学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(第1回) 議事録

1.日時

平成19年5月18日(金曜日) 15時~17時

2.場所

TKP田町ビジネスセンターカンファレンスルーム5

3.出席者

委員

伊井主査、井上孝美委員、上野委員、中西委員、家委員、井上明久委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、谷岡委員

(科学官)
高埜科学官、辻中科学官、深尾科学官

文部科学省

德永研究振興局長、藤木審議官、川上振興企画課長、森学術機関課長、磯谷学術研究助成課長、江崎企画官、井深学術基盤整備室長、門岡学術企画室長、高橋学術企画室室長補佐 他関係官

4.議事録

【高橋学術企画室長補佐】

 時間となりましたので、始めさせていただきたいと思います。
 本日は、人文学及び社会科学の振興に関する委員会第1回の会合にご出席を賜りましてありがとうございます。私、本委員会の事務局であります研究振興局振興企画課学術企画室で室長補佐をしております高橋と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。
 本委員会の主査につきましては、資料4にございます学術研究推進部会、本委員会の親会でございますが、そちらのほうの運営規則第2条第4項におきまして、学術研究推進部会の部会長が指名するということとされておりまして、本日、ご欠席ですけれども、白井部会長より伊井委員を主査としてあらかじめご指名をいただいております。
 それから、主査代理につきましては、同運営規則第2条第8項によりまして、本委員会の主査が指名することとされており、本日、ご欠席ですけれども、立本委員が主査代理ということで指名されております。
 それでは、伊井先生、どうぞよろしくお願い申し上げます。

【伊井主査】

 ただいま紹介いただきました国文学研究資料館の伊井でございます。どうぞよろしくお願いいたします。
 ただいまから科学技術・学術審議会学術分科会学術研究推進部会人文学及び社会科学の振興に関する委員会、第1回の会合を開くことにいたします。これからかなり厳しい日程もあると思いますけれども、できるだけ実のある審議をし、報告をさせていただければありがたいと思っております。
 それでは、本日第1回目の委員会でございますので、事務局から委員の方々のご紹介をお願いいたします。

【高橋学術企画室長補佐】 

 配付資料の中に資料2ということで、本委員会の委員名簿が入ってございます。この資料2の委員名簿の順番に沿いまして、ご出席の委員の皆様方をご紹介させていただきたいと思います。

(委員の紹介)

【高橋学術企画室長補佐】 

 また、本日ご欠席でございますけれども、飯野正子委員、白井克彦委員、西山徹委員、飯吉厚夫委員、伊丹敬之委員、小林素文委員、立本成文委員にも本委員会にご参画をいただいております。
 続きまして、科学官のご紹介をさせていただきたいと思います。

(科学官紹介)

【高橋学術企画室長補佐】 

 続きまして、事務局の紹介をさせていただきたいと思います。

(事務局紹介)

【伊井主査】 

 ありがとうございます。
 それでは、本委員会を開催するに当たりまして、ただいま紹介がありました研究振興局長から一言ごあいさつをお願い申し上げます。

【徳永研究振興局長】 

 徳永でございます。先生方にこの委員会の委員をまずお引き受けいただきましたことを、心よりお礼を申し上げたいと思っております。
 人文学及び社会科学の振興に関する委員会でございますが、これは先ほど担当の者から紹介がありましたように、学術研究推進部会、これは早稲田大学の白井先生が部会長でございますが、そちらのほうでさまざま議論しております。学術研究推進部会は、学術研究全体の推進方策と各分野別の推進方策を議論するわけですが、特にその中で、人文学及び社会科学の振興については少し本腰を入れて議論すべきではないかということが出されております。
 また、特に最近では、国会等の議論におきましても国立大学の法人化等を機に、関係の先生方に日の当たらないと言ったらしかられますけれども、そういう分野について少しきちんと考えるべきではないか。また、大臣のほうからも、人文学についてはきちんとその振興方策を考えるべきだということが、さまざまな席で私のほうにも指示がございました。そういう中でこの委員会を設けたわけでございます。
 特にきょう、これは別にこれを軸に議論をお願いしたいということではないわけでございますが、特に先生方にこんな点にもご留意の上でご議論を進めていただきたいという事柄を資料3にお示しをいたしましたので、この資料3をごらんいただきながらお聞きいただければと思っております。
 1つは、特に人文学といった場合に、今までとかくこれは普通の議論、あるいは科学技術・学術審議会等における議論におきましても、ただ人社系というような形でひとくくりにくくられて、人社系云々という形で、これまでも科学技術・学術審議会学術分科会のほうでも報告を出しております。そういうことの中でいろいろ考えていく上で、これはさまざま大学の先生方からもご意見をお聞きすることが多いのは、ほんとうにこれまで文部科学省のこういう学術に関する行政方策といいますのは、基本的には自然科学研究といったことを応援することをベースにさまざまな方法がとられてきたことは否めないわけでございます。そういったことにおいて、さまざまな競争的な研究資金のあり方、21世紀COEのような、ああいう大きなプロジェクトのもの、あるいは大学の共同利用ということも想定されます。
 そういう事柄を議論していく上で、人文学といったものにそういったものを全部ストレートに適用していいのだろうかと。21世紀COEのようなものにつきましても、人文学については別な切り口があってもいいのではないかということを、さまざまな学長先生や関係の先生方から聞くことも多いわけでございます。
 また同時に、今まで使っております人文学あるいは社会科学という言葉につきましても、これは科学研究費補助金の費目分類をそのまま使った言葉でございまして、岩崎先生もいる中でちょっと恐縮ですが、例えば心理学という言葉を1つとりましても、それは臨床心理から動物実験、行動心理学までさまざまでございまして、行動心理学になりますと、ほとんど自然科学と同じような手法を使ってやる。それに対して臨床心理学は全く違うアプローチでやっております。あるいはまた、私どもの分類では、例えば教育学自体も今までは人文学ということに含めて言っているわけでございまして、果たしてそういう切り口でいいのだろうかと。
 そこで、これは学問そのものの中身ということについては、ここでご議論いただいて定義をするということではなくて、行政政策を推進していく上で、特にいわば人文学というものを推進していく、そういうときの対象となる人文学といったものはどういうものに含まれるのであろうかという定義を、もう一度明確にしていただくことが必要なのではないか。
 また、2点目といたしましては、そういう人文学の範囲を明確にするということは、すなわちほかものと切り分けられた人文学の特性というものが明確になるわけでございますから、そういう人文学に関する特性を踏まえた政策手法を、いわば自然科学等で行われている手法とは別な手法を導入する必要があるとすれば、どういう手法があるのだろうか。あるいは逆に、例えば科学研究費補助金のいろんな費目でも今は自然科学を中心に、例えば基盤B、C、若手研究という費目がございますが、そういったことでも例えば人文学の場合については、別のカテゴライズをする必要があるというのであれば、そういったことも考えてみる必要があるのではないかといった点がございます。
 また同時に、人文学というと、例えばアメリカの場合ですと、National Endowment of Humanities Artsという形で、人文学と芸術学のようなのが一体としてそれを推進する専用の役所まで設けられているということからすると、特に私どもは今まで学術行政の上では、あまり芸術学とか文化関連の学問を全く視野に置いておりませんで、今、専ら文化庁のほうでお願いしているということがありますが、こういったことの中でも学術行政の対象として、こういったものを含めていく必要があるのかないのか、こういったこともご議論いただければと思っております。
 また同時に、人文学の振興のための研究システム、今は別に研究環境基盤部会のほうでは、学術全般をめぐる新しい国公私立大学を通じた学術研究システムのご議論を進められておりますが、そういったことに関連して、特に人文学の振興のための研究システムというもの、具体的に申しますと、大学の研究施設でございますとか、全国共同利用の施設ですとか、そういったことについて何か新しいことを考える必要があるのかないのか、あるいは学術政策一般と同じ議論でよろしいのかどうか、そういったことについてもご確認いただければと思っております。
 また特に、今後5年間程度のスパンということを考えまして、いわば先生方の自由な研究ということもございますが、それとはまた別に、行政的に特に一定の資金等を投入することなどを含めて、何かこれから特に推進していくべきような研究課題とかテーマ、そういったものがあるのかどうかということでございます。
 また、社会科学のほうにつきましても、これは学術行政を推進していく上で、いわば特に社会科学が仮に固有の留意点が必要だとすれば、そういったことに相当するような学術行政を進める際の社会科学というものをもう一度、アメリカの例ばかりで言って恐縮でございますが、例えばアメリカの場合は、経済学や行動科学は基本的に自然科学と全く同じに扱われておりまして、ナショナル・サイエンス・ファンデーションで経済学も行動科学も全部一緒に扱われているという面がございます。果たして社会科学というものも、学術行政の対象としてどう考えるべきであるか。また同時に、社会科学の振興のための研究システムのあり方、あるいはまた、今後5年間程度の期間を置いて、学術行政施策として推進すべき社会科学の研究課題、研究テーマにはどういったものがあるのかどうか。
 また特に、今後大きな課題として環境問題、あるいは現在の我が国の外交、さまざまな戦略上課題となる地域のエリアスタディ、そういった問題、特に人文学、社会科学、自然科学にまたがるようなさまざまな融合分野の研究がありますが、そういったものを特に人文学、社会科学の側から見て、どういう形でこういったものを推進していく方策なのかどうか、こんなことについてご議論賜れれば大変ありがたいと思っております。
 これはあくまで、これまでの学術研究推進部会等の議論を踏まえた上での私ども事務局なりのお願いしたいことでございます。これにとらわれず、ぜひ先生方から全く新しい立場で活発なご議論、ご検討お願いしたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。今、資料3を中心にしながら局長からお話しいただきましたけれども、非常に意味の深い我々の課題が今課せられているわけでして、人文学、社会科学をどうしていくかということは国の行政からも支援していきたいということでございまして、我々もこのお言葉を拳々服膺しながら、具体的にどうしていくかということを考えていくことができればと思っております。
 それでは、事務局のほうから配付資料のご確認をお願い申し上げます。

