研究評価部会(第8回) 議事要旨

1.日時

平成14年5月15日(水曜日) 15時~17時13日

2.場所

文部科学省 別館 第5、6会議室

3.議題

  1. 研究開発評価の在り方について
  2. その他

4.出席者

委員

 野依部会長、浅井委員、大内委員、大谷委員、大橋委員、奥田委員、小幡委員、北澤委員、渋谷委員、田中委員、長谷見委員、平澤委員、福山委員、行武委員

文部科学省

 山元科学技術・学術政策局長、尾山政策課長、伊藤計画官、佐伯評価推進室長、松川学術企画室長

5.議事要旨

(1)事務局より資料1-1、1-2、1-3に基づき説明を行った後、質疑が行われた。審議の結果、最終的なとりまとめについては、部会長に一任され、また、今後、研究計画・評価分科会での審議を経て、科学技術・学術審議会総会において、審議の上、文部科学大臣に建議されることとなった。主な質疑応答等は以下のとおり。

<資料1-1、1-2に関する質疑>

【委員】
 今回の修正は、非常によくなっているが、客観的な情報・データの活用に関する部分が問題だと思う。
 7ページの「2.3.4.3客観的な情報・データ等の活用」の中に、「評価実施主体は、評価者の見識に基づく判断を基本とするが、評価の客観性を確保する観点から、研究開発分野毎の特性等に配慮しつつ、可能な限り、論文被引用度、特許の活用状況等の客観的な情報・データ等を評価の参考資料として活用する」という一文がある。前段では「配慮しつつ」とあるが、その後ろで「可能な限り」となっているため、ここが強調されて理解される。結果的に、客観的な情報・データ等を使えと言っていることになる。大学の場合、未知のものをつくるということからいくと、可能な限りやれというのは非常に問題だと思う。
 現に私の大学で、全教授と助教授の論文被引用回数の調査を始めたが、分野による違い等、様々な問題が出てきた。文部科学省は大学を含んでおり、一般論の部分でこのようなことを直接的に言うのは難しいのではないか。
 「国の研究開発評価に関する大綱的指針」にも同様の記述があるが、そこでの「可能な限り、客観的な情報・データ等を活用」という趣旨は何かいい方法を考えるという意味だと思う。文部科学省の指針に、可能な限り、被論文引用度とか特許の活用状況を使えと書くのは、国の指針よりも言い過ぎの印象を与える。「可能な限り」を外すと、受ける印象が違ってくると思う。

【委員】
 私も、この部分は言い過ぎであり、大綱的指針の方が明瞭だと思う。文章を敷衍するときに、「可能な限り」の修飾語が前に漂い出てしまったのではないか。
 ここの趣旨は、その場において、できるだけ客観的な尺度を考えるということだと思う。その趣旨を酌んで解決すべきである。

【委員】
 今回の修文案で、今までの「評価」という表現から、新たに「分析」という言葉になっている部分がある。「評価」はオーバーオールのことを意味し、「分析」は各種の指標や項目に関わることを意味するのであれば、「評価」と「分析」という言葉を使い分けていいと思う。「評価」は抽象的であり、「分析」は具体的なニュアンスがあるいい言葉だと思う。

【委員】
 評価の対象によっては、データやヒアリングだけでは直ちに評価を下せないような複雑な場合がある。そのような複雑な対象に関しては、まずは分析し、その分析結果を参考にして、定性的な観点も含めて評価を行うことになる。分析とは、評価において前段の処理に当たる部分を切り分ける思想である。
 例えばITERを導入するかどうか判断しろと言われても、具体的な手続き上、様々な分析を行ってみないと評価できないわけであり、そのような場合に、分析という言葉が使われる。

【事務局】
 基本的にはそのような認識であり、特に波及効果や費用対効果等の部分で分析が必要になってくることが多い。その中で、今まで「評価者」としていたのを「分析の出来る人材」とし、また「分析結果の利用を含めた評価手法の開発」といった形で整理している。

【委員】
 先程の、客観的なデータ・情報に関する議論に関しては、私も表現が気になっていた。「客観性」は、表現がきつすぎる。具体的にできていることは何かを、共通に理解できる形で示すというだけの話であり、それ自体が普遍的な客観性を持つというわけではない。
 したがって、当該箇所を修正するのであれば、先程の「可能な限り」は省き、1行目の「評価の客観性」を「明示性を確保する観点から」とし、3行目の「客観的な」を「数量的な」とすると、中身がよく反映される。
 大綱的指針の議論でも、量的なデータに過度に頼らないで、質的なものということが随分議論されたと聞いている。文章をよく読むと、質を表す量ということで定量に置きかえている。そこをもう少し自然な表現に改めてもいいと思う。

