というところで、これは次のような研究を含むということで、それを見ていきますと、リガラス、システマティック、オブジェクティブなprocedures to obtain reliable and valid knowledge relevant to education activities and programs.それからシステマティック、エンペリカルな方法、それからオブザベーションあるいはエクスペリメント、観察だとか実験、さらには厳しいデータ分析、それからメジャーメントとオブザベーショナル・メソッド、それからリライアブルでバリッドなデータ等々が出てきて、極めて実証的な視点が示されています。

こういった法律の規定を受けまして、2002年の法律で、アメリカの連邦教育省に教育科学研究所、インスティテュート・オブ・エデュケーション・サイエンシズというのが設置され、同じ年にホワット・ワークス・クリアリングハウスというものが設けられます。ここでは教育プログラム、成果、実践、施策に関する研究のレビューや、そこで示されたエビデンスというものを検証し、教育研究に関する情報を提供する。レビュー情報をウェブ発信していくということがその任務として示されています。

豊さんという方の研究ですが、このWWC、ホワット・ワークス・クリアリングハウスは、いわゆるエビデンスの仲介機関だというふうに言っています。教育分野の研究の検索・レビュー・評価を行って、その結果を利用者にわかりやすい形で報告していく。で、連邦教育省は、質の高い研究プロジェクトへの助成、その判断においてはこのWWCの基準が適用されるということが方向として示されているということで、実際どうかというのは私は確認がとれていないのですが、こういった方向が示されているということでございます。

科学的に立証されたエビデンスを選び出して、教育実践や方策に役立つように提供していくということは、当然意義あるものだと思いますが、ここにもまた何か課題があるような感じがいたします。この点も後で取り上げたいと思います。

それでは、以上の検討を踏まえて、研究の推進に向けて幾つか気づいたところを整理していきたいと思います。「研究の推進に向けて」というところです。

科学研究とその政策選択・制度設計のところですが、よくボトムアップ型研究とトップダウン型研究というふうに言われます。ボトムアップ型研究でもトップダウン型研究でも、基礎研究あるいは政策提言の両方が含まれ得るということになります。

私たちが見てきたコールマン報告は、いわばトップダウン型ということになるのでしょうが、問題状況を実証的に示していくという研究でありまして、これは政策提言そのものを目的とはしていませんでした。ですけれども、先ほど言いましたように、その後の展開として、実証研究、規範研究が蓄積されていって、それが制度改革に向けた研究と実践につながっていくということであります。

先ほど言いました、そういった中でチャプター1の調査研究、チャプター1コミッションで多様な研究が行われ、研究のレビューが行われて政策の提言となっていく。で、教育のガバナンス・システムの転換につながっていくというところであります。

今見ましたWWCは、成果の重視といった、まさに成果重視のガバナンス体系のもとで、研究のレビュー、具体的な施策・実践の選択、何をやっていくかに対して、エビデンスというものを提供していくということでございます。

そのエビデンスに基づく施策と実践ということになりますが、成果に対して強くアカウンタビリティーを求めるという制度の枠内にありますと、エビデンスに基づく施策の形成というものは、エビデンスに基づく施策の評価というものにつながっていく。それは、ある場合には実証可能な成果の産出のための教育実践になる。あるいは測定可能な成果の産出に向けた競争というものが生じてくるという危惧が生じることにもなります。簡単に言いますと、成果に対するアカウンタビリティーというのが州のテストではかるということになれば、テストで点数を上げる、学業成績を向上させるということが大きなシステムの目的として設定されますと、エビデンスと言ってもそこのほうに集約されていく危惧というものが生じる。そうすると、教育の目的や内容というものを狭めてしまうのではないかというおそれが生まれることにもなります。

最初に述べました、制度レベルと実践レベルとの緊張関係、あるいは現実の社会への貢献とより長いスパンでの貢献との緊張関係というものがここにあらわれてくると思います。教育というものは、当然のことながら次世代の育成の面をもち、そこには現実社会の課題への貢献とともに未来志向があって、そこに緊張関係があります。そうすると、点数でいい成績をおさめるようにする、それは教育の平等の実現にとって大事なんだよというのはわかりますけれども、そもそも教育の役割とは何なのか、教育における平等と正義への問いをどうするのか、それはまた、人間と社会や文化への問いにもつながっていくものかと思います。これは教育についてですが、もともと人文学・社会科学が、先ほど言いました規範と実証というものを両輪としているとすれば、やはり現実社会への貢献と未来志向というものをどう調整していくのかという同じ課題が生じてくるものかな、そういうふうにも思うところであります。

その次になりますが、そうすると、エビデンスに基づく施策と実践、そこにおける規範研究ということでありますが、もちろん規範と実証の両者の基礎的な研究というものが重要ということでありまして、そこには多角的評価、これはいわゆる量的にはかれないものも含めて、多角的な評価ということが必要になる。

アメリカの動向を見てきますと、社会貢献ということを考える上でも、やはりどうしてもここのところ、つまりボトムアップ型の基礎研究への積極的な助成とその多角的な評価、これがやはりどうしても必要というふうに思うところであります。これがないと次を指向していく芽が生まれてきにくいと思います。それを前提とした上で、トップダウン型の課題解決型、あるいは課題提示型の研究、それで変革というものを仕掛けていくということになるのかと思います。その場合の課題点を整理していく、あるいはそれをより持続的な取り組みにしていくことが課題になると思います。

次に、総合的に現実社会の課題に向かう上での1つの大きな問題ということになりますが、先ほどの報告にもありましたが、研究分野の細分化の問題があります。学術分科会の報告書、2009年のものを見させていただきました。そこに、2009年1月に出されたもの、「人文学及び社会科学の振興について――「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道――」という報告書の中で、人文学や社会科学への社会の側からの期待は、個別的な実証研究の積み上げとともに、文明史的な課題に対する認識枠組みの創造があるというふうに言っています。つまり、人間とは何か、歴史とは何か、正義とは何かであります。で、研究の細分化が克服され、歴史や文明を俯瞰することのできる研究の取り組みが重要というふうに言っています。つまり、そういった俯瞰できる研究ということは、研究の細分化を克服するのが一つの課題ということになります。

私の属している教育学研究は教育事象というものを対象としていますが、そこには多様なアプローチがあって、歴史学的な手法もあれば社会学的なアプローチもあって、多様なアプローチがあります。さらに、教育の現場には多様な課題があって、その多様なアプローチと多様な課題に対応して、研究分野が非常に細分化されて、学会数がものすごく多いというのが教育学の世界であります。各領域において、それぞれ研究の深化というものが図られているのでしょうけれども、相互交流が非常に薄く、用語を共有するのも困難というような状況が実際に生じています。

そういった中で、例えば私がかかわっている2つの取り組みですが、1つは、東京大学の私が属している教育学研究科で、ことしから科研の基盤Aをいただきまして、「社会に生きる学力形成をめざしたカリキュラム・イノベーションの理論的・実践的研究」というのを始めました。教育学研究科の多くの教員がディシプリンを超えて共同で取り組んでいるものであります。