【高橋学術企画室長補佐】 

 配付資料につきましては、お手元の配布資料一覧、議事次第の2枚目になりますけれども、そのとおり配付させていただいておりますが、欠落などございましたら、お知らせいただければと思います。それから、専門委員の皆様方につきましては、辞令のほうをあわせて配付させていただいておりますので、お持ち帰りをいただければと思います。専門委員の方といいますのは、石澤委員、猪口委員、今田委員、岩崎委員、谷岡委員でございます。
 それから、人文学及び社会科学に関する基礎資料を、ドッジファイルの形で机上にご用意させていただきましたので、適宜ご参照いただければと思っております。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 それでは、今回は第1回の会議でございますので、審議に入ります前に、本委員会の位置づけということで、事務局のほうからの説明をお願いいたします。

【高橋学術企画室長補佐】 

 先ほど徳永研究振興局長のあいさつの中で実質的にお話がございましたので、簡単にご紹介させていただきたいと思います。
 資料1をごらんいただきたいと思います。「人文学及び社会科学の振興に関する委員会の設置について」というペーパーでございまして、これは先般、本委員会の親会であります学術研究推進部会のほうで、本委員会の設置を決めたときのペーパーでございます。
 趣旨につきましては、特に2段落目でございますけれども、「人文学及び社会科学が果たす社会的機能を最大限発揮させ、我が国社会の発展の基礎の形成に資するため、『人文学及び社会科学の振興に関する委員会』を設置し、人文学及び社会科学の研究の社会的な意義や特性を明らかにした上で、学術研究に対する支援方策に加え、研究成果の社会還元の在り方や現代的な課題に対応した研究への支援方策の可能性等について検討する」と。そういった目的を持った委員会でございます。
 具体的な審議事項としては、部会のほうからは以下の3点が示されておりまして、1つ目は人文学及び社会科学の学問的特性について明らかにする。2つ目は、人文学及び社会科学の社会との関係についてご審議をいただければということでございます。3つ目は、こういった(1)(2)を踏まえまして、人文学、社会科学の振興方策についてご検討いただければということで部会のほうから示されております。
 それから、資料1の2枚目でございますけれども、本委員会はもっと大きな枠組みで言いますと、科学技術・学術審議会のもとにある委員会でございます。全体の中でどのような位置づけになるかということにつきましては、2枚目の4の組織図というところをご参照いただければと思います。学術分科会のもとに学術研究推進部会がありまして、そのもとにあるということでございます。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。それでは、資料につきまして不足がございましたら、お申し出ください。
 資料5のところをごらんいただきますと、本委員会の運営規則(案)というのがあり、会議の公開に関する規定を定めたものでございます。通常この種の審議会は、一般的な規定になっているわけですが、よろしいでしょうか。大体こういう規定で進めておりますが、ご異議がありませんようでしたら、この委員会の決定ということにさせていただこうと思っております。ございませんでしょうか。それでは、そのように措置させていただきます。
 ということで、これから議事に入ってまいります。本日は最初にもありましたように、人文学及び社会科学の振興についての審議をこれから深めていこうと思っております。この委員会では資料1でご覧いただきましたように、第1に「人文学及び社会科学の学問的特性について」という極めて難しい問題、第2に「人文学及び社会科学の社会との関係について」、3つ目が「学問的特性と社会との関係を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策について」。これから審議した上で、どのように振興すればよいのか、具体的にさまざまなご提言をいただければと思っているわけです。
 第1の人文学及び社会科学の学問的特性につきましては、研究内容だとか研究手法など、さまざまな面でそれぞれの分野により異なってくるだろうと思っております。さまざまなご提言をいただきながら理解をお互いに深め、具体的な提言ができるようにしていただければと思っているわけでございます。
 そのときに、先ほど局長からもございましたように、とりわけ自然科学との違い、こういう点も留意しながら人文学及び社会科学とはどういうものなのか、一体今の日本における、あるいは世界における人文学及び社会科学というものをどういうふうに発展させ、価値あるものにしていくのかということの方策も考えなくちゃいけないし、また一方では我々はみな税金というものを使って研究をしているわけですから、社会的な意義が問われる。それに対する、また社会への研究成果の還元ということも求められていくわけですけれども、そういったことも考えていかなくちゃいけない。
 社会的特性を踏まえた人文学及び社会科学の振興方策につきましては、これまた人文学及び社会科学というものは非常に範囲が広うございまして、局長がおっしゃった範囲はどういうふうなかということもありましょうけれども、さまざまな分野がありますし、これは固定的ではなくて、日々成長していくことでもあろうと思います。そういったこともどういうふうに我々は守備範囲として考えるかということもご審議いただければと思っているわけでございますけれども、当面は審議事項1の学問的特性とか審議事項2の社会的意義につき、各委員の専門的な立場からプレゼンテーションをしていただくということをしながらお互いに理解を深め、人文学及び社会科学についての共通の理解を得ていきたいと思っております。
 第1回目は、私のほうから人文学全般につきましてのプレゼンテーションをいたしまして、お2人目は猪口委員から社会科学全般につきまして、社会的な意義、特性及び支援方策に関します総論的な意見をご発表いただきます。第2回目以降も、もう少し研究分野を絞った形で各委員からご意見をいただくということでございまして、事務局のほうから各委員の先生方にお願いがいくだろうと思いますので、どうか積極的にご賛同いただき、ここでのプレゼンテーションをしていただければと思っているわけでございます。
 それでは、まず30分ばかりということですので、私のほうから概略を申し上げまして、猪口委員にお渡ししようと思っております。先ほどありましたように、人文学あるいは社会科学というものはどうするのかということですが、これにつきましてはお手元の机上の大きなファイルに入っていますが、平成14年6月報告の「人文社会科学の振興について」という資料があります。これを踏まえ、こういうふうな委員会が発足しているだろうと思っているわけでございます。
 とりわけ人文学及び社会科学というものをこれから行政の1つの柱に置いていこうということは、我々人文学に携わる者にとりましては非常にありがたいことでして、何とかこれを機縁に新たな展開を図っていきたいと思っているわけです。
 ただ、人文学の社会的な意義、あるいは範囲だとか特性ということは極めて困難なことでして、かつての文学部では哲史文という、哲学とか、史学だとか、文学だとか、あるいは美学だとか、そういうふうなさまざまな分野がございますけれども、それが基本になっているんだろうと思うのであります。私はすべてに歴史だとか、美学だとか、哲学だとか、そういう学部にはいましたけれども、なかなかわからないところもございますが、私の専門は国文学研究資料館と名前がありますように、日本文学、とりわけ古典文学を専門にしておりますものですから、そういう視点から自分に引きつけながら、まずお話を申し上げようと思っているところです。
 お手元にパワーポイント用につくってみました資料が5枚ほどあります。それに基づきながら申し上げようと思っております。
 日本古典文学の文化現象というものを、我々が考えていく一事例をめぐって申し上げたいと思っております。1番目に挙げました源氏物語一千年紀の意義ということを申し上げました。実は今、東京ではそれほどニュースになってないのですが、京都、大阪ではしばしば新聞だとか、テレビで報道されておりますけれども、来年が『源氏物語』の一千年紀であると。昨年からサミットも京都で開くというようなことで、かなり活発に動いておりましたけれども、サミットは北海道に決まったということでございますが、2008年というのは日本の『源氏物語』という作品が記録にとどめられて1000年という年に当たるわけでございます。これは驚くべきことだろうと思うんです。
 来年11月1日、紫式部という女性の書きました日記の中に、『源氏物語』の寛弘5年11月1日にそのことが書かれております。藤原道長の屋敷で御子が生まれるんですけれども、そこに『源氏物語』の名前が初めて登場する。それから1000年という歳月がたっているというわけなのです。
 この1000年間、『源氏物語』というもの1つ取り上げて、きょうはお話し申し上げようと思うのでありますが、日本の文化というものにどのような大きな影響を与えたかということは、計り知れないことだろうと思うのであります。『源氏物語』によりまして新しい文学だとか文学作品、あるいは芸術、能だとか、歌舞伎だとか、あるいは現代では映画、テレビドラマ、芝居になったり、宝塚だとか、オペラにまでなっているのです。現代語訳にしましても、与謝野晶子をはじめとしまして谷崎潤一郎、近年では昨年、文化勲章を受けられました瀬戸内静聴さんの現代語訳の『源氏物語』が300万部を超える。これは驚くべき現象だろうと思うんです。
 『源氏物語』が生まれまして、1000年間ずうっと読み継がれてきているわけでして、その間、江戸末までに『源氏物語』に関する注釈書、研究書だけでも600種類はあるわけです。宣長の「もののあわれ」をはじめとしまして、そして明治以降現代までも数千冊の研究書が出ておりますし、現代でも毎年、例えば『源氏物語』のタイトルのつきました研究書は、年間30冊から40冊出るという状況なんですね。研究論文になりますと、300編は超えています。『源氏物語』1つとりまして、さまざまな文化現象があり、そしてそれをもとにして研究があり、そして海外にまで広められていくという文化現象が存在するということ1つをとりましても、非常に大きな意義を持っていると思うのであります。いわゆる文学の力と言ってもいいことだろうと思います。
 2番目に挙げておりますのは、アーサ・ウェイリーが『源氏物語』を翻訳したのは1925年ですから既に82年経っています。アーサー・ウェイリーが日本語を話したかどうかわかりませんが、中国語は話せたようです。漢文も読めました。日本語も十分に読めたようですけれども、そのウェイリーが翻訳しました82年前の翻訳というものがヨーロッパにいかに大きな影響を与えたかということは、筆舌に尽くしがたいものがあるだろうと思っております。
 例えば世界における文化というものが、『源氏物語』を通じて格段に評価されていく。80年昔のことでございます。例えば2番目に挙げておりますように、エドワード・サイデンステッカーさんが1976年に『源氏物語』を翻訳なさいました。これはウェイリーに影響されたわけでございます。しかも戦争中、アメリカと日本とが戦っているハワイで『源氏物語』を読んだということです。
 あるいはロイヤル・タイラーさんの翻訳が2001年に出ました。英語によって3番目の翻訳でございますけれども、このロイヤル・タイラーさんも今オーストラリアに住んでいらっしゃいますけれども、ウェイリーの影響によって翻訳を始めたというわけでございます。
 あるいはまた、サイデン・ステッカーさんと等しく、ドナルド・キーンという日本の文学・文化を海外に広めた方でございますけれども、このキーンさんも戦時中にウェイリーの『源氏物語』を読んで日本文学をやろうと思ったんだというのです。
 あるいはまた、戦時中に南方に転戦しておりました日本軍が残した軍事手帳、その軍事手帳にキーンさんは通訳、翻訳をして、軍事機密ではなかろうかということをやっていたわけでありますが、日本人が逃げて残した軍事手帳の空白に日記をつけている。軍事機密じゃなかろうかと翻訳してみると、二等兵が綿々と家族のことを思ったりして日記をつけているのです。日本人は何でこんなに記録をつけるんだろうか、日記がなぜ好きなんだろうかということで日本文化、そして日本文学へと関心を持ち、キーンさんの場合には『百代の過客』という日本人の旅、あるいは日記というものをまとめていったわけでございますけれども、サイデン・ステッカーさんも川端康成の翻訳によりまして、川端康成が日本人として初めてのノーベル賞を受けることになったわけです。
