資料1 農業研究における自然資源の統合管理の概念と方法論について

地方独立行政法人 鳥取県産業技術センター 理事長
国際乾燥地農業研究センター(ICARDA) 元理事
鳥取大学名誉教授
稲永 忍

1.背景

○ 自然資源の統合管理(Integrated Natural Resources Management:INRM)の考え方は、資源的制約の極めて大きい限界地(乾燥地等)で先行的に発達してきたもの

○ 乾燥地(乾燥度指数が0.65未満の地域、ただし、両極およびこれらの周辺地域が該当する寒冷地を除く)は、全陸地面積の約41%にあたる約50億ヘクタール(MA 2005) を占め、そのうち最大約10億ヘクタールで土地劣化(砂漠化)(UNEP 1997)。乾燥地には世界人口の約35%(2000年)が生活 (MA 2005)

(砂漠化の内訳)

  • 4.67億ヘクタールで水食
  • 4.32億ヘクタールで風食
  • 1.00億ヘクタールで化学性の劣化
  • 0.35億ヘクタールで物理性の劣化

○乾燥地の喫緊の課題

  • 年率約3%の人口増加
  • 温暖化による一層の水不足
  • 食糧自給の低下
  • 砂漠化の進行と生物多様性の喪失
  • 農村からの出稼ぎによる男手の流出により、従来型農業の崩壊と女性の負担増加
  • 保護貿易協定や補助金政策などによる国際市場へのアクセス障害

○ 以上の乾燥地の自然資源を取り巻く諸問題は、複雑に絡み合い、その所在も不明確で、かつ時間的・空間的に重層的

○ こうした理由から、自然資源の管理に係る政策や研究の優先付けを行う上で、統合管理の手法は有効なアプローチのひとつといえる

  • 多面的な自然資源に関する研究を、利害関係者の主体性を重視する研究へと統合して、適応管理(自然や人間社会システムの調節機能を活用した、新しいあるいは変化しつつある環境の管理手法(IPCC 2001))と技術革新により、生計の改善に資するとともに、生態系保全と農業生産の両立を同時に達成しようとするもの
  • 従来の自然資源に関する研究は農業を中心とするものであり、自然資源を利用する多様な関係者へのフィードバック・プロセスを欠いていたため、その成果が現場に普及しにくかったとの反省の上に立つもの
  • 農業研究の分野におけるパラダイムシフトの流れの中に位置づけられるもの
    • 農学から生態学へ
    • 静態分析から動態分析へ
    • トップダウン方式から、広範な関係者の参加型アプローチ(ボトムアップ方式)による研究へ
    • 処方設計から適応管理の方式へ
    • 自然資源に関して、その個別要因に着目した管理から統合的な管理へ

○ 農業研究の分野は、自然資源の統合管理手法(方法論)の構築に関する実績を蓄積

  • 1999年以来、国際農業研究協議グループ(CGIAR;ICARDAは構成15センターのひとつ)は、自然資源の管理に関連する諸問題を、他の研究機関との連携の下に、その枠組み作りに積極的に取組んできたところ

2.概念

○ 農業研究における自然資源(国際農業研究協議グループ(CGIAR)の定義)

  • 水・土壌およびそれらの生産性、中・長期に蓄積されたバイオマス、ランドスケープ・レベルの生物多様性、農業生態系の安定性と復元性などのこと

○ 自然資源の統合管理 (国際乾燥地農業研究センター(ICARDA)の定義)

  • 農業研究における自然資源の統合管理は、景観的地域、生態的地域、地球規模といった様々なレベルで、生計、農業生態系、農業生産性、生態系サービス等の改善を目的とするもの
  • 社会的資本、物的資本、人的資本、自然資本、金融資本を統合して、自然資源の持つ価値を増大させるもの

図1. 5大資本の統合(Harwood, R.P. and A.H. Kassam. 2003)

図1.5大資本の統合(Harwood, R.P. and A.H. Kassam. 2003

○次の諸点を具体的な手法として、自然資源を取り巻く複雑な問題を解決

  1. 関係者の主体性の強化
  2. 関係者の利害調整
  3. 適応管理能力の向上
  4. 因果関係の主たる規定要因の特定
  5. 重層的分析
  6. 分野横断的アプローチ
  7. 多様な技術の活用および研究と開発の融合
  8. 要素技術研究に対する方向性の提示
  9. 政策・技術・制度に係る代替案の提示

