安全・安心科学技術及び社会連携委員会 リスクコミュニケーションの推進方策に関する検討作業部会(第2回) 議事録

1.日時

平成25年5月21日(火曜日)9時30分~12時30分

2.場所

文部科学省 3F3特別会議室

3.議題

  1. リスクコミュニケーションの推進方策について
  2. その他

4.出席者

委員

田中 幹人 主査、平川 秀幸 主査代理、大木 聖子 委員、寿楽 浩太 委員、三上 直之 委員、山口 健太郎 委員

文部科学省

斎藤 尚樹 科学技術・学術政策局基盤政策課長
関 加奈子 科学技術・学術政策局科学技術・学術戦略官付専門職

5.議事録

<開会>
【平川主査代理】  定刻となったが、本日、田中主査が遅れているため、私、主査代理の平川が司会を務めさせていただく。どうぞよろしくお願いいたします。
 本日は、リスクコミュニケーションの推進方策に関する検討作業部会第2回会合となる。
 議事に入る前に、今回よりお二方に新たに委員に加わっていただいたので、御紹介する。大木聖子委員と寿楽浩太委員である。委員名簿は、資料1にあり、本日、定数6名に対して、今のところ5名出席になっている。
 また、本日は、論点を更に深めていくために、お二人の有識者の先生に御出席いただいている。お一方は、日本リスク研究学会理事で、東京工業大学大学院総合理工学研究科の村山武彦教授。もう一方は、前職の文部科学省 科学技術政策研究所での経験を御説明いただくが、肩書は現職、理化学研究所生命システム研究推進室の茶山秀一室長。お二人には、後ほど、それぞれ取り組まれてきたリスクコミュニケーションの実践例などを御紹介いただく。
 では、事務局から配付資料の確認を。
【関専門職】 (配付資料の確認)

