研究活動の不正行為に関する特別委員会(第5回) 議事要旨

1.日時

平成18年6月13日(火曜日)16時~18時

2.場所

三菱ビル964、965会議室

3.出席者

委員

石井主査、中西主査代理、磯貝委員、金澤委員、末松委員、寺西委員、松本委員、水野委員、村井委員、吉田委員
野依会長

文部科学省

小田科学技術・学術政策局長、吉川科学技術・学術総括官、江﨑企画官

4.議事要旨

(1)研究活動の不正行為に関する特別委員会報告書(案)について

 主査及び事務局から資料2、資料3-1及び資料3-2について説明があり、その後、意見交換を行った。主な内容は次の通りである。(○:委員、△:事務局)

○ 論文執筆に不正があったという事実認定と、それぞれの著者がどう役割を担っていたかという事実認定のレベルでは若干事情が違うかもしれない。論文については、資料2に書かれているように、明快に説明できなければ不正であると認定することで、それは明らかになっていると思う。個々の著者がどういう役割を果たしてきたかについて、主たる責任者の論文の執筆責任は極めて明快だと思うが、それ以外の共著者がどこまで厳密に判断できるかという意味で、そこまできちんと言えるだろうか。つまり、最終的な措置は個々の研究者に対して行われるわけで、論文に対して行われるわけではないので、個々の著者に対する厳密な認定がありうるかどうかで、何らかの考え方を整理しておく必要があるかという意味で言った。どちらが良いかというのは、かなり明確になっているが、それでも共著者個々について、全てを明快に割り切ることが全てのケースででき得るか心配である。

○ その問題は、論文について不正行為があったかどうかについては灰色認定ではなく、きちんとした認定ができるという前提がとられた場合には、その次に出てくる問題であると思っている。つまり1つの研究チームの中で、それぞれの著者として名前が出ている人たちの責任がどの程度負うべきものなのか、それはもう1つ先の問題であり、これはきちんと規定することが不可能なくらい多様だと思うが、これはまた別の問題として後で議論したい。

○ 第1案と第2案は、第1案の方が良いと思う。第2案のような灰色の場合というのを設けても、全体がこんがらがってしまうと思う。それから、基本的には黒だと認定しなくては処分をしてはいけないのであって、なまじ黒だと認定できない時に、第2案だと不正と指摘されただけで事実上処分が生じる恐れがあるので、第1案とすべきである。ただ、その次に、15ページの認定の方法についてはかなり危惧を持っており、これはこの委員会全体で判断することだが、説明責任があるという言い方はできると思う。それから、完全に100パーセント黒と立証しなければ処分ができないということになると、それは不可能を強いるものであるので、不正行為があったという十分に合理的な疑いを調査委員会が持った時に、そのことによって、自由心証によって認定して良いと思う。ただ、事実上、証明責任という言い方になってしまうと、不正と指摘された時に自分から反証して、きれいに真っ白だと立証することができない時に今度は黒になってしまうが、本当に分からない時は白にせざるを得ない。ただ、100パーセントそれが黒だと立証しろという必要はなく、繰り返しになるが、不正行為という十分合理的な疑惑を抱くだけの根拠があれば、それで被告発者を呼んで、被告発者が説明責任を果たすように迫って、その説明責任を果たせないならば、黒と認定せざるを得ない。つまり何も言えないのなら、そこから十分心証で黒とすることは可能なのだが、そこでは不正行為があったという合理的な十分な心証を委員会が抱くということがまずあって、反証できなければ黒であるという書きぶりになっていると思う。具体的には、例えば資料3-1の16ページの一番上の2であるが、「不正と指摘されている論文等に科学的に説明できない部分があり、被告発者が当該部分の正しさについて科学的な証明ができない場合」は、生化学分野でたまたまそのとき利用した試剤によってきちんと実験をしたけれども、科学的に十分その段階では説明できない結果が出るというカイコの例のようにきちんと科学的に説明できないと、黒になりかねない。だから、全体の書きぶりとして、まず委員会側が十分な合理的疑いを抱くということが最初にあって、それに対して被告発者が説明責任を果たせないと、自由心証で黒と認定するという書きぶりの方が良い。被告発者側で証明責任ということになると、法的な訓練を受けていない方がこの調査委員会に入ることもあり得るので、ひとり歩きをしてしまって、立証できないのならば、黒にするということになりかねないという危惧を持つ。だから、第1案に賛成であるが、第1案の中身をもう少し証明責任という形で立証責任に転換するのではなく、100パーセントでなくても良い、十分合理的な考えだけで良いとすることによって、黒の認定ができるという書きぶりに改めて欲しい。

○ 自由心証が大原則だと思っているが、黒だという十分な心証を持ち得ないことから、灰色の認定が出てくることを心配して第2案が出てきている。第1案に立つということは心証は十分黒であり、それに反論することができない場合のことだけを言っているのか。問題にしている位相が少し違うのかと思う。第1案は当然に黒だという心証を持っている時の話である。特定の証拠があるとか、どれだけの数の証拠があるとか、そういう規定をあらかじめ作っておいて、判断する人間をその規定で縛るのが法定証拠主義であるが、自由心証主義というのはそれを持たない、それをやらないということである。例えば、証人が2人以上同じ証言をしなければ、有罪の判決にはできないなど、法定証拠主義を歴史的にとってきた法文化がある。そういうものでない自由な心証は状況証拠も含めて様々な証拠を総合的に判断して、判断権者が自分の心証に基づいて、これは黒だと言った時には黒になるという原則は当然だと思っている。問題は、そう断定できないケースであっても、被告発者がきちんと説明できない場合にどうするかということである。例えば、実験の試料は保存してないなど、通常、当然あるべきものがないにも関わらず、不正行為をしていないと主張したとした場合、それは黒だとならざるを得ないということを決めようとしている。十分指摘の点について説明ができたか分からないが、そういうつもりの記述である。

