研究活動の不正行為に関する特別委員会(第3回) 議事要旨

1.日時

平成18年4月27日(木曜日)16時~18時

2.場所

三菱ビル964・965会議室

3.出席者

委員

石井主査、松本(和)主査代理、磯貝委員、金澤委員、末松委員、寺西委員、中西委員、水野委員、村井委員、吉田委員

文部科学省

吉川科学技術・学術総括官、江﨑企画官

4.議事要旨

(1)研究活動の不正行為の対応についての論点別考え方について

 主査から資料2について、事務局から資料3-1、3-2の「4.不正行為への対応の具体的検討事項」について説明があり、その後、意見交換を行った。主な内容は次の通りである。(○:委員、△:事務局)

○ 文科省の審議会なので、国費の不正使用に重点が置かれていることはよく分かるが、大学・研究機関が国費以外の資金を用いて、例えば海外の資金で研究している場合に起きた不正行為は、本委員会の審議から除かれるのか。

○ その通り。本委員会の関心事ではない。

○ 大学・研究機関としては、別々の委員会を作らなければならないのか。

○ 一つで構わないと思う。つまり大学で決めるシステム・ルールにおいて、国費以外による研究に関する不正行為も扱えば良いと思う。

○ 今のことに関して、これを読んで非常にすっきりした形だと思ったのは、1ページに、全体構造を3段階で示している。まず、日本学術会議は学会のあるべき倫理の姿を書き、公的機関は公的なお金の配り方についてのルールを定め、実施機関としての研究機関や大学はその人事管理、罰則をどうするかを決めるのであるが、そのためのガイドラインを文科省が作るという非常にきちんとした3層構造がはっきりしている。さらに、ガイドラインに基づいて個々の大学・研究機関がきちんとしたものを定めるのであろうと思った。4について7ページの大学の実施体制のところの「利害関係を有しない者」という調査委員の定義をきちんとしておいた方が良いと思った。特に、非常に専門性が高い分野については、調査委員または調査委員長が利害関係を有していないかどうか、過去のことや縄張りなども含めて慎重に選ばなければならないと思う。

○ 利害関係者と総括的に書くのは簡単であるが、いろいろな事例があると考えると、具体的にどのように定義をすれば良いか。

○ 本当は不正が指摘された分野と関係のない人がきちんと精査して調査委員を選ぶべきであるが、専門性がないと分からないので、ワーキンググループなどを設けて、利害関係がない人を選ぶべきである。そのようにしないと、その人を陥れることも可能になるのではないか。

○ 具体的に文言でこういうところに書いておくのは非常に難しいと思う。こういう表現で実際の時にそのことも含めて委員を選ぶシステムを保障するという精神を残す以外になく、こういう人はだめとか、ああいう人はだめとか書いても余り意味がないと思う。それから、6ページの「告発等の受付」のところで、「不正とする根拠が示されているもののみを受付ける」となっていて、8ページ以降は「告発には科学的合理的理由が必要」であるとなっている。具体的に根拠を示して告発するのはかなり難しいと思う。科学的合理的な理由、根拠などの科学的な合理的理由は、ありうると思うので、8ページ以降その方が分かりやすく、より正当であると思う。また、7ページの真ん中辺りに「審査の途中で配分機関が交付を保留できる」という、項目があり、8ページの不利益の防止のところの「告発されたことのみをもって全面的な研究活動が禁止されるなど不利益を受けないようにすることが必要」という文章がある。後ろの文章はかなり大事だと思うが、7ページの真ん中辺りの文章が生きてくると、いつの時期にこのようなことができるかということをある程度ガイドラインで規定しておくべきだと思う。研究費を打ち切られたら、研究ができないという現実があり、前の文章が独自で生きてくると、ある意味では調査期間中でも独自に研究費をストップできるという文章になるので、研究費の交付を保留することができるというのはどのような事態の時かをガイドラインに規定した方が良いと思う。これがどういう状況であればできるかが曖昧だといつでも留保でき、本調査が始まると、交付をストップするという問題が出ると思う。

○ 7ページの中段では、主語が明確に書かれている部分とそうでない部分があるが、「資金を配分する機関は不正行為かどうかの認定がされるまでは」という文章の、資金を配分する機関というのは、例えば文科省であり、不正行為かどうかの認定のは研究機関が行うので、そこを明確にしておけば、今の問題は解決できると思う。