【委員】
 評価者を育てるなどの記述は大事である。全般的に見ると、現在の指針案では、既に資金を得て行われている研究の正当化してもらうための評価というニュアンスが強い。学術に関して言えば、ボトムアップの自由な発想に基づく研究を重点的に行うべきだということであれば、それを事前に拾い上げる評価が必要である。
 評価の階層性と関係するが、学術等に関しては、5年先、10年先に伸びてくる、あるいは発展すると思われる研究を拾い上げることが大切である。研究者自身の主張だけでは弱く、経験的にも、研究者自身では先が読めないところがある。
 したがって、大所高所に立つ、あるいは分野の違う人がそれを拾い上げることができると、学術研究、萌芽的な基礎研究等がもっと活きてくる。しかし、日本ではこの部分が少し足りないと思う。
 ボトムアップで萌芽的な研究とは、研究者のためだけのものではなく、国家的に見てもプラスになるものであり、それを拾い上げるのが「評価」の役割である。しかし、それがなかなか行われていないのが現状である。ボトムアップの研究をどのように将来積極的に活かすかという視点は大事なことである。

【事務局】
 学術部分でその議論があり、18ページの、「4.1.1.4.1評価の視点」で「若手研究者による柔軟で多様な発想を活かし」ということを踏まえた上で、「単に成果を事後的に評価するのみならず、現に研究活動に取り組んでいる研究者の意欲や活力、発展可能性を適切に評価するという視点を持つべきである」と記述している。ボトムアップの特色としての視点を含んだ表現を入れている。
 また、学術に限らず研究開発全般ということであれば、総論の部分に今の趣旨を記述するという考えがある。例えば「評価の意義」の中の「研究者を励まし、優れた研究開発を伸ばし、育てること」という部分を、優れたものを拾い上げるだけではなく、今後伸びていくものを含めるような表現にすることも一つある。

【委員】
 評価者側に、評価させられていると若干受け身になっている部分がある。評価者の任務の一つとして、積極的にこれからのものを拾い上げることも入れると、評価に対して積極的になると思う。

【事務局】
 「1.2評価の意義」の中で、まず最初に「研究者を励まし、優れた研究開発を伸ばし、育てること」を記述している。「優れた研究開発を伸ばす」というのは、既存のものを更にということだが、例えば、優れた研究開発を「見出し」等を加えるなど工夫してみる。

【委員】
 パブリックコメントの中にもあったが、2.2.2で、「科学的・技術的観点からの評価」と「社会的・経済的観点からの評価」とあるが、この表現により、ネガティブな評価をされるのではないかという印象で受け取られている。
 科学的・技術的観点からの評価は、ある意味では従来の評価スケールに従った評価であり、それ以外の価値基準もあるということで、部会の議論を通じて、社会的・経済的観点と入れたと記憶している。この部分は、ポジィティブなイメージで入れていたが、そのニュアンスが伝わらなかったのであれば、修文すべきかと思う。

【委員】
 例えば6~7ページに「評価に当たり留意すべき事項」とあり、「2.3.4.1優れている点の積極的な評価」と書かれている。この部分にもう少し言葉を補い、「特に萌芽的な研究をうまく育てるような視点を持たなければいけない」等の記述を加えれば具体化される。

【委員】
 研究とは、問題をつくりその答えをつくるものであるが、一番難しい点は、どのように問題をつくるかということである。我が国の現状は、欧米等でつくられた問題を解決することで手一杯になっている面がある。
 萌芽的な研究の意義は、初めから明確なものではなく、本人も本当はわからないところが多いものである。目利きがいて、「君の研究は面白い」、「こういうことを行えばいいのでないか」という類いの評価を行うことが大事だと思う。この部分がきちんとできていないため、日本オリジナルの研究の芽を、アメリカ等に横取りされてしまうことが少なくないのではないか。
 企業では、どのようにしているのか紹介して頂きたい。