○ 自由心証主義と言われた通り、資料3-1の15ページの(3)の下に、「以下の場合は、それが故意によるものでないことを被告発者が証明しない限り、不正行為と認定される」ということになっているので、これはかなり踏み込んだ書き方であると思う。ここまで書くと、逆に証明できなかった時には黒になるということで、立証責任まで書いているように思う。

○ だから、それを書かない場合は、第2案になるのではないか。

○ 自分は必ずしも書かなくても良いと思う。ここは、立証できない時と書く前に、まず不正行為があって、合理的な疑惑があった場合というのを先に出して、立証という言葉は非常にきついので、説明責任を果たすことができなかった場合という書きぶりにしていき、こうして1、2、3と書いてはどうか。

○ 上の方で説明責任と書きながら、ここでは証明できない場合にという、少し違う表現になっているので、そこの食い違いはもちろん修正しなければならない。「合理的な科学的な根拠を持って説明できない時」というように書きかえたら良いのか。

○ 説明できないというか、もう少し柔らかく最初の段階で、合理的な疑惑を十分抱き得るという方が先に来ると思う。つまり委員会がこれは不正行為があったのではないか、不正行為があったと思われる十分合理的な疑惑を抱いた時にはそれで認定できるが、それに対して説明責任を十分に果たして、合理的な疑惑を被告発者の側で覆すことができなかった時に、それで認定して良いという書きぶりが良い。

○ 合理的な疑いを持って初めて黒になるということは当然だから、書かなかっただけの話であるが、書いた方が良いということであれば、そこは入れるべきである。

○ 今の話を伺っていて、心証ということが出てきたが、それを覆すことができないという表現の方が我々は何となく受け入れられる。証明や十分にそれを説明できなければならないという表現よりは、疑惑を覆すことができないとした方が良さそうに思う。

○ 先ほどの委員の意見のように、私も先ほどの委員会が合理的認定をしてというところ、実際にこういうプロセスを踏むということが読んだ人が分かるように、当たり前のことも是非書いて欲しい。

○ 要するに、合理的に考えて、疑いを強く持つということである。それがあって、それを覆せないと不正と認定されるという判断のプロセスをもう少し書くことが良いか。

○ 資料認定のところの2の16ページの一番先頭のところであるが、今委員から指摘があったが、正しさについての科学的な証明ができない場合は、前回議論になった再現性の問題と通ずるところがあると思うが、1と3の二つで、この委員会が不正行為と位置づける捏造、改ざん、盗用、いずれもカバーできているのではないかと思う。

○ この第1案と第2案の差は何となく分かるような気がするが、もう少し端的に言うと、要するに第1案は、はっきりと白黒が決着つけられる場合だけを想定して、それについて罰則規定を作ると言っていると理解してよいか。それは確かにすっきりしていると思うが、第2案を出した理由は、現実はそんなに単純ではなくて、150日ということではなく、例えば1,500日かかるということも科学の世界には、特に基礎研究の場合はあるかもしれない。そういうことがあって、多分、「灰色」という言葉が出てきていると思う。そうだとすると、両方とも多分正しくて、ただしすっきりしているということでは、第1案の方なので、第1案を仮に採用するとした場合、白黒はっきりとする場合だけガイドラインは罰則規定を作っているということを誰が見ても分かるように、総説部分等に置いておけば、趣旨がはっきりして良いのではないか。もしかすると、これを見た人がこれは網羅的なガイドラインであると受け取られると、少し科学の営みの性質とガイドラインがずれてくる可能性が多分にあるので、誰が見ても境界条件というか、それが適用される条件とはこういうことであるということがはっきり分かるようにしておいた方が良いというのが、先ほどから感じていることである。

○ 趣旨はよく分かるが、認定をする調査機関が公的な裁判所のように職業的、あるいはそういう仕事に就いていない人がやることが想定されていて、灰色といっても無限にグラデーションがあるので、横から見たら黒と言っても良いのではないかぐらいの場合でも非常に慎重に、あるいは気が弱くて、なかなかきちんとした結論を出さない。この場合合理的な根拠があってそうかもしれないし、単純に責任を十分に果たさないでそうなっているのか、これもまた分からないとするとどういうことになるか。配分機関というのは公的なお金の配分機関なので、私的な財団が自分のお金をどうするかという問題とは全く違う。国民の税金を使って資金を配分した機関がこのような時にどうすべきかという問題は考えておかなければならない。科学の世界だから、難しい場合がある。これは全くその通りだと思うが、ここで主として心配しているのは、そうではなくて、国民のお金をどう我々が管理するか。つまり配分機関が管理するかという責任の問題を考えている。だから、非常に分かりにくい表現になっているが、第2案では、調査機関がはっきり黒とは断定しない、灰色だと言っている場合に、それでは具体的にどの程度までこれについて配分機関としては措置をすべきだと思うのかということを、調査機関に向かって通知義務を課しているという形になっている。だから、科学的に非常に難しく色々あるからということよりも、国民のお金をどう管理するかという問題の難しさをどうやって制度の中にきちんと埋め込むか、それをどう解決したら良いのかが非常に難しい。心証の程度をきちんと言って、だからどの程度のことは行っても良いのではないかと、調査機関から配分機関に言ってもらわないと配分機関は分からない。つまり、普通の犯罪で、犯罪を犯したという疑いを持たれた人を罰するか罰しないかという問題とは逆に、国民のお金が不正行為をした人間の研究につぎ込まれたという疑いがある場合に証明できない場合にどうするかという問題がある。これを調査機関の協力や努力によって措置の程度を決めていかなければならないという考えである。