<議題1.リスクコミュニケーションの推進方策について>
【平川主査代理】  議題1、リスクコミュニケーションの推進方策について。本日は、まず村山先生から、日本リスク研究学会の取組について、そして次に、茶山室長から、東京電力福島第一原子力発電所事故に係るリスクコミュニケーションの経験について、そして3番目に、寿楽委員から、リスクコミュニケーションの推進に先立って求められるものについて御説明していただく。その後、科学技術振興機構及び事務局から、配付資料の補足説明を行い、後半は、それらの御説明を踏まえ、参考資料1の作業部会の主要論点を念頭に、特に2、「専門家と国民・市民との情報共有・価値共創の在り方」について議論を深めてまいりたい。
 それでは、まず村山先生にお願いしたい。
【村山理事】 今日は学会の紹介であるため、本来であれば、会長の甲斐先生に御出席いただくところであるが、都合により、事務局を担当している私が代わりに紹介させていただく。
 日本リスク研究学会は、1988年、昭和63年に設立したが、その8年前に親学会に当たるリスク分析学会という、アメリカに本部がある学会が1980年にできており、リスクの研究が比較的・学際的に始まったのが80年代からと言えると思っている。その後、ヨーロッパでも学会が設立され、日本でも88年に設立された。
 この学会は、当初からかなり学際的に展開しており、防災、医療、公衆衛生、安全、公害、環境汚染等、様々な問題を扱っているため、参加されているメンバーの分野も非常に多岐にわたっていて、理系から文系まで様々な方々が参画されている。
 会員数は、現在600名程度で推移している。2011年の震災以降、いろいろな意味で若干のインパクトがあったが、およそ600名である。
 リスクの名前を冠した学会では、これより前に日本リスクマネジメント学会が1978年にできている。こちらは、保険や企業経営を中心にされているが、私どもの学会では、非常に学際的な取組を当初から展開してきている。
 リスクコミュニケーションについては、当初、余り大きなテーマにはなっていなかったが、徐々にクローズアップをされてきて、食品、医療、災害、化学物質と、広い分野でこの議論がされている。
 現在、二つの学会誌を発行していて、一つは国内誌の『日本リスク研究学会誌』。これは1989年から発行し、昨年で22刊目になる。もう一つは国際誌で、ヨーロッパの研究グループと一緒に発行している『Journal of Risk Research』がある。こちらは1998年から発行されていて、当初、季刊だったが徐々に号数が増えてきて、現在は年間10号発行している。
 この学会誌の発行に加えて、年次大会を毎年1回開いていて、およそ60本の発表がなされている。
 「これまでの取組み」ということで、雑誌の発行とともに、書籍も幾つか発行してきている。二つの辞典、「じ」の字が違うが、一つは、リスクの問題が非常に多岐にわたっているので、百科事典的に、様々な問題を総合的に扱おうということで、『リスク学事典』というものを出している。初版は2000年に発行された。
 もう一つの方がディクショナリーの辞典の方で、リスクの用語を整理しようということで、大変な作業があったが、2008年に発行していて、330ページほどとなっている。
 それから「これまでの取組み」として、東日本大震災への対応がある。ダイレクトに自然災害を扱っている方々もおられるため、震災当初から緊急時の対応をしてきたこともあるが、同時に、学会誌でも幾つか特集を組んで論文を掲載してきている。こちらの方は、J-STAGEで無料公開する形をとらせていただいている。
 次の7ページ、こちらも震災対応だが、外国への発信ということで英文の冊子のブックレットを電子ファイルの形で発行した。
 内容としては、国内の年次大会でのセッション、それから3年に一度開かれているWorld Congress on Riskでの発表をベースにしている。World Congress on Riskは昨年、オーストラリアで開かれて、特別シンポジウムが開かれた。このような内容を英文化して発行している。以上が、震災対応になる。
 その他の取組として、8ページに「リスクコミュニケータートレーニングプログラム」を示した。これは継続的に進めているわけではないが、過去に取り組んだ事例ということで御紹介させていただく。2004年に1日間のセッションで、リスクコミュニケーターを養成する目的で組まれたプログラムである。
 内容としては、座学的に基本的な情報提供した後、実習を行い、ここに記載しているような二つの課題を具体的に設定して、参加者に取り組んでいただくというものである。
 例えば、課題1では、当時、問題になったO-157の問題について、具体的に参加者の方々に、この問題について、行政としてはどういう形で情報提供すればよいか、プレスリリースの原稿をつくってもらい、グループに分かれてお互いに議論し合う。
 課題2の方は有機塩素系の化合物の地下水汚染の話で、これについてロールプレイングの形で、ステークホルダーの役割をそれぞれ担ってもらい、お互いに見直した。ただ、これはロールプレイングとしての設定をしっかりとしておかないと少し遊びになってしまうので、準備が非常に大変だったが、その分参加者の方々には好評だったと伺っている。
 9ページに、学会誌の中で扱われたリスクコミュニケーションの関係論文のうち、最近のものをピックアップしているが、非常に幅広く、リスク関係の心理学分野の論文であったり、あるいは合意形成、参加というような話があったり、原理的なところからのリスクコミュニケーションの具体的な問題であったり、様々なところからアプローチをされた論文が掲載されている。
 最近、J-STAGEに移行したので、2008年からの論文は、ウェブ上で御覧いただける状況になっている。ただし、最近2年間のものは、学会員になっていただくと御覧いただけるという形をとっている。それ以前については公開されているという状況である。
 それから、リスクマネジャ制度の推進を10ページに挙げている。これについては、学会で取り組んでいる認定制度であるが、様々な能力を身につけている方々を認定することでリスク管理にかかわる資格を提供しようということでスタートしている。
 こちらには書いていないが、学会としてこれを取り組む前に、大阪大学で環境リスクに特化したリスク管理の養成プログラムが始まっている。2006年から5年程度、振興調整費をベースに行われたが、このプログラムがベースになって現在のリスクマネジャ制度が運営されている。
 ただ、運営をしているといっても、大阪大学で行われたプログラムを引き継いで進めている状況で、現在認定を受けている方々は、ほとんどが大阪大学のプログラムで認定された方々、したがって環境分野の方々がほとんどということになる。認定を受けた人数が大体100名となっているが、私が把握している限り、その多くが民間の方々で、大学関係者は余り多くない。しかも、民間の方々はそれぞれ関係するような部署についておられて、その部署での活動をより充実させるためにこういった認定を受けられたということかと思われる。
 次の11ページに、リスクマネジャ制度を少し別の角度から示しているが、基本的には学会として認定して、関連の分野の活動を円滑に進めていただくことを目指している。活動の場として、チーフリスクオフィサー、リスクコミュニケーター、リスク分析責任者という三つの呼び名が出ている。最初のリスクオフィサーについては、日本では余りなじみがないが、主にアメリカの金融や企業関係の分野で求められており、今後日本でも広がるのではないかという期待から位置づけているという側面もある。 2番目のコミュニケーターについては、リスクコミュニケーションのための人材育成を、リスク分析責任者はアセスメントの分野での人材育成を意識している。
 呼称としてはリスクマネジャという言葉を使っているが、実際にリスク管理をするとなると、結構いろいろな側面が出てきて、最終的な意思決定まで担ってしまうことが本当によいのかという疑問は出てくる。そのような意味で、むしろ正確にはリスク管理の支援をする人材育成と言った方がよいかと考えているが、学会としてはこの呼称を使っている。
 他の学会でも行っている資格認定と同様に、継続教育ということが必要になるので、様々な関連するイベントや、最近では、東京海洋大学や長岡技術科学大学等で、関連したプログラムが動いている。分野としては、食品安全やシステム安全であり、プログラムに参加をしていただくことも推奨している。以上が、リスクマネジャの話になる。
 それから、次が12ページ目、タスクグループによる活動を紹介させていただくが、実は。今年度からスタートするものである。学会もかなり横断的な分野を扱っているので、各分野での議論だけでなく、ディシプリンが違う人たちが一つのテーマを扱っていく仕組みもあった方がいいのではないかということで、会員の方から応募してもらい、ここに書いてある四つのタスクグループをつくろうという話になってきている。その中にリスクコミュニケーションやリスク教育などが入ってきていると。例えば、コミュニケーション自体は個々人で既に相当活動されておられる方がいるが、それをグループとして進めようということである。
 リスク教育については、学会としては比較的新しいテーマであるが、会員の中には既に教育として取組をしておられる方々がいて、教育の問題が最近クローズアップをされてきている状況があるため、このような動きを具体化しようという話も出てきている。
 13ページ目では、これまで経験してきたリスクコミュニケーション全てを扱うということは当然できないわけで、どうしても地域ごとであったり、利害ごとであったり、一つの関心であったり、あるいは科学的な素養もあるところで、分野に特化した形で進められているという状況があったのではないか。そういう意味で、2011年の原発事故後は、ある意味で、全国民を対象にしたコミュニケーションが求められるようになったきっかけになったのではないかという認識がある。
 ただ、一方で、コミュニケーションと言いつつ、実は説明だったり、教育だったり、説得だったりということで、必ずしも双方向になっていない、一方向の情報提供がどうしても強調されているところがあるように思うが、情報の受け手のニーズも捉えながらお互いに情報交換を進める中で、文字通りのコミュニケーションというのが生まれてくるのではないか。そのような意味では、市民の参加やステークホルダー関与がこれまで以上に求められるだろうと考えている。
 リスクコミュニケーションという言葉は、ある意味、非常に便利で、様々な場面で使われるようになってきているが、場合によっては、リスクコミュニケーションを行えば全てうまくいくと思われている側面もあるのではないか。このあたりは様々な捉え方があるが、リスクコミュニケーションは合意形成を求めているとは限らないため、どのような目的が設定されているのかも整理が必要なのではないかと思われる。
 最後の14ページ目は、これからの学会の取組ということで、先ほどお話ししたような学際的な側面をベースに、リスクガバナンスという観点からの取組、リスクマネジャ制度のような形での人材育成、今年度からスタートするタスクグループをベースにした情報発信ということを進めていきたいと考えている。
【田中主査】  今頂いた説明について、何かあるか。
【三上委員】  現状認識について、方向性というのが、学会の中ではどれぐらい共有されているのか。学際的な学会という点が特徴と伺ったが、そもそもリスクというのはどのようなものなのか、コミュニケーションするという場合、どこに力点を置くのかということについて、どれぐらいの幅があって、どんな議論を学会の中でしてこられて、修練している部分と、逆にある種、論点が見えてきているような部分とか、もしそういうところがあれば御紹介いただきたい。
【村山理事】  それはなかなか難しいところがあって、学会としての意見は申し上げにくい。
 御指摘のように、分野によっても、個人によっても考え方が非常に違う。ただ、合意形成まで本当に含めるのかという話は比較的多く出されている。コミュニケーションは、お互いに認識を共有するというところに重きがあるのではないかと。決して合意、お互いに意見を同じくするというわけではなくて、この問題について、お互いどう考えているかということを、お互いの意見の違いも含めた共有ということが、コミュニケーションとしては一つの到達段階ではないかという点は、比較的出されていると思う。
 ただ、現場に近い分野の人たちには、それだけでは少し足りないという意見もある。合意ということも、認識の共有の先にあってしかるべきではないかという話も出てきている。どこまで目指すのかは難しいところがあると思う。
【三上委員】  リスクガバナンスというアジェンダが今、学会に出てきているというお話があったが、理解としては、コミュニケーションはコミュニケーションで役割を明確にして、もう少し社会的な意思決定だとか合意形成ということも含めて、トータルに考えていく枠組みとしてガバナンスということが出てきていると、そんな理解でいいか。
【村山理事】  よい。ある意味、リスクコミュニケーションも一つのツールだが、それで何が生み出されるかは結構人によって解釈が異なる。一方で、ガバナンスではステークホルダーとの関係が意識されている。ただ、ガバナンスという言葉も何を示しているのかというのは、実は余り共有されていないという側面もある。
【寿楽委員】  行政から、もめごとの解決ツールだと誤解されている、期待が高過ぎるという御指摘だが、具体的に震災の後、学会に対して行政から何らかの要請があったのか。行政だけではなくて、科学の専門家、技術の専門家の方も時としてこういったリスクコミュニケーションへのある種の過大な期待を表明する機会があるように私は個人的に思っているが、その辺りの経験を御紹介いただきたい。
【村山理事】  コミュニケーションの対象となると、専門家もそうなのが、やはり一般の方や行政の方、業者の方などは非常に多岐にわたるという意味で、言葉としてわかりやすいので、リスクコミュニケーションという語は使用されている気がしている。ただ、内容を見ると、コミュニケーションの形になっていない場合も結構多い。例えば、福島の関係で言うと、除染マニュアルというのが出てきて、除染する場合はコミュニケーションが必要で、勝手に業者が除染するだけではなかなかうまくいかないという話が出ている。しかし、マニュアルの中にリスクコミュニケーションという言葉が出てはいるけれども、内容を見ると、説明することだけになっている。結局、情報提供だけで、コミュニケーションという双方向のやりとりが余りというか、全くない。
 そのため、言葉としては使われているけれども、本当にそれはコミュニケーションなのかと問われると、実はかなり限られているのが現状ではないかと思っている。
【平川主査代理】  そのあたりに関連して質問させていただきたい。今のような福島の状況で双方向的なコミュニケーションが大事だということについては、これは例えば放射線防護の世界で言えば、ICRPの109とか111でも示されている。現存被曝(ひばく)状況、そういう段階になったら事故直後の緊急の状況とは大分違って、より双方向的な住民の参加を求めるというのが一つ、大きな方針になっている。しかし実際にはそれが十分には実行されていない。そこで例えば、リスク研究学会として、あるいは学会のメンバーとして、ICRPの方針を問題現場にインプリメントしていくということに関わっているというのは、今、あるか。
【村山理事】  学会としては関わっていないが、現会長の甲斐先生は、ICRPのメンバーで、福島のETHOSの取組にかかわっていると聞いている。
 そういう意味で、私を含め個人的にはそれぞれかかわっているが、学会として取り組んでいるという状況ではない。
【平川主査代理】  例えば、福島県なり、あるいは関連する環境省に対して、何らかのアドバイスとかという形では特にまだないと。
【村山理事】  その通り。個人的には取り組んでいるが、学会としては進めていない。
【田中主査】  それでは、茶山室長、どうぞ。
【茶山室長】  「はじめに」と書いたところにあるが、平成21年7月から25年3月まで科学技術政策研究所で、科学技術と社会の関係に関する調査などに携わるグループに所属していた。この間に、平成23年3月に事故が発生して、文部科学省の原子力災害対策支援本部に併任され、更に4月に原子力被災者生活支援チームというところができたので、こちらが24年9月まで1年半、体の方はこちらが主体の勤務という形になっていた。
 ただ、この2ページ目の一番下に書いてあるように、飽くまで今日お話しすることは、個人の体験に基づく私個人の見解であり、当時あるいは現在の組織とか役職としての見解ということではなく、多少主観的なところが入ると思う。
 この内閣府にできた原子力被災者生活支援チームというところは、それまで、事故前のマニュアルにはなかったところで、アドホックにつくられた。そういう意味では、一体何を、どこまでするのが私の仕事なのかなというので、戸惑った面というのはある。ただ、前例のない事態であり、次々と新しいことが起きてきたので、そういうときに前例とか経緯にとらわれず取り組めたという面では、プラスに働いたところもあるかと思う。
 具体的な仕事としては、施設外に放出された放射性物質の対策ということを担当した。この枠組み自身が関係府省協力の枠組みであったということから、例えば各省の方で主として検討してきたものを、原子力災害対策本部の名前で決定するといった事例があった。また逆に、各省ちょっと戸惑っているとか、すぐには動きにくいというようなときに、我々の方が、各省立ち上がってくるまでの間の球拾いや、最初の方向づけみたいなことを一緒に議論していこうというようなことをやっていた。
 ここに挙げたような問題のコミュニケーションに関与した。モニタリングが始まっているとか、子供の放射線量の問題、下水汚泥で放射性物質が見つかった、あるいは特定避難勧奨地点というのを最初の避難の後にまた設定したりしているので、そういったことの問題。それから、除染、環境省の方に担当してもらうまでの間の基本的な方針とか、放射線量の高い地域の砕石がマンションの建物に使われていたという問題。それから、食品中の放射性物質、基準の見直しとか、実際に出荷制限はうまく働いているのかどうかといったこととか、あるいは避難指示区域の見直しや放射線に関するリスク説明の在り方みたいなことなど。こういったような課題について、様々なステークホルダー、場合によって、住民、実際にお住まいになっておられる方、避難された方、あるいは自治体の方、報道関係者の方、地方の議員さんや国会議員の方たちが集まる集まりなどがいらした。場としても様々なものがあり、どこまで、どういったものをリスクコミュニケーションとして含めるのというのはあるが、住民説明会あるいは記者会見の場、それから公開の審議会とかシンポジウムなどということもあった。それぞれ説明する立場に立った場合もあれば、質問への回答ということもあったし、ほぼ結果的には聞き役みたいなことが主になったこともかなりある。