 こういうふうに1つの作品を取り上げましても、文化の力というのがいかに大きいのかということがわかるであろうと思います。
 2枚目にちょっと絵を入れましたが、これはつい最近の中国の杭州の書店でたまたま見かけました棚に日本関係の本がずらっと並んでおりました。『源氏物語』だとか、『枕草子』だとか、そういう古典文学が並んでおりまして、そしてそこに吉川英治の『宮本武蔵』まで並んでいるというのは、これはよろしいのでありますけれども、そういう中国の普通の書店に日本文学の翻訳ものが並んでいました。
 そしてまた下は、今年の2月に行きましたパリの街角で見かけました漫画の喫茶という、これは細かく見ていませんが、すべてと言っていいぐらいに日本の漫画の翻訳が並べられまして、フランスの中年の方がそこに座り込んで漫画を読んでいるという情景を目にしました。
 右側は、この前ちょっとインタビューしましたキーンさんの写真を入れました。実はそこに挙げましたピーター・ドラッカーさんという、一昨年に96歳でお亡くなりになりましたオーストリア出身の20世紀の産業界の発展に最も寄与した巨星と言われる方で、皆様のほうがご存じだろうと思っておりますけれども、この方の自叙伝を読みますと、ロンドンに亡命している間というのですから、24歳から28歳でありますが、『源氏物語』を読んだんだということを自叙伝に書いていらっしゃいます。
 3枚目のところにちょっと挙げておりますけれども、初めの1つ目の○のところは、サイデン・ステッカーさんの本の談話でありますが、「日本語だけじゃなく、日本の社会や文化をやってみようかと。みんなそうでしたよ」。これは戦争前の話ですけれども、「ことばだけではなく、文化・社会を勉強した。あの当時は、ウェイリーの『源氏物語』は圧倒的に有名でした。ですからそれを読んでみました。傑作だと思った。はじめから」というふうにサイデン・ステッカーさんは証言なさっていらっしゃる。
 ドラッカーさんの『私の履歴書』の中にも、「初の日本訪問は一九五〇年代の終わり、実はその時に日本文化との付き合いは二十年以上に及んでいた。ナチスに追われてロンドンに住んでいた時」、これは先ほど言いました24歳から28歳ですが、「その時に日本画に魅せられ『源氏物語』も読んだ」というわけです。当然そのときはウェイリーの翻訳でございましょう。
 こんなふうに1つの文学作品がいかに人文学の社会において影響が大きいのか。そして、1000年という時を刻んでさまざまな翻訳だとか、現代語訳だとか、あるいは研究世界に影響を与えるのかということが、非常に大きなものとして存在しているだろうと思うわけです。我々は例えば『源氏物語』1つにしましても、これから1000年先どういうふうに享受され、読まれていくのか。1000年先までも我々は責任を持って見据えなくちゃいけないと思うほどです。
 そういった前置きをしながら、私が考えます人文学の社会的な意義というものを少し申し上げていきたいと思っておりますけれども、なぜ人間は人文学が必要であるのか、あるいはなぜ文学だとか芸術に魅せられるのか。これを説明することは容易ではありません。人間そのものを考えなくちゃいけない。人間は考える動物であるとしか言いようがないのだろうと思います。
 科学だとか技術というのは、いわば人間や社会生活を便利にし、存在する物質を解明することによって人類に有用性をもたらす研究だといたしますと、人文学は直接的にはわからない部分が大きいわけでございます。科学とか技術はある意味では進化し、そして継続して、次のステップへといくことが可能であろうと思うのでありますが、人文学の分野は絶えず過去を振り返る必要がある。そして、切り捨てるのではなくて、人文学の社会的な意義というのは過去を振り返りながら、さらに次のステップに進んでいく。絶えず過去を振り返りながら次へ進んでいくということを繰り返して、発展ということはあり得ないわけでございます。縄文式土器がまた人々に魅せられる。縄文時代の人々が美術とか芸術に劣っていたわけではないわけでして、人間というのは普遍性を持った生き物だろうと思っているわけでございます。
 そういう意味でそこの5つを私は挙げましたけれども、人文学というものは人間研究の基礎学なんだと思うわけであります。根本は人間を知ることであるわけです。そこから社会だとか自然環境、他の生き物の存在を知ることへつながっていくわけであります。文学でも最終的には、作家が書こうしたものは何かわかりませんけれども、それは必ずいいことだけが書かれているわけじゃないわけです。悪の部分も文学には書かれている。善もあるし悪もある。結局は人間とは何かということを、それぞれがみんなさまざまな媒体、さまざまな方法によって追求していこうとしたんだろうと思うわけであります。それが1つの人文学の意義があることだと思っております。
 2つ目としましては、文化の継承ということがあるだろうと思います。ギリシャ哲学は古いから、現代は必要ないということはあり得ないわけでございます。現代的な意義から絶えず照射しながら再生し、意義を問い続ける必要があるだろうと思うんです。歴史でもそうであるわけです。文学でもそうであります。歴史は過去のものである。だから、必要ないわけではないわけで、歴史を我々は学び、そこからまた人間としての教訓、人類としての教訓を、これは文学にしましても、芸術にしてもそれぞれの時代において必要とするわけでございます。そこに感動がある、生き続けていくものであるわけです。
 先ほど申し上げました『源氏物語』1つとりましても、そのまま1000年間我々が放置していたから、残ったわけではないわけであります。1000年の間、無数と言っていいぐらいの人々が写す作業をする。『源氏物語』を写すだけでも大変な作業なんですね。『源氏物語』は54巻、江戸時代前は全部手で写していったわけです。400字詰めの原稿用紙にしますと、大体2,300枚ぐらいです。1セット書写するのに多分1年ぐらいかかるだろうと思うんです。一生二十数回写して、途中の『朝顔』の巻で亡くなったという室町の宋椿の伝説も残っているわけでございますけれども、これは宗椿という大阪の堺に住んでいた連歌師です。一生『源氏物語』ばかり写しているわけです。
 何世代も読み継がれ、時代ごとに解釈が付与され、生命が与えられ続けたからこそ、古典というものが絶えず再生されながら生き続けていく。まさにこれは人類の文化資産であるだろうと思う。そういうことを継続しないで途切れてしまいますと、文化資産は死滅していくだろうと思うわけです。
 3つ目としては英知の創生ということを書きましたが、人文学の文化資本と私は申し上げたいわけでございますけれども、関心を持つだけではなく、私どもはそこから新たな発想とか思想といったものを獲得する必要があって、次の世代へ継承していく使命があるだろうと思うんです。文化の枯渇、あるいはそれは人類の滅亡にもつながるのではなかろうか。中国の古い言葉に「温故知新」がありますけれども、そういうことを絶えず我々は持ち続けなくちゃいけない。
 4番目には社会への貢献ということを書きました。これは徳永局長が先ほどおっしゃいました文化行政とか、環境問題ということもございますけれども、科学と技術との融合だとか、協働関係ということがございます。人文学は社会から孤立したものではなくて、身近なものであり、今、我々は意識しているとか、していないまま恩恵を受けているわけでございますけれども、私が学生のころ読んだ湯川秀樹博士の『本の中の世界』というのがございまして、中間子理論を発見された方でありますが、その湯川さんがなぜ中間子理論を発見したかといいますと、中国の古典を読んでいたからだというふうに『本の中の世界』ではっきりおっしゃっております。私の発見は、中国の古典から来ているということでございます。あそこの一家は中国の古典と非常にかかわりの深い一族でございましたから、それはもっともだろうと思うんです。そういうものがあったからこそ、新しい発見、科学技術、あるいはさまざまな自然科学の発見が起こってくるということでございます。
 5番目は教育への再生ということです。文化による共生意識の涵養と書きましたが、人間とともに他民族との交流、生きとし生ける物との共存・共栄、自然界というものへつながっていくだろうと思うんです。今、現代は非常にさまざまな、我々現代社会におきますと、デジタル化された人間というものがいかに危険であるかということを、つくづくと思っているわけでございます。いわゆる虚構の世界と現実とがわからなくなってしまうような世界が起こるのではなかろうか。恐ろしい世界が起こるかもわからない。それは人文学というものが基礎になった創造力が最も大事ではなかろうかと思っているわけで、創造する力がなくなれば人間はだめになってしまう、機械人間だけになってしまう。
 あるいは我々はこれは考えていかなくちゃいけないのですが、私も含めまして、今、団塊の世代が社会的な関心になっています。大量に団塊の世代がやめていかれるわけでございますけれども、そういった人々の根本的な教育を、我々はどうするかということを考えなくちゃいけないだろう。それは人文学というものを基礎に置きながら進めていきたいと思っているところでございます。
 こういうふうな人文学というものはお金にならないし、経済的な利益を生み出さないのですが、将来への投資という文化的な風土をつくっていく必要があるだろうと思っております。
 あと、簡単に申し上げますと、3つ目、人文学研究の特性ということで、研究の具体的な成果をどうしていくかということですけれども、これは具体的に人文学というものは、目に見えた形での成果があらわれないものであるということの共通認識をしていただかなくてはいけない。あるいは逆にそういうことが専門の細分化につながっているので、我々はいかにそれを協働によって展開していくかということを考えていかなくちゃいけない。まさに自然科学のほうが大企業といいますと、人文学は個人商店みたいなもので、みんな違っているわけでございまして、そういうことも積極的に進めながら、大企業にならないまでも連携を図っていかなくちゃいけないと思っております。
 あと、社会への我々の関与の希薄さがございますので、どういうふうに社会への接点を持っていくのか。あるいは共同研究というものを、人文学はなかなか共同研究が難しいんですけれども、それも進めていただかなくちゃいけないと思っているわけであります。
 4番目でございますが、人文学への支援方策ということで、そこに6つ挙げました。具体的にはこれから審議をしていただくことになると思いますが、研究環境の整備ということでございまして、科学技術基本計画が昨年度から発足いたしましたけれども、人文学振興基本計画みたいなものもあっていいのではなかろうかということを思っております。そうすることによって、尊敬される文化国家というものを形成していく。
 2番目は地域の大学、研究機関、研究分野間の連携ということでして、1つの大学では人文学の研究がトータルとしては成り立たなくなっておりますので、各大学が連携しながら進めていくということでございます。
 3つ目が、大学及び研究者の相互協力態勢というものをつくっていきたい。さまざまな研究協力をお互いにすることによって、連携を進めていくということでございます。
 4つ目が科学研究費の人文学研究の別枠化という、これは先ほどたまたま徳永局長がおっしゃいましたけれども、科学研究費の人文学の別枠をつくっていただけないだろうかと思っているわけであります。
 5つ目が若手研究者の育成で、6つ目が人文学の国際化推進ということでございまして、人文学を通じて、先ほど翻訳のことを申し上げましたけれども、国際交流というものに大いに今からも関与していくわけでございまして、日本への理解、文化の理解をこういうことによって進めていくことができればと思っているところでございます。
 最後、ちょっと駆け足になりましたが、最後のところは全く個人的な提言でございます。 以上でございます。
 ということで猪口委員にプレゼンテーションをしていただく前に、何かご質問、ご意見ございましたら、おっしゃっていただければと思うんですが。いかがでございましょうか。