○ 不正行為があった時の我々が対応を論じているものに、配分についてできるだけ疑わしきもの、科学者としてのマナーがなっていないものには配分すべきではないという、別の次元の話が少し入っているような気がする。配分は文部科学省でするのではなく、文科省の委嘱を受けた科学者、同業者たちの集団が配分を決めている。そこに適切な情報が集積する、適切な情報が十分流れ込むというその判断において、こういう方であるという情報が十分そこの共同体に入っていくという、これから先の配分について決める時の議論と、ここで行うべき議論とは少し切り分けて考えるべきではないか。

○ 配分する時はピアレビューであるとか、いろいろ専門家の意見を前提に決めて出したが、その申請の前提に不正行為があったかもしれないが、それはここでの問題ではない。今はまさに灰色の場合を想定して第2案ができているが、そのときにそのお金を返してもらう、その人には当分お金を配分しないことにする、あるいは応募する資格も停止すべきかという問題の判断と、配分の時の判断と今の不正行為に対する対応措置の判断とは同じ審査委員でできるかといったらそれはできない。そのために研究機関が基本的に調査するという責任がある。研究機関がいろいろ入り組んでいる時には、特定のところがメインの調査機関になって調査するという、研究の現場に即した適切な方法で調査が行われるわけだが、そのような灰色だと言った時に配分機関はどうするのかという問題がある。しかし、配分した方の後ろには公的なお金だからということで、国民がいる。そういった時に何にもできなければ、配分機関としての公的な責任は負えるだろうか。そこでもう一度問題を投げ返して、調査機関が灰色だというのは分かるが、一体どういう理由で、どういう点まで黒っぽいと思っているのか。しかし、断定できない理由は何かということと、どれくらいの措置が適当なのか報告してもらう。刑罰の場合には科すか科さないかなので、灰色だから刑を半分にするわけにいかない。それは白か黒かで、黒だと、これだけの刑だということになるが、この配分の場合にはそれとは違うのではないか。したがって、調査機関に対して問題を投げかけて、心証の程度にしたがってって、どのような措置をとったら良いか配分機関に対して問題提起をしてくださいという書き方になっている。

○ それは翌年度以降ではなくて。

○ いろいろある。

○ 翌年度以降ということであれば、それは非常にスムーズにいく。

○ 例えば10月ぐらいでまだお金を使い切っていない時、残っているお金の支出を、例えば研究者が属しているところは今機関経理をやっているのが原則であるので、機関が支出を止めてしまうということをされても仕方がないくらい灰色の程度が黒いのなら、そこで止めることもできるのではないか。そうすれば、今度は配分機関の方もそれに対応して、翌年度は申請しても、それは受け取らないなど様々な対応が可能である。だから、具体的に一つ一つお金について、どういう措置をしたら良いかということについての示唆を、調査機関がきちんとメッセージを配分機関に出すようにとしている。配分機関は審査を行い、選考して採択しているが、それとこの問題は全然違う。配分機関にはその判断能力を求めるのは無理だろうという立場である。それで、調査機関にきちんとしてくださいと言っているが、非常に分かりにくい構図になっているし、すっきりしない。だから、第1案の方がすっきりしていると言うが、すっきりのさせ方がまだ不十分だという指摘があったので、また知恵を絞りたいと思っている。

○ 私は第2案の方が良いのではないかと思っていた。というのは、この委員会ではいわゆる文部科学省が関わる競争的資金についてのみ議論するのだが、実際には大きな交付金で行っている研究や様々なケースがあるわけで、各機関の調査機関はそれに対しての答えを出していかなければならない。そういうことを考えると、各機関の調査委員会はそのような判断を結局求められているので、これについてもその判断を調査機関の中で出して、それを配分機関に報告するというのは裁量があって良いと思っている。

○ それは裁量なのか。

○ 裁量ではないかもしれない。心証に応じて、一律ではないということである。

○ 非常に重い責任を負うことになるし、非常に無責任な結果になる危険性もある。それなりの責任感と能力とシステムを持った研究機関と、残念ながらそこまでいっていない、あるいはその組織の中がある意味では真っ二つに割れているところで行うことになると大変難しいわけで、調査機関にこういうことをお願いするということが常に適切なのかどうかという問題まで、考えなければならない。これをどうしても灰色だという場合には、形の上ではそうせざるを得ないが、それが本当に適切なのか。要するに第1案の考え方は、黒という認定に対して、それでも自分は白だ、潔白だと主張する方は基本的に裁判所に行ってくださいという前提である。裁判所はもちろん職業的には裁判官なので、科学のことは分からないが、鑑定人や証人等、様々な方法を駆使して、科学的な判断を自分たちの判断の前提として取り入れる仕組みを持っている。それから、様々な強制的な権限も持っている。証拠の差し押さえなどを行うことができる。それに対して大学等の研究機関が調査を行おうとする場合には限界があるので、最終的には潔白を主張する方は裁判所で争ってもらうこととなる。