図2.自然資源管理の統合的手法 (Place, F. and E. Were. 2003)

図2.自然資源管理の統合的手法 (Place, F. and E. Were. 2003)

3.方法論

1.関係者の主体性の強化

自然資源管理は、経済的にも実行可能なものでなければならず、このためには当面の収入確保に加え、関係者に対する応分のインセンティヴや権限の付与も必要。その上で、関係者の協力関係の確立、双方向参加型アプローチ、協力関係を通じたプログラムの実行管理等を通じて、多様な関係者の主体性をより発揮させることが肝要

(参加型実証研究)

現場レベルの小規模スケールでの課題に対処するには、実証型の研究が適合。しかし、自然資源管理の場合には、様々なレベルにおける多様な関係者を取り込む必要があるため、信頼関係の樹立、世論の醸成、予測、優先付け、選択、実証、評価による一連のサイクル通じた参加型の実証研究のほうが適合

(多様な関係者による協力)

研究対象が自然資源の直接的な利用者に限られがちであるが、実際には農民、漁師、林業関係者、地域住民、開発組織、研究組織、貿易業者、行政組織、政策立案者などといった、様々なレベルの幅広い関係者が自然資源管理に関与。関係者間の協力の鍵となるのは、信用、主体性、責任の3つであり、これには次に述べる関係者間の利害調整が不可欠

2.関係者間の利害調整

(問題の所在と研究開発目的に関する合意形式)

乾燥地では、限られた選択肢の中で、日々、複雑な問題への対応が必須。これは、多層なスケールと多様な関係者の間で、自然資源を巡るトレード・オフが生じているため。現場の農民の中には、無意識に、これらに係る諸要因を分析し、意志決定を行っている者が存在。これを広く応用可能な意志決定システムとするためには、その方法論の構築が不可欠

3.適応管理能力の向上 

生態系の複雑さと我々の意志決定能力の間にみられる逆相関は、自然資源の管理が適応型のもののほうが適していることを示唆。今日の技術的処方箋が明日の問題の解決に役立つとは限らない。意志決定の改善、選択の自由度と対応力の増大、相反する管理目的の調整等を重視して、適応管理が行える人材の育成に資する統合的研究が必要

4.因果関係の主たる規定要因の特定

自然資源管理を取り巻く複雑な因果関係を整理して、鍵となる要因を明らかにすること

図3.生物的・物理的制約および生産システム、農家、集落の相互関係の概観図 (Place, F. and E. Were. 2003)

図3.生物的・物理的制約および生産システム、農家、集落の相互関係の概観図 (Place, F. and E. Were. 2003)

5. 重層的分析

(分析スケールの特定と統合)

現場レベルで集積したデータを景観的地域レベル、生態的地域レベル、地球規模レベルといった大きなスケールに直接的に応用することは困難。したがって、ある特定現場のデータを、時間的・空間的に異なる他のスケールにあてはめる場合には、あくまで補完的に留めるべき。科学的アプローチにおいては、まず、いかなる時空スケールを対象にするのかを明確にすること、その上で、他の時空スケールへの応用の可能性を検討することが重要

(自然資源の静態的・動態的分析)

  • 生態的特性の分析:研究サイトの生態的タイプ、他のフィールドへの適用可能範囲、生態面からみた農業の制約条件などを明確にすること。乾燥地では降雨量が重要な要因
  • 自然資源に関する地域住民の知見の活用;地域住民が幾世代もの経験により蓄積してきた資源の現況、類型、脆弱性、耐久性、経済性等に関する豊富な知見を活かすこと
  • 土地劣化の現地評価:GPS等を用いた衛星画像の解析によるモニタリングと、現地踏査によるフィールド・アセスメントとを必要に応じて組み合わせて、土地劣化の現状評価とその要因を分析すること
  • 資源のフロー分析:資源利用の持続可能性を検討するため、土壌中の養分や水分などのフローを分析すること
  • 脆弱性/耐久性分析:この分析については、異なる生態系タイプ、かつ異なる資源管理手法を対象にして行うことが重要。草原植生、地下水量、塩類化、肥沃度などに関しては、閾値が比較的設定しやすいが、土壌生成/流亡比率や気候変化等については非常に困難

(スケールアウトとスケールアップ)