もう1つは、私が属している日本教育学会の取り組みでありまして、教育学の世界はいろいろな学会があるのですが、日本教育学会というのは広く各領域を包むような学会でございます。ことしの夏の大会で、特別企画で「東日本大震災と教育」というのを行いまして、それを受けて特別課題研究「大震災と教育」というものを立ち上げて、復旧・復興と教育について共同研究を行うことになりました。アメリカのハーバード・エデュケーショナル・レビュー等を見ますと、教育と復興の問題が外国でも論じられているので、国際比較も含めながら、こういった研究をやっていければと思っているところであります。

次のスライドですが、よく「戦後」から「災後」へという言い方がされます。つまり、社会システム全体をとらえ直そうということでありますが、私たちの教育の世界でも、いわゆる震災被害への対応、これは非常に迅速に、かつ手厚くやっていかなければいけないのですが、あわせて、今回の震災というものを契機にして、社会システム全体、教育システム全体というものを再点検、再構成していかなければいけない、その契機にしていきたいと思うところであります。

例えば学校と地域社会との関係、これをどう組み立てていくのか。それから学校教育の内容をどうするのか。今回の震災では、日本人の課題解決能力、あるいは共生、ともに生きるということですが、共生に向けた力等が問われました。そういったものを学校教育の中でどういった形ではぐくむかということになると、教育の内容自体の再構成が必要になります。加えて、学校を支えるいろいろな仕組みができてきていますが、それぞれ、評価にしても参加にしても、目的を持ちながら行われているのですが、全体としてみるとどうも学校に対して負荷になっていないか等々を含めまして、学校の仕組み自体を再構成していかなきゃいけない、そういうように思うところであります。

そういった研究というものを支えていく、共同研究を進めていく、分野を超えた協働と知の統合というものを図っていくということになりますが、ここで、協働をどう考えるかであります。

先ほど言いました教育学研究の各分野の連携による共同研究の遂行、それを今、私たちは行おうとしているのですが、それは教育学研究各分野の認識枠組み、方法というものをイノベーションしていくのか、教育学研究各分野の融合による新たな認識枠組みや方法というものを生成していくのかということであります。

例えば教育学の中で、AというディシプリンとBというディシプリンがあって、その2つの分野が協働する場合、お互いがお互いを見合いながら、AなりBなりがそれぞれ方法においても認識枠組みについても豊かになっていくということで考えるのか、あるいはAとBが出会うことによって違うCというものが生まれてくるのかということでございます。

同じことは、教育学が他の学問分野と連携して共同研究を遂行していくことにも当てはまると思います。私の領域でいいますと、行政学や経営学の先生方と一緒に共同研究等をさせていただいている場合がありますが、そうすると、各学問分野の認識枠組み、方法のイノベーションなのか、あるいは学問分野の融合による新たな認識枠組み、方法というものが生まれてくるのかということでありまして、その新しいものが生まれる場合、学際的な研究によって成果が出てくる場合、これは1つの社会貢献のテーマに対して1つの成果で終わるのか、それを生み出した認識枠組み、方法は継承されていくのかというのが大きな課題だというふうに思います。

私はそれぞれのディシプリンというのがそれぞれ豊かになっていく、それはそれでいいかと思いますし、みんなが集まって1つの課題に向けて研究を行い、学際的な1つの成果が出る、それもいいかと思うんですけれども、新しく生まれたCというものが次の世代を育てていくということになると、そこには非常に難しい面があって、これは学会のいろいろな査読のシステム等も含めた、学会それから大学のディシプリンの組み方等の再検討が必要になると思うところであります。

最後に、研究体制について一言触れたいと思います。諸組織・機関の役割分担と連携と成果の結合というところであります。大学・研究所、学会、日本学術会議、日本学術振興会、それからこちらの科学技術・学術審議会等々、多くの機関がありますが、それぞれの連携の問題であります。

学会レベルでの個別の研究、あるいは、先ほど紹介しました日本教育学会の取り組みがそうですが、そこで総合的な研究というものを遂行していく。それと日本学術会議、私、は連携会員ですけれども、そこに入らせていただいていて、各分野ごとの委員会があって、その分科会が立ち上がって、いろいろの研究が行われてきています。これが、例えば先ほどの震災もそうですが、各学会でそれに取り組む。で、学術会議もこれに立ち向かおうとしているわけですが、学会の執行部の人たちと学術会議のメンバーというのはかなりかぶっていますので、ここの研究がもっとうまくつながって、研究成果の統合みたいなことができないか、などと思っているところでございます。

それが1点と、もう1つは、日本学術振興会に学術システム研究センターが立ち上がったとき、専門研究員というのが置かれて、私はその初代の専門研究員だったこともありまして、学術振興会を核として、先導的研究というものをもっと遂行していく――もう実際に行われていますけれども、課題解決型、課題提示型の研究というものを仕掛けていく。あまり僕は、そんなにメニューを変える必要はなくて、そういったものをより持続的につなげていくということが大事かと思っていまして、この2点、研究体制について触れさせていただいて、私の報告といたします。

以上です。

【樺山主査】

大桃先生、ありがとうございました。大桃先生のご報告も、最後の部分、かなり具体的な制度やあるいは組織等々の問題についても論及していただきまして、私どもにとってもいろいろと考えさせられる問題があったかと思います。

それでは、長くなりますので一たん休憩をとりたいと存じますが、休憩と言いながら実はお休みにはならないのですが、この間に、今2つありましたご報告についてのいろいろなご質問なりご意見なりを多少でもそれぞれ皆さん方、用意しておいていただければと思います。時間は限られておりますが、一応6時までと予定されておりますので、再開後約1時間弱でありますけれども、時間がございます。有意義な議論ができればと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。

それでは、今、5時5分前、4時55分でございますので、5時5分から。5時5分過ぎに再開させていただきます。よろしくお願いします。

 

( 休憩 )

 

【樺山主査】

それでは、5時5分過ぎになりましたものですから、再開をさせていただきます。

ここまでお二人の先生方、沼尾先生と大桃先生とお二人からそれぞれのご専門に基づいた、専門領域に基づいたご意見の発表をいただきました。時間が限られておりますものですから、多分まだ十分に意の満ちたご報告になり得なかったというご不満もあり得たかと思いますが、これらをもとにしまして、これから短時間ではございますけれども、議論を続けていきたいと存じます。

お二人にきょうおいでいただきましたのは、実は私、個人的にはお二人と幾つかの機会で同席いたしまして、とりわけ、いわゆる分野融合でありますとか連携でありますとかいった問題につき、意見を交換する場所がございまして、特に、大変、私個人にとっても、また同席しているさまざまな研究者にとっても、大変裨益するところが多いということから、本日、いま少し踏み込んでお話をいただきたいということでもってお招きしたわけでございます。大変無理を申しまして、ありがとうございました。

それでは、ただいまの報告につきまして、ご意見等々いただきたいと思いますが、前回も含めまして、ほんとうはお二人の報告をなるべくお互いの間に深いかかわりがあるお二人からというのが本来の姿でありますけれども、いろいろスケジュール等問題がございまして、どうしても、少し、お互いの間には溝があった、違う方向を向いたということもあり得ますけれども、しかし、そうした現実の条件の中でもって、お二人においでいただきましたものですから、できるだけさまざまな角度からご議論をいただくことができればと思い、ご協力をお願い申し上げたいと思います。