○ 第1案の場合には、灰色の場合には資金配分機関は何らかの措置をとることが前提になっているのか。

○ 第1案は灰色というケースを排除している。要するに被告発者の側がきちんとした説明に成功しない場合、不正行為として扱うということである。

○ そこなのだが、こういうことには2種類のコストがある。1つは不正な研究に無駄にお金が使われたという直接的な無駄なお金というコスト、それは1つ重要なことである。もう1つは、社会的に有用な研究が萎縮してできない可能性があったり、インセンティブが、冒険的な研究を進められないというコストもある。確かに不正な行為を加えた研究に関するお金が無駄になるということは嫌だろうが、社会的に有用な研究までも萎縮されるような状況が起きてくるということをもっと納税者は嫌がると思う。社会的にはそちらの方がコストは断然大きい可能性がある。そうしたことを考えると、第1案のように自分が説明できなければ不正行為だとして処分を行っていく立場は、研究自体もすごく特定な研究費用は救えるかもしれないが、研究全体のあり方、研究者間のインセンティブ等全部含めたものに対しては、非常に大きなコストを支払うことになると思う。

○ 不正行為を伴う研究までも含めて、研究に対する支援や資金の供給が正当な支出と考え、その中で良いものさえ拾えば良いと考えるのか。事実上はそんなものは多少まじっても仕方がないとしても、制度の建て前としては、不正行為というのは科学の作法・常道を逸しているということから出発してきているので、それは科学の成果とは言わないで、科学を冒涜するものである。科学研究を迷わせて、それに釣られてつまらない問題の立て方をして、誰かが釣られてやるというコストもある。

○ 不正が不正を呼ぶというのは僕の意見としてはマイナーな問題で、社会的に有用な研究自体に対するインセンティブが下がることや、非常に冒険的な研究をするインセンティブが下がることの方がもっと深刻な問題で、カイコの例のような研究までも説明できないから不正だとなってしまうということである。

○ それは冒険したわけでもないし、不正行為を行ったわけでもない。それは何年か経って、私が理解した限りでは、特定の時間にできたマユだけに備わっていることが分かるということであった。

○ その研究が不正行為だと仮に公表された場合には、説明できないのではないか。

○ それは仕方がないが、出来ない。もしかすると、そういう形で潰れていった研究は無数にあるかもしれない。カイコの場合には、偶然かもしれないが、幸いにして何年か経って、事実が判明して、あれは正しかったし、こういうものができるということが分かったわけで、人間はそのような間違いを幾つも犯している。不正行為に対して、多少でも寛容度を広げてやることがコストを低めることになるのかよく分からない。

○ 合理的な十分な心証に任せて良いと思う。つまり第1案をとって、たとえカイコのケースでもそれまでの研究のやり方や情報などから、明らかに偽造くさいと委員会が思った時には黒だと認定するだろうし、反証はできないが、この方のこれまでの研究のやり方ではこういう結果はきちんと出たと思われる。その辺についての立証は何とも分からない時には、これは白になる。そして、分からない時には白にしなくてはいけない。そこで第2案を危惧するのは、調査委員会がよく分からない時には全部上に上げて良いということになると、告発があって足を引っ張るということがあった時に、分からないというのを全部上に上げてしまって、そこで研究資金が引きずられるということになると、非常に大きな弊害をもたらし、それが不正行為にお金を出すというマイナスよりはるかに大きなマイナスをもたらしてしまうという危惧がある。委員会はこれは不正行為だという合理的な疑いを持てば黒だと判断し、その上でその限界については訴訟で争うという枠組みで良い。

○ 今言われた点は全く賛成で、冒険的、挑戦的な研究と、不正行為のあるなしというのは基本的には次元の違う話ではないか。

○ 第1案と第2案のどちらかという意味では第1案をとらざるを得ない。それは第2案の1に書いてある調査機関がかなり灰色の場合に、むしろ第1案よりももっと詰めた細かい、お金の配分をどこまで提出するかという配分機関の性格まで踏み込んだ判断をしなければいけないと書いてあるのは、調査機関から見ればもっと難しく、それはできないと思う。一方で、黒のケースだけで、灰色のケースは配分機関は全く何もできないのかと言われると、それは配分機関の立場、あるいはここで審議している立場から言うと、それは困るわけで、そういうケースがこういうケースではない形で配分機関にある一定の情報がいった時に、配分機関の責任で何かのアクションができるような文章がどこかにつけ加えられないだろうか。原則的には第1案で良いとしても、第2案のように踏み込んで調査機関、あるいは研究機関に特定の責任を課すという文章は、少し無理があると思う。前回申し上げたが、配分機関が独自の判断で何かができる形の文章が入れられると、全くそれで問題はないと思う。現実的には灰色の結論はないのかというと、出てくるのではないかと思っている。そのときに何もできない制度というのは、本委員会の議論している立場から言うと、良くないと思う。その時に何ができるかということは、ここまで厳密にしなくて、少し工夫がいるのではないかと思う。

○ 十分に黒に近い灰色の場合は黒だということになる。

○ それで良いと思う。

○ 要するに、どうしても調査機関が断定しない場合にどうするかという話なので、被告発者がそれを覆すことができなければ、黒とされても仕方がないということである。それより少し低い場合には、白として扱うことになるのではないか。つまり、それは被告発者の反論や説明がある程度功を奏しているという前提での話である。本人の言うことは支離滅裂だが、どうしても黒とは断定しないということはあり得ない話だろうと思う。極端に言うと、そういうことになると思う。
 第1案と第2案については、第1案を基本に、議論のあった方向で文章を直すこととする。