 幾つかの対話の事例で、先ほど甲斐先生のお名前とICRPのことが出ていたけれども、その特徴的な対話の事例として、ICRPダイアログセミナーはほかのものとは少し違った特徴があったのかなと思っている。主催者はICRP(国際放射線防護委員会)であり、そのほかOECDのNEA、原子力機関が参加しているし、途中から伊達市が、場所の提供や運営に積極的に関与している。それから、当初は福島県、福島県立医科大学、福島のETHOS、こちらは地元の方たちが自発的につくられて、放射線のことを勉強されたり、いろいろ行動されたりしている団体だが、こちらの団体とそれから放射線安全フォーラムとか、また、外国政府、特にベラルーシとか、ノルウェーとか、チェルノブイリの事故の経験をお話になることで参加された。
 シリーズで開催されており、地元の住民の方、地元メディアの関係者、自治体、学識経験者等、多彩なステークホルダーが参加して、継続して参加される方もいらっしゃる。2回目以降、特にテーマを定めて、食品とかテーマごとに、地元の人たちの実際に何を考え、何を悩み、どんな取り組みをやっておられるかといった話が中心になった。
 海外からの参加者、先ほど申し上げたようなチェルノブイリの事例のお話をされたり、学識経験者が参考となるような事例をお話になったりすると。例えば、農産物からいかに放射性物質を除去するかの研究をしているといった発表をされるわけだが、これは地元の人たち、地域の人たちの取組とか、あるいは首都圏の方もいらして、首都圏ではこんなふうに考えている、自分たちはこんな勉強をしているというようなことをお話しされたりしている。
 政府関係者として出席したのだが、テーマによっては、政府関係者のプレゼンテーションはあるけれど、基本的に発言が義務づけられないような会もある。そうは言いながら、御意見に対して、政府の対策は、こういう考えでやっているということを申し上げたりすることはあったが、時によっては、司会の方から「まあ、その話は、今日はそのぐらいにして」といった形で、議論がそっちの追及の場にならないような運営をされていると感じた。
 いわば、不安や疑問に対して回答を得るとか、あるいは先ほども合意形成、そこを目標にするかどうかというのがあったけれども、一つの立場や考え方について合意を得る場ではなくて、科学的な情報に加えて、県内あるいは県外の市民の方、住民の方たちが、要は避難者の方たちが、個々の立場での様々な経験や考え方を共有する場という性格があるかと思う。
 特徴的なのは、2回目以降の資料については、主催団体のICRPのというより、福島のETHOSという地元の人たちがつくった集まりのウェブサイトの方に資料や発表の様子をユーチューブで掲載したりしていること。
 これまで5回あり、私は1回目から3回目まで参加しているが、例えば2回目に生活環境の回復、3回目は食品についての対話、4回目には教育の話、5回目に帰還についてどう考えるのかで、例えばこの帰還のときは、自治会長さんや避難している人、あるいは地元の商工会の人や、元受け入れた方の自治体の職員、こういった方たちが、それぞれ自分の考えていることや直面したこと、経験、今どんな取組をやっているかということをお話しされている。
 このICRPダイアログセミナーと、ほかの様々な場があったけれども、そういう我々、行政官がかかわった場の中でちょっと特徴的な点を比較してみる。主催者としてのICRPは国際的な権威ではあるわけだけれども、中立的な立場で運営を務められたと。特に、チェルノブイリにおけるETHOSの経験、あそこでは住民の参加、主体的な関与が大切だということで、そういった経験から、こういった場が必要だと考えられたというふうに聞いている。
 最初、聞いていると、自給体制の中での牛乳をきちんと量りましょうとか、山に行ってキノコを採ってきてむやみに食べないようにしましょうという話が中心というふうに受け取っていたので、日本の出荷規制されている状態や自家菜園が食生活にどのくらい比重を占めるかということを考えると、そんなに参考になるのかと思っていたけれども、多分こういうそれぞれの社会に応じて、その社会の悩みや難しい問題について、経験の共有の仕方というのはあるのだなと思った。
 場の性格は、先ほど申し上げたような、経験と知識を共有する場であり、更に主催の方々のお話によれば、こういったことがまた積極的な、主体的な復興を促していくことになるだろうと。復興といって建築工事みたいなことに限らず、自分たちの生活を改善するという意味で言えば、学校で子供たちと放射線のことを考えて話すだとか、農産物が流通していくように、福島の農産物を買ってもらえるような取組とかというのは、まさに広い意味では復興ということに当たるのではないかと思う。
 国も一ステークホルダーであって、責任者としてきちんと説明してみんなが納得いくようにしろというようなことを、余り迫られる場ではなかった。傍聴者や取材陣、同時通訳の人に至るまで、冒頭、自己紹介して、時々議論の展開によって、どう思いますかと発言を求められたりするような展開である。対立構造がないためにか、比較的皆さん自由な立場で、それぞれ思うことを話しやすいということがあった。
 そのほかの場合だと、例えば終了後に、ちょっと聞き足りなかったこととか、本当に自分が不安に思っていることのために説明者の方に列をなすとか、本当は発言したかったんだけど、雰囲気上、発言しにくかったみたいなことをおっしゃる人たちというのはいらっしゃったりした。
 そのほか、個人的な体験、印象になるけれども、話してよかったなと思ったときというのは、除染ボランティア後の慰労会で地元の人と話し合うとき。特に懇親会だと直接話すのは少人数なので、そういうときに話を聞いてもらえたとか、翌日会ったりすると、「いい人と会いました」とか言われて、手を握ってもらえたりしたというのはなかなかない経験だった。
 また、シンポジウムの参加の場で、高校生からかなり厳しい質問を受けて、こちらも困ったなと思いながら答えていたのだが、その後に書かれた感想などを見ると、多分その回答内容に満足したというわけではないと思うが、とにかく、自分がこういった場で質問をしたということ、それからその質問に対して、内容はともあれ、政府の人が何か答えようとしたということが、何がしか、本人にとってはプラスの感想を持てるような出来事であったというふうに思われるものであったと。
 ダイアログセミナーに協力している福島のETHOSのサイトには、「自分たち自身で、測り、知り、考え、私とあなたの共通の言葉を探すことを、いわきと郡山で小さく小さく続けています。」という言葉が出ており、ある意味、これがリスクコミュニケーションの一つの本質かなと思うので、ここに御紹介しておく。
 情報の内容のほか、場の性格とか、個人としての主体的な行動とか体験を伴うようなことが重要なのではないかと思う。ただこれは、決してリスクコミュニケーション固有のことではなく、多分、教育一般の話とか、あるいはサイエンスコミュニケーション一般の話でも言われることではないかと思っている。
 決して、知識、情報の内容の点について、いわゆる欠如モデルで、どんどん知識と正確な情報を与えていけばいいということを主張するつもりはないが、放射線の健康影響について十分な知識、情報が提供されていなかったということで、不安を助長している面というのは否めないのかなと思う。特に大事なのは、事故前からということ、やはり平常時から聞いていることが、いわゆるクライシスが起きて急にどんどんさらされる情報以上に、本人の理解や対応に大きく影響してくるのではないかと思う。
 例えば、低線量放射線の健康影響について、科学的にはよく、「断言できません」とか「わかりません」というような言い方をされることが、「見当もつかないとんでもないことが起きるかもしれない」というふうに受け取られる場合と、「これは断定はできないけれども、影響があったとしてもこのくらいだろう」というようなことで受け取る場合でちょっと違ってくるだろう。また、専門家の間でも見解が分かれることであるというのもよく言われた。ただ、専門家といっても、例えば車の場合、F1レーサーからタクシードライバー、自動車修理工も恐らく車の専門家ではあるけれども、交通事故の体への影響だとか、治療についてどうするかということだと、また違う専門家がいるのだと思う。
 情報の内容では、無意識のうちに受け入れているリスクとの比較やクライシスがないときのリスクの大きさの理解。今回の場合だと、具体的に言えば、特に魚介類からの自然放射性物質からどれだけ放射線量を受けているかという話や平常時の小児がんのリスク、あるいはがん統計における地域差、あるいは毎年の違いがどのくらいの大きさかといったことを見ながら考えて判断いただければなとは思う。
 そういうことをまとめたものをネットに掲載してもらったことがあるので、URLだけ御紹介しておく。
 一方、リスクの大きさを強調するのではない発表や政府のポータルサイトにそれなりに情報を集めているつもりではあるが、認知は低いなというところは、やりながらの悩みではあった。
 提供される情報の質や内容に加え、個人の関与、そしてこの個人の関与と言うと、行政官はすぐ政策決定への関与というふうな感じで受け取って、非常に難しい問題だと。個人の関与というのもやや広義に考えて、個人が主体的な行動とか、そのような行動を一緒にする情報の獲得というのは、納得とか考え、本人の判断に大事なのではないかなと思う。
 次に説明するのは、事故に対する不安についてである。科学技術政策研究所では23年4月から24年3月までずっと1年間、毎月毎月、インターネット登録モニターの人たちを対象にして、不安かどうかということを聞いている。23年11月だけを除いて、毎月、大体全国ベースでは7割以上の方が、「非常に不安である」、「不安である」と答えられている。ただ、この意識調査の結果の中で、福島県の方で「不安ではない」と回答した人たちも、少数ではあるけど、いらっしゃって、全体では73名、毎月4名から9名程度の方が福島県民で回答された方で、事故に対して「どちらかというと不安ではない」、「全く不安ではない」と回答した方というのは6名、各月0か1名、24年2月のみ2名の方がいらっしゃった。それ以外では、「どちらともいえない」という方が4名。この人数なので、定量的な分析というのは適さないけれども、それでもこの少数の方には随分傾向があるなと思い紹介した。
 信頼している情報入手手段を、特に一つだけに絞って挙げていただいたときには、3名がインターネットで、専門書や学術雑誌というのが1名、それから新聞が1名で、特にないというのが1名。これは全体では、やはりテレビというのが多いけれども、テレビ以外のものを挙げられていると。
 また、利用している情報源という、複数でいろんなものを挙げられるところの中では、原発作業員から話を聞いているということも言われた。それから、若い人たちに特徴的で多かった。10代の方が4名占めておられたので、一般にはよく若い人たちは科学技術に対する関心がほかの世代に比べて低いというのが、この手の調査でよく我々はまとめていたことだけれども、ここでは少数ながら、「不安でない」と思う人たちの中では、10代の人が多かったというのは印象的だった。
 その絡みで言うと、「クライシスコミュニケーションマニュアル」は、厚生労働省の方の科研費でまとめられていて、『健康危機管理時におけるクライシスコミュニケーションマニュアル』というのを読み返してみると、事故前に行われていなかったこと、実現が難しかっただろうなと思うことで非常に大事なんじゃないかと思うことがある。その一つが平常時からの報道関係者との勉強会。特に、放射性物質の放出時における健康影響に関する勉強会というのは、事故前にやりましょうという相談は、なかなか難しかっただろうとは思うが、こういったことがこれから大事ではないかと思っている。
 それから今度は、国立教育政策研究所のプロジェクトを見て、全くこういう切り口でやった話ではないものの、私の印象に残ったこととして、学校教育においてリスクに関する問題を取り上げていた事例がある。ここでは文系・理系の進路選択について全国的に学校を抽出して、たまたま実施時期の関係で東北の被災県は除かれているけれども、44県で調べて出した結果のうち、関心の高かった学校でどんな取組があるのかということで、幾つかの学校を訪問された。そういった学校の中には、ディベート教育をやっているところがあった。2年次にはディベートを実際に経験し、3年次には、この学校の場合は卒論ということで、5枚から10枚程度で、卒業論文をまとめてくださいと。この卒論で、2年次に取り上げた問題などを扱われると。その中には、遺伝子組み換えとか原子力発電といったような、かなりリスクコミュニケーションの問題で出てくるような話が取り上げられており、こういうのが、いわば科学、数学への意識の高さにもつながったようである。そして子供たちにとって、いろいろ主体的に物を考えていくいい結果になっているんだというのが、このインタビューで言われていたことである。
 こういったことを考えると、リスク学とかリスクを考えるというのは、21世紀における市民必須の教養ではないかなと思う。リスクについて考えてみる機会をできるだけ多くの人が早い段階に持つということは大切ではないだろうか。これは決して、安全か、危険かという結論を教えるとか、正解があるよというような勉強の仕方ではなくて、むしろそうじゃない方がいいと思うのだが、例えばクラスの中で議論をしたときに、非常に反対の人もいれば、賛成の人もいたというようなことを経験しておくだけで違うのではないかと思う。
 例えば、私が考えることで、最小限何がわかってもらえたらいいのかなということであるけれども、リスクは損害と確率の積ですよという定義みたいな話や、リスクの受容を判断するに当たり、無意識のうちに受け入れているリスクとか、事故が本当になかったときに、現在はどのくらいのリスクがあるかということを把握することが大切だ。あるいはリスクに対する受容の判断というのは、個人の人生観や死生観によってかなり異なってくるし、むしろ全ての人に共通する正解というのはない。もし行政の対策まで考えていただけるのであれば、その中で一種の最大公約数を目指しているのだから、ここで特に確率的影響の場合などに、万人に共通する危険と安全を分ける、そういった境界を求めることというのは果たして意味のあることなのかなというようなことを考えてもらうような経験、こういったことがあれば、少しまたいろんなクライシスで反応が変わってくると思う。
 これからどんどん市民社会というのは成熟して、個人の権利や考え方が大切にされるようになると思われるし、また科学技術の進歩によって、いわゆる技術的な安全性はどんどんいろんなものが向上していくのだと思う。それだけ今度は逆に、個人の人生の中で、クライシスに当たることが起きるということは、相対的にはその重みが深くなるということかなと思う。そういう意味においては、そういうリスクを考えないで市民・国民を放置しておくというのは、社会や国家にとってはものすごくリスキーなことなのではないかと思う。たしか、この親委員会の1回目のときに、交通安全の話が出ていたけれども、子供のころにそういうことに触れることでかなりちゃんと対応できていることの例としては、交通安全などがあるのではないかと思う。
 最後に、そういうような考えや感じたことからの提案として、初中教育段階などでリスクについて考えてみる経験を持つ、結論や正解を求めなくていいけれども、考えてみる経験があればいいなと。あるいは市民に求められる最もコンパクトなリスク理解、これだけはわかっていてね、みたいなことを整理してみてはどうだろうかと思う。また、ICRPがやってくれたように、学識経験を有し、中立的な立場で建設的な議論の展開を心がけた、そういった対話の場を運営するような主体が必要ではないか。あるいは、平常時からの報道関係者との定期的な勉強会、意見交換といったこと。また、充実したポータルサイトづくりとその存在の周知。それから、必ずしも適切な専門家じゃないのではないかということを申し上げたが、それでも周りの人に聞きたいと思われることは多いだろう。そういう人たちが周りにいてくれればいてくれるほど、考えたり、身近で主体的な体験を伴う会話の経験ができたりする。そこで、身近な専門家、あるいは専門家類似の人たちを含めて、講習といったような機会を持つことというのもあるのではないかなと考えている。
【斎藤課長】  今の茶山室長のお話の最後に御提案というのがあって、14枚目のスライドの冒頭に、初中教育段階での経験、リスクについて考える経験、特に結論や正解を求めないで考えてみるというお話がある。たまたまだが、参考資料6に学習指導案 現代社会「リスク社会と防災を考える」がある。これは実は、スーパーサイエンスハイスクールに指定されている東京学芸大学附属高校に見学、報告を聞いた際の資料で、高校2年のクラスで、公民の先生が理科の先生とコラボレーションの形をとった、学校では非常に異例のケースだと思う。こういうまさに防災に関するリスクコミュニケーションの、ある意味での実践的な授業を、このお二人の共同企画で実施されたということで、学習指導案というのは種本のため、余り公開しないものだけれど、今日は、加納先生の特別な御厚意で皆様にお配りしている。
 この中では、先ほどの村山先生のお話で、ロールプレイというお話があったが、大変有効。この指導案の5ページに出ているが、クラス全体を六つのチームに分けて行った。
 一応、全体の目標は、できれば建設する方向で意見集約したいのだけれども、別にそれが最終目標ではなくて、例えば納得が得られない、合意が得られない場合には、何が原因だったかというようなことも考えさせると。それに必要な情報も、これは絵空事ではなくて、実際の宮城県の防災計画に基づいた設計プランらしいので、非常にリアリティがあった。それぞれについて何時間かをかけて説明と意見集約のための議論をしていくという授業をやっていた。
 6ページに「まとめ」とあるが、これがまさしく今日議論になるであろう市民社会における必要な科学リテラシーと、それによっていろんな問題を考えていくことが大事だろうとしている。もちろん合意形成を目指すことは大事だけれども、いかに納得していくのかというところについて、例えば脳死問題、原発、あるいはダイオキシンと地球温暖化、さらにはかなり高度なテーマだけれども、科学と法律の関係等のテーマについても今後考えていく、取り上げていくことを計画している。