それでは、どなたからでもご発言いただきたいと思いますが、もし可能でしたらば鎌田委員から、ちょっと中座されるということもございますので、鎌田委員からまずご発言いただきまして、その後、皆さんからお願い申し上げたいと思います。なお、お二人の方々にご質問等々も含まれているかと思いますので、レスポンスを含めて皆さんにもご発言をいただくということでお願い申し上げたいと思います。

それでは鎌田先生、よろしく。

【鎌田委員】

発言の機会を与えていただきましてありがとうございます。沼尾先生、大桃先生のお話を伺って、それぞれまことにもっともであり、我々も深く考えさせられることが多くて、雑駁な感想以上に、まだ私自身の考えがまとまっていないところでございます。

私なりに非常に単純化して感想を申し上げれば、沼尾先生からは、学問分野の融合みたいなことを、あまり軽々にそれをやれば何かが生まれてくるというふうに、根拠のない期待を抱くことへの警告と同時に、実際にそういった融合分野を生んでくる上では、やはり1つの、現実に行われている研究あるいはさまざまなデータの中から具体的なものを発見していく中で、新しいものが生まれてくる可能性を持っているというふうなご示唆をいただいたところであります。

他方で、大桃先生からは、さまざまなご示唆をいただきましたけれども、その中でも非常に印象的だったのは、やはり規範と実証との関係でありますとか、あるいは現社会への課題への貢献と未来志向との緊張関係、こういったものを意識しなければいけないというのも、人文・社会科学の学問的発展、あるいは社会的貢献ということを考えるときに非常に重要な視点を提供していただいたと思います。

これをどう受けとめて、我々、考えていかなければいけないかというのがこれからの課題であるのですが、資料1にあります審議事項例と関連づけて言いますと、1のほうの課題の(2)では、人間とは何か、正義とは何かといった認識枠組みの創造という役割・機能を果たしていくと。これはますます強く期待されているようになっているのだろうというふうに私自身も思っているところでありますが、これはどちらかといえば、大桃先生の用語では、ある意味で現社会の課題への貢献というよりも、むしろ未来志向といいますか、あるいは長いタームの中で恒常的に考えていかなければいけない課題であり、人文・社会科学が常にほかの学問分野との関係でも担い続けていく課題としてあるんだというふうに思っております。

他方で、この資料1の2ポツの課題の(1)のほうの、政策的課題や社会への貢献を視野に入れた人文・社会科学の機能の強化というのは、おそらく社会的には、どちらかといえば現社会への課題への貢献というところでの人文・社会科学分野の役割・機能が若干弱い、あるいは弱まっているということに対する指摘を意識してのものなのかと受け止めています。そういう意味で、この委員会において検討すべきことも、やはり両様あって、それをうまく、目指しているところの相互の関係、それぞれの位相の違いみたいなものをきちんと意識しながら議論を整理しないと、両先生からご指摘いただいたようなことが混乱したままで並列的に列挙されていってしまうおそれがあるということを一番強く感じました。

と同時に、お二人のご議論、おそらく単純化し過ぎかもしれませんが、共通することは、やはりトップダウンの課題解決型研究の奨励ということも必要でありますが、その不可欠の大前提はやはりボトムアップ型の基礎研究、そういったものが充実し深まっていく、あるいは個別の研究分野が深まっていくことの中にしか、実質を伴った融合とか、あるいは分野間の共同作業というふうなものが効果的には成り立たないんだと、そういう印象を受けました。これは感想でしかありませんが、そのようなことを意識しながら、少し我々の議論の論ずべき課題の相互の関係をきちんと整理して検討を深めていかなければいけないということを非常に強く感じさせていただきました。そういう点では大変私には勉強になりましたので、お礼を申し上げます。何か特に誤解がありましたらまたご指摘をいただければと思います。

【樺山主査】

ありがとうございます。

ちょっと事務局、あれですか、少しちりちり音がするんだけれども。どうなんでしょう。不可避なのかな。

【高見沢室長補佐】

もしマイクがなくてもよろしいということであれば。

【樺山主査】

記録をとるときにないと不便ということはありませんか。

【高見沢室長補佐】

大丈夫です。

【樺山主査】

大丈夫ですか。では切りましょうか。随分機械音がしますので。それではマイクを切りまして、地声でそれぞれ皆さん、少し大きな声でということを心遣いいただければと思います。そんなふうに進めさせていただきます。

それでは、今、鎌田委員からお話がございましたけれども、特にこれらについてのレスポンスがなければ、少し皆さん方からいただいた上でもって、まとめてということにさせていただきます。

それでは、どなたからでも結構ですが、挙手でもってお願いします。

大竹委員、どうぞ。

【大竹委員】

沼尾先生、大桃先生に私の感想を含めた質問をさせていただきます。

まず、沼尾先生には3点お聞きしたいことがあるのですが、お話にあったスタンフォード大学のCSLIの文理融合型の研究所ですが、どういう経緯であのようなタイプの研究所ができたのかということをご存じでしたら教えていただきたいというのが1つ。

2つ目は、沼尾先生は現在、大阪大学の産業科学研究所で人文・社会科学系との融合研究をされているということですが、産業科学研究所の中にそういうシステムがあるのか、それとも先生独自のネットワークで、大学や組織とは全く無関係になさっていらっしゃるのかということをお聞きしたいと思います。産業科学研究所の中でそういう文理融合型の新しいタイプの研究というもの、例えば資金であるとかポストであるとかラボをつくるなどというシステムがあるのかということも含めてお教え下さい。

3つ目は、融合研究をする場合には仲介する人材の育成が大事だというご指摘があり、私もそのとおりだと思うのですが、それについて2つほど質問があります。1つは、そういう人材をどの段階で教育するのがいいのかということです。例えば大学院レベルで、今の専門プラスそういう他分野の知識を獲得するような形がいいのか、もっと前の段階でやるべきなのか、あるいはもっと後で、研究者になってからで十分なのでしょうか。

それと関係するのですが、そういった仲介することができる人材のキャリアというのはどうあるべきとお考えでしょうか。研究プロジェクトのリーダーとなる研究者自身がそういう素養を身につけるべきなのか、あるいはそうではなくて、仲介する人材としての専門のキャリアをたどるべきなのかということです。その人たちは研究者なのか、それとも、例えば大学の事務スタッフに近いような仲介者なのか、どちらであるべきなのかというのをお聞きしたいのです。

次に、大桃先生に2点お尋ねしたいのですが、1つは、社会貢献について、現社会への貢献と人類史的な貢献との間に緊張関係があるというご指摘で、私もそのとおりだと思います。理科系でも文科系でも同じことがあると思うのです。ただ、その緊張関係に、資金をどれだけ配分するかというときに、だれがその決定をするのかということだと思うのです。特に人文・社会系では、お金があまり要らないという意味で、多分専門家だけで決定しているところがあると思います。理科系では、巨額の資金をだれが負担するかということで、政府が介入するという傾向が強いと思うのですが、そこで、その緊張関係を研究者だけで決めていいのか、それともそれ以外の人が入る形にするべきなのかということについて、もしご意見がありましたら教えていただきたいというのが1点目です。