○ その研究機関が非常に小規模であったりして、大事件を扱うには手に余るケースであったりする場合、何もせずに時が過ぎていく時に、配分機関が、認定が終わっていないことのみの理由で申請されたものに研究費を出して良いのかという問題がある。

△ 保留をすることができないと困るが、どういう時にできるのかということを具体的にきちんと明らかにすることは難しい。ただ、ある程度調査が進んでいくと、その人が不正行為を行った可能性が高いかどうかが分かってくると思う。その辺りは資金配分機関と大学の情報をきちんと共有していくことも必要であると思うが、そういうものがあれば、ある程度のところで、保留の判断ができると思う。

○ 不正でない可能性も残っている段階で、交付を保留する処分を行っても良いのか。

△ これは保留することがありうるということを言っているに過ぎないので、常に保留するということではないと思う。もし心配であれば、「その機関の責任において」とか、「その機関が適当と判断する場合において」とか、「できる」というのは、状況に応じた判断がありうるということであって、必ず保留するという意味ではないということが分かるように工夫すれば良いと思う。

○ 今言われた機関とは資金配分機関のことか、それとも大学・研究機関のことか。

△ 資金配分機関のことである。

○ 調査機関の調査状況について、多分配分機関には途中の情報は正式には行かないから、配分機関の責任でということしか言いようがないし、書くことも難しい。この文章は大事だと思うが、正式には情報が行かないことになっているので、配分機関は何の情報もなく、独自で判断するのかと言われた時に、答えられないと思う。

○ 文科省や日本学術振興会がこのような保留をした時に訴えられるということはあると思うが、保留するのに相当の理由があったと言えれば良いと思う。例えば3,000万円の申請が認められ、そのうち500万円ぐらいのみ差し当たり出すという一部保留のようなこともありうると思う。自分は文科系なので、その実験等に要する費用がどの程度配分されれば、研究ができなくならないで済むか分からないが、文科系だったら全額保留でも構わないと思う。

○ ただ、全体のスキームとして、不正行為の防止のためのコストをできるだけ小さくするという姿勢は大事だと思う。コストとして大きいのは、調査委員会が大変な苦労をしなければいけないということと、本来問題ない研究が妨げられることである。

○ 行政はそういうところを非常に心配するものである。国民のお金を預かっている者として、一応保留するということもできるんだという頼みの綱のようなものが書かれていることが必要だと思う。

○ これは大変な行政の関与だと思う。その不正行為についての判断を先取りして行動することまで意味する可能性がある。

△ これは逆から考えていただきたい。仮にその疑いをかけられ、調査が入ったという人に漫然と交付し、最終的に不正行為と認定されたとしても、そのお金は返ってこない可能性がかなりある。その時にそういう判断をした配分機関はどのように責任をとってくれるのかとなると、配分機関側は何らかの連絡をとって、調査の状況などの情報を掴みながらだと思うが、保留もできるということぐらいは認めていただかないと、後で納税者に対しての申し開きができないケースもある。

○ 告発の窓口に出されるものは科学的合理的理由が必要であるとしているが、それを理由とするのか、あるいは科学的証拠とするのか重要になる。ファーストコンタクトの窓口が少なくともそういう素因を持っていない限り、先ほどの不正行為への対応3原則の「行政が関与すべきではない」という部分と、整合性がなくなる可能性があると思うがどうか。

○ これは事実認定ではないので、行政の関与ではないと思う。

△ 資料2の「研究活動の不正行為に関する3原則」というのは、「不正かどうかの判断自体は研究者側に任せる」ということであるから、不正があるかないかの判断には行政は一切関与しないということである。ただ、それがはっきりしない段階においては、しばらくの間は研究費支援については何もしないということがこの意味ではないかと思う。だから、一定の期間で早く判断をしていただくということが非常に重要だと思う。

