資料4 リスクコミュニケーションの「推進」に先だって求められるもの 原子力利用をめぐるコミュニケーションからの示唆

2013年5月21日
寿楽浩太(東京電機大学)

1.「安全・安心」と「リスクコミュニケーション」

・「リスク」の考え方は「安全・安心」を求める志向性と完全に矛盾する。「安全・安心」の実現のために「リスクコミュニケーション」を「推進」することはおそらく意味をなさない。
・「リスクコミュニケーション」を通した「リスクの管理」を行い、それが「うまく行った」時に実現する状況は、「(確信のある)安全・安心」ではありえず、「(受け入れ可能なレベルの)安全・納得」とでも呼ぶべきものだろう。
・したがって、「安全・安心」を回復・実現するために「リスクコミュニケーション」を行うことは間違いである。より正確に言えば、「リスクコミュニ
ケーション」を「推進」することはすなわち「安全・安心」とは異なる目標を目指すと宣言することを意味し、それが「安全・納得」である。
・なぜなら、「リスク」という概念そのものが災厄に関わる様々なトレードオフについて能動的に意思決定することを求めるものであるところ(第1 回作業部会三上委員資料(資料2-2)参照)、「安全・安心」は「災厄から守られている状態」が各自による何らかの能動的な意思決定に依らずに実現している状況を求めるものと解されるからである。
・「リスク」の考え方を採用した際に追求すべきことは「災厄に対する納得のいく、後悔のない向き合い方」である。対して「安全・安心」が追い求めるのは「災厄そのもとが遠ざけられている状況とそれに対する確信」である。
・「リスク」と「安全・安心」の差異がもたらす決定的な違いの一つに「責任」の問題がある。具体的には、政府と市民、専門家と市民といった、「統治者(視点)」と「当事者(視点)」(第1 回作業部会参考資料2)の間での意思決定の権限と責任(両者は同じ事柄の裏表でもある)の分担が問題になる。
・なぜこのようなことが問題になるかといえば、端的に言えば「リスク社会化」が進展しているからであり、その背後には科学技術の「トランス・サイエンス」化が関係している。
・「リスク社会化」の内実、含意についてはすでに第1 回作業部会で三上委員から提起と説明があったし、委員各位には「釈迦に説法」であるので深く立ち入らないが、上記の問題意識に立っていくつかの論点を考えたい。

2.専門家の役割と責任をめぐる齟齬と矛盾

・例えば、原発事故後のクライシスコミュニケーションにおいて、後に「御用学者」と批判された専門家の多くが行ったことは、「安全・安心」の回復を目標としたコミュニケーションだったと解釈できる。

・例えば、「パニック」等の社会的混乱の発生を恐れ、これを判断基準として発言の有無や内容を調整するといった行動が見られた(参考資料参照)。
・しかし、この態度は「情報統制志向」(同)に帰結し、彼らは市民の判断のもとになるような情報や解説を適時・適切に提供することに失敗し、また、専門家が意図的に災厄を矮小化しようとしているとの強い疑念を社会に生
じさせ、専門家に対する信頼が失墜した。
・原理的に不確実性をはらみ、かつ、専門家自身も持ち合わせた情報が極めて限られていた中で、原子力専門家が「安全・安心」をゴールとするコミュニケーションを行って失敗したことは、突き放した言い方の解説をするならば、単に当然の帰結である。言い方を変えれば、そもそも保証できない「安全・安心」を回復・実現しようとして失敗したに過ぎない。
・しかし、彼ら自身のタスク認識、役割意識としては、専門家の役割と責任とは、彼らの専門知を生かして、非専門家のみでは判断がつきかねる事柄についての決定を誠実、真摯に代行することであり、その結果を為政者や市民に伝達することである。彼らは実際にこれを実行したわけである(同)。
・このような、専門家が専門知に基づいて意思決定を代行した上でそれを伝達するというコミュニケーションのモードは、おそらく、そもそも「リスクコミュニケーション」ではない。
・ところが、少なくとも日本においては、爾来、このモードこそが「リスクコミュニケーション」であり、その失敗があってもそれは手法上の問題によるものであって、その手法を改良・洗練させることで、「安全・安心」を回復する(そして、専門家に対する社会の信頼をも回復する)ことが目指されてきたように思われる。
・本作業部会、すなわち、「リスクコミュニケーションの推進方策に関する検討作業部会」が、「安全・安心科学技術及び社会連携委員会」の下に置かれていること自体がその証左である。
・この方向性が推し進められてきた背景には、専門家の側のタスク認識、役割意識がパターナリスティック(父権主義的)であることが挙げられようが、これを直ちに非難することはおそらく適当ではなく、生産的でもない。日本社会における科学技術に関する社会的意思決定の仕組みは、この分野・問題に限らず、パターナリスティックな社会観に基づいて設計され、運用されていて、個別具体に批判を加えても解決しないと思われるからである(広範なテクノクラシーの存在)。
・その意味では、科学技術の専門家は「原理的に完遂が不可能なタスク」を与えられ、しかも、それが失敗した場合の非難と批判を一身に集めているとも言え、これは公正ではないといえるかもしれない。