2つ目は、アメリカのボトムアップ型の研究とトップダウン型の研究のバランスというか、合流した経緯が、例えば法律が制定されているということについても非常に印象的だったのですが、どうしてアメリカではそういう形で政策に活かされたのか、人文・社会系であってもトップダウン型の研究がなされるような素地があったのかということが疑問なのです。

日本でも、理系については同じようなことがある程度あると思うのですが、文科系ではあまりありません。文科系の場合は、審議会などでも役所の中だけで行われ、非常にインフォーマルな形での研究組織で短期的になされるだけなのですが、その理由として、1つは、私は鶏と卵かなと思ったのですが、日本の人文・社会系の研究では、政策を念頭を置いた研究が比較的少ない。ボトムアップの素地が非常に少ないからそれに期待しても仕方がないと、政府や国民が考えているというのが1つだと思うのです。もう1つは、政策に使われないから、現在の社会に対応した研究をするインセンティブが研究者のほうにないという、両方あると思うのですが、もし後者であれば、アメリカ型の法律に根差した、こういうことをするためには社会科学的な研究に基づいて政策研究をきちんとやりなさい、という法律ができれば、おそらく日本でも研究レベルが、ボトムアップも含めて両方上がっていくというように思うのですが、前者であればなかなか絶望的かなという気もします。これは些か感想なのですが、その2点についてお願いします。

【樺山主査】

かなり踏み込んだ、現実的な中身を持ったご質問ですので、すべてにわたってお答えいただくと時間的にも問題がございますので選択的で結構ですけれども、それでは初めに沼尾先生からお願いしましょうか。

【沼尾教授】

3つご質問があったのですが、最初にスタンフォード大学CSLIのできた経緯についてです。1980年代の初めごろは、認知科学とか人工知能とか、そういった情報系の分野融合が結構活発だったと聞いています。その中で、哲学者と論理学者が実際に共同研究を始めたりとか、そこでいろいろな人が集まったりということがあったそうです。それを基にプロジェクトを申請したところ、かなり多くの金額の民間からの寄附があったと聞いています。その寄附を使って成立したわけです。寄附でもって、かなりの金額だったものですから、建物その他すべてを賄った上で、そういった人が集まる場所ができた。

そのことによって、しばらく活発に研究が行われたのですが、その寄附は80年代後半には使い果たし、研究所をその後維持するのはかなり苦労をされたと聞いています。その後、研究所は、現在も持続しておりますが、かなりの努力が必要だったそうです。コンピュータ科学関連で、ヒューマン・インタフェースなどの研究を活発に行うことで、日本企業の協力も得ていました。

2番目の質問ですが、私の所属する産業科学研究所は、理系の研究所ですので、理系のたとえば、物理、化学、情報、生物学の共同研究は活発にやっております。人文系との共同研究は研究所の中ではありませんので、私が個人的に心理学者と議論したり、そういうことで行っております。私の場合、人文系との協力というのは、今も行っていますが、むしろ、若いときのほうが活発にやっておりました。

3番目の仲介者ということですが、やはり事務方に近いというよりは、第一線の研究者が頭に浮かびました。身近な研究者で2つの分野、人文学の方もおられるかもしれないのですが、たとえば、医学をやられた方が情報系のことに興味を持った。医学博士の方が工学博士を改めて取り直されたという例を知っています。データマイニングと呼ばれる情報系の研究で工学の博士号を取られました。そういった二つの学位を持たれた先生がおられると、その方は仲介者になることができます。事務方というのは、大体普通はかなり広い分野と関係されています。そこまで広い方ですと、逆に専門の話は通じにくくなります。むしろ、2つのピークを持たれた方が仲介されるというイメージです。キャリアとして、専門を持った研究者が、自分の研究上の都合で、2つ目の専門を持って研究されると、仲介者になれるわけです。

以上です。

【樺山主査】

それでは大桃さん、どうぞ。

【大桃教授】

はい。2つ質問をいただきまして、1点目、人文学・社会科学の場合、現実の社会への貢献と、もうちょっと長目のスパンでの貢献というのがある場合に、競争的資金等を決める場合、だれがそれを評価し、資金を出していくかということでございます。

難しい質問ですね。確かに大きなお金が動く場合……難しいですね。今、人文学・社会科学では、多くの補助金を担っているところは学術振興会でして、そこはまさにピアレビューといいますか、専門の研究者の判断で行っている。人文学・社会科学について言いますと、今のでいいのかなというふうに私は思いますけれども、あまり確たる自信はございません。

2点目は、アメリカにおいてボトムアップ型のいろいろの研究が、ある面で政策につながってくる、その筋道はということでございますが、やはり政策と大学・研究所とのつながりが、これも数量的なデータは持ち合わせていないのですが、日本よりもアメリカのほうが多いのじゃないか。それから政府機関に勤めていた人が大学の先生になったり、その逆、先ほどのスミスは一線の研究者ですが、それがアンダーセクレタリーのようになっていく、そういった人事交流も、おそらく向こうのほうが活発のように思うのが1つと、もう1つは――かなり推測でしゃべっておりますが、アメリカの場合シンクタンクが結構ございまして、例えばワシントンなんかですと教育に関するシンクタンクがかなりあります。

シンクタンクの場合、政策への貢献というのがやはりあって、いろいろファウンデーションからお金をもらって研究を行っています。そのシンクタンクが、いわゆる基礎的な研究と政策への貢献というものを一つつないでいく役割になっているのかなということ、これもかなり推測ですけれども、日本の場合、シンクタンクが少ないのかなと思うところであって、そこがもっと充実していくこともあるのかなと思うところであります。すみません、明確な答えじゃなくて。

【樺山主査】

ありがとうございます。

大竹さん、もし今のお答えでもう少し踏み込んでお答えをというところがあったら一言つけ加えてください。よろしいですか。

【大竹委員】

ありがとうございます。では1点だけ。日本でも、例えば学術研究のもとできちんと今後の評価をしなさいというような法律ができれば大きく変わるような気がするのですが、そもそもそれができるのかどうか、そういうことに対する国民の期待があるのかということも含めて、展望をお聞きできればと思います。

【大桃教授】

最初に申しました、1960年代のコールマン報告は、教育における不平等と、学校に対する調査を行うことで、ある面で学校なり教育の改革への期待みたいなものがあったと思うんですが、実際の研究成果は、学校がちょっとぐらいやってもその格差というのは埋められないんだという、当時の期待とはおそらく違う結果が出たのかと思います。

ですけれども、政策を動かしていく上で、大きなそういった基礎研究自体を仕掛けていくというのは、それを受けてまたボトムアップ型の研究が蓄積されていって、それが何十年か後にまた大きな政策展開にかかわってきますので、法律で行うかどうかわからないのですが、政府レベルで大きな基礎研究というのをきちっとやっていくというのはとても重要かと思います。