○ 一定の期間あるいは相当の期間を示すということと裏腹の関係になる。

○ 今問題となっている文章は、前回は、一時的に停止する措置をとると言い切っていたので、変えなければならないと思っていたが、「することができる」となったので、この程度はやむを得ないと思っている。根本的なこととして、不正行為の有無の認定をどうするかというところで、7ページの不正行為の認定の有無で、不正行為と認定する基準については、例えば以下のことが考えられる。そして不正行為を認めるというのが上の二つである。これは法律的にいうと、これは自白偏重ということで問題があることだが、前提としてやむを得ない。ここで論じるのに実質的に問題がありうることがその3番目だと思うが、再現性がないことに正当な理由がないということである。これは3原則の3番目とも絡んでくるが、文科系の場合には、しかるべき引用がないということや、引用がないにもかかわらず、ある前の実績と完全に重なっているということであれば、立証の申し立ては簡単だが、理科系の場合、それが再現できるかどうかは、非常に微妙だと思う。つまり、挙証責任が完全に転換されているが、実験の過程で何らかの不純物が入っている、実験の過程で偶然の作用が何らかの形で起きてしまった、あるいは推論の過程で何らかのミスがあって、今まで理科系のさまざまな業績を見ていても、定説だとされていたことが、後の実験によって覆されることがかなりあると思う。その時に、それは理科系の実験といっても、機械的に必ず出るというものではなくて、推論やその一連の過程で微妙な差があることによって完全に再現できないということもあると思う。非常に非常識に全ての実験結果がとてもあり得ないとか、必ずとっておかなくてはならないデータなどが全てないという場合を念頭においた場合には、この3番目がうなずけるが、かなり多くの理科系の研究でこの3番目を広くとると当てはまるのではないかと危惧している。不正を指摘された論文の根拠となる実験に再現性がないことに、まるで違う仮説や立証結論を提供できるという、どちらも争っているような段階で、反対側の者があれは不正であると指した場合に、立証責任がこれだけ見事に転換されていると再現しなくてはならないということは非常に難しくなるのではないか。その時に研究費がストップをかけられると、理科系の先端領域ではかなり困ることがあるのではないかと危惧する。

○ ここは箇条書き的に書いてあるので幾つかの前提が抜けていて、例えば試薬や試料がなくなり、再現できないといった場合には、それは正当な根拠がないということを念頭において書かれている。同じ試料や同じ試薬を使い、同じような実験をして、ある程度の時間を与えたなら、再現できない時に、やはり再現性がないのではないかと認定されても仕方がないという総合的な判断を、ここでは前提にしているということである。理科系では、どのように判断されるか。

○ それはサイエンスやエンジニアリングの中でも、分野によってかなり違うと思う。化学の分野では、誠実でまじめで一生懸命研究している研究者は、普通は再現性が出ないことは論文にしない。1回やってみて良い結果が出たら、何かを疑ってみて、もう一度本当に良い結果が出たら論文にするというようなことを、一流の科学者は認識していると思う。逆に1回非常に良い結果が出て、2回目に出ない時に、何か理由があると考えて、再現できるまで努力するが、再現できないことが稀にあると思う。それはたまたまゴミが落ちたというようなことでそうなることがあると思う。ただ、バイオ関係の方からは再現性がなかなか難しいこともあるという認識が広まり、皆そのような感覚を持っていると聞いているが、それが生物学とか非常に個性や体質というような個々に性質が違うということから、そのような感覚を持のだろうと思う。技術ということになると科学研究よりもっと再現性が大切になり、それがなければ、これは使えないとなるので、理工系の大部分は再現性があるのが当たり前だと考えるのが普通だと思っている。

○ 自ら再現して、初めて論文として公表できるということか。

○ そうするものである。中には非常に良い結果が出たら喜んでしまい、すぐ発表する人もいるかもしれないが、大部分は調べると思う。それに私たちは論文が出たら誰かがすぐに追試をするので、そこですぐに再現できないようなことをさっさと書いてしまうことは、その研究者にとって、マイナスの評価につながり兼ねないということを我々は心得ている。

○ ここで再現性を持ち出すのは、例として適切ではないと思う。なぜならば、再現性が問題になるのは、非常に特殊なケースだと思う。むしろそれよりも論文と、その根拠となった実験ノートの間の乖離だと思う。例えばそれによって不正があったのではないかと疑われるかもしれない。そういう例を出せば良いのではないか。再現性は本委員会だけでもこれだけ意見があるように、いろいろな見方があると思う。