 これはスーパーサイエンスハイスクールなので、こういった非常に先進的な授業なり、実践のプログラムが出来上がると、いろんな他の通常の高校にも広げられる要素があると思っている。例えば年に1回の報告会で、こういう取組を報告していただき、それを他の高校でも、更にいろんなテーマ、それぞれの地域特性に応じたテーマ設定で展開していただくということは、非常に有効ではないかと思うので、参考に紹介させていただいた。茶山さんの説明と合わせて、議論いただければ幸い。
【田中主査】  それでは、ただいまの茶山室長の説明について、事実関係の確認等、質問があったらどうぞ。
【山口委員】  ICRPのダイアログセミナーとその他の場の比較の中で、司会とかファシリテータの方の特徴というのは何かあったか。要は、先ほどのお話だと、それぞれローカルな知識を共有するものであって、何かを決める場ではないわけなので、その場の雰囲気づくりとかというのも非常に高いスキルが必要なんじゃないかなと、そのあたりで何かあったら教えていただきたい。
【茶山室長】  ICRPのダイアログのセミナーの方では、ICRPの委員の方で、ICRPのパブリケーション111、事故後の生活の在り方、事故後においてどうやって復旧、復興を図っていくかみたいなことについてまとめられた小委員会の委員長さんがフランスから毎回いらっしゃって、司会をされていた。その運営の工夫が最初に例えば皆さんに自己紹介を求めたり、発言もそういう会場を含めてというふうにされたりする。あるいは、私みたいな政府の人間の政府としてはこういうことを考えてやっているのだという説明が長くなりそうだったら、もう今日はその辺でいいよというか、余りそういうことに突っ込まないような運営を、追及しないような運営を心がけておられたのだろう。確かに、フランスから毎回来られて、そういう意味では日本の方の政府関係者だとか、地元の方だとかというのとまた違った、そもそも存在そのものが中立的な司会という感じに思われたであろう。
 また一方で、ICRPの方をまとめておられるということが、双方の人たちにそれなりに信頼も置かれていたし、なので、多少そんなに不安に感じることはないという発言をもっとしていただいてもいいのではないかと、私は思っていたけれども。余りそういうことを無理に、彼らのパブリケーションで書いていることとか、彼らの知見で持って、そのまさに説得とか、教育に来ているというふうには全く見えないやり方だった。
【山口委員】  何かそれはある種のポリシーがちゃんと、ファシリテータ用のものがあるのか、その個人の方の何かスキルなのか、そのあたりはどうか。
【茶山室長】  ある意味、パブリケーション111の中で、個人の関与が大事だということは何度か書いておられたので、そういうものをまとめていくことと、それからチェルノブイリでのETHOSの経験でポリシー的な面でもきっと思われたのだと思う。
【寿楽委員】  福島の皆様にとってセミナーやこういう試みは一体どのような評価・評判がなされているのか。例えばその他の場の多くというところで、批判的な考えを持つお立場の方々が主催者となられて、そういった場を設定されているとあるけれども、こういった方々にとっては、例えばICRPが国際的な権威であるとか、中立的の立場であるという言い方自体が批判の対象になったりするわけである。こういった、わりと立場をはっきり表明している方の見方はある程度は推測できるが、福島の一般の人たちにとって、このセミナーはどういう意味があって、ここから何かその先につながるようなものがあったのかどうか、御存じだったら教えていただきたい。
【茶山室長】  この会自身の存在については、第1回はICRPがやっていることもあって、報道されたりしている。また、この1回目からずっと地元の報道関係者、地方紙の報道部長さんなどがずっと通しで参加されたり、毎回発言もされたりしている。最近では、プレゼンター等までされており、そういう意味では内容をそしゃくした形で報道はされている。いわば、最も県内の人たちの反応を気にされたり、県民の間の世論形成にかかわっておられるような、そういう報道関係者の人たちがずっと継続して、ずっと通して参加されたり、発言されたりしているということが一つ前向きな評価をあらわしているのではないかと思う。
 また、2回目以降は、福島県伊達市がずっと開催地になって、毎回市長が来て、冒頭歓迎の御挨拶などをされ、議論も長く聞いておられたりするので、少なくとも伊達市長は、今後積極的にやっていくことに、協力していくことには意味を感じておられるのだと思う。
【寿楽委員】  実際、それが例えば伊達市の場合に、伊達市における放射線のリスク全体についてのある種の政策決定と合意形成みたいなものの基盤になるような、そういう効果はあったのかどうか。つまり、これ自体がそういう合意や決定を目指す場ではないにしても、経験や考えが共有されたならば、普通に考えれば、その先には何か社会、住民の方々が従来よりはまとまってある方向に進んでいけるとも思われる。この場はそういうことに何かつながっていっているか、つながっていきそうな気配はあるものなのか、この場はこの場として評価はされているけれども、それ以上のスピンオフみたいなことはないのか、その辺について感想をいただければと。
【茶山室長】  自分の考えや取組を話される。そこで単なる聞き手以上に、感想を述べたり、議論に主体的にかかわる形で、直接の当事者、一般の市民の方たちも参加されて聞いておられたりするということで、相手の立場や努力についての理解とか、それを踏まえて、自分の次の行動へというのはつながっていくのではないかと思う。
 例えば、農家の方たちが少しでも放射性物質が減るよう木の皮を剥(は)いでみたという取組を話されて、そこにいた学識経験者の人以上に、一番間近な消費者であるそこに住んでいる人たちや、東京から来ている人たちが取組を聞き、深く感じましたといったような発言をされていた。そういう人たちが戻られて、周りの人へどう話すのか、ただ怖い怖いというより、実際に努力をされている人の話、取り組んでいる人の話を間近で聞き、それについて自分の考えを述べるというのは、きっと次の行動へつながっていくのだろうと思う。
【寿楽委員】  伊達市において、このような取組が継続的になされていることによって、ほかの市町村、地域に比べて、円滑にこれを乗り越えていく方向に前進しているというような、必ずしもそこまでではないか。
【茶山室長】  違いが、ニワトリと卵みたいにはなるが、例えば伊達市はかなり早い段階から、市主体の除染に取り組まれていたところであったし、だからこそ開催地を引き受けようという気持ちにもなられたのだと思う。また、一方で、そういう経験を話されて、現場で実際に地元の人に除染のことで納得してもらうのにこんなことを話したとか、こんな工夫をしたという話もされた。
【平川主査代理】  今の質問の確認だが、このダイアログセミナーでは、フォーマルな形で何か地元の市町村、県あるいは国に対して、こういう対策というのをやってほしい、あるいは住民と一緒にこういうことをやってほしいとか、住民の間でこういうことをやっていきましょうということにつなげていくような、フォーマルな回路があるというわけではないということか。
【茶山室長】  最後に、この会としての勧告というか、まとめみたいなものはされる。何かあれこれを、何々をしてくださいというよりは、こういった対話や経験の共有の大事さを共有し、これからも続けていくべきだと思ったとか、そういったことに対して政府や県も注目していくべきではないかといったような形にまとめられて、そこにまた出席者の名前が一同並べられる。別紙の参加者はこういったことについて合意をしましたという形で。まとめた文書自体は、サイトなどに、これはICRP通信という形のところに載せて、先日もやったところでは、出席者の名前は伏せるという形にやっていたけれども、現場でまとめるときには、そこで名前を皆さん載せたりして。
【平川主査代理】  それが何らかの形で、地元の理解とか、そういうところで参考にされるという形には必ずしもなってないということか。
【茶山室長】  特にルートがきちんとあるというわけではないが、そこの中に、伊達市長もその参加者に名前が入るし、伊達市の市役所の方も入る。我々もそこに名前が入ったりして、当初はその場でまとめられたところに行政官が名前を連ねるというのは、難しいかもしれないという話はあったが、こういった内容であればいいんじゃないかと。
【平川主査代理】  あともう一つ、終わった後で、実際に担当者の方に並ばれて、いろいろとお話をされたとときに、そこで出てきたことに対して、国や行政の方で何か対応したとか、そういう事例というのは何かあるか。
【茶山室長】  自分がその場で質問に答えたりした。強く反対の意見をお持ちの方たち自身が主催しているのとは少しは場が違うかもしれない。それを受けて、特に、直接何かやろうということは余りされてなかったと思う。
【平川主査代理】  わかった。ありがとうございます。
【田中主査】  それでは次に、寿楽委員の方から説明していただきたい。
【寿楽委員】  お手元資料の4に沿って問題提起させていただきたい。私から、今日、問題提起させていただきたいのは、リスクコミュニケーションを推進するに先立って、確かめておかなくてはいけないことがあるのではないかということ。私は、リスクコミュニケーションの専門家では必ずしもないけれども、原子力に関する科学技術社会論、あるいは社会学の研究者だということで、お呼びいただいていると思うので、原子力のことからどういう示唆があるかというのをお話したいと思う。
 冒頭、いきなり非常にちゃぶ台返しのようなことを書いてしまって恐縮だが、前回、三上委員が御紹介くださったリスクというものが社会科学の分野でどういうような文脈で、どういう概念で用いられているかということからすると、安全・安心を求めるためにリスクコミュニケーションを進めるというのは、恐らく大いなる論理矛盾のようなことがあるということを指摘したい。
 仮に、リスクコミュニケーションがうまくいった状態というのがあったとして、それで実現する状況というのは、恐らく安全・安心というよりは、安全・納得とでもいうべきものではないのか。これは私が思いついたことなので、きちんと裏づけがあるものでは必ずしもないけれども、少なくとも安心というものが、リスクコミュニケーションによって、回復するとか、実現するというのは、恐らく間違いないのではないか。リスクコミュニケーションを推進するということは、それは安全・安心を回復するとか、あるいはそれを新たに実現するということではなくて、それとは違うことを目指すような、そういった社会的な目標を私たちが共有するということになるのではないか。それを言うなれば、ここでは安全・納得と、仮にそういう呼び名にしているけれども、そのような言い方になるのではないかと考えている。
 なぜそう考えるかといえば、リスクというのは災いに関するいろんなトレードオフについて、自ら能動的に意思決定するというような、そういう構えというか、そういう様式であるというところに理由がある。恐らく、安全・安心という言葉がどういうことを含意しているかといえば、そういう災いから守られている、遠ざけられている状態が、何かをするとかしないとかいうことによらずに、何も考えなくても実現している状態を求めるものだというふうな概念をどうしても持ってしまうと私は思う。
 逆に、リスクという考え方を採用した場合に追求されるべきことは、単にそこから客観的に観測される状態として遠ざかっているかどうかということだけではなくて、災いに対して納得のいく、後悔のない向き合い方ができているかどうか。これが恐らく、きちんとしたリスクの管理、あるいはリスクについての意思決定ができているかどうかの基準になるのではないかと思う。
 ここで、このどちらの考え、リスクという考え方を受け入れて、こういった向き合い方をするのか、安全・安心というものがインプライするように、災害そのものから遠ざけられている状況、それに確信がある状況を求めるかという判断の違いによって、大きなものは恐らく責任の分担、分配というような問題がある。これはいろいろ読ませていただいた資料の中の言葉遣いで言うと、統治者視点と当事者視点というのと、ある種重なるのかなと思う。
 どうしてこうなってしまうのかといえば、もちろんリスク社会化ということが、現代の先進社会と呼ばれるところでは進んでいるからであるが、これと対をなすものとして、科学技術そのものがトランス・サイエンティフィックになっていることも関係すると思う。
 例えば、原発事故の後のクライシスコミュニケーションで、「御用学者」という非常に誹謗(ひぼう)中傷に近いような言葉が飛び交ったけれども、なぜ、では逆にそこまで激しい批判を社会から招いたかと考えると、これは安全・安心の回復を目標としたコミュニケーションを一生懸命にやった結果がそれだったというふうにも解釈できるのではないか。
 例えば、私がたまたま原発事故の瞬間、また前後に、原子力工学を専門とする大学の学科の教員をしていたので、そこで原子力工学を専門とされている先生方の行動を観察したところ、彼らが異口同音に言ったのは、パニックを回避しなくてはならないと、そのために、責任ある発言、行動をしなければならないということであった。その結果として、何を言うか言わないかと、どういう言い方をするかということを、非常に注意深く調整するというような行動が見られたわけである。
 しかし、こうした考えが、私が学会で発表した言い方でいうと、情報統制志向というべき状態を生んだ。このことが、市民、国民の皆さんの判断するもとになるような情報や解説を適時・適切に提供することに失敗し、むしろ意図的に起こっている出来事を小さくしようとしている、そういう疑念を強く社会に植えつけてしまった。その結果、専門家に対する信頼の失墜ということに帰結したように思われる。
 まさにその場で起こっていたことは、トランス・サイエンティフィックなことで、原理的に非常に不確実性がある。さらに、完全情報下では全くなく、不完全情報下もいいところでそれに対処しなければならなかった。私はそのときに原子力工学の専門の先生方が持ち合わせている情報が少なかったことに、非常に驚きを覚えた。原子力ムラの中では本当のことが出回っているが、社会に対しては、という状況だったのであれば、ある意味ではまだましで、実際には彼らもテレビで伝えられることからしか判断できず、それに基づいて解説をするようなありさまであったことがしばしばあった。
 こういう状態で安全・安心をもう1回、回復しようということをして、それが失敗したというのは、非常に突き放した言い方をすれば、もとからできもしないことをやろうとして失敗したというぐらいのことにしかならない。なぜなら、それを保証できるだけの確実性のある専門的な情報がない中で、幾ら専門家であっても正しい判断ができるはずがないからである。
 しかし、彼ら自身が何を、どういった倫理観とか、あるいはタスク認識、役割意識としてやっていたかというのは、つまり、専門家の役割と責任をどう理解していたかと言えば、専門知を生かして、普通の専門家でない人たちにとって判断がつきかねる事柄について、かわりにどうしたらよいかということを示唆し、あるいは場合によっては代行するということであり、その結果を伝えるということであった。彼らは一生懸命これをやっていて、そこには、言われるほどは変な意図はなかったのではないかというのが、私の観測である。
 ただ、専門家が専門知に基づいて意思決定をかわりに行って、それを伝達するという、そういうコミュニケーションのモードは、これは恐らく、そもそもリスクコミュニケーションではないわけであるが、大変残念なことに、日本においてはこういうものが非常にリスクコミュニケーションの中心的な役割であり、またそれを実現する手法を開発することが課題であると思われているのではないか。そして、それでもって安全・安心が回復するのだと。そのためにいろんな具体的な手法を改良・洗練させていくと、こういうことが目指されてきたように思われる。
 そのため、例えば、この作業部会は「リスクコミュニケーションの推進方策」を検討するわけであるけれども、それが「安全・安心科学技術及び社会連携委員会」の下に置かれているということ自体、私には非常に奇異に映っている。でもそれは日本におけるリスクコミュニケーションの文脈づけからすると、非常に正統的であろうかと思う。
 こういう背景には、専門家の方が非常にパターナリスティックなタスク認識、役割意識を社会の中で持っているということがあって、それはしばしば批判されるわけだけれども、私はあんまりそこにケチをつけても、適当でもないし、生産的ではないかなと思っている。それは何も彼らに限ったこと、あるいは個々のある分野、原子力なら原子力の分野に限ったことではなく、日本の社会における科学技術に関する意思決定の仕組みというのは、そういった社会観に基づいて設計、運用されているというのが標準的な状態なので、そこから起こったことで個別の人物をたたいても、余り意味はないのかなというふうなことを思っている。
 これは、専門家の方にとっては実は大変困ったことで、ある意味、先ほどの原子力の先生方が事故の後でなさろうとしたことのように、原理的に完遂することが恐らくできないようなものを、これが君たちの役割だというふうにミッションを与えられて、できないと非常に非難され、批判されるという状況に追い込まれている可能性がある。私は、それはそれで非常に公正ではないという感覚を持ったりもする。
 ここで、科学技術社会論の分野は、参加型の意思決定ということを言い出すわけである。専門家に一方的な委任をするのをやめて、より広範な参加、これは必ずしも市民というものに限らず、ほかの分野の専門家であるとか、政治家であるとか、いろいろなアクターを参加して、意思決定するやり方を構想できないかと。そのために、どういう実践的な方法があり得るかということを一生懸命研究したり、実践したりしてきたわけである。これには一定の妥当性と正統性は見いだされるだろうとは思う。
 トランス・サイエンスの考え方をとることは、これと非常に親和的だ。科学に関する意思決定であっても、そもそも原理的に価値判断と不可分であるような事柄、あるいはそれを決めなければならない場面が生じて拡大しているのであるならば、こういう意思決定はまさに政治そのものなのであり、政治の原則は民主的な手続にのっとってなされるべきだと考えられる。