【樺山主査】

ありがとうございました。

どうぞ、縣科学官。

【縣科学官】

今の件、大桃先生のお話を非常にシンパシーを持って伺わせていただきました。今の件で発言を求めた理由は、私の考える限りでは、政府がある程度のイニシアティブを持って、従来の研究成果を政策に反映させるという手段としては、審議会が非常に大きな役割を持っていると思います。先ほど大桃先生とも個人的に話したのですが、その一番大きい例は第2次臨調であるわけです。

第2次臨調の答申というのは、現在をも左右しているだけの影響力を持っているわけですが、その時に、アメリカ――先ほど伺ったアメリカとのお話の大きな違いは、そういうきっかけをつくった後に、何年かの研究を一たんまとめて、それをまたフィードバックして政策に反映したということではなくて、審議会が設置されたことによってアジェンダが設定されて、そこに従来の個々の研究者が持っている個別の研究成果が知識として反映されて、大きな政策転換が図られているということだと思います。この図式は、現在も臨調ほど大きくなくても、いろいろな政策分野で規模を変えて存在している方式だと思います。

ですので、私の認識としては、問題としては、アジェンダ設定としての審議会が行われる際に、それに合わせて何かトップダウンの研究を政府がイニシアティブを持って提唱するかどうか。あるいは、何かトップダウンで行った研究成果があるテーマについて審議会を設定して、さらにその政策の実現性というものを持たせていくか。そういう手法を一つ、日本の社会の中で考えることによって、社会科学、そして人文学も含まれていますが、人文・社会科学の研究成果と実際の政策の連動ということがさらに諮られるのではないかと思いますが、大桃先生、いかがお考えになりますか。

【樺山主査】

じゃあ、今のご質問、ご意見に、多少レスポンスをお願いできますか。

【大桃教授】

はい。今ご発言いただいたとおりだと思います。審議会の場合も、事務局でもともと方針が決まっていて、その権威づけというようなことが言われることがありますが、実際の審議会ではかなり踏み込んだ検討があり、当初予定していないような成果、結論に行くこともあろうかと思います。審議会自体が、ちょっと大きな言い方をすれば、知の創造の場になっていくような契機もあると思いますので、そういった意味での審議会、そこにおける研究者、学識経験者の役割というのは大きいと思います。

それにかかわって、審議会で審議・検討していく上で、何らかの調査研究みたいなものが立ち上がって、そこで実証的な研究、あるいはこれまでの研究というものをレビューして政策に生かしていくというのは、私も大事なことと思います。ご指摘いただいたことは私もそう思います。

【樺山主査】

はい。関係している話でなくても結構です。どうぞ。

【金田委員】

それでは、ちょっと1つ教えていただきたいのですが、大桃先生、時間のことを気にされて十分説明されなかったのかもしれないのですが、もうちょっとお聞きしたいと思います。エビデンスに基づく施策・実践と規範研究というところで、実証可能な成果の産出のための教育実践とか、あるいは測定可能な成果の産出に向けた競争への危惧ということをご指摘になったのは、私は全く同感です。一方で、現社会の課題への貢献と未来志向の緊張関係というのもそのとおりだと思います。それで、そこに関連して、おそらく一番重要になってくるのは、基礎研究やボトムアップ型のものに対する多角的評価という用語でご説明になりましたが、その用語についてもうちょっと、多角的ってどんなことをお考えになっているのかということを教えていただけたらありがたいと思います。

つまり、日本の評価は、ともすると評価の公平性というようなこととか、評価のばらつきが少なくなるようにというような点がおそらく一番重視されていて、それで未来志向型というようなことに対する評価の部分が十分に出てこない傾向が、今のところ非常に強いんじゃないかと思うのですが、そのあたりも含めてちょっとご意見をお聞かせいただけたらありがたいと思います。

【樺山主査】

今のご質問です。では大桃先生にお願いしましょうか。

【大桃教授】

はい。エビデンスに基づく政策形成、これは私はそれ自体とても大事なことだと思いますし、そういった、きちっとエビデンスに基づいて政策なり実践が行われていくということはとても大事なことで、そこに科学的な根拠を求めるということでありますが、もともと大きな制度のフレームが、例えば結果志向であればその枠の中に落ちていく危険性があるというところで、その枠組み自体も問い返せるような研究の余地をやはり残しておかないといけないというところであります。

そうすると、その研究の成果も、ここのスライドのところで書きましたけれども、やはりボトムアップ型の研究が基盤ですので、そこに積極的にお金を出していくとともに、単なる量的な評価だけではなくて質的なもの、これは大変難しいですけれど、ある程度先をどれだけ見ているかというような不確定な部分も含めたような、不確定だと客観的で、公平にならないかもしれませんが、質的な面も含めた評価というものが必要かなというふうに思います。

【金田委員】

すみません、私が今お聞きしたのも、ちょっと表現が悪かったかもしれないのですが、評価の公平性とかそういうことを求める気風があるというのは、私は多少ネガティブに申し上げたつもりなのです。

【樺山主査】

それでは、ほかの委員の方、どうぞご遠慮なく。はい、どうぞ、高山科学官。

【高山科学官】

どうもありがとうございました。お話を伺いながら、いろいろ考えました。沼尾先生と大桃先生にそれぞれ質問をさせていただきたいと思います。最初に沼尾先生ですが・・・。異なる学問分野に属する人たちが同じ集団に入って共同研究を進める際の問題点について、具体的な事柄をいろいろお話しいただいたので非常によくわかりました。異なる学問分野の人たちを、特に文系と理系を同じ集団に入れて研究することのメリットは何かというと、やはり刺激であったり、あるいはそれぞれの専門の狭い枠組みから出やすい、解放されやすいということがおそらくあるんだと思うんです。他方、ご指摘されたようにデメリットが当然あるわけで、まずはコミュニケーションができない。それから、コミュニケーションがうまくできないことによって、研究者たちの多くの時間とエネルギーが浪費されてしまうというようなことが当然考えられます。

ただ、そうしますと、――こういうところで議論をするときに、これまであまり出てこなかったような気がするのですが――、同じ関心とか目的を持っていれば、まあ何とかなるといいますか、目的がありますから、それを解決するために何とかコミュニケーションを図ってということで、プラスの方向に動くのでしょうけれど、そうじゃない場合、たとえば、とにかく文理融合をやらせてみようといって組織をつくっても、それぞれの研究者が別の関心を持っていれば、当然エネルギーを投下したくないわけですから、なかなかうまくいかないんじゃないか。つまり、大事なのは、目的や関心が共有されていることだと思うのですが、いかがでしょうか。これが沼尾先生に対する質問です。

続けてよろしいですか。大桃先生には、社会貢献の問題について、大体2つに分けてお話しいただいたと思うのですが・・・。ある意味では短いタームというか、目の前にある問題を解決する、課題を解決するというような社会貢献。もう1つは、これは私なりの理解ですが、長期的な貢献。つまり、「人間や人間集団の知恵」、あるいは「人間社会、あるいは外界と言ったらいいんですかね、世界に対する理解力とか認識力」というものを深める。これは長期で、直接的ではないけれど、やはり人間や人間集団にとって非常に大事なことだと思うんです。これがしばしば基礎研究と一緒に考えられてきたものだと思います。両方とも大事で、両方とも重要な社会貢献だと思います。