スケールアウトとは、他のエリアに研究成果を援用すること。一方、スケールアップとは、より高次の政策決定レベルへ研究成果を一般化すること。従来、研究の成果は研究者→普及員→農民という直線的な普及方法。しかし、持続可能性の科学の立場からみると、こうした方法は好ましいとはいえない。
スケールアウトとスケールアップの手法を自然資源管理に導入することの意味は、関係者によるネットワークを通じて全てのプロセスが、一つひとつ合意形成によって前へ進められるという点にある。

図4.スケールアウトとスケールアップの概念図 (CGIAR 2003)

図4.スケールアウトとスケールアップの概念図 (CGIAR 2003)

研究を進めるにあたっては、以下の点に関する考慮が必要

  • 研究成果の「出口」を常に意識すること
  • 研究の当初から自然資源の利用者、技術普及員、研究者の全員が関わること
  • スケールアウト/スケールアップは研究成果の普及手段ではなく、研究プロセスそのものの一環であると考えること
  • スケールアウトの手法には、研究テーマの他の地域への関連性や重要性、農民から農民への普及方法、GIS手法における解析の類似性などの評価が含まれること
  • スケールアップの手法には、「多様なレベルにおける分析のための枠組み」や、関連する研究機関の連携、自然資源管理権限の委譲、政策オプションの絞込み等が含まれること

図5.オリーブ栽培における「多様なレベルにおける分析のための枠組み」の概念(Thomas, R.et al. 2003)

図5.オリーブ栽培における「多様なレベルにおける分析のための枠組み」の概念(Thomas, R.et al. 2003)

6. 分野横断的アプローチ 

(分野横断研究)

自然資源の統合管理は、様々な分野の政策や研究の優先順位を決める上で有効な手法であり、その基礎となるのが分野横断研究。しかし、多様な分野において様々な人々が集まることは、その手間暇を考えれば必ずしも有効とは言えず、有効性の程度には最適なレベルが存在すると思われる。このため、核となる関係者や、キーとなる研究領域、着目すべき時空スケールの特定が重要な課題

(自然科学研究と社会科学研究のバランス)

自然生態系を対象とする研究から社会開発を対象とする研究へのシフトに伴い、自然資源劣化の評価に経済学的・政治学的な分析手法の活用が重要化。当然のことながら、社会経済学的分析は、資源劣化に関する自然のメカニズムが把握されてこそ可能となるものであり、両者のバランスと統合化が必要

7.多様な有用技術の活用および研究と開発の融合、

8.要素技術研究に対する方向性の提示、および

9.政策・技術・制度に係る代替案の作成

自然資源管理の現場には、研究の実用性について根強い不信。特に、自然資源の利用を主テーマとする農業研究は、もはや「象牙の塔」に籠もっていては成り立たない。自然資源管理の関係者の参加も得て実証的なものへと脱皮し、要素技術研究に対する指針や、政策・技術・制度に係る代替案の提示に資せるよう、「大地に論文を書くこと」が肝要

参考文献

  • [UNEP] United Nations Environment Programme. 1997. World atlas of desertification. London: Arnold, 182 p.
  • [IPCC] Intergovernmental Panel on Climate Change 2001. Climate change 2001: Synthesis report. In Watson, R.T., The core writing team, editors. A contribution of working groups I, II and III to the third assessment report of the IPCC. Cambridge: Cambridge University Press, 398 p.
  • [MA] Millennium Ecosystem Assessment. 2005. Ecosystem and human well‐being: Synthesis. Washington Dc: Island Press, 137 p.
  • Thomas, R. et al. 2003. Towards integrated natural resources management (INRM) in dry areas subject to land degradation: the example of the Khanasser Valley in Syria. Proceedings of the 2nd international workshop on sustainable management of marginal drylands ( 29 Nov. to 2 Dec., 2003), UNESCO‐MAB Drylands Series No.3, Combating Desertification, pp. 85‐98.
  • Editors: Place, F. and E. Were. 2003. Integrated natural resource management. Proceedings of the 5th workshop of the integrated natural resource management (INRM) stakeholder group, Nairobi, 20th ‐21st October 2003, World Agroforestry Center, Nairobi. Kenya. 53 p.
  • CGIAR 2003. Research towards integrated natural resources management ‐Examples of research problems, approaches and partnerships in action in the CGIAR, eds. R.R. Harwood, R.P. and A.  Kassam. Interrim Science Council Center/Directors Committee Integrated Natural Resources Management, Rome, Italy, FAO.

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科学技術・学術政策局政策課資源室

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