 それをやる場合に、どういうことに気をつけなければならないかというのは、前回平川委員が、大変包括的にまとめてくださっている。ただ、「価値共創」という言葉が示すとおり、こういう社会的、新しいやり方においては、専門家への委任の度合いを下げて、市民の参画を拡大し、とりわけ、いろいろな原則、個々の具体的な判断をするときに参照されるような原則を決めるには非常に価値と深くかかわった意思決定をしなければならないので、広範な社会的参加を前提にするということが求められそうである。これが恐らく、本来的に、リスクコミュニケーションと呼ばれるものの、一つのあらわれ方なのかなと思う。
 ただ、これをやったときに期待される結果は、恐らく、安全・安心を回復することではなく、安全・納得という別な社会の状態を実現することになると申し上げたい。そして、この変化を受け入れるとするならば、専門家や統治者の方の責任を何か軽減して、逆に市民や当事者の方にそのかわりを、何か引き受けていただくということに帰結せざるを得ない。つまり、統治者から当事者への権限の委譲ということだが、権限が委譲されれば当然責任が伴うわけである。
 これは、一見すると民主化として歓迎されそうである。とりわけ、従来の政府とか専門家によるある種の統治のやり方に、批判的な方々にとっては、非常に歓迎されるものだろう。ただ、そのときに難しいトレードオフの場合に限って、積極的に権限委譲して、そうではないものは引き続き、統治者の方は裁量を留保するということにもなりかねない。
 これは、例えば裁判員制度で実際に起こっていることだ。裁判員裁判をするのは難しい事件に限る、重大で、凶悪で、判断がなかなか難しいものに限られている。その判断を誤った場合には、社会的に不正義みたいなものが起こってしまうような事件だから、という理由で、難しい判断であればこそ、市民の参加を得て、間違いのないように判決する、そういうことになるわけである。これと同じようなことが起こりかねない。価値にかかわる重大な決定こそ、社会的な参加が求められるとするならば、やはりこういうことになるわけである。
 このような変更をいずれにせよ行うと、結果が失敗であると後で社会から評価された場合、あるいは私たち自身が評価した場合の責任の所在は、従来よりも分散する。みんなで決めたのであって、これは誰か特定の機関や個人の責任ではないという種類のレトリックが横行する可能性も考えられる。このような言い逃れを後からすることは、直感的に、何かちょっとおかしいという感覚を持たざるを得ない。
 この先の議論はこれから政治哲学とか、倫理学の先生に検討していただければいいと思うが、ポイントは、この問題が平時であるとか、有事であるとか、あるいは問題の種類といったことにかかわりなく原理的な問題として存在し続けるということで、この責任のトレードオフみたいな問題について、我々があらかじめ何かこれでいいんだと、ここで線を引こうということを打ち立てて、共有し、それが政治的な正統性があると認めてからでないと、こういう権限の委譲はしてはいけないのではないかと思う。
 むしろ、具体的にどういうやり方があるということの方が研究と実践知の蓄積は進んでいて、科学技術社会論、あるいは様々な分野で研究・実践が行われているのだから、やるとなれば、そのことに、現実的なフィージビリティは十分にあると思う。けれども、むしろやる前に、こういう問題について、社会が一体合意しているのか、そういう方向でやっていいですよという合意が一体社会のどこにあるのかということが気になるところだ。
 非常に形而上(けいじじょう)学的に話してしまったが、具体的にどういうインプリケーションがあるのかというのを原子力の話をせよという御下命でもあるので、御紹介すると、二つある。
 一つは、SPEEDIの活用の在り方について。これはもう事故直後、非常な論争がある。ただ、このSPEEDIを活用することの、私の理解では最も根本的な矛盾は、このSPEEDIの完全に意味のある形で運転、運用するには、事故の最中には一番恐らくわからないであろう、その事故が一体どのぐらいの放射性物質を放出しているのか、するのかという情報、このインベントリ情報が入力されないと、どこがどのぐらい汚染されるのかがわからないということだ。どっちにいくのかはわかるけれども、その度合いがどのぐらいで、したがって、どこの範囲まで避難しなければならないのかというのは、放出量と放出のされ方に依存するので、少なくともインベントリがわからないとシミュレーションを、意味のある形で回せないのである。
 ただし、さんざん言われてこれは政府の事故報告書でもいろいろ指摘があるところだが、単位量を入力するだけでも、ある種の気象シミュレーションプラスアルファのものとして、どっちに行くよりはどっちに行った方が放射性物質のプルームに暴露されないで済むかということには大きな示唆を与えてくれるわけでもある。
 なので、このSPEEDIがどういう機能を果たすものであり、何に使うものなのかということの理解の違いが、今回のやり方でよかったのだというのと全くけしからんというのとの評価の分かれ目になるわけである。
 ここでまたポイントなのは、統治者のテクノクラティックに意思決定をある種代行するような立場をとるならば、やはりどこまで、誰に、どっちへ避難してもらわなければいけないか、情報量が多い方が助かるということだ。しかし、当事者の、現場にお住まいの皆さんが少なくとも自分が逃げようと思ったときに、どっちに行くよりはどっちに行った方がいいかという意思決定をするレベルであるならば、この気象シミュレーションプラスアルファの単位量を入力した形であっても大いに参考になるわけで、それは個人が五感、直感のレベルではちょっと入手し得ない種類の情報でもあるから、それが随時公開されれば極めて価値があるということになる。
 こう考えると、SPEEDIがトップダウン的な避難指示を行うに当たっては、実は緊急時にはなかなか本領発揮し得ないものであるのに対して、もし仮に非常に草の根的にそれぞれ避難行動をお決めになるということについては役に立つものだということがわかってくる。
 ただ、ここでいわゆる「てんでんこ」と呼ばれるようなものに象徴されるように、今回、やはり各自の判断で逃げるということが極めて大事で、有効であるということがあって、これは委員会の資料や親委員会の議事録等でも言及があった。しかし、原子力の事故の場合には、それが間違っていたときに、例えば津波に対する避難行動は、本当に津波が迫ってくれば津波が見えるし、どこが高いとか低いということは直感的に把握できるので、恐らく余り間違った行動には帰結しないと期待できるのだろうけれども、放射性物質の場合には自分の五感ではわからないので、ある瞬間の情報を得て避難行動を開始し、もし風向き、何らかその他の気象条件が変わって、様子が変わったとして、そのときにはインターネットにつながらないということであれば、これはなかなかうまいこといくとは限らないだろう。これを使いこなすにはそれなりの専門知が必要で、その情報がどういう性質の、どのぐらいの境界条件で有効なものかということを知らなければならないため、こっちの方向へシフトすればいいのだと簡単に言ってしまっていいのか、これは非常に悩ましいところである。これについては電中研(電力中央研究所)の菅原さんの最近の報告書を引用させていただいた。
 それから、次は私が最近研究などでかかわっている、高レベル放射性廃棄物の処分の問題である。これはまた全然違う種類の問題で、小林先生から、これもこの作業部会で議論すべきような題材の一つであると御指摘があったと聞いている。この問題は非常に時間軸が長いので、ほかの原子力関係の意思決定と比べても、不確実性が質的にも量的にも全く違ったものとなる。これにどう向き合うかというのは社会の価値観と深くかかわるものになる。
 例えば、なるべくこの社会が存続する限りは管理を継続して、その世代その世代が積極的に責任を果たしていくという立場をとろうとするのか、あるいは、それは非常に不確実性が大きいので、今の世代が自分たちで考えられ得るだけの手だてを講じて、社会から隔離するような形で処分してしまうのがいいのか。これは我々がどういう態度が責任ある態度だと認定するかにかかわっているので、この問題はいわゆる行政裁量的な発想では解決し切れない感がある。これが、日本だけではなくて、この分野で先進だと言われているほかの国であっても、一度そういうやり方でやろうとして失敗して、違うやり方にシフトしているということの理由かと思われる。
 日本では、今、非常にオンゴーイングで動いているターニングポイントにあるが、やっぱりこれが先ほどの権限委譲における正統性の確保の難しさを象徴的にあらわしているということを話しておきたい。もちろんこの問題を扱うことそのものが難しいということもあるけれども、この問題を、例えば今までの原子力利用をめぐるいろいろな問題と切り分けて考えられるかというと、これは非常に社会正義とか責任の問題とかかわらざるを得ないということとなる。
 この放射性廃棄物処分の問題は、今後の原子力利用の方向性にかかわらず、どういう原則で対処するのかということについて、少なくとも社会が何か答えを出さなければならない問題だと一般に言われている。例えば、今日、原子力発電所を全て廃止することを我々の政府が決定したとしても、もう使用済燃料がたくさんあるわけだから、これを廃棄物として処分しなくてはならない。そのためほかの発電所の安全などの論争に比べると、原子力に対してどのような立場を皆さんがとるかにかかわりなく、社会全体で対処することが必要だとも主張できる。
 しかし、実際にはこれをやろうとすると、リアリティとしては、今まで原子力の分野で、ある種、統治者側が決定を代行するというやり方を強くやってきた結果が、例えば福島の原発事故だったではないかということに思い当たる人もいるだろう。それらに対する責任を負うべき人がどういう形で責任を果たして、社会正義を回復するのかということが、まだ議論のさなかにあるということを考えると、これを経ないと、恐らくこの高レベル廃棄物の問題についても、権限委譲を含めたどういうやり方で対処するのかという社会的議論がなかなか成立しない。入り口のところで、おまえらが悪いんじゃないか、いや、そっちもとか、そういう話がなかなか終わらないことを懸念する。
 これはほかの問題であっても、統治者側に対する不信や不満が広範に、かつ強く存在したままでは、こういう議論はなかなかできない。むしろ統治者の方が背負い切れなくなってつらいので、皆さんで決めてくださいというふうに丸投げしようとしているとも思われかねない。それでは参加型の意思決定はなかなか実現しないのではないか。
 このリスクコミュニケーションというものが権限と責任の委譲を選択的、恣意的に行って、統治者側の責任の軽減と裁量の維持を両立させるような、何かそういうことにつながるものであると感じられた瞬間に、その推進方策というものは社会、あるいは国民に対する悪質な虚偽であると受け取られかねない危険を持っている。そうだとすると、安全・安心どころか、それに準ずるものとしての安全・納得も、あるいは統治者側である専門家や行政官、あるいは政治家に対する社会的な信頼の回復にもつながらない。ここをどういう形でこの問題に対する手当をした上で、具体的にどういうやり方でどういうコミュニケーションを推進するのかという議論に入る必要があるのではないかというのが私からの問題提起である。
【田中主査】  ありがとうございます。
 それでは、次に配布資料の説明を行いたい。科学技術振興機構の取組として、科学コミュニケーションセンター連携推進担当の小泉調査役に資料5-1について、その後、社会技術研究開発センターの古屋アソシエイトフェローに資料5-2について御説明いただきたい。
【小泉調査役】  24年度に実施した「リスクに関する科学コミュニケーションのネットワーク形成支援」プログラムについて、資料に基づき、ごく簡単に説明させていただく。
 まず本プログラムの趣旨は、まさに東日本大震災以降のリスクコミュニケーションの在り方と自然災害のリスクへの関心が高まった中で、リスクに関する知識の普及を進めることである。我々は今までに機関が実施する様々な科学技術コミュニケーション活動の支援を公募により行っているが、今回、24年度に科学技術コミュニケーション活動の担い手である全国の大学や科学館、いろいろな活動主体がネットワークを形成して、連携することによって、リスクに関するコミュニケーション活動の普及・展開、活動手法の開発・共有を図る取組を支援するプログラムを実施した。
 23年度の年度末から募集し、今回、9件の応募の中で、これから紹介する2件を採択した。支援開始が7月末からのため、実質9か月足らずの期間であるが、簡単に御報告させていただく。
 最初の方は、「市民参加型で暮らしの中からリスクを問い学ぶ場作りプロジェクト」で提案機関が北海道大学、連携機関に資料に記載のとおりの大学やNPO法人という形をとっている。こちらは、市民参加型の熟議場というツールを用いて、特に食と農を中心としたリスクに関するコミュニケーションの実践を行ったものである。
 実はこのプロジェクトについては、JSTの社会技術研究開発センターのプロジェクトで双方向的リスクコミュニケーションのモデル化研究ということを行い、この成果を基盤にして展開されたものである。実際に実施した内容としては、対話小フォーラムの実践ということで、BSE問題やオホーツク圏と消費地対話を、帯広や紋別など北海道各地で、フォーラムや円卓会議の形で実施したほか、同様に海の森作り対話ということも行われた。また、ここではネットワークの拡大を主眼に置いており、福島の桃をキーワードとした語り合い、特に福島ではコープ福島との連携で、福島と札幌を結ぶ対話といった活動で展開いただいたところである。
 次に二つ目の「放射線安全確保に資するコミュニケーション技術開発と専門家ネットワーク構築」、これはまさに題目どおり放射線安全にかかわることで、提案機関は京都大学、特に放射線生物研究センターが中心となっている。連携機関は大学、公益財団法人、NPO法人のほか、日本放射線影響学会が中心となり、まさに放射線の健康影響に関する科学技術コミュニケーションの実態を、一般の方や専門家の立場から調査・解析し、行っていたネットワークである。
 こちらについては、今、特に挙げた大学や放医研等の方々を中心に、この放射線影響解説セミナー、まさに放射線に関する講演と意見聴取ということで、被災地だった福島県、隣接する山形県、また更に放射線影響に非常に不安を感じている東京都など、講演のリクエストがあるところには足しげく運んで、資料には23回とあるが、実際は支援を開始する前の6月からを含めて、この1年間で40回ぐらい回っていたということで、非常に多数のセミナー、いわゆる参加者等の意見聴取を行っている。
 もう少し大きなワークショップとして、郡山で「低線量(率)被ばくの生体影響を考える」というワークショップや、11月のサイエンスアゴラの一セッションとして、「福島から学んだリスクコミュニケーション」というパネル討論会や、1月には若干側面を変えて、こういった被災によって家族崩壊が及んだところから、いかにどういうことができるか、いろいろな探索のための講演会も行っていったところである。
 このプロジェクトそのものは、ネットワーク形成が趣旨であり、本来はこの24年度の成果を踏まえて、25年度にも提案いただいて、支援という運びとしたかった。しかしながら、このプログラムそのものは24年度で終了のため、このプロジェクトとして取り組んだことを駆け足で御紹介させていただいた。
【田中主査】  それでは引き続き、古屋フェロー、どうぞ。
【古屋アソシエイトフェロー】  
 私どもは、昨年度から安全・安心領域を立ち上げている。領域の目標はこちらに掲げる三つ。私たちは身の回りにある様々なリスクと上手につき合っていかなければならない。領域のタイトルに「コミュニティがつなぐ」とあるが、私たちが社会技術としてつくり出すものが、モノではなくてコトだとか状態だとすれば、この中の大切な要素というのは、コミュニケーションにあると考えている。コミュニケーションをうまく図ることで、今までばらばらであった、またこれまで使われてこなかったいろいろなリソースをつなぎ合わせて、強くしなやかな社会を実現したいと考えている。
 RISTEXでは、本領域以外にも複数の研究開発領域やプログラムが走っているけれども、基本的にはこの図のような体制でマネジメント業務を行っている。本領域については、京都大学防災研の林春男教授を総括として、平成24年度はこちらのアドバイザーの皆様に御協力いただいた。本年度もほぼ同様のメンバーで行っている。RISTEXでは、公募による募集や選考をやって、報告書の上がりを待つということではなく、領域会議やサイトビジットを通じて、積極的にプロジェクトとかかわることで、対話と共同を実践しながら運営を進めている。
 公募の際には、こちらの四つの要素イメージを公募要領に記載している。リスクコミュニケーションについても、右上の方に書いてあるように、特出しで記載するとともに、募集説明会でも強調させていただいているところ。
 そのリスコミの具体例としては、こちらにある2点を記載している。初年度に当たる昨年度の公募では96件の応募があり、3年間実施していただくプロジェクト4件と、単年度、約半年間の企画調査を4件採択した。
 採択課題のスタディエリアは東日本大震災の被災地とか、今後の南海トラフ地震による影響が懸念されている中京圏及び豪雨災害等に見舞われている九州などを採択している。ボックスの色が募集のカテゴリーを示しており、その説明は次のスライドにあるけれども、それぞれが年間1,000万、3,000万、数百万という予算規模で実施いただいているところである。
 最後のところになるが、今年度の採択課題と要素イメージの関係を示している。例えばリスクコミュニケーションということで、そういった観点から補足すると、東日本大震災では、インターネットによって人々が情報発信源を獲得し、ソーシャルメディアの台頭に見られるように、インターネットは新しい情報源として重要な位置を示しつつある。
 その一方で、これまで信頼される情報源とされてきた防災関係機関からの情報発信能力が問われている。しかし、この発信能力というのは、今後の災害対応においても不可欠であり、防災関係機関には能力の向上が求められている。実際、災害対応の現状においては、発信すべき情報が入手できないとか、入手しても集約できないという切実な問題が存在している。本領域で採択した2の乾プロジェクトでは、東日本大震災の被災自治体においてやりとりされていた、若しくは現在もなおやりとりされ続けている様々な媒体での対応記録というものを、自然言語処理によって構造化するデータベースの支援システムの構築と、自治体間連携での訓練パッケージの開発など、こうした災害対応現場での関係機関同士の情報処理能力の向上を目指して研究を行っている。言いかえれば、リスクコミュニケーションツールの開発とその活用ということになるかと思うが、リスコミという観点からは、その基礎を確立する研究を実施していると我々は認識している。本年度も幾つかリスコミ関係の提案も含めて、魅力ある提案があることを期待しているところである。