ただ、審議会の報告にもあったと思いますが、日本独自の、別の言い方をすると国際的に評価される、あるいは独創性の高い研究成果が求められています。その独創性を求める研究と、一般に言う研究と言ったらいいんですかね、啓蒙とか教育も含めた研究、集団のある種の知力を高めることに貢献する研究を、同じように扱うことができるのか。この2つの研究は区別して考える必要があるのではないかと思うのですが、これに対して何か示唆していただけることがあればと思います。

それからもう1つ、あと1つだけ。やはり私も評価の問題が非常に気にかかりまして・・・。研究を――あるいは研究成果でもいいのですが、だれが評価するのか。それから、どのように評価するのか。また、一体何に価値を置くのか。評価をするときにですね。さきほど申し上げました、ほんとうに独創的なものを評価するのか、それとも、具体的に何か効果があったということを評価するのか。この点いかがでしょうか。

【樺山主査】

それでは、どちらからでも結構です。じゃあ沼尾さんからお願いしましょうか。

【沼尾教授】

融合研究を行う場合、ご質問の通り、関心とか目的が共有される必要があるというのは、当然だと思います。

私の場合は、人工知能を研究していて、知能とは何かということを解明したいという、動機がありました。「知能」には、コンピュータ科学者はもちろん興味があるわけですが、文系の先生方の方が歴史的に長く研究されています。そういう先生のお話を聞きたいというのがきっかけでした。やはり関心・目的というのは一番大事だと思います。その関心・目的があったとしても、それなりに価値観のベクトルにはややずれがあったというのが私の話です。ただ、エネルギーはいろいろ消耗したかもしれないですが、それなりにエキサイティングな体験をしたので、非常に意味のあったことだったと思っています。

関心とか目的が共有されずに文理融合研究をやるという状況を、むしろ私は想定できません。関心も目的も共通ではなく、全く何もない人が集まって、コミュニケーションをとるという状況は、ちょっと想像できません。それがご質問への答えです。

評価の話については、いろいろな難しい問題はあると思います。たとえば、科研費の挑戦的萌芽研究のように、何人か審査員が居られたときに、ごく一部の審査員だけが評価して、ほかの審査員があまりいい評価をいただけなかった場合にも、何らかの手当をする。その代わり、成果の出る確率が低いことを受け入れる。そういう考え方も少しは有効かなという気はします。

【樺山主査】

大桃さん、どうぞ。

【大桃教授】

はい。いただいた質問がとても難しくて答えられない感じがします。独創的な研究をどう進めていくか、あるいはそれを行える人をどう育てていくか、集団としての知的力をどう高めていくか――教育学の課題そのものでありまして、とても難しいです。

うまく答えられないのですが、評価について言えば、先ほど多角的な評価と申しましたが、これは2つの考え方があって、1つの、例えば科研費の評価において、そこに多元的な視点を入れるというのがあります。それと、その評価の仕組み自体を多元的にしていく。場合によっては、この社会的な課題についてはこの一本で行くぞ、というのもありかなと思います。ですから、多元的というのは、1つの評価の中に多元的な要素を組み込んでいくというのと、評価システム自体を多元的にして、これでやるぞ、そのような判断もあるのかと思っていました。それが先ほどの、全体としてのレベルアップと独創的なものを生み出していくところにもつながってくるのかと思います。すみません、ちゃんと答えられなくて。

【樺山主査】

よろしいでしょうか。それでは伊井委員からお願いします。

【伊井委員】

いろいろお教えいただいてありがとうございました。前回の「対話と実証」の審議会で私は直接討議に加わっていたものですから、関連してお尋ねしたいと思います。沼尾先生の、変な言い方をしますと、文理融合という研究分野はほんとうに将来にわたってあり得るのかというようなことを、とても危惧し疑念にも思うのです。確かに、現実には文理融合という、例えば大学や学部に文理の名称が存在しますが、ともかくその分野の発足によって新しい融合された学問が創造されたのかということです。

そのために、最後におあげになった「文」と「理」を融合するためのマネージャーの養成とか、あるいは他分野の人に理解させる能力を備えるというのが、先ほどおっしゃったような、2つの例えば学位を持っている方が仲介をするのだとして、最新の研究分野にはたして仲介可能な研究者がどれほど生まれるのかということです。現在の学問は細分化していくのは必定ですし、さらにそれに対応するマネージャーということになりますと、そこで生まれる「文理融合」の学問とはどのようなものか、現実とどういうふうに整合性を持たせればいいのかかというのを、お聞きしたいと思っています。

大桃先生のほうには、教育学というもの、他の分野での融合とおっしゃっているわけですが、研究の新たな認識の枠組みとですね。具体的にどういうイメージが予想されてくるものなのか、そのあたり、ちょっとだけでもお教えいただければと思っております。その2点をお願いいたします。

【樺山主査】

はい。それでは二人、どちらからでも結構ですが、いつも同じ順番になりますから逆にしましょう、大桃さんから。

【大桃教授】

はい。先ほど言いましたように、教育学は教育事象を対象として、それに対していろいろなアプローチがありまして、例えば学会で言いますと教育社会学会というのがあって、これは社会学のアプローチで行く。教育史学会というのがあって歴史学のアプローチで行く。教育行政学会というのがあって、行政学と連携をとりながらやっていると、いろいろなアプローチがあります。

それで教育事象についてアプローチしていくわけです。今、共同研究を進めていますが、果たして融合なのかが私はよくわからなくて。先ほどのスライドでもお話ししましたけれども、例えば社会学の人と哲学の人がお話をしていると、私から見ていてもとてもおもしろいんです。社会のとらえ方、今、こういった貧困の問題の中で、実際に子供たちが社会で職業を得ていく、そのためにはカリキュラムをどうするのかというのと、そもそも教育というのは批判的な市民の育成で、そういった長い視点から見ていかなきゃいけないという議論があって、そこにはおそらく哲学的な、歴史学的なもののとらえ方と社会学的な意識の違いがあって、それが出会うことによって、それぞれの学問の認識枠組みだとか方法が豊かになってくるんだと思うんです。ですが、それはあくまでも、2つが接触しながら、お互いがAというものとBというものが豊かになっていくのであって、そこから新しいCというものがどういった形で生まれてくるかが、私はよく、なかなかわからないところがあります。

学際的に1つの課題に立ち向かうとき、総合化された形で成果は出てくるのかもしれませんが、それが新しい学問領域として成立し、そこにまた新たな子供が生まれてくるような仕組みが果たしてできてくるのかがまだよくわかりません。いろいろな学問が会うことによってそれぞれの学問領域が豊かになっていく、で、それが総合して社会のいろいろな課題の解決になっていく、1つの成果を生み出すということはあるのだと思いますけれども、そこでつくられた方法なり認識枠組みが継続していくかは、私はよくわからないところがございます。