【猪口委員】 

 政治学の猪口です。人文学についてよくわからないところがあるんですが、具体的に支援方策というのがいっぱいあってわからないのですけれども、人文社会とくくられる人の中には、支援策が欲しいというわりにはそんなに費用はかからないとか、共同研究はなじまないとか、いろいろおっしゃるのですが、僕は意外と費用のかかるのもやっていますし、みんなと一緒にやるものもやっています。そのせいか、あまり費用がかからないとか、1人でできるというのを言わないようにしてほしいと思っていました。

【伊井主査】 

 そういうことは申し上げてはおりませんが、それをむしろ積極的に進めるべきであるということで、自然科学と比べますと費用は少ないわけでございます。

【猪口委員】 

 そうでもないですよ。やればできるのだけれども、考えたことがないからそうなっているというのが僕の反論であって、むしろ後退型の人が多過ぎて、同業者としてはちょっとどうかなといつも思っているので、もっと積極的な支援策を。

【伊井主査】 

 当然、後でおっしゃってくださるということで。どうぞ。

【井上(孝)委員】 

 人文学についてはどんなに自然科学が発達しても、その人間性とか、倫理性とか、そういう一番哲学的な人間の生き方とか、そういうものについて研究し、提言していくというのは非常に重要だと思うわけでございまして、今、社会が格差社会になっているということは、現実問題を考えて非常に家庭環境が二極化していることから、二極化というのは、すなわちひとり親世帯が全国の小中学校を調査しても2割ぐらい出てきたということから、そういう点で社会全体が二極化し、格差社会が進行している中にあって、ほんとうの人間の生き方とか、考え方とか、そういうものについて提言し、それを支援するというのは非常に重要なことじゃないかと思っているわけです。
 特にきのうも中教審で、人文社会の振興策をもっと国立大学法人自体が考えるべきだというご意見があったんですが、それは1つには今の社会状況からいって、大学はコロンビア大学発足以来、哲史文というのがまさに中心的な学問分野であったのが、それに日が当たらなくなった。そして、そういうものについては、学術研究推進部会でも多様な研究を推進することが全体の学術研究の推進に役立つという考え方を、前期、第3期の学術研究推進部会の報告でも出しているわけで、そういう意味で他の分野との連携・協力とか、あるいは共同研究による研究の推進とか、そういうことが前の14年の人文社会科学の振興についての報告の中にありまして、どれほどそういうものが生かされているかというのがよくわからないのですが、そういうものを検証しながら、この会議で実際に今後人文学を推進するまでどうするか。
 先ほど伊井主査からお話があったように、科研費の別枠化とか、当面、行政的にそれが推進できるやり方というのはいろいろあると思いますので、そういうことについて議論を進めたらどうかというふうにも考えております。
 以上です。

【今田委員】 

 社会学の今田です。私も人文学そのものにもあまり深い造詣はないのですが、人文学は英語で訳すとヒューマニティーズなんですよね。社会科学はソーシャルサイエンスと、サイエンスという。単にサイエンスといったら自然科学なので、その辺の関係で人文学というのは文化科学ではないかという人が昔いましたけれども、ヒューマニティーズということであれば、人間の存在とは何かということを極める学問で、哲学の認識論と存在論もありますが、存在論的なウエートをしっかり持ってないと、ただ暗記したってしようがないことでありますので、その辺をもう少し開拓するような方向で人文学の振興というのを図っていく必要があるのではないか。でないと人間が干からびちゃう、これがないとという感じが1つしています。
 それから、時代とともに人文学も引き継がなきゃいけないのもあるのだけれども、変わらなきゃいけないところもあるという気がして、多分、『源氏物語』って、あれを書かれたときって、ものすごく飛んでいる女が書いた、とんでもない小説だったのだろうと思うのですけれども、今、科学技術の進歩で、先ほどお話が出ましたけれども、バーチャルリアリティだとか、マルチメディアとか、若い人はみんなそれに反応します。
 それが軽薄になって、ヒューマニティーズの本質に反すると嘆いていてもやっぱり仕方がないので、そういうものを使った人文学というのはどうあればいいのかという、ある意味でそういうテクノロジーとヒューマニティーズの間のコラボレーションみたいなものを考えていく必要があったりして、今、携帯とかで書いた小説がすごく売れたりするという時代にもなって、大きなところはマルチメディア化しているから、もっと極端にマルチメディアが進めば五感になるのですよね。嗅覚、視覚、聴覚、触覚、この五感に反応するようなメディア化が起きている。
 今までは文章で、言葉だけというあれだったんだけれども、五感を使った人文学というのは、漫画というのは先生のあの最初にカフェの漫画のあれがありました。あれもとても日本発のヒューマニティーズというか、アートというか、それは単にフランスだけじゃなくて、東南アジアその他にすごい影響力があってというのもありますので、そういう五感的なマルチメディアとヒューマニティーズとの関連みたいなものも考えながら、コラボレーションを考えながら次の世代。もちろん古いのも十分引き継ぎながらというふうにしていくという方向が1つ考えられるのではないかなという気がいたします。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。おっしゃるとおりで、やや社会科学と人文科学というのは人文学とはまた違うところもあるし、また共通するところもあるのでありますけれども、どうぞまたほかにもご意見ありましたら。

【井上(明)委員】 

 この人文学の支援方策のところで、『源氏物語』にもあてはまると思いますが、生涯教育の視点も大切と思います。文学は年ともに理解も深まり、いろいろ違った視点で生涯にわたって興味を持つ場合が多い。大学院においても定員枠の問題があることなどから、生涯教育的な形での人材育成の視点がこの中に入っていてもよいのではないかと思います。

【中西委員】 

 今、いろいろ伺いましたが人文学というのは人の心を扱うものだと思います。考え方の基本を極めた上で、人間の心を研究成果として出すということなので、価値基準を設けることはできないと思います。ですから、その点で自然科学とはアプローチの仕方が全く異なると思います。
 ただ、私は分野が異なるので今、実際に研究している上で何が問題になっているかというのをあまりよく理解していないところがあります。現実的な問題として、資料が散逸するという話は時々聞こえてきますが、具体的な問題点についてお教えいただければと思います。

【伊井主査】 

 結局、大学院生の若手が養成されても行くポストがないとか、そういうのは今深刻にみんな言われていることであると思いますが、各地方の大学は人がだんだん少なくなって、研究者がいなくなるとか、資料は豊富にあるけれども、購入できないとか、みんないろんな悩みを抱えている。それと、今、皆さんもみんなそうですが、忙しくなって、ゆっくりと研究する時間がないとかいうようなことで、自然科学も人文学もそうですが、時間というものがないとできないと思っているのですけども。
 ほかに何かございますでしょうか。

【岩崎委員】 

 私は心理学なので、人文学じゃないのですが、基本的にナチュラルサイエンシスというのは、先ほどもお話がありましたけれども、要するにできることしかやりません。だから、よく言うようにHOWのことをやっているわけで、WHYということは結局やってないわけですね。でも、人間というのはそれじゃ済まないわけで、やっぱりなぜか、WHYが知りたいわけですね。だけど、すぐに答えは当然出てこないのですけれども、それを知るもとが人文学というか、哲史文とおっしゃいましたが、そこにネタがあるので、それは高度にやっていかないと、例えば国であれば国が衰退することは間違いない。
 昔はそれは貴族階級がやったり、資産階級がやっていたので、それで全体はよかったのですが、それをかわって国がやるわけですよね、簡単に言えば。やる人というのは、あまりいい言葉じゃないけれども、高等遊民だと思うので、ほんとうにそれでいいと思っているのです。そういう人たちがいないと、伊井先生がおっしゃったように国は滅びると思うのです。つまり金のこと、できることだけをやっているというのはやっぱりだめだと思う。
 だから、そういう意味で振興というんですけれども、あるパーセンテージの人たちがこういうことをやれる環境をつくるということは、絶対的に必要だというふうに思っています。
 ちょっと時間の関係できょうは簡単にします。