【田中主査】  それでは、次に事務局から論点の議論の参考となるであろう資料の説明を頂き、更に全体で議論したいと思う。
【斎藤課長】  お手元の資料番号がついた中では資料6、A3横長の紙になる。これは既に今まで提示してきた主要論点に前回の作業部会で御指摘いただいた意見を張りつけたものになっており、大木委員と寿楽委員は今回初参加なので、また後ほど振り返っていただければと思うが、それに関連するトピックとして、今日の部会で御紹介いただいたリスク研究学会ほかのお話、それとこれから更にヒアリング等が必要と考えられるものについて、今後の対応という欄に整理している。
 中身の説明は省略するが、今日の議論を聞いていると、追加が必要かと思われた項目が一つある。それは専門家からの情報発信の在り方のそもそもの前提というか、関連する事項として、そもそもリスクコミュニケーションの主体は誰なのか。誰が運営をし、広く言えば、ファンディングを含めた責任をどうとるのか、それとリスクコミュニケーションによって何らかの結論なり方向性が出たとして、それといわゆる意思決定なり権限をどう結びつけるのか、いわば統治者目線と当事者視点のインターフェースを取るような、あるいは寿楽委員の言い方で言えば、権限委譲との関係を少し論点として意識して議論していく必要があるだろうと思う。
 特に極端な事例で言えば、統治者目線で意見を聞いた上で、意思決定はこちらでやるよという従来型の御意見を聞く会的なアプローチ、あるいは本当に形式的なパブリックコメントのアプローチに対して、より踏み込んだやり方としては、いわゆるコンセンサス会議とか円卓会議のような場を地域で設けて、行政なり政策に関する意思決定そのものをその会議に住民参加で委ねるやり方、これがいわば住民参加型の意思決定の一つの姿だと思うけれども、その中間形として、デリバティブポーリング(討議型の世論調査)を行って、それを意思決定にどう生かすかというアプローチがある。そのいわばスペクトラムがある中で、それぞれの主体のとり方であるとか権限委譲の姿も変わってくるかと思うのだけれども、そのあたりについての戦略なり留意点というものを議論、整理いただく必要があるのかなと考えた次第。
 それと、あとは前回の作業部会の後半の議論で、私から口頭で紹介したが、根拠資料なり図表をお出しせずに議論いただいたものがある。それを参考資料3以下につけていて、まず参考資料3と4については、いわゆる安全と安心、そもそも親委員会の名前が安全・安心科学技術委員会なので、それを少し図示的に描いたものということで、これはITS Japanからの御提供によるもの。
 単純に言うと、「安全/危険」という一軸と「安心/不安」という一軸、その2軸で構成される4象限について、参考資料3の2枚目、いわゆる安全でかつ安心な平常モードから、実は潜在的なリスクが迫っている、危険であるけれども安心している無防備モード、それから、実際にリスクが顕在化し、いわゆるクライシスの段階に入った危険でかつ不安であるという危機対応モード、更に当面の危機は去ったんだけれども不安な状態は残っている過緊張モードと言っている。
 この4モードをそれぞれ時間軸で非常に大ざっぱに整理すると反時計回りに回っていくのだが、そのときに非常に不安定な状態と言えるのは、危険であるのに安心し切っている状態、それともう一つは、安全が回復されたにもかかわらず不安な状態、この二つの不安定な状況をなるべく抑えていく、これは一種の工学的な視点でありアプローチになるけれども、それぞれの不安定状態をなるべく小さくするための方策、あるいはコミュニケーションの在り方が議論されている。いわゆる安心と不安という単純な軸でそれを抑えていくという視点よりは、やはり相互不信と納得という、もう一つ別の軸を意識した形で、コミュニケーションの主体との一種の信頼性なり、そういった軸を設定する必要があるかもしれないと考えていて、これは考え方の枠組みということかと思う。
 関連する安全・不安、安全・安心という軸については、参考資料4、情報通信白書でも引用されているので、やはりかなり一般化されつつある考え方ではないかと思う。この善しあしは別として、これをやはり頭に置いておく必要があるか、あるいはこれに代わる軸があるかという御議論もいただければ幸いである。
 それからもう一つ、参考資料5と机上資料として、著作権の関係で許諾が確認し切れなかったので、英文の論文を配付している。これはいずれも東工大に所属されていた川本先生の論文である。前回、これも口頭で御紹介した、いわゆる科学リテラシーと生活重視というか、社会リテラシーと言ってもいいかと思う。これもやはり2軸でとった場合に、一般の方々を四つのクラスターに分けられるのではないかという議論があって、参考資料5の52ページで、全体、大きくクラスターの1から4までにそれぞれ統計的に分類している。それぞれについてのコミュニケーション戦略、特に生活を重視しつつ科学的なリテラシーのやや低い層、クラスター1というところの戦略を考えていくことが重要ではないかという、その辺の議論があって、更にそれぞれの性別のプロファイル、あるいは年齢層別の分布を詳しく分析したものが、机上資料でお配りしている英文の文献の4ページに、クラスターの番号が付け替わっているが、詳しく出ている。例えば社会的な受容性とか、あるいは生活重視型であり、かつ科学的なリテラシーの高いクラスター1についてはやや男性が多いとか、いわゆる生活重視でありつつ科学リテラシーについては少なめのクラスター3については女性が7割ぐらいだといったような統計データが出ている。これもいろいろな見方、議論があろうかと思うけれども、もし可能であれば、次回の作業部会などの場で、川本先生か、あるいはその指導教員である西條先生からお話を伺うことも検討したいと思っている。
 以上、論点の表を参照いただきながら、論点2を中心に御議論いただければと思っている。
【田中主査】  これまでの説明を参考にしながら、作業部会は主要論点1から3の柱を順番に議論したい。具体的な専門家からの情報発信の在り方ということに関して、この論点に関して御意見何かあるか。
【三上委員】  御報告への質問でもよいか。
【田中主査】  はい。
【三上委員】  リスクという様式に入るんだということをきちんとみんなで認識して、原則を打ち立てて、共有して、正統性を担保してからリスクの様式に入っていこうというお話かと理解したのだが、実際には社会はそうきれいにいかないようになっていて、そのための備えが必要だと思った。というのは、高レベル放射性廃棄物の問題の問題は結局日本だけじゃなくて、ほかの国もそういう安全・安心を安全神話的なもので1回やろうとして、やっぱりずっこけて、もう一回仕切り直すことをしていて、結局そういう失敗というか、そういうものを何かはらまざるを得ない部分があって、すっきりいかないのかと思う。
 そのことの備えがそもそも必要かと思う。この高レベルのことでも、ほかの事例でも結構だが、その辺を寿楽さんはどうお考えかお聞きしたい。
【寿楽委員】  確かに今からそもそも論を議論しましょうといって、どこかに議論の場ができて、まずそれに合意してから、という理想的な段取りではなかなかいかないと思うが、余りにもそういう成分が足りな過ぎるのではないか。こういう場では少なくともそういうことをアクナレッジする必要があると思った。
 例えば高レベル放射性廃棄物への対処について、今、うまくいっていると言われているのは、北欧の国でフィンランドとかスウェーデン。これは完全に私の直感であるが、向こうの人と話していても、書いたものを読んでも、もともと国の成り立ちとかそういうところからして、リスクという構えが、インプリントされている部分があると思う。対して日本の場合は、危険を管理するというのは、お上の役割に得るところが大きく、それを間違いなくやってくれるということそのものが、お上の正統性の非常に一つの有力な根拠になっているような感すら受ける。
 そこが全然違うので、北欧の国のトランジションはスムーズにいくわけだが、我々の場合には、具体的なテーマについて社会的に取り組んでいく中で、そういう議論を非常に意識的に行うという経験をかなり蓄積しないと、容易にはいけないだろうという観測を持っている。
 そういう状況の中で、まさに先生が言われるように、そんなに簡単にいかないと思うが、そのような状態の中でいわゆるリスクコミュニケーションの話を進めるのは、むしろ非常にミスマッチが生じると思われる。実際にある種権限委譲が形式的に行われてしまっているけれども、人々にとってはそういうことを了解したつもりはないということが起こりうるのではないか。例えば、先ほど御紹介があったものでも、自助・共助・公助のバランスを再設計するんだとか、そういうことが出てくる。
 こういうリスクというモードを承認するのだとすれば、あるいは既に実際に我々がそういう社会になってしまっているのだとすれば、こういう向き合い方をせざるを得ないという理解は恐らく当然だけれども、実際に例えばそれぞれのこういう災害に対するリスクが大きいとされる地域に住んでいる方々が、自分たちはそういうものを自ら引き受けて、責任をテイクして、そのかわり権限を地方政府なり中央政府から委譲してもらわなきゃならないのだというつもりでやっているものなのかどうか。これは非常に政治哲学的な整理の問題なので、プラクティカルにどういうことが起こるかという論点とはもしかしたら別なのかもしれないが、それはそれで考えないと、例えばこういう事業の名前でも、「いのちを守る沿岸域の再生と安全・安心の拠点としてのコミュニティの実装」と書いてあって、ある意味では非常にボトムアップ的にできてきて、それぞれの地域の方がリスクに対する向き合い方をコミュニティの力を通して形づくっていくようにも見えるが、他方で、研究課題の名前に「実装」と書いてあって、どこかがオーガナイズしていて、こういうふうにしなさいねというふうに、それをそこの地域にまさに実装するというまだらがそこら中に見えるのが私は非常に気になっている。
 やはり伝達するようなモードのコミュニケーションばかりが前に出ている。リスクコミュニケーションと聞いたときに、何をやったらいいと皆さんが思うかというと、情報提供になってしまうのだけれども、その情報提供は情報を受けた人にそれぞれ決定をしてもらうという趣旨のものではない。まだ何か、どこかにリスクに対する正統な理解とか向き合い方というものがあって、これに対しては心配しないのが正しいとか、逆にこれは非常にリスクが高いから逃げなきゃいけないのだということを誰かが教えてあげる、教えてもらうという、これが非常に不健全な気がしていて、そういうことに気づいたからには何か言っておかないと、それはまさに学者の倫理にかかわると思ったので言った。現実にこれを議論しようといっても、例えば国会で明日にも議論して合意するとか、そういうふうにいく種類のものだとは私も確かに思わない。考えていることはそういうことだ。
【三上委員】  具体的にそれをどうやったらいいのかという方法はなかなかまだ見えてないと思う。結局、今、話題にしている5ページの2番目のポイントの部分で、その直後に、具体的な手法は、STS分野をはじめとするところで研究・実践されてきたという、その代表的なものはコンセンサス会議といって、これはまさに北欧で始まったもの。
 だから、一番やってはいけないことを確認しておくと、そういうモードに入っているということを確認しないまま、何かそれに対処できる新しい方法が見つかったので、じゃあ、これをみんなでやってみましょうと、よくわけもわからないままやると。こうやって出てきた結果がいいかげんに扱われるみたいなものが多分一番やってはいけないことで、ただ、寿楽さんの話を聞いていて、基本的な認識は共通なのだけれども、恐らくそれ専用のやり方とか議論の場みたいなものはきっとなくて、1回目の作業部会のときに、リスクに関する抜き差しならない議論をやっていく中で、ある種のメタリスクコミュニケーションみたいなものができるのだということをお話ししたけれども、そういう日常の積み重ねの中に、ここで言われている原則の確立、共有、正統性の担保ということがあるのかなと思う。少なくともそういう次元をやはりいろいろなリスクコミュニケーションの実践の中に確保していくということは確認したいなと思った。
【寿楽委員】  おっしゃるとおりだけれども、ただ、そういう認識と知識のタイムラグみたいなものがあって、現代ではリスクの存在の認識やその向き合い方を従来の統治者側の人たちが恐らく先に気づいて、適切に言語化し、概念化し、それに見合った手法を動員してしまうため、普通に暮らしている人々が、同じく気づいていて、同じ手順を踏み、そして自分たちに意思決定をさせろと自発的に言えるというのは想像しづらい。
 本来統治者側である方の人たちが、自分たちがとり切れない部分の責任をうまく返して、とっておきたい裁量はとっておくような形で、それをリスクコミュニケーションというものを媒介にして、先にやってしまうのは非常に正義に反するという感覚が私には強くある。ここでリスクコミュニケーションを推進するというのが、そういうものであってはならないと思う。実際にそれをやると、本当に誰からも信用されなくなる、非常に社会が危険な状態、アノミー状態みたいなものがもっと進んでしまうのではないかという危機感がある。
【田中主査】  大枠の方で確認という点で非常に重要だと思う。一方で、もう少しプラクティカルなレベルに落としてきたときに、専門家からの情報発信の在り方といったときに、受け手の行動変容を指向するべきではないということはありつつも、でも、一方でファクトとしては一つ重要なキーポイントになるということで、そこの点に関して、今日御参加いただいた大木委員の方から、何か御意見があれば頂きたい。
【大木委員】  リスコミの定義が、ここにいらっしゃる一人一人で違うのではないかなと。かつて活断層について国の委員会で議論しているときに、学者一人一人の活断層の定義が違ったということがあったがそういうのを少し感じている。あと市民とは誰なのかとか、国民の何%なのかとか、そういったことから、今、私の中ではまだ漠としている。例えばリスコミも、教科書を読んでみると、説明ではないとか、啓蒙(けいもう)ではないとか、教育ではないという。逆に、今、リスコミと言われているものの多くは、いろいろなリスクがありますよということを正直に提示して終わりみたいな、あとはどうぞ自分で考えてくださいみたいな、私はその次のステージに行かなければいけないのではないかと思っている。私は自分がリスクコミュニケーションをやっているとは思わないが、例えば防災だったら、家具はとめた方がいいに決まっている。なぜなら家具をとめていないと、人は揺れている最中に家具をとめに行くが、そのまま倒れたら、10分たったら、7割の人が救出されても死ぬ。専門家として死ぬことがわかっているのに、家具が倒れるリスクがありますよ、あとはどうぞみたいな、何かそういうのがリスクコミュニケーション、そこまででいいのかと考えると、私は研究者としては、その人がもう自ら進んで行動したくなるような情報発信の在り方を考えたい。
 それに対して、リスコミの方々から、それは啓蒙的な欠如モデルだと言われることもある。だから、私はリスコミと言わずに防災教育と自分の中で呼んでいる。実際私がやっていることは何かというと、例えば子供たちにここで地震が起きたらどうするかというのを、自分たちが写っている写真、子供が遊んでいる風景を学校の先生に撮っておいてもらって、それを使う。そうすると子供は自分が写っている写真を見て、このシチュエーションで地震が起こるんだなということをまず思って、どういう行動を起こせばいいか、例えば掃除の時間だったら、机の上に椅子が乗っているので、いつも机の下に行きなさいと言われている机こそが一番危険な場所になることを子供が初めて考える。そういうのをいろいろなシーンでやって、世界で一つしかない、そのクラスのための教材でやる。
 その後に音楽室に連れていったときに、ここで地震があったらどうすると言ったときに、子供がみんなでさんざん考えて議論した結果、音楽室に安全な場所はないと言った。先生はそのときにものすごくどきっとして、つまり安全管理がなってないと怒られると先生は思ったと思う。でも、それは学校の先生が悪いのではなくて、文科省が悪いのではなくて、日本に安心・安全はない。それに対して、多くの人は、お上が白か黒か決めてくれという発想。それで、白のところに行って、何かが起きたら、おまえが白と言ったじゃないかと責任転嫁をする。
 だけど、この世に白か黒かはなくて、あらゆるものが白から黒のグラデーションであると。だから、子供は私がやった防災教育の中で、たった30分の授業の中で、それをちゃんと自分で認識して、最も白に近いグレーを選ぶということをやった。例えばこれだったら右手をけがする程度で済むかもしれない。足も元気で、頭も守られているから、そのままあとは走って逃げるとか、ここなら最悪火災からは免れられるとか、そういうことを子供は自分で考えるようになった。
 そういうことをやったら、卒業式のときに父兄に言われたのは、家で小学生のお兄ちゃんが一番きちんと行動できると。弟の手を引っ張って、あの日もこうしてくれたとか、大人がテレビから緊急地震速報が鳴ってどきまぎしたときに、六年生の子供から「お母さん、こうして」と言われたとか、そういう話を聞いて、まさに行動変容が起きたと思っている。
 それは、どういう場所が安全か、落ちてこない、倒れてこない、移動してこない場所が安全だよと私は伝えるけれども、そこから先は各自が判断しているわけで、自分でリスク管理をしている。だから、欠如モデルとは違うと思うのだが、この際そういう議論は何でもいいや、生き残ればいいやと私は割り切ってやっている。この議論に時間を使いたくないというふうに、今まで進めてきたところ。
 学校に伺ったら、これをやったことで、何と防犯の対策がよくなったと。子供が知らない人が学校に入ってきたときに先生に報告するようになって、その結果、学校は挨拶運動を始めた。知らない人も挨拶されたら、大概の人は犯罪を行わずに出ていったりする。