○ 資料3-2の10ページの4行目の「文部科学省所管のもの等」の「等」は何を考えているのか。

△ この「等」はその下の2の競争的資金ではないもののことである。

○ 12ページの上から5行目、6行目あたりの、悪意の中身について、大変しっかりした定義をしたのでこれで結構だと思うが、ただ悪意に基づく告発が虚偽の事実を言い立てることであるかどうかというのは難しいことである。言い立てたら告発になるわけではないので、したがってこれは悪意というものをどこかで定義しておく方が良いと思う。「ここで言う悪意とは」と言って、これ、これ、これとしておいた方が間違いはないのではないか。これは告発までを含めた説明になっている。

○ 言い立てることまで、つまり告発という部分を説明するために、「言い立てること」という定義が適切かどうか問題だということにして良いか。

○ そういう言い方でも結構である。

○ 同じ点であるが、もっと抜本的な変革の提案である。ここで悪意が非常にあいまいだということを申し上げた趣旨は、全体、後の方にも関わってくるが、この調査委員会が不正行為について認定をするというだけで、いわば非常に一仕事であるにも関わらず、それが誣告(ぶこく)であるということを認定して、それなりの措置をするということは、この調査委員会にとって少し荷が重いのではないか。そして、悪意による誣告であるということはここでは使わないことにして、それは被告発者の側で訴訟で争っていただくなり何なりするということに委ねる。つまり、ここの対象外にしてはどうか。このページで懲戒処分や刑事告発があり得ることなど、機関内外に周知するというのが良いと思う。啓蒙としてそういうことをしてはいけないとなるが、実際に後の方で認定をしたり不服申立てをしたりさせる手続きに入ってきているが、これは非常に難しいので、むしろ何も規定しないという、誣告についての認定などは行わないということで良いのではないか、この手続きから外すということで良いのではないか。

○ 問題は、言い合いになれば必ずそっちこそ誣告だ、悪意の告発だと必ず反論するわけである。それで、そこは判断しないということはどういうことになるのか。

○ だから、不正行為があると認定するか認定しないかだけである。そして、不正行為と認定しなかった時に、これは誣告だと被告発者が非常に腹を立てたら、その方は、あるいは学内のほかの審査手続き、懲戒手続きなどになるかもしれないが、その懲戒手続きでいっても良いだろうし、あるいは訴訟で非常に不当な不名誉な誣告をされたということで損害賠償を請求しても良いだろうし、そちらの方に任せる。

○ 現実問題、不満を持っている研究者がかなりいて、そういう人たちに対する抑制も少し必要だと思う。何でも言えば良いという形になると問題なので、その部分だろうと思う。ただ、それが刑事告発があるというところまでいくかどうかは分からないが、何か抑制がかからなければならないだろうということだけお願いする。

○ 今の趣旨は非常によく分かる。だから、氏名は公表されるぞという脅しをかけておくことは構わない。それから、実際にしかるべき手続きをとって制裁を発動する手段を、各大学は持っているので、そちらの懲戒手続きをとって発動されるということは構わないが、この手続きの中から外した方がすっきりするのではないか。

○ 具体的には、結論は白だ、被告発者に不正行為はなかったという場合に初めてこういう問題が出てくるが、そういう時にこの調査委員会はどこまでの言い方をするのか。つまり、事実上これは誣告だということを言うに等しい判断をしなければならないというか、ほとんどの場合、説明しなければならない。判決理由というか、判断の根拠の理由の説明の中では言わなければならない。それをどうするか。

○ イメージとしては誣告か黒か、どちらかではないと思う。告発者は十分合理的な疑いを抱き、こんなことが許されていてはいけないと思って告発した。しかし、委員会がよく調べてみたところ、黒とは言えなかったという段階で、告発者が誣告であるか、合理的な疑いを抱いた正義感を持った人なのかは、別の非常に難しい判断になる。

○ 要するに悪意があるかどうかについては踏み込まないというのか。

○ それは非常に難しい判断であるので、別個の手続きで争ってもらう。

○ 今の意見には賛同できない。理由は先ほど別の委員が指摘された点である。懲戒処分や刑事告発があり得ることなどを機関内外に周知するというところまで書くかという問題だと思うが、例えばシミュレーションをやった場合に、何か問題が起きて、調査委員会が調査を行う。そうすると、告発をした人からヒアリングをする。それから、告発された人からヒアリングをする。例えば何かの論文が対象になった時に、コオーサーから全部聞いていく。つまり調査委員会をやる側の立場でこれを考えた時にどうかというと、そういうのを聞いていくプロセスで、明確に告発をした側に非常に不満が充満していた場合に、そこで調べたことが何の証拠能力もなく、告発した内容が白だったか黒だったかということの議論だけで終わってしまうと、抑止力が効かなくなって、最終的に起こっていくことは善意の研究者が研究を一生懸命活性化しようというところに抑制がかかり、何もしないで、何も問題を起こさないのが一番良いというふうになってしまうような懸念を議論の中で感じていた。だから、悪意の告発の部分というのは明確に文章でここに入れ込まないと、そういう自由な研究活動を妨げるような効果が最終的に出てくるのではないか。また、今議論している内容の1つ前で、第1案が良いか、第2案が良いかという議論があった。あれも善意の研究者、教育者が下の人に教えてという自由なやり取りや、ヘルシースケップティシズム(健全な懐疑主義)が成り立っている人の方が多いと思うが、そこが抑止力がかからないという面では明らかに第1案の前半の方が良い。つまり灰色を設けない方が良い方法だと思う。同じ見地に立って、研究の活性化を妨げないような配慮については今まで具体的な議論はなかったと思うが、この案件に関してもそういう見地に立つと、悪意に基づく告発に対して何らかの抑制効果を示すような文面にして欲しい。ここを全部削ってしまうと、調査委員会で調べた内容からそういうものが浮き彫りになった時、大学機関は何もできないことになってしまうのではないかと思うが、いかがか。