【委員】
 我々の場合は、企業活動の中に出口のある課題を探そうと考えて出発する。将来の事業の種につながるようなものであれば、それがサイエンティフィックな先端にある事柄でも、そこに結びつけながら問題設定するように言っている。当初は、そのアプローチが本当にソリューションとなり得るのかわからないような提案でも、提案者の意欲を買い、励ましながら行っている。
 研究開発評価者は、研究を行う場所のマネジメントを与っており、わからない小さな種を如何に大きなものに育てていくかというところに醍醐味があると考えている。
 そのように考えて指針を見てみると、「評価の意義」の1に、「積極的に見出し」という記述を入れ、プロダクティブな評価であることを表現できればいいと思う。

【委員】
 進行中の研究を伸ばすだけでなく、その前段階で見出すという表現が含まれるように記述を考えて頂きたい。
 研究が進まないのは、実はシニアな経験のある人間がそのようなものを見出すといった部分が欠けていることによるのではないかと思う。若手研究者は経験不足のために、自分の研究の一番いい部分が、わからないことが多々ある。研究の意味を見出してあげることは、中堅からシニアの責任であり、それを評価者の任務の一つにすれば、特に文科省の研究の場合にはそぐうと思う。

【委員】
 萌芽的な、基礎的で今後の研究を伸ばすのが基本であるということに賛成である。
 それに加えて、例えば、大学の基礎的な研究を産業界へ直接応用する仕組みの一つとしてTLOがある。これは現在盛んに行われているが、基礎研究をどのように社会貢献に結びつけるかは、研究者本人ではよくわからないところもある。その場合、周りの人、違う立場の人からアドバイスを頂けると助かることがある。評価者の視点として、このようなことも加えるといいのではないか。
 大学の人から草案に対してコメントを頂いているが、それを見ると、どちらかというとネガティブな立場からのコメントが多い。最近、大学評価・学位授与機構が、大学の様々な評価を行っているが、その評価に関わった人から、批判的な意見を耳にすることがある。このコメントを提出した人にも、似たような感じがあるのではないか。
 初めて、大学の機関評価みたいなことが行われている。一通り終わった段階で、その評価を検証してみるべきである。検証により、評価自体に対する良かった点や改善すべき点がわかり、その結果を次の評価に結びつけることができる。

【委員】
 それに関係する記述が7ページの2.3.4.6「基礎研究等の評価」にある。これを読むと、基礎研究とは、基礎的でない研究とはどういうものかと、基礎研究という言葉の定義が少しあいまいな感じがする。「研究の芽が出るようにする」、「出た芽を伸ばす」、「大きな木に育てる」という3段階のシステムがあるが、これは基礎研究に限らず、すべての研究に言えることである。そのような意味で、基礎研究という言葉を見直した方がいいのかなと思う。

【委員】
 あまり大きな問題ではないが、17ページに「大学等における学術研究は、他の研究開発と比べて異なる特性を有する」という記述があるが、大学の研究は他の研究開発と、同じではないかと思う。大学は教育機関としての機能があるから、他と違うということだと思う。教育機関としての性格を特に書きたいのであれば、「大学における学術研究は教育機関としての性格を有することを考慮して・・・」という記述にしたらどうかと思う。

【事務局】
 学術の問題は定義自体も難しく、うまく表現できないところがあるかと思う。教育というのも一つの側面ではあるが、それとは別に学術の独立性であるとか、特に大学は非常に幅広く行っているとか、様々な特性がある。それは教育という特性とまた別の尺度、特徴を持っているのではないかと認識している。

【委員】
 今までは国立大学ということで、別だということであろうが、今後法人化された場合は、研究といっても、何も大学だけではなくて、特に学術研究も含めてやることになるでしょうし、やっているところも既にあるわけです。つまり、学術研究は大学の専売特許であるというわけにはいかなくなると思う。したがって、書き方はやはり考えていただいた方がいいと思う。

【委員】
 学術研究自身は社会のいろいろなセクターで行われているのは事実である。特に大学等という冠詞がついた場合の学術研究は、基本的にボトムアップであり、スケールは個人ベースの興味に従うような、ディシプリンも非常に広いタイプの研究を主として意識している。
 他の研究開発と比べて異なるといった場合、他の研究開発とは、割合ターゲットがはっきりしてグループも大きいものである。非常にシステマティックな研究活動を意識して、こういう分け方をしていたのではないかと思う。

【委員】
 大学等における学術研究の中には、純粋に個人的であり、また自己完結的なものもある。そのウエートが小さくなっているが、その部分は尊重しなければいけないこともある。ただ、それをどのように表現したらいいのかはよくわからない。