 あと、交通安全が非常によくなったと。つまり、あの角から何か出てくるかもしれないという、危機予測。校長先生からは、学校運営がしやすくなったと。それは、学校の避難訓練に地域が勝手に参加してくるようになったためで、学校の避難訓練を子供が主体的にやっているので、我が子の勇姿が見たくて、今まで高齢者しか参加しなかった訓練に保護者が参加してくるようになった。参加者数が数百人から1,000名に一気に増えたとか、地域がどんどんかかわってきて、そのうち地域が、それは地域でやるから学校はそんなことに時間を使わないでくれ、それはPTAでやりますというふうになってきた。そういう学校が、本当に具体的に、私がモデルでやった地域には1年やっただけで幾つかある。予算はどこからももらっていないので、ゼロ円でもこういうことはやる気さえあればできるわけである。
 あと、職員室で防災にかかわった先生たちが、一種の成功体験を得たと。校長先生がほかの話題を、例えば防災じゃないのを振っても先生たちが主体的にやるように、つまりサークル的に職員室内で先生たちがやるようになったというので、非常に学校は運営をしやすくなったとか、他校では不良の子が減ったとか、学力が県内ワースト3だったのがみるみる間に上がっていったとか、そういう報告も受けている。
 これがさっき途中で出てきたディベートの話にもかかわってきていて、学校で訓練のたびに一々校庭に集合しているばかみたいな時間はやめて、どうしてここの下に行ったのかや、どういう安全体制がいいのかを議論するのでディベートを学校でやるようになった。学校でやるのはすごくいいのだが、今学校には環境教育、防災教育、何とか教育というのが100以上ある。結局、理科のこれを防災としたといって実がない状態になってしまっていて、そういう中でいかに実のあるものにして、子供と先生に行動変容を起こさせるかというのを私は防災という観点でやってきた。これがリスコミなのかどうかというのを是非皆さんに伺いたい。
 別のヒアリングで、私は御一緒しなかったけれども、多分、片田先生も同じことをおっしゃっていて、最初はもう津波が来たら死ぬと自分は専門家としてわかっているのにそれを放っておけないというところから始められて、まさに市民レベルでも行動変容が起きていると。来るか来ないかわからないものに対するリスクについて語っていって、判断が自分たちでできるようになったという、そういう意味では広い意味でのリスクコミュニケーションかもしれないし、リスクだけ提示して、あとは皆さんどうぞ勝手に決めてくださいというものの次のステージに行かなきゃいけないのではないかと薄々思っているのだけれども、そのうちの、一般解じゃないにしても特殊解の一つ、防災はそういう意味では非常にわかりやすいので、特殊解の一つに位置づけられるのかなと自分の中では理解している。
【平川主査代理】  今のお尋ねにレスポンスさせていただきたい。
 僕の観点では、今の大木委員がおっしゃったことはまさにリスクコミュニケーションの大事な要素だと思う。つまり、リスクコミュニケーションというのは、単に情報開示して、あとは各自御判断くださいというようなものでは必ずしもない。もちろんそういう場面は当然含むけれども、まさに判断をするときに、各自がちゃんと有効な判断ができるところまで持っていかなくてはいけないと思う。そうじゃないと、本当にただの責任丸投げ、さっき寿楽さんがおっしゃったような責任の放棄みたいなことになってしまうので、そういう意味ではどうやって判断力を有効なものにするのかまで含めて、実際にInternational Risk Governance Councilの報告書なんかでも、行動変容というところまで含めてリスクコミュニケーションなんだと明確に言っている。
 リスクの様式で考える、行動するということは、リスクに向き合う主体になっていく、リスク主体化していくということで、そのための判断能力とか行動能力というのを高める必要がある。これはまさに平時におけるリスクコミュニケーションの重要な要素だと思うので、この中に盛り込んでいく必要はあるなと思う。
 あと、余談になるが、欠如モデル、この話からすると枝葉末節であるけれども、これは別に欠如モデル的だという形で問題視されるものでは全然ないと考える。欠如モデルというのが本来問題になるのはどういう場面かというと、元来、単に知識が足りないということが問題ではない場面なのに、それがあたかも知識を提供すればおさまる問題だと誤解して知識提供ばかりをする。それが欠如モデルだというふうに批判されるのであって、実際に知識なりスキルなりの提供が必要な場面では、それはまさにしなければいけない。それは別に欠如モデルだと批判されることではなくて、当然やるべきことと考えればいいので、別にこれは欠如モデルということで気になさる必要は全然ないと思う。
【田中主査】  リスクコミュニケーションと同じぐらい欠如モデルの概念もかなり乱用された感じがある。ものすごく勘違いして使っていることもよくあるので、そこは入れていいのかなと思う。
 既に二つ目のタスクである専門家と国民、市民との情報共有、価値共創の在り方という部分にも入っていると思うので、このまま話をしていいのかなと思う。私はこの中でメディア系の者として言うと、今日の議論で重要なのは、リスクコミュニケーションというもののコミュニケーションという部分の一番シンプルな定義は、「意味を共有するシステムやプロセス」というもの。これは例えば実証的な部分。多分そこの部分で、リスクコミュニケーションと言うけれども、リスクというものは何ぞやということ自体が後半の「意味を共有」、どういった範囲までをリスクと見なすのかということ自体をコミュニケーションするという概念に読みかえる、そういう読み方をするということだったら推進がおかしくはならないのかなと思う。今までの話を総合すると、リスクという伝えるべきものがあるものについて議論するコミュニケーションではなくて、一つのテクノロジーアセスメント的な意味を含んだものとして考えるのは、あるのかなと思う。
 今の教育というのは、ある意味では平時に行っていくこと。そして、実際の有事といったもの。もちろん防災だけではないけれども、そういった広い意味で平時から有事、準有事といったときの取組を考えるときに、参考資料1になるが、多分これを議論のベースにしていただくのがといいと思う。この1に関してはどんどん掘り下げが深くなっていっているので、2の部分について意見をいただければと思うが、いかがか。
 例えば、科学教育の実践性向上について、もちろんリスクということを念頭に置いてやった場合に、こういうのをやったらいいというのはあるが、もはや学校側にはそのキャパも実際にはない。キャパがない中でどうしたらいいのかといったことも含めて問題となると思うのだが、いかがか。
【大木委員】  まず、不確実なものを教える土壌は学校にない。答えが決まっていないものを教える土壌。例えば防災教育も生き残れば100点で、死んだり人に迷惑をかけたりしたら零点のどっちかしかないのだと。だから、生き残れと私なら言う。学校としてはこのときはどうすればいいかの答えがないのに進められません、というのが最初に始めたときの反応。その先生に行動変容が起きたら全然そんなことないのだけれども、そこをどうサポートするかというふうに考える。
 だから、科学に不確実性があるとか限界があるということをいったら教科書検定に通りにくくなると。だから、逆に言うと、3.11後の今の状況というのは誰もが歴然と認めなきゃいけない事態で、今変わらなかったら変わらないと思うが、突然こういうものになったというのを教えなければいけない先生をサポートするものというのがやはり必要だとすごく思う。
【斎藤課長】  先ほど学芸大附属高校の事例を御紹介したけれども、やはりあそこでも、正解のない問題をみんなに考えさせるというタスクがある。当然、生徒たちは正解ではないにしても模範解答というか、標準モデルをやっぱり知りたいと言うわけだが、それに対して先生方はいろいろ悩んだ結果、宮城県の実際の復興プランみたいなものを参考事例として出す。ただ、これは正解かどうかはわかりませんという言い方をしている。
 一つのポイントは、先ほど紹介したように理科の先生と公民の先生のコラボレーションというところで、恐らく理科(地学)の先生からすると、津波のいろいろな帰結(コンシークエンス)とか、あるいはそれに対する備えというのは、多分、本来、答えが一つに決まるべきものだという意識をお持ちだと思う。ところが、それに対して公民の先生は、それはガバナンスの在り方としていろいろあるよと。コストも違うし、自治体の特性なり住民構成によっても違うんだよ、という幅のある判断を公民の先生は主張する。その間のトレードオフというか、接点を見いだすという作業を、生徒はいろいろな立場に立って考える。これは、まさしく自然科学と人文社会のコラボレーションで初めて進められることなのかもしれないということを私は感想として持った。
 ただ、そうは言っても、片田先生御自身も、津波の防災教育を進める際に、まずハザードマップを信用せず自分の本能なり知識によって「てんでんこ」で行動しろと言うと、学校の先生はみんな最初大変戸惑って、ハザードマップが信用できないといったら、何を見て最初の導入を教え、あるいは問題提起をすればいいのかと言うので、まずはハザードマップから出発しようと。そこでカバーし切れない事象とか、あるいはその確率というようなものを頭に置いた上で、とにかく死なない防災教育を考えていこうというのが片田先生のアプローチだったわけだけれども、実際の世の中のリスクで、それ以外の感染症であるとか、いろいろな化学物質のリスクというのは、とてもそれでは多分価値判断できない複合的な問題なので、その辺はやはり難しいところだと思う。
【田中主査】  リスクの種類にもよる。特にワクチン問題のように、結局個人でのリスクだったら避けた方がいいと言いつつも、公共的なリスクとして考えた場合には、みんながリスクを負担することになって、それぞれのリスクの再分配が少なくなる、という問題をどうやるのかというところまであると思われる。
【山口委員】  それは平時からのリスクコミュニケーションというか、科学者とか大学とかアカデミアが地域にどう入っていくか、そういう仕組みとかやり方の問題なのではないかなと。
【寿楽委員】  結局、責任あるコンダクトというか、責任への指向性がリスクコミュニケーションの推進の背後にあるのか、あるいは権限を留保するとか、あるいは責任を回避するというような指向性が背後にあるのかというところがポイントで、そこが分かれ目だと思う。例として言われたように、情報はあげました。じゃあ、あとは皆さんで決めてください、と言うのには、それは逆に言えば、何かあったときもそれぞれの自己責任ですよという言い方が当然その先には見据えられているのであって、そういうことのペテンに非常に人間は敏感に反応して、それはリジェクトするというだけのことだ。リスクコミュニケーションを推進するというのであれば、権限や責任の分担をある種、線を引き直すものではあるけれども、それはそれぞれの立場において政府も専門家も市民も、それぞれここまでは責任を引き受けましょうという前向きなものならば恐らく話は進むだろうし、押しつけ合いみたいなものだとするとみんな拒否するわけなので、そこの違いだと思う。これが変わったからといっても、例えば防災に対する政府の最終的な責任が何か変わるものではないとか、そういうことが常にセットになってちゃんと提示されるかどうかということが、具体的な対策が実を結ぶかどうかには非常に大切だ。そして、それはふだんから責任ある、政府なら政府のコンダクトがあり、科学者には科学者のコンダクトがあり、社会科学者にも当然そうなのだけれども、そういうことの積み重ねがあってちゃんとした人たちだ、ちゃんとした組織だという信頼ができ上がっていくかどうかにかかわるのではないか。
【田中主査】  自己責任論というと、メディア分析なんかの立場から言えば、基本的に引き受けたがる。何らかの自己責任のことがあったときに、いわゆる市民の方というものは自己責任を自分の方に引っ張っていって、むしろお互いの相互監視を強めていく傾向があるので、自己責任に陥らないように気を配るのはむしろ為政者側、パワーを持った人の方だというのが実際の分析上のところ。
 卑近な例でいうと、成人病から生活習慣病に名前が変わったときに、すごく自己責任的な名前になるので、これはまずいのではないかと厚労省もメディアもとても気にしていたのだが、実際には既に御老人とかは自分たちで、むしろ世間、市民の方が進んで「生活習慣病になるのは自分の生活習慣が悪いからだ」という言説を創り出した側面がある。このように、時に為政者が自己責任だと言わずとも、市民が自己責任を言い出すという問題は、この仕組みの中で、推進という仕組みの中でちゃんと明文化して気を配るべき点なのだろうとは思う。
【平川主査代理】  それは日本社会特有なのか。
【田中主査】  いや、どこでも同じ。
【田中主査】  あと、先ほどの茶山さんのときも、気にしないというイベント。例えば、あれはある種の目的を持った人にとっては成功したコミュニケーションのパターンだと思う。でも、自発的な、気にしないというのは科学者、あるいは専門知を与えたい方からすると、この人たちはよくわかっていると見えてしまうけれども、多分、あそこで気になったのは6人中4人が若者で、若者特有の無敵感、リスクを低く見積もる傾向がすごく出てくるということは、国際的な調査でも同じパターンで出てくる。これは納得したのではなくて、もともと若者はそういうところに対して、アンケートをとると大体、俺は大丈夫だと思っているとか、もうわかった、リスクは大丈夫、見積もったという傾向がある。そういった点でも今の自己責任と絡めると、気をつけて推進すべきポイントなのかなと思う。
【大木委員】  寿楽さんのおっしゃったことはコミュニケーターの養成に関しては非常に重要な要素になっているのではないかなと。例えば、これはこれだけリスクがありますよというのをくまなく調べて上手に提示できるというのでは、これからのリスクコミュニケーションは多分駄目で、そういった人は多分、本当の事態になったときに突然黙ると思う。結局、責任を持てないので突然黙ると。だから、やっぱりコミュニケーターを養成することに力点を置くというよりは、国民がリスクコミュニケーターになれるようなものを考えないといけない。
【田中主査】  村山先生、これまでのリスクコミュニケーターの人で、実際の活躍の様子とか、そういったものというのはどうか。例えばリスク研究学会が輩出してきたコミュニケーターというものは、先ほど実際にはもとの古巣に戻ったパターンが多いという話だったけれども。
【村山理事】  リスクマネジャ制度の中で認定を受けられている方がどういう活動をしているか、現状では余り把握していない。ほとんどの方が恐らく企業関係で、社内で活用はされていると思われる。ただし、そこで、コミュニケーターとしてどの程度活躍されているかはよくわからない。
【田中主査】  企業的な意味での、日本的な意味でのクライシスコミュニケーション、企業危機管理みたいな方にむしろ回収されていったということか。
【平川主査代理】  大阪大学のプログラムの担当をやっていたのである程度知っているのだが、やはり村山さんがおっしゃったように、受講生のかなりの方たちが企業の中での環境リスク対応をするような部門の人たちや、大阪周辺の行政の関係者の方、行政でやはり環境対応に関わる部署の方たちがわりと多く受講されていて、具体的に何かコミュニケーターとして活躍をされているという形ではなくて、それぞれの業務の中で生かしているという形。
 ただ、活動実態としては余りはっきりとはつかんでいないけれども、受講生、修了生の方たちが、OB、OGの方たちが横串である団体をつくって、それがリスクマネジャ同士の情報交換とか、そういうことをやっている団体もつくられているので、それが実際にどういうふうに動いているのかというのは調べてみると面白いかもしれない。
【村山理事】  今おっしゃったネットワークというのが設立されていて、学会とのコラボレーションを進めましょうという話が出ている。
【田中主査】  そのネットワークは、多様なパターンがあって、実際に使われているリスクも様々だと思うのだけれども、どういった形で活用しているのか。例えばお互いに強い専門領域を融通し合う、そういう感じか。
【村山理事】  やはりマネジャに認定された方々は活躍の場を探しているところがあるので、むしろこういう情報を学会で提供してくれないかとか、あるいはこういうイベントを共催しながらお互いに学び合う場があってもいいのではないかとか、そういう話が出てきている。
【田中主査】  今まで人材、そして山口委員が指摘されたように、実際にある種のスキルをつけた上で現場に入っていって信頼を獲得する、そのローカルな文脈の中からの信頼というものによって初めてリスクコミュニケーションというものはきちんと成功できるようになる。先ほどの茶山さんの紹介にあったICRPのダイアログセミナーもそういう形だと思われる。一方で、メディアといった、要するにより多くの人々に対した場合はどうか。直接のパーソナルな関係におけるコミュニケーションというものはラポールを成立させやすいので、当然そこでのリスクコミュニケーションの成功率は高まるだろうが、当然成功させられる人数も少ないわけで、より多くの対象に向けたメディアというものはやはり無視できないと思う。その中でメディアにおけるリスクコミュニケーションの平時といった点。もう一つは、恐らくは茶山さんも指摘されていた事前にストックしている知識という点でのポイントもメディアの中に蓄えられるという点があるが、その点ではいかがか。より平時からメディアと交流すべしという指摘、そして、前回の中でも感染研(国立感染症研究所)の成功例などが指摘されているけれども、個人的に、あるいは組織的に交流する仕組みというものをどうつくっていくのか、幇助(ほうじょ)していくのかという点では何かあるか。
【大木委員】  地震研(東京大学地震研究所)もずっと月に一度、何年も続けてやってきていて、科学部に配属した記者は、最初に地震の担当になることがすごく多い。何でかというと、1年ぐらいで交代してまた新しい人が来るのだけれども、大災害時に科学部にいる全ての記者が地震の記事を書けるというスタイルをとる傾向があるからだとわかってきた。つまり、最初に科学部に来たときに全部伝えられるので、こちらとしても有利なのだと捉えてずっとやっていて、こちら側にとっての最大のメリットは、本当に非常事態、緊急事態のときに誰と会話しているかわかるという安心感。だから、確認に時間がかかることや予想を言っても、それを特ダネみたいに使われることがない、そういう、やはり人と人との信頼を築けたというのがすごいメリットだった。もう何年も続けて、私が広報室ではなくなってから結局やめたようではあるけれども、やめてしまって困ったというのも報道の方からも伺っているし、やっている間は非常によかった。