【樺山主査】

沼尾さん、どうぞ。

【沼尾教授】

文理融合が難しいのはなぜかなと考えてみると、教育する過程の問題が大きいと思います。一方で、理系の学問に必要な数学、物理、化学などが得意な人がいる。他方では、文系の学問で必要な、文献を精査するとか、そういうものが能力として得意な人がいる。そういうようなことで分かれてしまっているんじゃないかという気がしています。本来、これからの研究の内容を考えてみますと、情報系などがそうだと思うのですが、やはり関心の対象は依然として文理に関係なく存在しています。それにどちらからアプローチするかということで、文系的にアプローチするか理系的にアプローチするかということだと思います。そこに、もし関心が共有されているのであれば、ある対象に対して文理融合が起こるというのは、当然あるわけです。

文と理の人が会ったときに、そこでうまくコミュニケーションがとれるかという問題は残ります。しかし、具体的に対象としてこれを研究したいというものがあるのであれば、そこにアプローチするのに対して、文理の分け隔てがないのは、当然だと思います。

細分化していくこととの整合性を取る方法についてですが、学問がどんどん細分化していく原因は、やはり研究がどんどん複雑になっていくことにあります。私も体験した情報系の研究でも、私が若いころには広い分野だったものが、みんなそれぞれ専門をやっていきますと、それぞれ深く掘っているので、相手のやっていることがだんだんわからなくなってきます。その結果、細分化は当然起こるのは仕方ないのですが、ある程度細分化が進んでいくと、こちらの分野とあちらの分野の人は、コミュニケーションは全くないけれども、実は同じことをやっているよねという話が時々出るんですね。そういう、同じことをやっているよねという人がいるのであれば、そこでちょっと引き会わせてみたらどうかなというようなことがあります。そういう意味では、細分化はしていきますけれども、必ずしもツリーが成長していくように細分化していくのではなくて、どこかで融合するものも必ずあるのではないかなと、個人的には思っています。

【伊井委員】

どうもありがとうございました。

【樺山主査】

ありがとうございました。それでは池田さん、どうぞ。

【池田科学官】

私は経済学の専門なのですが、今、沼尾先生が、文系的なアプローチと理系的なアプローチがあるんだということをおっしゃいましたが、ちょっと、我々からしますとかなり、相当部分のところまで共通の方法論的な基盤を持っていて、一緒に話ができるんではないかなという部分があります。

沼尾先生と大桃先生のお話を伺っていまして、1つキーワードは、やっぱりエビデンス・ベースドな研究とか制度設計ということだったと思います。大桃先生は、そればかりでは危険なことがあるんだということまでおっしゃったと思いますが、経済学の分野、特に社会科学の分野では、今、エビデンス・ベースドな研究というのはすごく大きな流れになっていまして、その先にある危険のことを心配する段階よりも、今はもっと進めていく段階ではないかなというふうに私は思っています。

その上で、この審議事項の配付資料を拝見しますと、その課題のところに、そうした、例えば実証志向性であるとか、エビデンス・ベースドな研究であるとかいうことについては触れられていないので、そういった方向でもっと研究を推進していく、そのバックアップの体制を考えていく必要があるのではないかなというふうに、私は思います。そうした方向に、実は文理融合みたいな可能性があるのではないかなというふうに思っています。

以上です。

【樺山主査】

今のご発言について何かございますか。どちらでも結構です。

【沼尾教授】

はい。私は、データマイニングも研究しているのですが、そこで医学関係者と話すと、エビデンス・ベースド・メディスンの話が出てきます。やはり、医学関係者もエビデンスということを非常に重要に思ってアプローチされているんだなというのを感じます。ですから、それは非常に賛成です。

もちろん、大桃先生が言われているように、危険もありますので、注意しながら進める必要があると思います。

【樺山主査】

ちょっとお待ちください。今、池田さんからお話がありましたエビデンス・ベースドな問題がこの中に書き込まれていなかったのは事実そのとおりなのですが、ただ、問題意識としては、私どももかねてから共有してまいりましたので、何らかの形でもって、もう少し踏み込んで考えた上でもって、最終的な報告に何らかの形でもって組み込むことも合わせて考えたいと思っております。ありがとうございます。

【池田科学官】

ありがとうございます。

【樺山主査】

縣さん、どうぞ。

【縣科学官】

今のお話の継続としては、先生がおっしゃっている文理融合というのは、決してディシプリンの融合ではございませんですよね。

【沼尾教授】

ディシプリンまで行くともっと時間がかかると思います。

【縣科学官】

であるとすれば、いろいろな研究として文理が協力するということであれば、先生が先ほど仰せのとおりだと思いまして、コアテクノロジーというものがあると、それに対して当然、理工学系はそれを志向されていく。そこで、それが世界にどのように活用されているかということについては、人文・社会科学が当然、いろいろな方向から観察しているわけですので、そこでコアテクノロジーについて幾つか、それをトップダウンでやるかボトムアップでやるかはわかりませんけれども、テーマを設定していくということによって、その文理融合というのは当然なされると思いますし、個人的には先生が仰せになった情報通信のところでは、具体的に政策に対して工学側と社会科学側が協力して発言をしているという例はございますので、その意味でそれを政府が指導するとか、あるいは学会のほうで何かそういう形で提案をするとかということが行われれば、そのコアテクノロジーをそれこそコアにした文理融合、それがちょっとセクターに分かれてしまうことが、問題があるかもしれませんけれども、当然あり得ることではないかと思いますが、いかがでございますか。

【樺山主査】

一言、ではもしございましたらば。

【沼尾教授】

はい。私はそういう形で、研究レベルで文理融合というのはかなり活発にやられているのではないかと思います。

【樺山主査】

それでは、実は予定いたしました時間が極めて限られておりますのですが、鶴間さん、それから瀧澤さん、もし一言ずつございましたらば、手短でお願いしたいのですが、ご発言ありますでしょうか。

ではこちらから。瀧澤さんから。

【瀧澤委員】

先ほど来、皆様がおっしゃられていることを伺っていて、逐一そのとおりだなというふうに伺っていたのですが、どちらかの先生がおっしゃった、ディベート能力を――沼尾先生でしたか、高める必要があるというふうに指摘をされていたことがすごく印象に残っておりまして、これは技術論なのかもしれませんが、意外と、先ほど皆さんが危惧しておりますエビデンスに基づく研究が優先されるあまりに規範的な価値観が抜け落ちてしまうのではないかといった問題があったと思うのですが、そういうことに関しましても、違う研究分野でやられている研究が、その全体のストーリーの中のどこに位置するのかというのをお互いに伝え合うような、わかりやすく伝え合うような能力ですとか、そういったコミュニケーションですね、そういったものは、おそらく皆さん、新しい学問領域を開拓していきたいという強いモチベーションのある方々の中から磨かれていくものだと思います。そういったところに意識することによって、自立的にそういう、何か政府が大きな方針を設けて、こちらに重点的にやるような法律をつくるとかいうことよりも、成果も大きくなるのではないかなという気がいたしました。ちょっとわかりにくい意見で申しわけないですが、いろいろな学問領域を理解しながら新しい学問分野を作っていくと言うのは、いい意味で海図のない航海だと思うんです。新しい領域を開拓していくという能力は、コミュニケーション能力に負っているところが非常に大きいというふうに思いました。