○ 再現性という言葉で表現しないで実験のデータ、生データと論文との間のギャップということか。

○ それを例として出すぐらいで良いと思う。

○ 関連して、確認しておきたいのは、「間違い」と「不正」というのは全然質が違うものである。再現性の問題も同じことがあって、あの時はなった、誰かがやったらならなかったという時に、単に間違いであったという可能性がありうる。それを全部不正であると言ってしまうと、いろいろな問題が生ずると思う。それは、むしろ著者がその時の実験と現状をきちんと自分の立場で説明して、その論文は自分がやったが、再現しないから取り下げるという形で、自分の論文を処理するのが正しい処理であって、それを外からあれは不正であるとして処理するのは適切でないと思う。そこがまずあって、それでもなお、あれは正しかったという主張を著者がした時に、その後のアクションとして、こういうところで議論をしているアクションが出てくると思う。そのため、ここで言われている再現性もその再現性がないということだけで不正であるということではなく、その取り扱いの問題があると思う。

○ もう一つの再現性の問題で当時の論文と同じ条件で再現しなさいと言われると、時間が経っているとその試料がなかったり、売られてなかったりすることがあるので、別の方法や別の材料を使っても再現できるということでも、挙証責任を果たしたと言ってもいいのではないか。

○ ネアンデルタール人の骨から現代人と同じDNAが出たという実験結果が出た時に、その研究者は念のために発掘に関わった人の血液を全部集め、調べていったら、結局作業した人の汗等が混じって、その骨が現代人と同じDNAを持っているかのような外観を呈しただけのことだったらしい。もちろんそれは論文にもなっていない。それぐらい慎重にやるものだと聞いていたので、再現性という言葉が問題になっているということもあって、こういう表現が使われたが、適切な表現に改めたい。捏造とか変造とか最初に不正行為の定義をしているが、先の実験データと論文とのギャップということであるから、それ自体は問題ない。

○ 自白偏重だけだと、特に本人が不正行為を認めたならともかく、データなどを収集整理したものが不正行為を認めたというだけでは、これはその方の恨みによってありうるし、虚偽の自白をすることもありうるので、客観的なものを必要とするという意味で裏づけが必要だと思う。

○ 8ページの一番上の○、4の最後の○の2行目に、ここだけ厳密に「1回に限り」と書いてあるのはどうしてか。

○ それは、きりがないだろうということであり、後は裁判所でという気持ちである。そこで訴訟継続中はどうするかとか、そういう措置に関するそれに関係する項目が出てくる。

○ 7ページの真ん中辺りの、研究費の交付を留保することができるという話で、基本的には、これで良いと思うが、この文章は、ここではなく、別なところできちんと述べるべきだと思う。

○ 7ページの一番最後の○に、「不正行為と指摘された研究者は潔白を主張する場合、自ら挙証責任を負う」とあるが、この挙証責任を負うところまでであり、「挙証すべし」ということでないと理解して良いか。

○ 挙証できなかった場合の結果を引き受けるということである。

○ もう一度確認し、再現することが非常に大変な研究もあるかもしれないので、挙証責任がある一部の過程だけであれば良いが、責任を統括して明らかにしなければならないということになると、少し辛いと思う。

○ 疑惑がある研究者の側から、不正だという証明をしてみろ、と逆に開き直られると非常に困る。研究ノートや研究の発表はこういうものだと最初に考え方を言ったが、自らきちんとしたデータを示して、根拠を示して自分の考え方を学界やコミュニティに批判を仰ぐ形で、「私はこういう実験をやってこういうことを考えたので、これでいかがでしょうか」と、その根拠をきちんと示さないと、その人は不正だと言われても仕方ないと思う。だから、先ほどの「間違いでした。取り下げます」というのは、不正にならない。あくまでもこれは正当な研究であると主張するなら、そういう負担を引き受けなければならないだろうということである。

○ 昔、大阪大学で天然の絹と触媒を混ぜた時に非常に見事な結果が出るということが分かり、ネイチャーに書かれた。それは最終的には世界をリードする研究だったが、8年間世界中で再現できなかった。そして、結果として分かったことは、ある季節の蚕が作った絹だけが効果があるということで、それを突きとめるまで8年間かかった。それで挙証責任と言われると、再現できないので不正行為になってしまう。そのような例は幾つでもあると思う。その時は非常に幸いなことに要素が全て揃っていたということはあると思う。これは間違いでもないし、再現性を求められても困るし、言葉のニュアンスで挙証責任を負う限りであれば、良いと思うが、「挙証すべし」であれば、少し辛いと思う。