○ 機関内で十分調べた調査、これは同じ大学の機関内で証拠として握っているので、このような誣告が行われた時には、その前の調査委員会の調査は当然利用できるので、被告発者は別の手続きで動くだろう。手続きは別だが、十分そこで誣告だという心証を得られた時には、それを利用した形で懲戒手続きは別個に動かせる。同じ手続きの中に入れておくと、どちらかに制裁を加えなくてはならないことになりかねない。制裁を加えるというのは非常にきちんと誠実に調べなくてはならないので、1つの手続きの中で両方の手続きを慎重に行うというのは難しいことであるし、結論としてどちらかに制裁を加えなくてはならないことになってしまいかねないという危惧がする。だから、この調査委員会は、不正行為に制裁を加えることに特化して調べる。そして、誣告に対する制裁は、また別の手続きで、調査委員会がこれは本当に誣告の動機だったのか、それともおっちょこちょいが正義感にかられた間違いだったのかを調べる。

○ その場合、具体的になるかもしれないが、調査をした内容で、本来の研究不正活動に関するものと違うものが出てきた場合に、その調査内容は告発者にも被告発者にも調査委員会としてはこうだったと知らせるわけである。それを被告発者の方が、こういう調査内容があるのだからと言って、法的対抗措置がとれるような形にしておかないと、悪意で告発を受けた人は大変な損失を受けると思うので、そこに何らかの策や文章を入れておかないと偏りがあるように思う。

○ 別の機関で行うというのは問題ではないのか。具体的に不正行為があったという告発に基づいて調査を始めた。だから、そこの委員会が告発の中身を当然吟味する。不正行為があったかどうかだけ調べるわけではなく、告発というものの中身をきちんと理解しようとするので、「不正行為はありませんでした」とだけ言って、告発者の問題については「別のところでやってください」というのは無駄ではないか。

○ 別の機関でやっていいのではないか。例えば、大学であれば、このような問題が起こった段階で、被告発者は激怒するだろうから、制裁を求めると思う。そのときに同じメンバーがそのような資料を持って制裁について審議をする調査委員会が立つことになると思うが、各大学・組織は懲戒手続きを持っているので、そこで省力化が図られるのであれば、いくらでも図れれば良いと思うが、この委員会と手続きを切り離すだけの必要性はあると思う。なぜならば、それは不正行為であるかどうかということだけで、非常に大変な判定作業である。そして、悪意の定義をきちんとして欲しいと言ったのは、誣告かどうかということもそれなりの定義を持って、手続きを持ってきちんとして、誣告だというのは非常に大きな不名誉行為、非違行為であるので、それを認定するには緊張感を持った手続きが必要である。

○ もし被告発者が悪意に基づく告発であると反論し、それについての証拠を出して調査委員会で調査し始めた時に、そちらはやりませんというのが合理的なのかどうかということなのだが、犯罪の場合と違い、被告発者が科学的に根拠のあることだということを説明する責任があるという前提で出発している。それだけの重い負担を被告発者に与えている場合に、告発に対して被告発者は全力を尽くして反論する権利があり、その機会を保障する必要がある。それは、この同一の手続きにおいて行わないと、かえって被告発者に気の毒なことになる可能性がある。また、別の機関で、例えば同じ大学で別の委員会を作って、そのうちの大部分は不正行為に関する調査委員会のメンバーである。そのほかに、それに加わっていない誰かが加わって別の委員会を作って何かやるとしたら、それはその委員会の構成メンバーの中に情報に関するギャップが生じるので、同じ委員会が行った方が、負担は確かにあるが、合理的ではないか。しかし、その委員会は悪意があるとまでは言わないで済ませる権限がある。つまり、その委員会がその判断をしなければならないのは、被告発者が「告発者は嘘をついている、誣告だ、悪意で自分を陥れるつもりでやっている」ということを逆に証拠と合わせて反論した場合であり、普通の場合にはしなくても良い。不正行為はなかったという判断さえしておけば良く、そういう自由がある。しかし、被告発者が「告発者は誣告者だ、私を陥れるつもりで悪意の告発をした」と言って、それなりの証拠を示して反論をした時には、それはその委員会が受け取って調査するのが合理的だし、結局、全体のコストも少なくて済むし、別の委員会の形をとる必要性もあまりなければ、その合理性もあまりないのではないか。

○ むしろ委員会になった時に、合理的に動くのは、それが不正行為かどうかだけと見ていく方が合理的に動ける。

○ 自分もそう思う。自分が調査委員会の委員長だったら、誣告までは認定に踏み込みたくないし、踏み込まないと思うが、被告発者がその主張をしたらどうするか。

○ 被告発者はもちろん誣告だと主張すると思うが、判断をするのはこの委員会ではない。もちろん十二分に反論の機会を与えなくてはならない。

○ そこで、今度は不正行為の場合と違って、誣告だという挙証責任はこちらの被告発者が負うことになる。被告発者は自分が不正行為をしなかったということと、相手の告発が誣告であることは事案が違う。しかし、それを言って証明したとすれば、それはそこで何らかの対応をしてやらなければいけない。