【高埜科学官】 

 私は歴史学系なものですから、ちょっと日本社会を振り返ったときに、設置基準の大綱化が平成3年になされまして、その後一般教育の解体ということが進展していきました。ですから、今は文科省の前列にいらっしゃる方はその教養教育の経験者なのですが、後ろの方々はもはや人文も社会科学も、社会科学系の人は多いでしょうが、人文学はやらないでも卒業できちゃうような、そういうふうになっているのではないか。
 私が申し上げたいのは、企業社会でもかつて旧制高校の経験者は企業人、リーダーとして、社会全体に文化ということを考えられる人たちがおられたような気がする。そして、その後、言ってみれば旧制高校のシステムをかなり継承しながら教養教育をやったが、平成3年の大綱化以降、ですから今、我々が議論しているメンバーより以降はより深刻になるのではないか。それは一度大綱化以後、オウム真理教の問題が発生して、理系の人たちがそういうことも何も考えずに、とにかくサリンガスを製造するようなことに加担したときに、やや批判的な議論がなされた経験がありますけれども、今後の課題の1つになるかもわかりませんが、設置基準の大綱化以降、人文社会系の学問が教養課程でどれくらい失われたのか、ポストが。それから、担当の教員がどれほどポストを失われたのか。
 そのことは、先ほど伊井先生もおっしゃいましたけれども、若手がポジションにつくその場が相当失われた。ですから、若い優秀な人たちが人文社会にいったってポストはないじゃないかっていう、こういうようなことは1つの原因になっていると思うんです。ですから、ちょっとそのあたりは、多分、データは既に文科省はおつくりだと思うので、一度何かの機会に教えていただければありがたいなと思っております。

【深尾科学官】 

 私、専門は経済学なので、ちょっと畑違いなのですが、総合科学技術会議とかを見ていると、大抵大きな国がやるべき研究プロジェクトというのは自然科学系で、ロボットにせよ、生命科学にせよ。猪口先生がおっしゃったこととも関係するんですけれども、社会科学の面から見ると、日本の学会が日本や世界のために貢献できるような大きな研究プロジェクトって幾つも考えられると思うんです。重要なもの、やるべきことはいろいろあると思うんですけれども、そういうのが人文科学じゃないのでしょうか。例えばあるタイプの資料を集めないとすぐ失われてしまうとか、ある言葉を集めないとすぐ失われてしまうとか、生命倫理に関して今哲学者が合意をしないといけないとか、そういうのというのは何かありますか。

【伊井主査】 

 いろいろあるだろうと思いますけれども、言葉の問題でもすべてそうだと思う、資料においても。これはさまざまな緊急なところで、それぞれ小手先でやっているところもあると思いますけれども、これはまたいろいろ議論をこれからも深めていただければと思っております。
 それでは次に猪口委員からプレゼンテーションをお願いいたします。

【猪口委員】 

 考えを次のように述べたいと思います。
 まず、研究主題の取り組み方、研究主題に対する考え方をW.Weaverという3ページの注の1に書いてある人の“Science and Complexity”というAmerican Scientistに、もうかなり昔の話ですけれども、3種類の性格があるのではないかと簡単に大胆に言うわけです。1つは単純性、Simplicity、2番目はDisorganized Complexity、3番目はOrganized Complexity。
 それで、広い意味の科学に携わる人はこの対象といいますか、研究主題に対してどういうふうに取り組むかということを論じているわけですが、これを彼の場合はここで言う自然科学に焦点を当てて、非常にだれもがわかるように書いているんですが、単純性というのはニュートンの古典力学みたいに簡単な式が、2つか3つぐらい変数があって、どうなるという話なんですね。それで、経済学でも経済成長はどういうときに起こりやすいか、サミュエルソンだとか、エブセイ・ドーマーとか、2つか3つぐらいの変数が出てきて、その関係はどうだって、ほんの簡単な式が。これは単純性であると。
 2番目のDisorganized Complexityというのは、彼の例によれば量子力学みたいな統計力学みたいに、ある程度統計的な確率論的な話をやれば、かなりよくわかるなという分野というか、説明がうまくいくなというのがあるという話です。
 だけれども、Organized Complexityというのは何だかわからなくて、一筋縄ではいかないのがいっぱいあると。どうしてがん幹細胞は形成され発展していくのか。時にはいつの間にか治ってしまう、時にはあちこちに移転して致命的になるという話もその1つなのかと思いますし、個別的な状況の中がものすごく重要な悪さをするときは、いろんなケースを集めてもわかりにくいということで組織的複雑性というわけです。これは社会科学でも全くこれと対応するのは幾らでも見つかっている。自然科学なんていうのも、社会科学というのもちょっと躊躇するところはありますけれども、とにかく大したことはわかってないのです、自然科学者も社会科学者もその対象については。というのがまず出発点だと思う。
 どう違うかなんていうのはのんきな話です。みんな大してわかってないということが一番重要です。その対象の性格は結構違うので、それに応じてある。例えば社会科学でいえば、さっき言いましたようにサミュエルソンとか、ドーマーとか、マックス・ウェーバーを見ても単純な話なんです、説明の仕方は。どっちかというと、ほんとうに入れば入るほどわからなくなる。それは人文学とか、ほかのところもいっぱいあると思うんです。単純にやっているんです。それ以上しようがない。
 アメリカの大統領選挙はどの政党が勝つかというのを社会科学的にやれば、実質賃金、所得水準をちゃんと見て、それからもう1つは戦争で死んだのはどのぐらいいるかというのを歴代ずうっとやれば、それは統計的にかなりはっきりわかっている。変数は2つぐらいですよ、主要なのは。あとはダミーとかちょちょちょっとやって、それでほんとうにその政党の現政権の所属する政党が勝つかどうかというのは、それまでの大統領の任期の中の実質賃金とか戦死者数と。簡単にわかっているんですよ。
 だから、Statistical Very Significant、こういうのも結構2番目のDisorganized Complexityで何とか料理はすごくできる。今度のアメリカの大統領選挙はだれになるか。それはわからないのだけれども、テロリズムが激しい、核拡散も激しいということに焦点を当ててみると、それにぴったりするのがジュリアーニ。
 どうしてかというと、ものすごいかんしゃく持ち。激しい。決断が速い。決断が速いだけじゃなくて、実行力が抜群。ですから、例えばニューヨーク市市長だったときに、マフィアのけんかを全部壊滅するぐらい、ものすごい強力な行動をとっているし、窃盗とか、軽犯罪と言っちゃ悪いんですが、痴漢とか、ああいうのがものすごく減ったのは、軽犯罪を取り締まることによって、ほかの人がインセンティブを減らすというのを徹底的にやったおかげなんです。そうすると、こういうのはそういう核テロ戦争が起こったとしても、即刻報復核攻撃を果敢に実行するのではないかと思うわけです。それから、選挙資金は、彼はキャピタルゲインズに対してはノータックス、これこそ一番いいという、それが経済発展の基本になるという人なんだ。だから、大金持ちが選挙資金をどんどん寄付しているんです。
 だから、そういう観点から見れば、ものすごく簡単に説明ができるので。もちろん、ただ共和党のプライマリーで、同性愛もいいとか、妊娠中絶もいいとか、そういうことを彼が言うものだから、嫌な共和党員が多いから必ずしもわからなくなりますけれども、そういうふうにある程度やればほんとうによくモデル化できるし、ちゃんと説明ができることは社会科学でもものすごく多い。
 3番目の組織的複雑性でも、神経ニューロサイエンスといいますか、生物物理学みたいなのがあって、ジャコモ・リゾラッティというイタリアのニューロサイエンティストがいて、「マンキー・シー、マンキー・ドゥ」モデルというのを言っているんですよ。それはどういうことかというと、人間が実験しているんですよ。それで、人間が何かするというのを猿が見て、そして見るだけで次の行動をとっているんです。見るだけで、つまり頭の中で、人間の実験サブジェクトが何かやるとあっと見てその行動をやると、ちゃんと筋肉のほうが動く、脳もしっかりその方向に動くということがあるというんです。そのとおりなんです。
 それで、1990年代にこのジャコモ・リゾラッティのそういうふうな研究がばかばか出てきたんです。ここで人文学と結びつけると、村上春樹の小説もこういう感じなんです。しかも彼の偉いというか、それを知ったからというのではなくて、90年代にそういういろんな知見が出てきた前に書いているのも、何かを想起するとばあっと次の行動が思い出されて、それがものすごいトリガーしていくというのが主要なテーマになっている。これはミラー・ニューロンというんだそうですけれども、そういうわけで全く自然科学と関係ないというのではない。自然科学もわかればわかるはずなので、人文学者は知らないだけ、自然科学者も知らないだけの話で、この3つの対象の性格をWeaverふうに分けてみても、必ずわかることが多い。ただ、知らないだけ。そういう観点から見ますと、あまり自然科学と社会科学を区別するのはちょっとどうかなと思いますね。
 みんな大変なことをやっている。社会というのも自然の中の一部。それから、自然というのも社会の中の一部なんです。だから、どういうふうな観点から見るか。それで、取り組むときにどういう方法があるのか、どういう概念を使えばわかりやすくなるかということが問われるべきであって、そこら辺はあまり極端に、人社系はつまらないことを言っているとか、好きな政治的主張をやっているとか、全く根拠がないというのも話が違うんですね。自然科学のほうがもっと根拠がないのがいっぱいある。全然わからないことのほうが圧倒的に多いんですよ。
 どうしてそう言うかというと、それは方法がかなりあるから、カバーすべき主題が多いから、わからないときが多いんです。基本的な質問について、日本では科学雑誌というのがそんなにないものですから、『サイエンス』とか『ネイチャー』とか、アメリカ、イギリスにあるような感じの強いスタンスで基本的な質問をするということよりは、テクノクラティックにやっているという論文のほうが、どこでもそうですけどね、時々基本的な質問をすることが少ないような感じがして、いつも僕は悩むんですね。
 それはやっぱり自然科学も社会科学もすべて応用系の学問が日本の大学をつくってきたので、150年以上つくってきているので、これはいた仕方ない遺産です。何とかもうちょっと根源から考えるという伊井先生の問いかけというのは非常に重要な理由であるんですが、それと同時に、どうやったらわかるのかというのは、自然科学であろうが、社会科学であろうが、人文学であろうが、一体どれだけ使えるかというふうに聞かないと、私のところではこうやる、私はリトマス試験紙だけでも何とかわかるんだから、そういうふうに仮説をつくらないと、人文学とか社会科学の研究は何だかわからないから、どこへいくかわからないから、つまらないのを査定額ゼロみたいにする自然科学の審査員もいるんですけれども、それはちょっと間違っていると思います。
 それから、人文学とか社会科学で自分の洞窟を守ろうとして、いこじになっている人が多くて、開かれた態度でいけば、みんな我らは学者だというアカデミックス、インターナショナルみたいな感じにならなきゃだめだと僕は思うんです。そうすることにしないといけない。
 その手だてとしてはいろいろあるんですけれども、応用学重視し過ぎを是正する必要がある。お金だとか、それは必要なのはある程度出すようにすればいい。必要のないものは、ちゃんと論文を書けばいいのです。
 それから、日本の大学のカリキュラムは何でもかんでも入っているというのもよくない。もうちょっと小さくしたほうがいいかなと思うんです。そうじゃないと深みにいかない。学生のレポートや修士論文をみても、パソコンというか、インターネットで出てくる百科事典なんかはいっぱいありますから、それを見て書いているみたいなのがどんどん増えるんですよ、あまりいっぱいやり過ぎると。考えにくいから。
 それから、学科単位にしないと。要するにユニバーシティ、カレッジ、スクール、デパートメントというある程度のヒエラルキーじゃなくて、中ではやたらとカレッジというか、スクールのちょっとばかでかい、教授会の単位が100人とか300人ぐらいの面倒くさい変な中途半端なのが多過ぎて、アカデミック・ディスプリンの単位でもうちょっと話しやすいのが少な過ぎて、デパートメント、学科というふうにしないとだめです。15人とか20人ぐらいがちょうどいいんですよ。全然考え方が違うけれども、仲がよいというだけで一緒になっている学部みたいなのがあるので、学問的な刺激が出るようになってない。
 それから、大きすぎるので、イノベーティブに進もうというのを全部つぶすことになっているわけです。革新者は多数じゃないから。イノベーティブというのはものすごく少数に決まっているわけですが、それがある程度小さな規模で、ある程度似たような問題意識を持っていれば進むんですけれども、ばかでかい組織だとみんなつぶすんですよ。みんなスタンダーダイズでして、何にもどうってことない研究がバカバカ出てきてだめになる。
 それで、具体的に今、審議事項1、2、3の2まで来たんですが、2番は社会との関係は全員がものすごく強いんです。それは人間がやっているんだから、人間が一緒になって社会をつくっており、それは部分的には自然なんだ、自然科学者が見れば。社会も自然のうちになっている。それだけのことなので、人文学、社会科学の社会との関係はあまりにも大き過ぎて、あまりにも難し過ぎて、みんな仲よくやりましょというということぐらいじゃないとだめだ。
 3番目に移りますと振興策ですが、既に言っていますが、一番初めは学科制にするということ、それからカリキュラムもかなりよく考えなきゃだめだということ。もうちょっとフォーカスが必要。
 それから、いろんな形で、とりわけ理科系の人はだんだん専門が時間をとるので、どんどん少なくなっていくので、人文社会系の教養というか、それをちょっと増やさなきゃだめで、何かしなきゃこれはどうしようもないと思います。
 それから、研究助成の審査に当たっては、これは頑張ってやらなきゃだめで、とりわけ人文社会の人はそういうのになじまないなんて言ってほしくない。自分で指標はこういう指標でやれというふうに、こうやりましょうというのを出さなきゃだめだ。大学学位授与評価機構に私は末端で関与したことがあるんですが、みんなそういうのはなじまないとか言っている。みんな優をつけちゃっている。あれはばかな話で、集団でやるというのは意味がないのです。個人です。すべて個人の研究者でやらなきゃだめ。その指標をこういうのがいい、ああいうのがいいというふうにやらなきゃだめで、それは人文社会科学でも何とかつくれるはずです。それがないときはあるものを使う。
 それはアマゾンカンパニージャパンでもどのぐらい本が出ているか、アマゾンドットコムでも英語とかその他でどのぐらい出ているか、グーグルスカラーでどのぐらい国際的に一流の学術誌で引用されているか、リファレンスがあるか、単純な1つの数字としてそれぞれ全部出ているんです。人文科学系でも出ているんですよ。それを使わない、使わないと言っちゃだめでしょ。日本語で書いているんだから、じゃ、それでつくればいいじゃないですか。そういう指標をつくればいいじゃない。10個ぐらい指標をつくって、もうちょっと客観的指標をつくって、幾つかの。いいのにだんだんなっていかなきゃだめなので、検索というのはアメリカだけが突出しているわけで、日本はもたもたしている。なんかだめだ。図書館学、情報学。情報学研究所なんかはたくさんの人がいっぱいいるけれども、人文系、社会系の人が全然いない。何やっているんだという感じで、コンテンツがないです。無意味、無内容。だから、そういうところをもっと人文社会系の者としてはしっかりと声を出さなきゃだめじゃないかなと。振興策はそういうところにもあるのかなと思います。
 振興策というのは自分をうまく評価できるかどうかというその力量によるので、私たちはそんな、私たちなんて言っていちゃ何にも始まらない。金が要らないのだったら、別に出さなくていいんです。でも、金が要る人はこれだけの力量で、こういう視点でやりますと。そういう形で出せばいいので、紙と鉛筆で足りますとか、評価になじまないというのはやめたほうがいい。
 それから、自然科学と分離してお山の大将になるというか、そういう感じはやためほうがいい。主題はみんながみている。やり方は少しずつ違う。ただ、お互いにやり方については知らない。化学の人がリトマス試験紙で全部やっているとは限らないのですけれども、何となく非常に単純な仮説で、みんな社会科学とか人文科学についてもそういうふうに仮説がないと、このプロポーザルはだめなんていう人がいるんですよ。逆に人文学は生殖という現象はそんな簡単なものじゃないよ、もうちょっと深い心の中のもの、なんてばかり言っている。しかし、そんなことというのはだんだんわかってきているわけですよ。体の中のホルモンとか、筋肉とか、頭の動きとか、みんなわかってきているわけです。それを入れないで、証拠はジャコモ・リゾラッティと村上春樹。それは学者は書いているんですよ、ほんとうに。だから、それは分離独立は僕は反対。
 それから、評価の徹底化というか、いろんな指標を出すべき。1つの指標でやったら必ず間違うから。ないというのはやめてほしい。日本語だってつくればいいじゃないですか。情報学研究所に50人ぐらい入れたら。今200人だか、300人いて、何の役に立たない、こちから見ると。そういう人ばっかりなんです。だから、それは変えたらいいんですよ。それは提案すればいい。そういうふうに私は審議事項3について考えます。
 そういうわけでちょっと舌足らずなんですが、いろいろ付随するところがありますので、また皆様のご質問、反論に答えたいと思います。ありがとうございました。