○ 挙証責任という言葉を使うと「負う」ことになる。これはドイツ語でいうと、「ベヴァイスラスト」という言葉を使うのだが、証明の負担という意味である。ラストは英語のlastとスペルは同じだが、そういうものを背負っているという意味である。そのため、それが不適切な場合が考えられるなら、表現を替えなければならない。

○ 調査委員会のメンバーが高いレベルであれば、挙証できなくても、再現できなくても、事例によっては再現無理という判断が可能である。この言葉の精神を討論して理解した人が全部動くのだったら良いと思うが、この文言が一人歩きした時には研究の現場は辛いと思う。

○ 本質的にそのサイエンスの再現性は、サイエンスの場で議論されるべきだと思う。一方で今の議論は、例えば二者が違う意見を持っている場合、これがありますと、告発という形で攻撃することができるので、そこが少し心配である。

○ 「挙証責任」とは非常に重いと思う。この文章で本当に意図していたのは、何らかの制裁を与える場合に、与えようとする側が真っ黒に表現して見せなければならないというのがルールなので、グレーの場合にはシロになってしまうのが通常であるが、真っ黒だということの証明が非常に難しいケースがあるので、真っ黒ではなくてグレーであっても制裁が働きうるようにしたいということと思う。ただ、この書きぶりだとグレーだと言われた時に言われた側が真っ白にして見せないと、黒くなってしまうので、非常に苦しいことになると思う。つまり、真っ黒だという立証ができなくても止められるという自由心証の裁量権を調査委員会に与えるという書きぶりにとどめるのが良く、挙証責任を負うということになると、「自分はシロです」と表明できないとクロにされてしまうことにならないかと非常に心配である。

○ 判断する判定者の心証がこれは不正でないかもしれないといった場合にはその域に行かないので、挙証責任を負わせない。グレーだけで不正とまでは言い切れない時には、その判断をすれば良いということである。

○ この挙証責任というのは審判官を縛るので、書きぶりは注意した方が良いと思う。

○ 突然、10年前の論文に対して「不正があったのではないか、もう1回やってみろ」、「挙証責任を負え」と言われても難しいと思う。例えば実験ノート、生のデータや試料をどのくらいの期間保存しておくべきかが書かれてない。つまり時効がないので、いつまでもこれらを保存しなければならないのかといったことが難しい。患者のカルテでさえ、長くて10年、普通は5年ぐらい保存しておけば良いと法律上決まっているが、このことについてどのように考えたら良いのか。このようなことを言うのは、この案の7ページから8ページにかけて証拠を示さない場合は不正行為とみなされることで良いかと書かれているからであり、これなら良くないと申し上げる。

○ 実験ノートや試料、試薬をどのくらい保存しておくべきかはここでは書けない。これを原案は「研究の作法」という言葉で表現しているが、それが何年であるのかということまでは書けない。しかし、それぞれの研究分野での常識や守られるべき作法があると思われる。「1年経てばノートを捨てるというのは短いが、10年はしようがない」というように、認定する機関の自由心証の問題だと思う。

○ 自分の例を引き合いに出して恐縮だが、4年前に東大から理研に移った時に、当時理研はスパイ事件の関係で持ち込む試料に非常にセンシティブで、全ての試料について、どういうものを持ち込んだかを記録することになっていたので、相当な試料を処分して移って来た。また、例えば定年退官をした先生がフリーザーの中を処分することは当然あるが、最近は研究成果物、有体物は機関のものであるという考え方になって、研究ノートも個人のものではなく、機関のものであるという考え方になっているので、研究試料の保管となると研究者の義務というよりも、機関の義務になると思われる。

○ 機関が一つ一つ保管をするのか。つまり、研究機関が、これは我々のものであるから研究者に対してしっかり保管せよということになるのか。

○ そういうことだと思う。

○ 現在問題にしている不正行為かどうかの判断に必要なあるいは有効な試料をとっておくかどうかは個人の潔白を証明する手段でもあり、またコミュニティに対する責任でもあると思う。「自分はこういうデータをとり、こういう論文を書いたが、そのデータは捨ててしまった」というのでは、コミュニティに対して責任を十分果たしていないことになると思う。そこは、永久にという意味ではなく、相当の期間とか何か、そこは研究者の作法があると思う。