【委員】
 私たちの大学でいうと、科研費で大きなお金を取ってきた場合や大型プロジェクトは学術研究でも、他の機関の研究と同じだと思う。
 今の大学の場合だと、配分される校費で行っている研究は自己完結的というか、他の研究所では行われていないようなものもある。資金面から言うと、校費で行われている研究は他の機関と違い、しかもほとんど大学院生に研究をやってもらっているような状況である。教官自体はなかなか研究できないところが大分違う。
 最初は文部科学省で配分されたお金の中で評価されるのはどうかと思ったが、よく読むと、却ってそういうことを配慮した記述があり、いいような気がしてきた。

【委員】
 今の発言に関連すると、指針に書かれていることは、中核的な大学の教育、研究に従事している方に理解していただけるものである。その他に非常に多くの文科省傘下の研究者がいるわけだが、そのような多くの教官の方たちの感覚とは、ずれがあるのではないか。

【委員】
 多くの研究者はこの指針を読むと、厳しいと言う印象を受けると思う。しかし、厳しい面もなければ、評価を導入する意味はない。それが本来評価が導入されてきた経緯でもある。一方、いい面は伸ばしていこうということも、よくわかる。実際に評価をうまく活用していくことが重要だと思う。
 また、評価に対してどの位のお金をかけるかが、評価の完全性との兼ね合いで政策的に決定されるべき問題であろう。
 目利きの人は本当にいたし、研究者を育て上げる。それが私の場合も人生を変えている。それに関して指針の中で気になるのは、評価者は「評価に加わるのが当然」という態度で記述されている。難しくはあるが、評価者に対するインセンティブの付与方式は検討が続けられるべきであろう。
 最後に、評価が活きるか活きないかは、評価結果がどのように活用されるかで決まる。機関評価の場合などはその結果がついて回り、評価の効果を持つが、プロジェクト評価の結果はその後に使われないと、何のための評価かわからなくなる。今後は、評価が活かせる方式を作っていくことが肝要と思う。

【委員】
 本日の議論の中には、即座に決着をつけるのは難しい問題が幾つかある。先ずは指針案に基づく評価を実施し、次に見直しを行うときにもう少し明確にするというぐらいの心構えでいいのではないか。
 一つは基礎研究である。私も基礎研究という語は、極力使わないようにしている。どうしても言う必要が出た場合は、例えば基礎科学の研究等という語を用いる。そうすると、もう少しイメージが明確になってくる思う。しかし、現時点では、研究のフェーズ論みたいなものをどう決着つけるかは、まだ難しいと思う。
 もう一つは学術研究である。学術研究と基礎的な研究との違いについては、文科省全体の中で複雑な議論があり、もう少し時間をかけて議論した方がいいと思う。現時点では、学術研究は自律性を十分活かして行う研究という程度に理解しておくことになると思う。

【委員】
 この問題は一番難しいと思う。基礎とか、基盤とか、学術とか、いろいろあり、それを言い出すと切りがないので、ここはまず走り出し、これに関しては、長く時間をかけて考えていかなければいけない問題だと思う。

<資料1-3 建議文に関する質疑>

【委員】
 この構成から前文と本論に分けると、「ここに建議します」以下が、本文だと思う。
 前文の記述は圧縮して、もう少し建議の内容をきちんと書いた方がいいと思う。前半を簡略化して、1ページ内に収めればいいと思う。
 別の観点として、これは文部科学省における研究及び開発であるが、教育とも密接に関係しているという観点を入れるのも一案かなと思う。教育に関する政策評価は、おそらく別のところであると思うが、そこにもサウンドするような感じで、将来の国家的な研究課題を担う人材を育てるのが教育なので、車の両輪で教育もきちんと行う必要があるという一文を、ここに併記しておくことがいいのではないか。

【委員】
 指針本文は、今あるものをどのように採点するかという印象が強いので、次の時代を担う文科省の活動を、エンカレッジしていくのだという視点を書いた方が良い。

【委員】
 下から4行目の「したがって、文部科学省における研究及び開発の評価に当たっては」の次の文章が、簡単すぎる。「各々の特性に応じた適切な評価をしなければならない」だけであるが、ここには、評価の意義が入るのではないか。