 1年とか2年で交代してしまうので、何とか地震5周年とかは彼らはフォローしてない。そのとき違う地方部とかにいたのでなどといって。だから、そういうのをひたすら、どんどん何周年、5周年になる2週間前とかに開くと。そうすると、2週間取材の機会があって記事にできるとか、そういうふうな形でうまく来ていただけるような仕組みをつくって提供することをやっていて、フェース・ツー・フェースの関係になれたというのが一番、グレーを安心して伝えられるというのがすごくあった。
【斎藤課長】 確かに定期的なブリーフィングなどを通じて記者との信頼関係なり、記者の方の感度を高めるのは大事である一方で、特に大手新聞とか主要メディアは、かつての科学部という単体の存在が難しくなってきていて、今やほとんどの社は科学医療部とか科学環境部という存在になっている状況。そうすると、やはり記者の方も何がしかの専門性とか得意分野を持って、例えば医療関係の専門家、下手すると、防災に関して言うと社会部とか、そういうところが動いていて、そこは本当に今おっしゃったように1年交代の世界になってしまうので、全体のリテラシーなり付き合いのレベルを上げていくというのはなかなか容易ではないなという気がする。そこを、最初、メディアセンターはメディア横断的にやられているわけだけれども、何かそこの工夫なり新しいアプローチがないかとか、JSTが何らかの役割を果たすとか、日本科学未来館みたいなところをうまく使って、そういうアプローチがないかという気がするのだけれども。
【田中主査】 インフォーマル教育の方は市民公開講座というような漠とした対象よりも、メディアの人たち、市民の代表としてのメディアというものを意識した方が効果的であって、その方が一番効率はいいのだろうということは想像がつく。
【平川主査代理】  リスクの問題で深刻になるのは、グレー情報、あるいは不確実情報の扱い。さっき大木さんがおっしゃったことは、グレー情報とのつき合い方を記者との間で確立していくプロセスだったと思うが、それがリテラシーの中でも一番大事なところだと思う。個別の地震についての知識だったり、ウイルスについての知識だったりという以上に、不確実な情報、それがどんどん時々刻々変わっていったり、訂正されたりするということをどう受け止めるか。それは必ずしも何か最初に情報を隠していたとか、そういうことではないということが、信頼関係の中でだんだん見えてくるのはすごく大事だと思う。そして、そのあたりで結構重要なのは、新聞などの社会部とのつき合いなのかなと。基本的に社会部が記事にするときというのは、どういうニュースバリューがあるときなのか。しばしば聞くのは、社会部はとにかく疑いモードが強い。とにかく性悪説で考えているので、政府は何か隠す、専門家は何か情報を隠しているという形で、そういう観点から捉えた方がストーリーとして面白い記事になっていく。それは職業的なある種の習慣になっていて、よしあしの問題ではなく、社会部というのはそういう役割をするところでもあるが、ただ、それが余り行き過ぎてしまうと、この手のグレー情報の場合はかえって疑心暗鬼情報、疑心暗鬼のコンテクストで捉えられてしまって、どんどん不信があおられていく。それは国民に対してもそういう不信の行動が広がっていくというのがあるので、社会部との間で、社会部というのは基本的にはそういう性悪説でいくにしても、だけれども、そのもとである種の信頼関係をつくっていくという上では、やはり日常的に何らかの形で、特に社会部相手での、あとはそこに科学部の人が混ざってもらって、社会部、科学部と専門家との日常的なつき合い、そこに更に場合によってはポリシーメーカーも加わるというような、しかし慣れ合いにはならないような場というのがつくれるといいのかなと思う。
【田中主査】  もう一つはパブリックリレーションズ担当者。
【平川主査代理】  同意。
【田中主査】  大木さんみたいにスキルが高い、能力を持った人がたまたま出てくればいいけれども、たまたまそうではない人になってしまって、やはり齟齬(そご)が起こっていることが非常に多いし、そして、この後、各組織、研究所、大学、パブリックリレーションズというのがどんどん拡大中なので、そこで起こる齟齬(そご)があり得ると思う。
【平川主査代理】  確かに今、大学でもいろいろな学部単位、部局単位でも広報担当の人が増えてきているけれども、その人たちが必ずしもリスクの問題、つまり、不確実的な問題や、それが何らかの社会に対する悪影響を及ぼして、責任問題が問われてくるようなことについて慣れているわけではない。そういうのは大学の中だとしても、地震研なんかの場合には、地震ということで常にミッションの中にあるわけだけれども、ほかの工学とか理学の分野ではそうではない。しかし、それらの分野でも今後は、先端技術とかでいろいろなことが発生し得る問題なので、やはりパブリックリレーションズの担当の人というのは結構重要な役割だと思う。
【大木委員】  広報担当としてのスキルが高くても、大学の場合は組織が戦略なき広報をやっているというのが最大の問題で、戦略なき広報って響きはかっこいいけど、やっていることは最悪で。何かとりあえず起きましたみたいになってしまっているのが多分問題だと思うのだが。
 メディアのことについて、私、メディアの方とずっとかかわっていてすごく思ったのは、白か黒かで書かなきゃいけないというものすごい強迫観念を持っていること。だから、むしろ、例えば南海トラフの津波がどうなるかわかりませんというような、今度の発表があるときにいろいろ相談を受けるけれども、私はわからないと国が発表したのならわからない、いかにわからないかを言う記事を読みたいと言った。それを、こういう曖昧な発表をされてしまって、どういう記事にしたらいいのでしょうかという相談をされてしまっていて、それはまさにグレーを伝える、伝えないの話になっているわけで。
【田中主査】  それに関しては、ちょっと……。
【三上委員】  あと、メディアとのつき合いということで、どういうセクションの人とつき合うとか、どういう交流をするかということもあるけれども、あとは企業の中でというか、メディアの組織の中でのどういう段階にいる方かということもある。現場の記者の方がする判断と、もうちょっと……。
【大木委員】  結局、デスクが書きかえてしまうと。
【三上委員】  そう。編集長というか、編集レベルの方がする判断があると思うので、多分そこら辺を使い分けて交流していくというか、そういうことかなと。
【平川主査代理】  メディアというのは、基本的にすごくパターナリスティックで、情報は白黒はっきりさせて伝えないといけない、国民というのは白黒の情報を求めているという像を持っている。しかし視聴者の方では、むしろグレー情報はグレー情報のままで受け取りたい、主体的な判断をできるような情報を与えてほしいということもあるので、先ほどの言い方で言うと、国民がちゃんとリスクの主体になれるような形での情報の提供の仕方、そういうことを担う重要な役割がメディアにはあるということが、うまく報道の文化に中に根付いていけばよいと思う。
【寿楽委員】  伺っていて、やはりそういう機会を実際につくらないといけないなと感じた。担当の人をつくって、地震というのは一定頻度で実際に起こるということが、大変残念なことではあるけれども、同時にそういったネットワークだとか、各人のスキルだとか、そういうものをつくり上げる場を与えてくれるわけでもある。しかし、例えば原子力災害というのは非常に頻度が低い。これに対して、原子力スキャンダルは相対的に極めて頻度が高かったわけだ。そうすると、それに対する経験値、あるいはその場合のそれぞれのアクターのネットワークというのは実はそれなりにできていたように私はいろいろな人から聞いている。ただ、取材する方もされる方も、起こっていること自体の正味のリスクはそこまでではないというある種の暗黙の共通了解があって、いかにソーシャルアンプリフィケーションを変な方に行かないようにするかという危機管理がお互いに、その相場観みたいになる。
 でも、今回起こったことは、そもそも起こったこと自体が非常にポテンシャルとしてハザードが高かったため、それに対する備えが全くない。そこで言われるのは、よくある何事もなく終わることが初めから決まっている訓練ばかりをしているようでは、とてもじゃないけれどもトレーニングにはならないということだ。せめて、本当に誰もシナリオを知らなくて、進展次第では相当まずいことがあるようなドリルに、当事者、政府とか専門家だけではなくてジャーナリストの人たちにもかかわってもらえるような、そういう場をつくるでもない限りは、幾らポジションをつくったり、そういうことは大事ですよと言ったりしても、実際にはなかなか培われなくて、いざ本当に有事が起こるとどうしたらいいのか誰もわからないということになるのではないか。
【田中主査】  スキャンダルに最適化していたというのは、非常に……。
【寿楽委員】  いいことではないと思うけれども。
【田中主査】  原子力関係の方も、メディア対応のためのチームはあったと言いながらも、実際に念頭に置いていたのはそういったスキャンダラスなものに対応すること。メディアの方も全く同じ鏡像関係のことをおっしゃっていた。どういう人たちがどういう力関係になるかは知っている。でも、それを目の前にある技術的な問題をどう解釈するかに何の役にも立っていないという、お互いにそういう……。
【平川主査代理】  メディアの方も、結局それは社会部対応。
【田中主査】  そうそう。
【寿楽委員】  出てこないとか、隠しているとかいうのがあったときも、それはそういう正しいコンダクトをしているかどうかという次元で考えてしまう。実際、そのときは逃げるかどうかとかいう、本当に命にかかわるような決定がそこに依存していたわけだから、追及するなら追及するとしてもっと本気でやらなければならなかった。しかし、そういうモードにみんなならなかった。なぜなら、それは経験が全くなかったからだという。
【大木委員】  これはリスコミが推進されたり、みんなができるようになったりしたら、どういう社会を目指しているというか、これを達成したことでどういうふうになりたいというのを共有した方がいいと思うのだが、どういうものを想定しているのか。
【田中主査】  親委員会は安全・安心なというところから始まっているが、今日の話で出たように、実際のところ、安心、あるいは納得の形というもの自体が社会構成的というか、そもそも大きな政府があったときにはある意味では安心を与えてくれる存在でよかったけれども、これからのガバナンス、政治形態の在り方とか社会構造の在り方と多分密接にかかわってくる。例えば10万人クラスの都市というもののこれからの衰退をどう食いとめるかといった話と多分関連してくる話なので、多分、ここだけでは出ないとは思う。
【三上委員】  多分、今の段階でゴールって見えないのではないかなというのが私の意見。ただ、今日、寿楽さんが出してくれたポイントでいうと、リスクという理解の仕方や対処の様式がこれだけ社会の全体に広まってくる中で、権限と責任のものすごいアンバランス、非対称性みたいなことはいろいろなところで起きてきて、それが今回の地震の後の対応でもいろいろな摩擦を引き起こしてきている。恐らくリスクコミュニケーションということを真っ当にやっていく中で目指すべきことは、少なくともそういった権限と責任のアンバランスみたいなものを少しずつ是正していくような方向で、いろいろなところに共通理解だとか価値の共創ということができる場を生み出していくことなのかなと思う。その先に多分、何か目指すものがあると思う。ただ、少なくともそこの権限と責任にものすごく決定的なアンバランスが起きて、それによっていろいろなことが立ち行かなくなることがないように物事を進めていけるようにする方法を探っていると私は思っているのだが。
【平川主査代理】  僕自身は、みんなが賢くなるというか、みんなが行動できるような世界というのは当然来ないと考えている。ある特定の事柄について、自分はよくわかっているとか、行動の仕方もわかっているということは、個々の人たちが特定のことについてはあり得ても、みんなが地震についても放射線についても感染症についてもわかっていますというような社会というのは来ないと思う。要は人間の処理能力というのは常に有限で、それぞれ自分の仕事もあるし、生活もあるし、趣味もあるので、どうしても機会費用に縛られている。かといって、国が全部カバーできるわけでもない。
 あと、もう一つ大事な前提としては、リスクというのは基本的に、大部分については気にしないが故に、特定のリスクというもの集中して対処できるという認識も大事。いいかえると、社会全体で様々なリスクに対処していくためには、それぞれは個別のリスク問題にしか対処していなかったとしても、そういう団体などが世の中にできるだけたくさん存在していることが重要。そういう意味で、様々な問題への対処をいきなり個人に投げてしまうのではなく、その手前で対処を引き受ける中間集団(企業・自治体・NPO等)をいかに増やせるか。それがガバナンスをやっていく上では大事なのかなと。
 日本はこの中間集団というのをどんどん潰すような方向で発展してきてしまっているので、これをどうやって変えていけるのかというのが、この委員会の範囲を超えた問題でもあるけれども、視野に入れておくといいのかなと思う。
【田中主査】  最後に。
【寿楽委員】  安全・安心がもとに戻ると思ってリスクコミュニケーションをやらないことが恐らく一番大事で、先ほど言われたように、そんなものはない、というぐらいの覚悟を持って、寝た子を起こす覚悟を持ってやらない限りは、本当のリスクコミュニケーションはできないと思う。やっていく上で、少なくともある途中の時期には、それによって社会、あるいは市民のリスク意識が高まることによって、それが不安の表明であったり、それについて規制であるとかガバナンスを司(つかさど)る人たちに対する批判とか不信に結びついたりする時期があるかもしれないが、それでも踏ん張ってやり抜けるかどうかだと思う。その後で、とりあえず平時においては皆そこまでは意識しないけれども、備えができているという状態がもし理想的にあるならば、やっとそこへ行けるのであって、例えば先ほど先生がおっしゃったワクチンの話も、副作用、副反応でこれだけ重篤な障害を負われた方がいて、ひどいじゃないかと言って裁判もやって、裁判所もそれはおかしいと言って、役所がそれで接種を強制的にやるのはやめてしまった。今我々がリスクコミュニケーションという言い方でやっていたようなことを当時できれば、やめるか、全部強制接種するか、そういう二択以外に、もっと違う選択があったかもしれない。そういうことを踏ん張るだけの胆力みたいなものが専門家や養成機関、いわゆる統治者の方にあるのかどうかということの覚悟を固めてからじゃないと、絵に描いたもちかなと思う。
【田中主査】  村山先生、どうぞ。
【村山理事】  私はある種のリスクには行動変容が必要だと思う。例えば、自分でコントロール可能で、自発的なリスクというのは恐らく行動変容ということが求められて、やはり専門家の役割が重要だと思われる。ただ、個人では対応できないことで、グループで議論したり、あるいはこの世代だけでは議論できないようなことになったりすると、合意のようなものがどうしても必要になってくる。その場合は、行動変容とは違うものが必要ではないかと思われる。その上で、合意まで行くかどうかわからないけれども、少なくともお互いの関係者間の信頼関係をいかにつくるかということが恐らくコミュニケーションの中では一つの目標になるのだと思う。その点を前提に合意というのはあると思うけれども、そうした信頼関係を形成するというのが議論の中にあっていいのではという気がする。
 あと、コミュニケーターの関係では、環境省が化学物質アドバイザーという仕組みをやっていて、少し近いかもしれない。ただ、非常に慎重なスタンスで、飽くまで科学的な情報のインタープリテーションを目指していて、ファシリテータとか、あるいはコーディネーターみたいなことはしないというのをかなり厳密に示している。このことがいよいかどうかわからないけれども、公的な認定なので、非常に厳密に進めている。
【田中主査】  ファシリテータこそが不足しているような気がしているのだけれども。
【斎藤課長】  では、事務局から少し。いろいろなリスクコミュニケーションの場面でICRPみたいな立派な組織が出てきてくれる保証はないわけで、それに代わるある意味での中立性があり、どこの地域でもそれなりに役割を果たせる主体として、やはり我々は大学というのを強く意識している。リスク研究学会もやはり数百人の会員なので、全ての点で必要な数のファシリテータをそろえるというのはなかなか難しい面もある。
 その場合に、我々は公的セクターである意味「性悪説」で見られている面はあって、我々に代わる主体として大学がやっていけるかどうか。そのときに、何らかのファンディングのメカニズム、あるいは責任なり権限の委譲というものがどこかで、契約関係であれ必要になってくる。そのあたりの仕組みづくりとか、それに必要なリソースとして、例えばJSTのような組織がどういう役割を果たせるか、あるいは、各大学のネットワーキングみたいなものをどう助けることができるか。そこにリスク研究学会のような学際的な組織がどう関われるか、あるいは、それを文科省として余り目立たない形で支援するやり方がないかどうか。それが、ひいてはリスクコミュニケーションを通じて、先ほど大木委員から御指摘があったような地域の交通安全とか防災とか、さらには学校運営の改善というような、より大きな意味での地域の問題解決につながるようなアプローチ、それによって大学が高い評価を受け、市民の参加意欲も更に高まるというポジティブサイクルができるかどうか、そのあたりがやはり親委員会としては相当関心のあるところだと思うので、その辺について、是非次回は具体的な御提案なり御提言をお伺いしたいと思っている。
 それに必要な材料として、例えばメディアの役割に関しては、今日もいろいろな御議論があったが、もし可能であれば、メディア関係者のインタビュー、あるいは実際に来てお話しいただける方が見つかれば、その方を是非見つけていきたい。

<議題2.その他>
【関専門職】  (スケジュールについて確認)
【田中主査】  それでは、本日はありがとうございました。 

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