○ だから、機関はそれを研究者に周知徹底しなければならないし、研究者は自分を守るためにしなければならないと思う。

○ 研究機関が自分の財産だと思ってやるかどうかは、その研究機関の問題なので、本委員会ではそこまで関知しない。

○ 時効など期限は区切らないと、個人あるいは機関での保存を徹底するのは難しいと思う。

○ 研究分野によって全て違うと思うし、相当の期間としか書けないのではないか。

○ しかるべき期間ということになると思う。

○ 箇条書きになっているから表面には出てないが、これをきちんとした文章にすると、非常に神経質に言葉使いを考えていかなければならないし、それを一つ一つ気にすればするほど、曖昧な文章や煩瑣な文章になり兼ねない。そこが頭の痛いところであるが、挙証責任の問題というのは本当にぎりぎりの場合にどっちに転ぶのかということである。ぎりぎりのところ分からない時に挙証責任で決めるというのも自由心証の裁量の一種である。挙証責任の問題にするかしないかも自由立証の問題である。

○ 自白のようなことを7ページの下に書いてあるが、本当に自白があれば、不正だと認めるのか。

○ 先ほどの意見により、裏をとる必要があるということを書き加える。

○ 犯罪捜査であれば、そうかもしれないが、これは研究に関する不正であるから、取り調べや委員会での詰問があると思うが、自白が必要であるということを書くのが適当なのか。

○ 自白が必要だと書くつもりはない。自白があった場合どうするかが、ここでの問題である。被告発者が一人の場合には簡単だが、チームで研究しているからいろいろな立場の人がいて、刑事訴訟でいえば共犯者の自白をどう扱うかというのは、大変難しい問題だ思う。

○ 科学研究の不正かどうかは、研究が正しいかどうか、より客観的な判定基準が必要で、仮に被告発者が否定しても、科学的、論理的に考えれば、この結論は成立しえないという立証の仕方にする必要があるのではないか。

○ 最後に挙証責任と言ったのは、非常に疑わしいが認定できない時にはどうなるかという話なので、そういうことを問題にするくらい客観的にきちんと根拠を探していこうというのが大原則である。そこに自白があるだけで認定して良いのかということだったので、これにはきちんと裏をとりましょうということにしたわけである。

○ (5)の措置の対象のイにあるその不正行為に関与したと認定されていないものの不正と認定された論文の著者及び共著者の責任という問題で、10ページの競争的資金の申請制限がかかってくる。そのため、本人はその論文の共著者であるが、不正には関わっていない、あるいは知らない場合の多くの場合、被害者になる。例えば、善意で研究試料を提供し、あるいは実験の一部を分担した結果、それが不正と認定されたら、その方にもこのような申請制限が付いてくるのは少し行き過ぎだと思う。

○ このイのケースは具体的なイメージはよく分からないが、全く不正行為には潔白であって共著者になっているだけのことであれば、非常に難しいケースである。

○ 今の話を伺うまでは、共著者というのは基本的にその論文に対して責任を持つべきだと思っていたので、そのためには例えばデータをきちんと自分でも見るなどして、本来責任を果たすべきものだと思って理解していたが、サンプルを提供しただけで内容については立ち入ることが余りできないままオーサーになる場合がある。競争的資金の制限の場合に、イの場合との関係で、例えば認定の際に、こういう場合はきちんと議論しなさいとしたらいかがか。細かく全部を言うことは無理だが、オーサーと言って、ひとまとめにするのは問題があると思う。

○ 要するに「されていないものの」と書いてあるが、直接には関わらなかったが、何らかの意味で関わってきた時には、責任を共有しなさいという話になる。

○ 例えば、同じ教室にいて直接のグループではないかもしれないが、実際にデータを見る立場にありながら、「まあ、いいよ、いいよ」とした場合と、単にサンプルを提供したというだけで、データを見る立場にない他の施設の方が、同じ扱いを受けるのはおかしいと思う。

○ 先ほどの話で、ある研究者がその論文の中身に極めて重要な試料を提供してもらった。その結果は実は捏造だったけれども、データは非常にきれいで、非常に解釈しやすい結果だったので、本人はそれを信じて、次のステップの研究を学生に指示して、新しいノックアウトマウスを作らせていた。その研究者は完全に騙されていた訳で、その結果としてその学生はテーマがなくなってしまい、全てその後のマテリアルは処分することになって、大変な迷惑だったということを言われたことがあった。そういう場合には、被害者になっている可能性が高いと思う。