【伊井主査】 

 どうもありがとうございました。非常に刺激的なご提案もございまして、初めの総論から、最後の振興策につきましては6、7個ぐらいおっしゃってくださいました。自然科学と社会科学というのは分離すべきではないのだと、基本的には同じであるというスタンスでおっしゃったんだと思いますけれども、どうぞ活発なご議論、ご反論でもご賛同でもよろしいので、おっしゃってくださればと思いますが。

【中西委員】 

 私の理解では、人文学は心を扱うことに対して、社会科学というのは社会へのかかわり方、つまり人間の行動を扱うものだと思います。直接社会に影響を与える人間の行動規範を扱うということは、自然科学的な手法で研究を進めている分野だと思っています。
 そこで自然科学と社会科学は、できるだけ融合できるところは融合したほうがいいと思います。なぜかといいますと、今、自然科学があまりにも大きく発展し過ぎて、社会に対する影響が非常に大きくなってきたので、社会科学的なことを無視して発展していくことはできないと思います。また社会科学も自然科学を無視しては社会の変革ということを考えていくことはできないと思われます。ですから、どこの学部で進めるかということも大切かとは思いますが、とにかく両者の融合を進めるということが一番大切だと思っています。
 例えば先ほど局長が環境とおっしゃったのですが、環境問題を考えましても技術だけでは解けないと思います。例えばリサイクルした結果、価格が高くなったものを人がどう理解して買うようになるか、つまり意識がどういき渡るかということについては、やはり社会科学的な手法が必要だと思います。社会の仕組みも必要だと思われます。情報にしましても同じことで、ソフトと機械だけをつくっていたのでは社会に行き渡りません。どうやってみんなが使うようになるかということを研究するところに、自然科学では解けない、つまり技術だけでは解けない部門があると思います。このように自然科学と社会科学の融合は非常に重要なのですが、両者の基準が今異なっているように思われます。ですから各々の異なる基準を集めて検討し、統一した基準をつくっていくべきではないかと思っています。