【委員】
 私ももう少し簡潔にまとめるべきだと思う。
 先程の議論に戻るが、評価指針の一番頭にマネジメント・サイクルとか、評価構造の階層化という言葉がある。その言葉をこの建議の中に入れられるのではないかと思う。イメージとして、評価システムの階層化は、研究者とか機関評価といったことを指していると思う。ある意味では評価尺度が決まっている○×評価の採点である。
 分析という言葉は結局○×評価ではなくて、ある条件によるそのときの判断であり、そのときの条件では×になるかもしれないが、一応悪いものとは置かないわけである。明日になったら、あるいは10年たったら、これはいい評価になるかもしれないし、それがやはり継承するべき研究成果だと思う。
 基礎研究とか学術研究の中ではそのようなことを拾い上げていくのが必要であり、そのような先見性を持つ人が必要だというのが先程来の意見だと思う。そこをうまく表現して、この建議の中に入れられるといいと思う。
 マネジメント・サイクルは、研究開発の企画立案、戦略、研究政策というサイクルの問題なので、これもマネジメント・サイクルという簡単な言葉が入るのではないかと思う。

【委員】
 前段部分を短くして、基本的な考え方の評価の意義、評価システムの構築のところをこうやりましたと書けば、ずっと明るくなるのではないかと思う。

【事務局】
 わかりました。
 整理させていただくと、まず全体を短くする。文科省の役割に触れ、積極的な部分の評価の意義を書き出す。優れた研究活動を見出す部分に触れ、その上で評価のための評価にならないようなマネジメント・サイクル的な考え方を入れて評価を活用していくこと、それから先見性というか、見出すところの中で、将来花が開くものを見つけていく評価が大切だということを強調する。
 次にマネジメント・サイクルの話をして、そこから評価の階層化の中で、評価を相互に適切に活用しながら、効率的な評価をしていくべきではないかということを入れた上で、教育の問題を入れる。
 先程提案された切り口としては、研究及び開発を進めていく上で人材が非常に大切で、それにつながるのが教育であるということであったと思うが、その教育にも配慮した評価が必要になってくるという言い方になるのかどうか、そこをもう少しサジェスチョンしていただきたい。

【委員】
 人材育成を具体的にするときには、シニアの人の評価が基本的にドライビングフォースになる。人材育成の基本にあるのが、広い意味での評価だという位置づけもできると思う。それは普通、大学で行われている日常的なことであるが、非常に大事なことの一つで、それが前面に出ればいいと思う。

【委員】
 文科省のというところが大事である。建議するものが、他省庁と同じではつまらないわけであり、そういう意味で、意義や、教育への配慮といった文科省の特性の部分を入れていただきたい。

【委員】
 新しく文章を練り上げようとするのではなく、本文を活用するといいと思う。

【委員】
 本題とは外れるが一つだけ質問がある。
 法的な整備の問題だが、評価者が間違いを犯し、訴訟が起きた際に、評価者は法的な訴追を受けるのかということである。それによって、評価の公開の問題などが生じるが、その辺りについてはどうなっているのか。
 さらに、損害賠償などが訴訟として出てくると思うが、その場合に、損害賠償は誰が払うのかといったことに関して、ある種のコンセンサスはもうあるのか。アメリカでは、評価者がやられてしまうと、評価はしたくないということになるので、評価者は免責になる。ただ、間違ったということで、名誉は失われることになる。

【委員】
 多分、独法化などをすると、大変厳しい闘いや争いがあり得ると思う。私もそれを心配している。

【委員】
 これはあくまで評価実施主体が責任を負うべきであり、評価者は依頼されて評価したわけだから、評価者は免責というのは私は当然だと思う。道義的には別として、その他については免責だと思う。

【委員】
 また、評価に書いてあったことが間違っていることもあり得るわけであり、それをそのまま公開するとどうなるのかという問題が出てくる。

【事務局】
 非常に難しい問題で、定型をもって申し上げることは難しい。
 まず、評価者などを免責するようなルールがあるかといえば、特別法などはないので、一般的な民事訴訟や行政訴訟の範囲に入ってくることになると思われる。その中で具体的にどこまで責任を負うのかについては、そのときに知り得るベストの知見で大過なく行った場合に、その人の責任が追求されることは基本的にまずないと思う。それが意図的に悪意を持って行われた場合が、問題になってくる事象ではないかと思う。ただ、あまり例もなく、今の段階で私から申し上げられることがなくて、非常に申しわけないと思う。

【委員】
 間違える局面は何通りもあるが、基本的には評価のマネジメントを行う側、つまり資源配分をする係が責任者になる。
 評価パネルが意図的に自分に有利になるような判断をしたとすれば、パネル側の責任は問われると思う。しかし、あくまでもパネリストとして、自分の専門性を生かして評価結果についてできるだけのことを述べただけでは、責任を問われない。
 全体の責任はマネジメントを行う側にあると、この文章の中でも書いてある。つまり、システム設計から始まって、評価者として雇われる側は、自分が専門的に担える、ある局面についての専門性を発揮した意見を述べるということである。その限りにおいて間違いがあれば問われるが、それ以外はないという理解でいいと思う。