【樺山主査】

ありがとうございました。鶴間さん、何かございましたら。

【鶴間委員】

もう最後ですから感想になってしまうのですが、お二人の先生のお話の中で、きょう、知能の話が出てきましたので、例えば、人間の頭の中に、例えばこういう表現で、文系脳と理系脳という2つのものがあるとしたら、どういう学校教育の中で出てきたんだろうと。例えば、自分が振り返ってみると、小学校、初等教育、中等教育でも、やっぱり両方学んできたはずですね。で、例えば高校に行って、自分は数学も好きだけれども国語も好きだという生徒さんはたくさんいると思うんです。

ところが、大学という研究組織であり教育組織に入っていく中で、文系・理系と区分けされてしまうけれども、実はほんとうに学校教育の中で、文系脳と理系脳という、そういう分かれ目ってあるのだろうかというのが、すごく感想として持ちました。

それからもう1つは、コンピュータというのは我々、学問の材料として使っていますけれども、コンピュータは中国語で言いますと電脳ですね。つまり、人間がつくり出した脳ですね。ですから、電脳と人脳といいますか、私たちの脳との違いってどこにあるんだろうか。おそらく理系の先生からすると、その電脳をできるだけ人脳に近づけていこうということを、多分努力されていると思います。

我々からすると、まさに文系脳を持っている人間からすると、それは無理じゃないかというふうに考えてしまうのですが、その辺、すごく、ほんとうに感想ですけれど、きょうのお二人の先生の話から持ちました。ほんとうにありがとうございました。

【樺山主査】

ありがとうございます。

それでは、予定しておりました時間が迫ってまいりましたので、本日のご報告に対する意見交換はここまでにさせていただきたいと存じます。お二人の先生方、ほんとうにありがとうございました。

それでは、ほんのわずか、数分残っておりますのですが、実は、初めに申し上げました日本、韓国、日・韓人文振興政策懇談会についての報告に移らせていただきたいと存じます。ほんの数分でございます。

先日、実は12月2日のことですが、韓国のソウルにおきまして、日・韓人文振興政策懇談会というものが開催されました。この懇談会は、日本側に文部科学省、それから韓国側は経済人文社会研究会という政府機関がございますが、それぞれの担当がございまして、平成16年から第1回が開催されて以降、今回が8回目となります。相互に、お互いにかわりばんこに催してまいりましたが、今回につきましては、私とここにおいでになります金田委員、それから高山科学官と3名出席いたしまして、そこで議論に参加してまいりました。また、本日もおいでになっております伊井先生、あるいはご欠席の田代先生も、前回の懇談会にはご出席になりました。

というわけで、この日・韓ですが、日本と韓国人文振興政策懇談会は、この委員会、人文学及び社会科学の親交に関する委員会とも関係の深い会合でございましたので、本委員会での検討の参考にもなりますので、事務局からごく簡単で結構でございますが、その経緯等々についてご説明いただけますでしょうか。

【高見沢室長補佐】

それでは簡潔にご説明させていただきたいと思います。資料4のほうをごらんいただきたいと思います。

先ほど、樺山主査からご説明がありましたとおり、平成16年から第1回の日本と韓国の人文・社会科学研究者の意見交換会というのが始まりまして、ことしは去る12月2日に韓国・ソウルにおいて行われました。

ことしのテーマは「リスクマネジメントと人文・社会科学の役割」ということを設定いたしまして、それぞれ両国から意見発表をいただきました。

1枚おめくりいただきまして、別紙1のところに当日の進行計画がございますが、冒頭、樺山先生のほうからごあいさつをいただいた後、今回は清水次官も出席されましたのでごあいさつ等々いただきまして、その後、主題発表ということで、リスクマネジメントと人文・社会科学ということで、高山先生のほうから「危機管理と人文学」と題しましてご発表いただきました。

午後の会では、主題別発表の2ということで、日本学術会議の副会長であります小林良彰先生からご発表いただきました。

会議の最後のところでは特別セッションが設けられまして、この懇談会の今後の発展方向についてということで討論がありまして、そこでの討論の状況をかいつまんでご説明させていただきたいと思いますが、別紙の3ですが、後ろから2枚目のところでございますが、今申し上げましたような主題別発表がそれぞれ行われまして、2ページの下のほうですが、今後の発展方向についての討論ということで、樺山先生のほうから、今期、第6期のこの人文・社会科学の委員会のほうで、この懇談会での討議、議論等を受けとめて進めていきたいというようなご提案をいただいております。

それから、この懇談会の場では、現在、人文・社会科学の委員会で審議事項例として挙げています3つの事例をご紹介いただきまして、韓国側のほうからも同様の審議の論点を持っているというご発言もございました。

この審議事項例の中で、きょうは文理融合と社会貢献ということでご発表、ご意見交換をいただきましたが、あと1点、国際化の推進という論点が残っておりますので、その中を見ますと、文化的・社会的な理解、地域を超えた理解というための人文・社会科学の振興ということに、この日韓の人文政策懇談会の議論なども、場合によっては反映あるいは参考とすることができるのではないかと考えておりますので、適宜、その会議の場でも、この委員会の場でも参照いただければと思っております。

以上です。

【樺山主査】

ありがとうございます。

今のご報告にもありましたが、とりわけリスクマネジメントと人文科学という、私たちにとっては極めて切迫した議論がテーマとなりまして、有益な議論が行われたかと思っております。本日の大桃先生の一番最後のところにも、「東日本大震災と教育」というテーマについて一言お触れになりましたが、実は、時間があればここについてもいま少し伺いたいなというところもございましたが、またの機会に何らかの形でもって引き続き伺うことができればと思っております。

それでは、時間をオーバーいたしましたので、本日の会議はこのあたりで終わらせていただきたいと存じます。次回の会議でも引き続き審議事項の諸項目について意見発表をいただきまして検討を進めてまいりたいと思います。

今もございましたが、次回は人文学・社会科学の国際化の推進に関する意見発表を予定しております。今後のスケジュール等につきまして、事務局からご説明いただけますでしょうか。

【高見沢室長補佐】

資料5にありますとおり、会議を進めたいと思っておりますが、次回は来年になりますが1月13日、本日と同じくこの3F2の会議室で開催する予定にしております。後日また開催案内等を送らせていただきますので、その旨よろしくお願いいたします。

それから、本日の資料については、お手元にあります封筒に名前をご記入いただければ、こちらのほうで後日、お送りいたしますので、机上にお残しいただければと思います。

また、きょうはちょっとマイクのほうが十分機能しませんで、不手際がありまして申しわけございませんでした。

【樺山主査】

ありがとうございます。

それでは、本日の会議はこれにて終了させていただきます。来年はまた1月13日でございますけれども、本年はここで終了でございます。どうか皆様方、よいお年をお迎えくださいませ。どうもありがとうございました。

 

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