【伊井主査】 

 それについて何かご意見ございますか。

【猪口委員】 

 僕は何でも統一というのは反対ですね。それなりにみんな別な基準をセレクティブに合わせてセットとして使っているのですが、僕は評価の指数をいっぱいつくるというのはいいんですが、審査というのは仲間同士でやっているから、えこひいきみたいな感じになるからだめなんですね。冷徹な感じの審査過程にしないと、あまりだれもクリエイティブな審査だと思わない。したがって、研究成果が、日本なんかはスイスのバッル研究所の分析によると、研究費はやたらと多いわけです。フィンランド、スウェーデンに次いで、アメリカを超えて、ドイツを超えて日本は研究費がものすごく多いんですよ、1人当たりにすると。所得水準も高い。すべて高いんですが、ところが、研究成果というと、1人当たりではG8の中で一番下なのですよ。
 どうしてだというのが今問題になっていて、それは評価が悪いんです、審査が悪いんですよ。それから、仕組みが悪い。インフラも悪い。それから、チームが悪い。つまり、ぼわっとした私達は何とか学部ですと言ってみんな集まって、なあなあでやって、えこひきいでやっているから、あまりうまくいかないと思う。それは評価を公正に、しかもしっかりした指標に、それから実際にどのぐらいの研究までたどり着いたかというのを公正に評価するボディをつくらなければならない。それはアメリカとイギリスの場合と比べたのがあるんですけれども、違いはものすごいです。だけども、それなりに2つの国は出している分だけ成果を上げている。日本は出している分よりちょっと低めなのですね、成果が。成果って何だといえば、それは何だかわからないけれども、すごい発見とかですごいなんかですよね。それが意外と少ない。それはどうするかといったら、それはやっぱり公正な評価をするチームをつくらなきゃだめ。
 イギリスはどっちかというと絶対主義王制みたいになっていて、分野ごとに例えばナノテクノロジーだったら、2人か3人ぐらい1番という人を選んで、その分野での学者を一人一人全部やるんです。その他大勢じゃなくてトップ10だけやる。それは過去10年だかなんか一人一人出したものについて角度を決めて、全部コメントさせるのです。長い、報告が、評価が。それで、リコメンデーションがあって、ランクがインターナショナリーにものすごいとか、英国の中ではすごいとか、その他大勢というふうに分けて、その他大勢の中でも今のままでいいけれども、それでも困るみたいな人はデパートメントチェアマンがお金を持って、どこかもうちょっと別なところへ動かないといにくくなるぐらいものすごい強権を発動してやる。それは激しい。エリザベス一世が来たみたいな感じのやり方で、ちょっと日本に合わないと思ういます。
 アメリカはこの指標がものすごいです。いっぱいある。だから、自分でも納得するというところがあるんです。それから、イギリスでもそうですけれども、給料とパフォーマンスのインディケーターズと連動させていますから、うわっという感じで納得して、どこかへ行くという感じがする。アメリカのほうはいろんな評価が出ていますから、ただぽっぽっとクリックすれば出てくるわけですから、これは有無を言わせないし、それなりに納得して、ルール・オブ・ザ・ゲームですから、やっているというところがある。文科省とか学術振興会みたいな組織がどういう分野が今必要になっているよというのを時々ふうせんにして空に放つ。それで、アメリカのほうが分権的だけれども、いろんな財団があるから、この財団はこのテーマを優先してあげるよ。それで、すごいプロポーザルを出す。アメリカはものすごく長いです。100ページあってもまだ足らないぐらいの、本1冊ぐらいのプロポーザルを出しています。
 日本の文科省は一番短いです。隣の韓国もアメリカ式ですから、やたらと長い。暇な時間にみんなで寄ってたかって書いて、回して少しずつよくするというのではなくて、ホテルに10日間ぐらいドラフティングチームが合宿して、ものすごい勢いで書いています。それで、相手のチームも泊まっているわけですから、競争相手の1人が風邪を引くと万歳といって、チャンスが来るかもなんてものすごいコンペティティブです。それがいいかどうかはまた別なんですが、ただ日本のは真剣度が少ない、薄い。韓国式にそれこそ病人が出たら、うわあ、勝つかもしれないなんていう、元気が出るというのはちょっと困ったものだと思うんですが、いずれにしろものすごくしっかりと概念はパーティキュレートしなきゃだめだ。
 それから、そのチームはどうしてそのバックグラウンドの人が入っているか。寄せ集めチームで、同じ学部だから何とかだからとか、同じ大学の卒業だから何とかこうとかって、許さない面がアメリカのほうはありますけどね。中へ入ったらよくわかるし、同じようなクレームが来る。そういう厳しさというか、あれがちょっと足らない。そんなに極端にしろというのがいいかどうかは別として、どうしてかというと、アメリカみたいなお金の出どころがどっちかというとでかいのが1つなので、あちこちにないわけです。
 それからもう1つは、これは直してもらいたいといつも思っているのは、イギリスみたいにあんたの給料は面倒見ますと、何にも教えなくてもいいですと。だれかとった金で雇えばいいというのがある程度ないと。それはみんな忙しくなるだけで、プロポーザルとレポートだけで研究はなくて、何書いたかなみたいな感じになっちゃうという感じを避けなきゃだめで、ティーチングを交代する。極端にすればアメリカみたいになると、有名な教授はほとんど出てこないわけです。ものすごく金を持ってくる人は、別な人にやらせている。だから、入ってきた学生は全然見ることもない。ましてや教わることもないというような極端になったらだめですけれども、日本の場合はこれもやれ、学部の行政もやれ、学内行政もやれ、ディスティミネーションもやれ、ティーチングもやれ、ティーチングのアシスタントもない。ちょっとアロケーションが間違っていると思う。そこら辺もよく考えないと何ともならないです。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。今、猪口先生からおっしゃっていただいたのは、いろんな重要な問題もあるわけでございまして、応用学を今重視し過ぎているということだとか、大学のカリキュラムがあまりにも多様化し過ぎて集中がないということだとか、大学の教授会なんかも非常に多過ぎるという、学科単位でもうちょっとみんな振興したらどうだろうかとか、最後におっしゃったのは評価基準というものを多様な評価基準でやっていったらと。これは今、我々がみんな直面しているような問題ばかりでございますけれども、今のようなことで何かご質問、ご意見。どうぞ。

【今田委員】 

 僕も言おうと思っていた最後の教授の役割です。日本ではリサーチと研究とエデュケーションとアドミニストレーション全部、成績がいい、いい研究を上げた先生は教育も頑張れとか、それで大学のアドミニストレーションにもかかわっているとか、こういうふうにやったら仕事ができなくなりますよね。
 だから、アメリカなんかはおおむね分かれていて、リサーチプロフェッサー、エデュケーションプロフェッサーとアドミニストレーションプロフェッサーと役割分担ができていて、別に教育が低いのではないですよ。教育で偉ければトップのあれで、それで研究もトップで、ノウとかという三次元みたいな感じで評価がなっていて、別のどの次元が一番いいというわけでもない。そういうのを定着させることによって、誇りを持って教育に専念できる先生みたいなものをつくるべきだと思う。アドミニストレーションもそうだと思うんです。
 日本だと全部やらなきゃいけない。やらない人はどれもいいかげんにしているとかっていうのがちょっとできていて、それはあまりよくないのではないかという意見を持っていて、それは人文学も社会科学もそういう方向でやれるのがいいのではないかというのが1つです。
 それから、教養教育の問題という話が出ると、必ず人文学か社会科学は教養学という話になるんですが、ちょっとおかしいので、自然科学だって教養学はあります。教養学、教養を無視してよくないというと、何となくイメージとして人文学みたいな連想があるじゃないですか。これを断ち切らないとだめなので、そういう偏見が社会にいつの間にか染み込んでいるというあたりを何とか打破しないと、いくら教養が大事だ、大事だと言っても暗黙の序列意識みたいなものができ上がっている構造が直らない。それを直さない限り、教養は大事だと言ってもしようがないという感じがします。
 それからもう1点、自然科学と社会科学との関連で、私はそんなに大きな差はなくて、むしろ異質なコラボレーションで両方ないとまずいと思って、人文学も含めてなんですけれども、人間社会で起きていることをトータルに解明するには自然科学的な数理的、演繹的な方法も、データで実験する方法も、意味を解釈する方法も総動員しないと人間社会の現実ってわからないもので、自然科学はすごいと言いますけれども、1年後のきょうの今の天気を当てられますかと言うと、当たらないのですよ。コントロールして、実験室でやるからできるのであって、だからそういうところはもちろん、だから自然科学はだめというのではないのですが、そういう人間社会のものというのはそういうのを問題にするので、5年、10年先の。
 だから、その辺をうまく、どういう側面を切り取って解明しようとしているか。切り取っているから、ほかは捨てているわけだから、こちらのほうをだれがやるんですか、捨てられた部分をだれがやるんですかというようなことも考えると、人文科学、社会科学、自然科学を総動員しないと、ほんとうの人間の現実というのはわからないのではないかという感じがあって、いつかしゃべるときがあると思いますので、そのときはまたしゃべりたいと思います。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。大学の現実においては役割分担だと。研究と教育の、あるいは教養教育が人文とか社会学だけではないとか、少し改めつつあるところも実際にいろいろあると思うんです。今おっしゃいました最後の人間というものを考えるのは、総合研究であるということもおっしゃるとおりでございますが、ほかに何か。

【家委員】 

 幾つかあるのですけれども、最初に今のお話で大変共鳴するところは、教養ということは双方向であるということですね。自然科学に携わる者も人文的素養が必要であるし、それは逆にいわゆる文科系の方々にもサイエンスリテラシーが必要である。それが双方向であるということが大事であるということはあると思います。
 その前の猪口先生のお話は大変興味深く伺ったのですが、幾つか私の思っていた認識と違うところがありまして、例えば研究者当たりの研究費は日本は非常に多いということは、それは私がどこかで見聞きしたデータとは大分違っているので、もしそういうデータがあるのだったらぜひ教えていただきたいというふうに思います。

【猪口委員】 

 バッテル研究所です。

【家委員】 

 統計の取り方にもよるのかもしれませんが、GDP比で、一般的に我々の認識は、研究者当たりの研究費はまだまだ不足であるというふうに認識しております。
 それから、研究費のわりには成果が出てないというお話ですけれども、それは成果というものをどういうふうに計量するかによると思いますけれども、これは抽象的な話をしてもしようがないので、私は日本の研究は非常に国際的にもいいレベルにいっているというふうに思います。
 それからもう1つ、プロポーザルをアメリカでは非常に長く書くと。それは多分、大きな研究費に対しては確かにそうだと思います。科研費に関しても、いろいろ研究計画調書のことをずっと議論しているようなものです。長く書けばいいというものではなくて、これは効率とのバランスの問題がありまして、審査に必要な最小限の情報を効率よくいかに引き出すかという問題があると思います。プロポーザルを書くほうも、審査するほうもそれによって貴重な研究時間を費やしてやっているわけですから、どの辺に一番オプティマムなところがあるかということを考えることが必要だと。そういうコメントをしておきます。

【井上(孝)委員】 

 きょうお2人の先生からのお話を聞きながら、人文学、社会科学あるいは自然科学にしても、従来から学術分科会で一番重要なのは、研究成果をある程度公開し、それをデータベース化して、だれでもそういう研究成果にアプローチできるようなデータベースを構築するというのが1つあって、そういう研究成果を生かしながら自分の研究をさらに推進する体制というのが必要ではないか。
 そのためには、日本の場合には情報学研究所がそういうデータベースのセンター的機能を果たすような整備が必要じゃないかということを従来から私は申し上げているわけでして、それがそれぞれの研究を推進する上で他の研究の成果を生かしながら、研究をさらに進めるという意味でも効率的な研究に結びつくのではないかという点が1つございます。それは今、審査の場合も、学会ごとの研究の成果というのをすべてアプローチできれば、そういうものの公平な審査ができてくるのではないかというような感じもしているわけでございます。
 それからもう1点は、研究の融合化とか、連携協力というのは前の14年の報告書にもあるんですが、そういうものを推進するためには、課題研究とか、いろいろCOEなんかでもやってはいますが、全国の共同研究センター等をさらに活用して、相互に同じ研究分野については、全国的な観点で研究の推進をする体制づくりということも、今後は推進する必要があるのではないかというようにも思うわけで、先ほどお話があったように、人文学の場合には研究はそれぞれ閉鎖的な体質で、独立して研究していることが多いというお話もございますので、それは研究方法として、研究者の自由な発想で研究を推進するというのは学術研究の基本ではありますが、ある意味で連携協力すれば、それだけ研究が推進するということもあり得るわけで、そういう受け皿としての共同研究センター等の整備というのも今後取り組むべき課題じゃないかなというように今お話を聞いていて感じましたので、ちょっと申し上げておきます。