3.参加型社会的意思決定による解決の可能性とその際の重大な注意点

・こうした認識に立てば、科学技術とそれに関わる災厄に関する社会的意思決定について、専門家への一方的な委任を取りやめ、より広範な参加を伴う社会的意思決定の方法を構想し、その実現、実装、推進に必要なコミュニケーションの実践的な諸側面を検討することに一定の妥当性と正統性が見いだされてくる。
・また、「トランス・サイエンス」の考え方はこの方向性と認識を一にする。すなわち、科学に関する意思決定であっても、原理的に価値判断を伴わざるを得ない事項・場面が生じ、拡大しているとするならば、そうした意思決定はまさに「政治」であり、現代社会における政治の原則は民主的な手続きによるべきであるからである。
・この方向性を実践的に進めるに際して求められる様々な原則とその含意はすでに第1 回作業部会における平川委員資料(資料2-3)が包括的に議論の方向性を示している。
・「価値共創」の言葉が示すとおり、今後の科学技術とその災厄に関する社会的意思決定においては、専門家への委任の度合いを下げ、市民の参画を拡大し、特に、様々な個別具体的判断のもととなる原則(価値)に関する決定については、広範な社会的参加を前提にした意思決定プロセスが採用されることが求められよう。
・この過程でなされるコミュニケーションこそが、「リスクコミュニケーション」と呼ばれるべきものである。
・ただし、繰り返しになるが、この方向性を採ることは、「安全・安心」の実現・回復を目標とすることとは相容れない。「リスクコミュニケーション」とその結果としての社会的意思決定の先に構想されるものは、(最大限「うまく行った」としても)「安全・納得」である。
・そして、この際に気をつけなければならないのは、この変化は専門家や為政者(統治者)の側のある種の責任を軽減し、市民(当事者)の側の(それに対応する性質の)責任をより重いものにすることに帰結せざるを得ないと思われる点である。言い換えれば、統治者から当事者への権限の委譲が行われることになる。
・この権限委譲は一見、「民主化」として歓迎されるし、実際にそうした側面を持つが、他方で、調停が難しいトレードオフにおいては、より積極的に市民(当事者)の側への権限委譲が進み、そうでないものについては引き続き統治者側が裁量を留保する、という事態を引き起こしかねない(cf. 裁判員制度における対象事件の限定性)。
・また、この変更を行うと、決定の結果が「失敗」であった際の責任の所在は従来よりも分散し、「みんなで決めたはずであって、特定の機関や個人の責任ではない」というレトリックが横行する可能性もある。このような弁明は直感的に社会正義に反すると思われる。
・これらのことについての政治哲学的、倫理学的な検討は十分になされるべきであるし、具体的な場面を想定して市民がいっそうの不利益を蒙ったり、責任の所在が曖昧になることで社会正義が損なわれたりすることがないか、社会全体で慎重に吟味すべきである。
・この問題は平時・有事の分け隔てなく、原理的問題として存在し続ける。少なくとも、我々の社会がこのトレードオフを検討した上で何らかの原則を打ち立て、共有し、正統性を担保してからでない限り、安易に権限委譲を開始するべきではないと考える。
・なお、この問題をクリアした上であるならば、決定プロセスの正統性と決定の内容の妥当性の双方を高次に両立するための具体的な手法は、STS 分野をはじめとする様々な分野で研究・実践されているわけだから、権限委譲の実現そのものには一定以上のフィージビリティがあると考えられる。