○ 事案が違うからこそ、委員会は手続きを別にした方が良い。

○ 事案は違うけれども、事実関係は同じではないか。

○ 立証対象が違うと全部違う。

○ そこで、立証対象は別だからといって、別の組織へ持っていくのが合理的かどうかという話になるが、それは無駄ではないか。

○ 合理的だと思う。

○ 確たる判断は出来ないが、今のやり取りを伺って思ったことは、あえて告発するというのはそれとは少し違う行為なので、相当強い意図がないとできない行為であるという点だ。そういうものと科学の営みということを考えると、例えば大抵は告発する人は同業者である。その意味ではピアレビューと少し似たところがある。そういう条件を考えると、シンメトリック(対称的)に原則を適用した方が科学の営みにはフィットしているのではないか。だから、同じ原則を両者に等しく適用するシステム設計にしておいた方が、国民に見えやすい。資源に制約条件があるので、多分、両方やるにはなかなか大変だと思うが、もし技術的に切り回せる部分があるならば、そのような対称的な解を求めた方が良くて、原則を変えてしまうのは別の意味で懸念が生じると思う。その懸念の中身は、今まで自然科学系の委員が言われていることであり、自分は文科系だが、そういうことはあると思う。

○ シンメトリックというのは、嘘をついた誣告者はその場で扱うべきだという意味か。

○ そうである。システムというのは、善意を前提に作られているが、FFP(捏造(Fabrication)、改ざん(Falsification)、盗用(Plagiarism))というのは善意でないことをした人ということになる。そういう意味では誣告の人も善意でないマラフィデの人なので、それに対する対応原則というのはFFPを行った人と、それを告発していると言いながら、実はそうではなかった人に対して、両方に対称的に適用されるべきという意味である。

○ 自分は頭の中が今二つに割れていて、同じ手続きで誣告かどうかを扱うのは昔の律令制の原則と同じで、非常に古めかしいイメージをどうしても持つ。誣告は誣告として別の不正行為で、性質が違うものであるから、別のところで別に調査すれば良いではないかという理屈はよく分かる。近代的な裁判は、そういうものでないだろうかと頭の半分では思っているが、この調査委員会というのは一体何なんだろうかという、自分自身も裁判に関する専門用語を盛んに使っているが、何か違うのかなと思っている。つまり科学、学問という非常に神聖なるものの前で、告発した方も告発された方も悪いことはしてないということを、その場で対決してきちんと争う。だから、ある意味で非常に神権的な裁判に近くなってくることもやむを得ないのではないかというのが片方にはある。つまり、世俗的な裁判とは違うのではないか、世俗的な裁判は裁判所で争ってください。これは学術の機関における科学の作法であり、それを守っているかどうかについて、きちんと守っている人に対して足を引っ張るような、陥れるような行為をすること自体非常に卑劣なことであって、不正行為と同じくらいに不正である。神聖な学問に取り組んでいる人を陥れようという行為自体、非常に学問を阻害するものである。

○ ピアレビューという言葉が出たが、神聖な学問に対して掲げられた命題は、科学としてふさわしいプロセスを得られたものかどうかを争うわけである。それはピアでは非常に比較優位を持っていて、やりやすいと思うが、それが人間的な科学者の個人的な友人関係や子弟関係等、社会的な関係に関わったものであることまで立証するというのは、調査委員会での特質であるピアレビューにはなじまないというか、能力を超える部分があるということはないか。

○ それは自分も頭の半分では理解している。事案が違うと先ほど言ったが、陥れるという行為をするに至った背景というのは、社会的な問題や個人的な妬みや恨みもあるだろう。しかし、その人を陥れることによって、その組織全体にひびを入れるものも考えられないではない。被告発者個人だけを問題にしているとは限らない場合があるし、そういう様々なことを考えると、ピアレビューというか、研究機関がきちんとやる調査の仕事にはなじまない面があるということはよく分かるので、自分の頭は真っ二つに割れている。だから、普通の場合には、その委員会は誣告だというところまで踏み込まないで良いと思う。ただ、被告発者がそう言った時に、それを全く無視して、その問題はここで扱えません、別の委員会に行ってくださいと言うのが適切なのか、疑問をぬぐい切れない。

○ しかし、告発者の側としては、十分な根拠があって言っていることだと言って、後は任せたというつもりだったのが、突然、誣告だと言われて、自分も制裁を受けることになる。しかし、手続きの流れの中で、この調査委員会はこれが不正行為かどうかの調査であると思うから、安心してそちらの方でだけ戦っていたら、いきなり自分が被告人になることになる。

○ だから、そういうシステムが抑止力になるのではないかとの発言があったと思う。そうなると、委員が言われることとは次元が違う話なので、ある意味ではかみ合わない。

○ よくあるケースとして、共著者が不正を強制されたという告発をする場合がある。そのときに不正を認定した後、どの研究費、誰の研究費を止めるなというので、踏み込まざるを得ない局面は結構あると思う。