【委員】
 ただ、今後評価がかなり普遍的に行われていくと、日本でも必ず訴訟の問題が出てくると思う。評価されて不満をもつものがグループであったり、機関であったりすると、日本人はそんなに変なことはしないが、だんだん個人が評価されるようになると、かなりエキセントリックにレスポンドする人もでてくる。しかも、対象となる相手がわかっている。その際に、今、平澤委員がそれによって訴訟を起こされることはないと言われたが、いろいろな形で必ず反論できる部分は絶対に出てくるわけで、そうなると、我々は書いていても非常に心配になる。いろいろなケースを想定したりすると、もう評価者は引き受けないと言いたくなる面もあると敢えて申し上げる。
 ある程度法的なことは考えておかないと、今後、問題が生じることがあるかと思う。

【委員】
 緊張関係の中では、できるだけ自分が持っている能力を活かして評価しようという側面もある。最初からどういう評価をしても免責だという話になると、評価者自身の緊張感がなくなる。

【委員】
 名誉が失われることになるので、緊張感はある。

【委員】
 被評価者の側から、ある種のフィードバックがかかってくるというシステムの中でお互いにやっている話だと理解していいと思う。それから先は、結局は常識的なところに落ちついていくと思う。したがって、一方的に考えなくてもいいのではないか。
 その種の訴訟の話はアメリカではよくあったが、最近はいろいろな予防措置がとられているため、随分減ってきているようである。

【委員】
 今、言われたことは、これによると5ページの「研究者間に新たな利害関係を生じさせないよう」というところが、それに当たっていると考えていいのか。この場合、後ろは、「評価者に評価内容の守秘の徹底を図る」ということで、訴訟云々の話はやはりここには書かれていないですね。

【委員】
 ここに書く必要はないが、考えておかないと、そういう問題が生じるかなと心配している。

【委員】
 独立行政法人の評価にしても同じだが、評価の責任がどこにあるかということが、システムの中で不明確に設計されていると、評価が堕落する恐れがある。
 どういう部分はどこに責任があるかがわかるシステムになるようにすべきとの思いで、指針を読んだが、その限りでは整理されていると思う。

【委員】
 恐らく一番問題になってくるのは、個人の部分だと思うが、結局は、評価といったときに、評価者と被評価者が、個人個人でやっても仕方がないわけである。そうではなくて、一種の被評価者側からの異議申し立て、公平審議みたいなシステムをつくらなければいけないということだと思う。

【委員】
 そういうことが起こらないことが一番望ましいわけで、文科省では研究意義に沿った評価をすべきであり、ポジィティブな評価を趣旨とすべきである。

【委員】
 「2.6.3評価の検証」であるが、これだけでいいかなと思っていた。要するに、システムとして完結していないのである。本来ならば、その種の意見を受け付ける部署が独立して設定されているとか、そういう体制をとるということが入っているべきだと思う。そうすることで、一方的に被評価者が不当な評価をされることはなく、また評価者も直接的な矢面に立たず、第三者機関によってもう一度見直される形でよくなっていく。
 評価者(通常、直属の上司)と被評価者(部下)の両方がサインをした結果でないとその上は受けつけないというのが、通常、アメリカの評価社会の中でやっている方式である。もし、被評価者の側が正当な理由でサインをしたくなければ、それを上に上告できる。そうすることにより、再審査の権利をもらえるというシステムがある。
 実際に評価を行ってみると、想像もしなかったようなところでいろいろな問題が出てくることがあると思う。そういうものを見直しの際に解決していくという位置づけにしておけばいいのではないか。

【指針策定に向けての今後の予定】
 5月17日(金曜日)学術分科会基本問題特別委員会。
 5月29日(水曜日)研究計画・評価分科会
 6月11日(火曜日)学術分科会
 6月14日(金曜日)科学技術・学術審議会総会にて建議
 6月中 建議を踏まえて文部科学大臣決定予定

【次回の予定】 主な議題:大型放射光施設SPring-8の中間評価について。
 日程は別途調整。

(了)

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科学技術・学術政策局計画官付評価推進室

(科学技術・学術政策局計画官付評価推進室)