4.原子力分野における二つの具体例とそこからの示唆

・最後に原子力分野における具体例を二つ挙げ、上記の議論の示唆を検討する。
・まず挙げたいのは、原子力災害発生時のクライシスコミュニケーションの具体例である、SPEEDI の活用の在り方についての論争である。
・SPEEDI をめぐる根本的な矛盾は、事故による放射性物質の放出量(インベントリ)という、事態の進行中にはもっとも把握が困難なデータの入手可能性が前提されていた点である。
・インベントリがわからなければ、SPEEDI を動かしても、避難すべき地理的な範囲が確定しないため、SPEEDI の計算結果に基づいて避難範囲についての意思決定を行うことは画餅であった。
・ただし、単位量の入力による計算結果であっても、SPEEDI は避難すべき地理的な方向には大きな示唆を与える。
・このことが、SPEEDI による計算結果の公表の有無についての是非論に深く関わっている。
・ここで問題なのは、統治者視点には前者の活用方法がより親和的であり、当事者視点においては後者の活用方法であっても意味がある、という対立である。統治者心理からすれば、避難指示の対象者についての情報をもたらさないのであれば、意義は半減以下となると思われる一方、自己判断で避難を開始しようとする当事者にとっては、避難の地理的方向こそが最も重要な情報であると思われるからである。
・この文脈では、SPEEDI は統治者がトップダウン的な避難指示を行うにあたってではなく、当事者が各自の避難行動に生かすという、草の根的な防災対策にあたって実は親和的であり、有効であることになる。
・しかし、原子力事故の場合、人間の五感によって危険を察知できず、危険の性質について理解した上で妥当性のある判断をするには相当の専門知を要するため、津波防災における「てんこでんこ」のような原則がどの程度まで妥当・正統なのかは注意を要する。(cf. 菅原2013)
・次に検討するのが、高レベル放射性廃棄物(HLW)処分の問題である。これについては、安全・安心科学技術及び社会連携委員会においても指摘があったと聞いている。
・この問題は主に時間軸の長さによって、(他の原子力関係の意思決定と比しても、)不確実性が圧倒的に高くなることと、それに対処する向き合い方が社会の価値観と深く関わることから、問題が根本的にテクノクラシー的なマネジメントによる解決を拒む感がある。
・この結果、各国とも一度そうしたマネジメントによるアプローチで処分を実現して失敗し、それぞれ様々な工夫を行うことで問題に対処している。
・日本の状況はまさに現在オンゴーイングで事態が動いているが、その詳細はここでは割愛する。
・ただし、この問題については、今回論じた「権限委譲」における正統性の確保の難しさを象徴的に示していると思われる点だけ、指摘しておきたい。
・すなわち、テクノクラシーによる「安全・安心」の実現、というコンセプトから、権限委譲を経て、リスクコミュニケーションを経た参加型社会的意思決定による「安全・納得」の追求というコンセプトに移行する際には、過去の経緯が経路依存的に価値負荷を大きく与えるという点である。
・HLW 処分問題は今後の原子力利用の方向性に関わらず、社会としての判断と「解決」が求められる問題ではある。その意味では、一見、正統性の確保は(他の原子力に関する課題よりも)容易でありそうに見える(妥当性の確保が難しいことは動かしがたいが)。
・しかし、その判断と「解決」に向けて上記の変革を行い、実際に取り組みを進めるにあたっては、これまでの(あるいは現在の)原子力分野におけるテクノクラティックな災厄の管理とその帰結(端的には福島原発事故)、そしてそれらに対する責任についての社会正義の回復といった手順を踏まないと、権限委譲への合意を含めた社会的議論が成立しない(入口論における非難のモードの論争から抜け出せない)。
・このことは多かれ少なかれ他の問題にも共通すると思われる。すなわち、統治者側に対する不信や不満が広範に、かつ強く存在したままでは、そもそも権限委譲そのものについての議論が開始できず、参加型社会的意思決定の実現もままならないということである。
・ましてや、「リスクコミュニケーション」を通した権限と責任の委譲を選択的・恣意的に行い、統治者側の責任の軽減と裁量の維持を両立させるような気配を市民が感じれば、本部会で議論しているような「推進方策」は悪質な欺瞞と受け取られ、「安全・安心」どころか、「安全・納得」も、統治者側への社会的信頼の回復も決して実現しないだろう。この点には重大な注意が必要である。
以上

<参考文献>

菅原慎悦「我が国における原子力防災制度改革の動向と課題―フランスの原子
力防災体制におけるステークホルダー関与の実態と我が国への教訓―」電力中
央研究所研究報告書Y12013、電力中央研究所、2013

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