○ そうすると、今の悪意の告発とはどういうことか。強制されたということか。

○ 強制されたということである。強制した方は研究費は停止になって、強制された方は免除される。だから、悪意の定義は非常に難しいが、外部からの悪意の告発と内部からの悪意の告発があり得るのではないか。

○ その場合に悪意かどうかの判断は別のところへ持っていった方が良いのか、その委員会でやらざるを得ないのか。

○ その委員会でやらざるを得ないと思う。研究費をどの人に対して止める、止めないということがあれば、そのケースである。このようなケースは非常にあり得るのではないか。

○ もしこの委員会が悪意に基づく告発も対象とするとした時に、手続き的なのであるが、11ページの告発の取扱いのところで、2は原則的には顕名によって行う、3は匿名の場合に準じた取扱いをするとあるが、これが明らかに悪意に基づく告発であって、この場合は受け付けないわけであるが、受け付けなかった場合にこれを委員会は取り上げる必要が出てくるのか。

○ それは中身の調査を始めて、悪意があるか分かるわけである。

○ 悪意があるかどうか、ここで分かる場合が多いのではないか。

○ 私はそこまで踏み込む必要はないと思う。心の病気のために妄想のように思い込んでしまう人もいるので、それは最初の予備的なところで、大体分かるので、そのような告発を排除する。予備調査をそういうことにしておけば良いのであって、そこで悪意かどうかの判断を最初にする必要は必ずしもなく、分かってしまった時にどう判断するかはこの委員会に任せれば良い。問題は、先ほど別の委員は「真剣に告発している」と言われたが、そうとは限らないところがポイントである。それが明らかになるには相当時間がかかることであって、そこを配慮して欲しい。

○ 基本的には、問題にしないで済ませることができる事案ならば、踏み込む必要はないだろうが、その場で逆告発をされた時に、それは事案が違う、不正行為と陥れるのとは全然事柄が違うということで、ピアレビューにはなじまないという理屈は半分は分かるが、大体これは研究者同士ということになった場合には、ピアレビューの広い意味で研究者倫理という問題で扱う余地があるかもしれないという思いもするので、少し考えさせてもらう

○ 14ページの調査方法・権限のウについて、具体的にイメージが分からなくて、下から3行目に「また、調査機関以外の機関において調査がなされる場合、調査機関は当該機関に協力を要請する」という文章があるが、調査機関というのは例えば大学なら大学というのは分かるが、「以外の機関」というのは例えばどこになるのか。

△ この場合は、例えば当該不正行為と疑われている研究が複数の大学で共同で行われた場合、例えば東大が調査機関であるが、疑いのあった研究は大阪大学でも行われていたようなケースである。

○ 16ページの不服申立てのところであるが、自分の考えというよりも、日本学術会議で行われた議論にこの不服申立てに関わる論点が出ていたので、確認したい。そのときの議論では、告発が行われた場合に、先ほどのことと多少関係するが、不服申立てをした場合にどこまでできるのか、あるいはやるのかという問題が出ていて、その観点からこの文章を見ると、1回だけというのがもとの文言で、それが今回訂正されて、同じ理由による不服申立てを繰り返すことはできないとなっているが、これはどういう意味なのか。

○ 引き延ばしは防ごうという趣旨である。
 不服申立てに対して答えがなされ、それに対して何度でも同じことを繰り返されては困ると思う。だから、違う理由ならば不服申立てをすることができる。

○ 同じことを何回も適用して、議論を引き延ばす戦法のようなことをあらかじめ排除するという趣旨は了解した。日本学術会議の議論はもう少し実質的な議論だったように記憶している。つまり、告発の内容に対して当事者がそうでないと言い、それに対して、反論があり、さらに再反論があった場合に、それがどこまで許容されるかということであった。資源と時間の問題として、そのときは告発された側の視点から語られていたと記憶しているが、どこまでそれが続けられるのかという論点を委員の1人が出して、そのことは科学者の立場としては非常に気になると言っていた。そういう部分はこのガイドラインの中にはどの程度盛り込まれているのかというのが質問の趣旨である。

○ そうすると、それは、つまり反論権をもっと手厚く保障すべきということか。

○ そのときに意味されていたことはそういうことだったと思う。この中で、結論を先取りして言うと、訴訟という手続きとガイドラインという手続きの要するに分業体制ということで構成されている。だから、問題をそちらに変換すると、どこまでがガイドラインで、どこからが訴訟になるのかということに変換できるが、そのあたりのことをもう少しきめ細かくするということだと思う。

○ 同一の理由による不服申立てかどうかというのを判断しようと思うと、なかなか厄介な問題ではあるけれども、微妙な表現であるが、1回限りと書くよりは反論権に優しいと思う。最後は、先ほどの話ではないが、訴訟で争ってくださいとなる。逆に言うと、いつまでも調査を引き延ばされることは困るということである。

○ だから、そういう趣旨だということがもう少しはっきり分かるように、つまり1回しか反論のチャンスがないということに受け取られると、例えば、今の議論に登場する科学者は少し窮屈だという感じを持つのではと思う。

○ こういう文章の中に、後は訴訟で争ってくださいと書くわけにもいかないので、そこは当たり前の話は書かなかったが、気持ちをもう少しくみ取って表現を考えてみたい。

○ 1ページの(1)(2)に書かれている「持続的発展」、「競争力の維持」ということは全体として目指すべきミッションなのか、現状の解説なのかをはっきりさせた方が良いと思う。ミッションとすると少し誤解を招くと思う。

(2)今後の予定について

 事務局より今後の予定等について説明があった。

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