○ 不正と認定された論文の共著者のうちで何々のもの、という限定した書き方の方が、良いのか、あるいはこれを全部落とすのか。全部落とすのは気になるが。

○ 境界領域が進み、研究は大変分業の度合が増えていて、全体を全ての著者が理解しているとは限らない場合が増えているので、この一蓮托生は危険だと思う。それで、そのイというものの最後の「著者」というのを、「主たる著者」とか「筆頭著者」とかにして、責任者に関してはGuiltyだよという文章が入れば、非常に前向きで生きてくると思う。

○ 今、指摘のあったところは前回、ファーストオーサーという言葉とコレスポンディングオーサーという言葉を説明した重要なポイントである。指摘のように境界領域であると、例えば論文をコレスポンディングオーサーの属する教室から出したとすると、レフェリーから非常に良い質問だがいろいろな無理難題が当然来る。しかしそこを何とか解決しようということで、そこを解決できる人間が例えば日本で唯一人というような技術をお願いして追加の実験を行っていただき、その結果を加えてレフェリーからの問いに返答して論文ができあがるというケースはそんなに珍しくないと思う。そのため、その場合に今の一蓮托生方式をやってしまうと、非常に大きな障害になる可能性があると思うので、今の意見に賛成である。

○ 「主たる著者」と表現して、意味が通じれば良いと思う。筆頭とかファーストオーサー、ラストオーサーというのは、コミュニティによって習慣が違い、その論文に責任を持っている著者という意味が表現できれば良いと思う。

○ 基本的には調査委員会が論文に書いてある名前の人の役割をそれぞれきちんと調査することにより把握して、その論文の中に不正行為があったとすれば、それにどうコミットしたかということまで調査せざるを得ないと思う。その上で、不正行為には関係ないという人まで、共著者は全て一緒ではないかという議論をすることは危険だと思うが、今の議論のようにその論文の責任者は責任をとらざるを得ないと思う。

○ そういう調査までするべきだとすると、実際問題として、それができる研究機関は限られてくるのではないか。

○ 論文に不正があったかどうかだけならば、個々の著者がどう関わっているかまで調べる必要はないが、その個々の著者にある種処分をすることになれば、そこの情報がない限り処分はできないと思う。

○ そうすると、研究機関が調査するのを原則としたが、その一つ一つの共著者まできちんと調査することは非常に難しいかもしれない。

○ 一機関で調査するよりも、機関が合同したり、コミュニティが責任を負う形で調査を行うことが考えられる。特に共著者がいろいろな機関にばらけているケースが多いので、いろいろな機関の人たちが集まらなければ、調査はできないかもしれない。一つの研究室だけであれば、一つの機関でそれぞれの役割分担は明確にできると思うが、いろいろな機関の研究者が集まって一つの論文を仕上げている場合には、そういうケースが非常に多いのではないか。

○ 8ページの一番下の○に訴訟の結果を待たずに措置を行って良いかと書いてあるが、原則的には言いたいことは全部聞き、結果を待たずして名前を公表するのは問題があると思う。一度公表してしまうと、回復するまでに大変な努力が必要なので、原則としてかもしれないが、措置を行って良いというのは書きづらいと思う。それぞれの場合においてフレキシブルに考えるというスタンスをとって欲しい。

○ この措置には採択された研究費の保留も入っているが、そういうのもしない方が良いという意見か。

○ 不正を行ったか、行ってないか分からない時に、名前の公表はどうかと思う。

○ 10ページに不正行為と認定されなかった場合、悪意に基づくことが明らかな場合は、これで良いかもしれないし、予備調査だけで悪意だと分かったものを含めて、これで良いと思うが、単なる思い込み、誤解だった場合については、触れなくても良いか。

○ 10ページの(6)の2は告発者に対して、こういうことをすべきだということとガイドラインでここまで書く必要があるかどうかは別問題だと思っているが、議論すべき点だと思う。

(2)今後の予定について

 事務局より今後の予定等について説明があった。

お問合せ先

科学技術・学術政策局政策課

(科学技術・学術政策局政策課)