【深尾科学官】 

 社会科学等の社会との関係についてちょっと一言発言させていただきたいのですが、社会科学が社会にどう役立っているか。まず、私は東京の大学に勤めているせいかもしれませんけれども、直接的にはかなりいろんな官庁とか、政府といろんなかかわりがあって、日本の大学というのはいわば最大のシンクタンクみたいな役割をしている。どの国もそうだと思うのですが、していると思うのですが、多くの経済学者は、例えば経産省とか、内閣府とか、財務省とか、厚生労働省とか、いろんなところの研究会に出たり、報告を書いたりいろいろしているわけですけれども、問題は、官庁のほうは非常に時間的な視野が短くて、関心がどんどん変わるわけです。結局、それで蓄積されないというところがあるのだと思うんです。
 文科省に求められている、日本の学術に求められているのは、そういう社会のニーズを長期的な視野に立って、何十年と大事な基礎的なことは変わらないことがあると思いますので、それをびしっと支援してもらう視点が要ると思うのですが、いろんな政府のニーズみたいなことと文科省のやられていることは、ニーズを長期的にとらえて、そこを振興していくという視点が必ずしもないような気がします。だから、文科省というのは最大のシンクタンクを抱えていて、財務省や何とかよりずっと偉くて、その支えていくものを供給しているんだと。そういう視点がもっとあってもいいかなというふうに思います。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。ぜひそういう方向で、ここでも答申をしていくことができればと思っています。今、井上(孝)先生におっしゃっていただきましたような自然科学と社会科学、人文の融合の共同研究センターとか、それの充実化ということも今から課題になるだろうと思いますが、ほかにございますでしょうか。ほかにご発言のなかった方で。

【徳永研究振興局長】 

 また猪口先生にしかられそうですけれども、私のペーパーをもう1回を見ていただきたいのですが、私のほうは自然科学と社会科学を峻別するつもりは全くないわけです。基本的には社会科学の行政手法は、自然科学と全く同じでいいだろうというふうに思っております。だから、そういう意味ではむしろ逆に言うと、今までの議論が一番乱暴だったのは、人社系というくくり方なのです。人文学と社会科学は全く異なるわけで、どちらかというと私も個人的には社会科学と自然科学は極めて近い。それよりは人文学というものが全然違うと思っています。そこを人社系というくくり方でさまざまな議論をしていると、言葉としてはさまざま言われておりますが、具体的には何も出てこないという点があるのではないかと思っております。
 ただ、そういう中でもっと問題なのは、逆に言うと、先ほど言いましたように、今までとにかく心理学も科研費のいろんな分類では人文学に入っていたり、教育学も人文学だとか、もちろんここは別にそういう学会ではございませんから、学問的な定義をここでするというわけではありませんが、あくまでも行政的な手段を適用していく局面において、我々がそういう人文学的な特別な配慮をする、あるいは人文学的なアプローチを適用する、そういう人文学は何だということから言えば、ここで結論を言っちゃいます。例えば教育学みたいなものは人文学に含めるのはやめて、むしろそれは自然科学とか、そっちのほうと一緒にやるんだとか、私どもとすれば人文学とかいうひとくくり的な議論ではなくて、その中で特に特別な行政的なアプローチをする、そういうようなものと伝来的な人文学をきちんと切り分けしていかなければいけないのではないかと思っております。
 そういう中で逆に言うと、時々こういう統計をとりましても、そういう意味では旧来型の統計で、とにかく人文関係の研究者の中には教育学部の教員はほとんど全部入っているとか、文学部に属している、例えば東京大学は社会学も心理学も全部文学部ですから、文学部の先生は全部人文学の研究者に入っていて、はっきり言って使えないというところがございます。心理学ではなくて社会科学。そういう意味では逆に言うと、そういうことになっています。逆に言うと科研費の分類と、また逆に学校基本調査はこういうところの分類も全然別になっています。そこはちょっときめ細かく、ぜひ次回以降議論いただければありがたいと思います。

【今田委員】 

 少し余談になてしまうかもしれませんが、参考意見と思っていただきたいのですが、私は文明学というのが好きなのでやっているのですが、近代文明ができたのはどうやってできたかというのにとても興味があって、最初、中世の宗教の支配、神の神聖なる支配から人間ルネサンスでしょ。あれは人間観を転換したのです。あのときにはほとんど文学、文芸、芸術とか、そういうので人間観をつくって、その後に科学革命が起きてニュートンまでいって、その後、社会民主革命とか社会観をつくったのです。そして、最後に産業革命で技術をやって、これぐらいの順番を経て、全部経なければ近代文明なんてできなかった。最初のトリガーというか、きっかけの引き金のときは人間を問うているのです、人間のあり方という。そういうところで人文学はとても大きな働きをしたと思うのです。
 だから、5年とか、そんなスパンで考えるとあれだけれども、世紀を単位に考えるとかいうふうになったときの人文学の位置づけというのは、次の新しい世紀及び世界を担う人間観づくりというぐらいの気概で位置づけてやっていっていいのではないか。そうすると、サイエンスとか、社会科学とかもうまく協力できるのではないか。そういう印象を持っているのですが。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。今、非常に結論的におっしゃってくださいましたけれども、まさにそこに帰着していく問題だろうと思うのです。我々のこの委員会でもそういうふうな方向で、自然科学だとか、人文社会学とか分けないで、そういう対等の中でどう我々は人文学、あるいは社会学を振興していくかということについて、ぜひともいろんなご意見をいただければと思っておりますが、ありがとうございました。特にご意見ございますでしょうか。

【猪口委員】 

 今の今田委員の発言に関してですが、社会科学といっても応用系のほうが多いもので、どうしようもないのです。それは法律と経済なんですよ。これが僕の見るところ、インベストゲートじゃなくてインタプリートというか、処理ですよ。それから、医学部なんて処理でしょ、臨床。見て処理する。来た、診た、処理したという感じの学問がやたらと強いもので、自然科学、社会科学、人文学にも入りにくいのが多過ぎる。だから、僕は社会科学と言われる同じ法律を平分けして教えている法律はリダンダントと多い。経済も同じことをアダムスミスから6世紀も教えているのではないかというか、リダンダントが多いのではないかなという気がする。結構簡単なシンプリシティに、あるいはスタティスティカルで何とかなるみたいなのが多いわりには、社会科学というか、法経の学生が多いから、教員も多くなるという感じは、学問的発達を阻害しているかもしれないなといつも思っているんですよ。
 どうしてかというと、私は今田先生と同じで、とにかくアーツ・アンド・サイエンスみたいな上品な、しかし高度な人間観、社会観、自然観を養うような科目はいっぱいなのだけれども、ビジネスみたいな感じだ、日本の大学は法律も経済もエンジニアもメディカルドクターも。だから、そこら辺を何とか改変していく仕組みが必要かなと思います。それは絶対必要だからいいのですが、150年前にできた。みんな専門学校から始まった。慶応大学も東大、京大もみんなそう。だけど、そういうところを直さないとなかなかいかないので、小さく単位をして、新しく学科単位をつくっていく。カリキュラムをかなりそれにやって、アーツ・アンド・サイエンスのしっかりしたのを大学4年間でやるとかいうふうにしないと、いろんな問題がますます深まっていくのではないかと思います。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。まだまだ議論を続けていただきたいのですけれども、時間もございませんものですから、きょうは言うなれば包括的な提案といいましょうか、提起ということで皆様にご議論いただきました。きょうのご議論をどういうふうにまとめていくのかなかなか難しいところですけれども、事務局のほうできょうのご議論はまとめさせていただこうと思っております。本日の場合は、なかなか結論を導くのがほど遠いような気もいたしますけれども、猪口先生のお話を聞いても人文学とかなり違うなとか思ってみたり、それぞれ思いがあるだろうと思っておりますけれども、これからもまた2回、3回目と議論を深めていきたいと思っております。
 何か高橋さんのほうからご説明ございますか。

【高橋学術企画室長補佐】 

 資料につきましては、ドッジファイルに基礎的な資料を挟み込んでございます。時間がございませんので、資料の紹介だけさせていただきます。
 あけていただきますと中が3つに分かれておりまして、1というふうに耳がついている部分ですけれども、この中にとじ込まれておりますのは、科学技術・学術審議会におきまして、人文社会科学の振興について、この委員会の前に議論をされたときの報告書でございます。また、機会がございましたらご説明させていただくことがあろうかと思います。
 それから、2つ目の耳がついた部分ですけれども、こちらは学術研究推進部会でも配らせていただいたんですが、基礎データということで、推進部会でのご指摘も踏まえながら逐次更新をしていったものでございまして、また事務局のほうで必要に応じて更新をしていきたいと思っております。
 耳の3つ目でございますけれども、こちらは学術情報基盤実態調査ということでございまして、国公私立大学の学術情報基盤、図書館でありますとか、コンピューター・ネットワークなどにつきましての現状を調べた調査の結果でございます。もし機会があれば、またいずれと思っております。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 ありがとうございます。そろそろ予定しております時間がまいりました。本日の会議はこのあたりでとどめさせていただこうと思っておりますが、次回以降の予定につきまして事務局のほうからよろしくお願いいたします。

【高橋学術企画室長補佐】 

 次回以降の予定でございますが、資料9をごらんいただければと思います。次回は6月6日(水曜日)16時~18時、第3回目は6月20日の16時~18時、第4回は6月29日16時~18時ということで、6月は3回開催させていただければと思ってございます。
 以上でございます。

【伊井主査】 

 今、ご説明がありましたように、2回、3回、4回と6月に3回ございまして、かなりタイトな計画になっているのでございますけれども、お時間の許す限りご参加いただければと思って、よろしくお願いいたします。
 それでは、ほかに何か事務局のほうからございませんでしょうか。よろしいでしょうか。ありがとうございます。
 それでは、本日の会議はこれで終了させていただきます。どうも皆さん、ご協力のほどありがとうございました。
 

―了― 

(研究振興局振興企画課学術企画室)