大学分科会(委員懇談会) 議事要旨

1.日時

平成20年11月26日(水曜日)12時30分~14時30分

2.場所

文部科学省3階 3F1特別会議室

3.出席者

委員

(委員) 安西祐一郎(分科会長),荻上紘一,黒田玲子の各委員
(臨時委員) 天野郁夫,有信睦弘,木村孟,黒田壽二,石弘光,中込三郎,矢﨑義雄の各臨時委員
(専門委員) 河田悌一委員,舘昭委員

文部科学省

銭谷事務次官,河村私学部長,久保高等教育局担当審議官,戸谷高等教育局担当審議官,片山高等教育企画課長,義本大学振興課長,下間学生支援課長,村田私学行政課長,白間私学助成課長,榎本高等教育局企画官 他

4.議事要旨

(1)事務局より配付資料の説明があった。

(2)設置認可及び設置基準の改善等について,前回の大学分科会における大学設置・学校法人審議会からの意見発表(意見発表者:納谷廣美明治大学長・大学設置分科会長職務代理)に基づき,事務局から「検討の方向性(例)」について説明があり,それに関連して以下のとおり意見交換が行われた。

○ 報告いただいた事項はいずれも重大な問題と考える。設置審の委員を務めていた経験から言うと,当初想定していないことが次々と起ってきた。特に届出制度は,2分の1ルールをうまく利用すると,ごく小さな組織が一つでもあれば,数年のうちに届出だけで総合大学をつくることもできる。そういうようなことを想定して2分の1ルールをつくったわけではないはずだが,実際には,そのような状況になっている。
 そのような意味で,設置基準,設置審査については,きちんとしたやり方でなるべく早く見直す必要がある。

○ 届出制度の問題点のうち,完成年度前に新たな学部等に転換するという話については,卒業生が出るまで組織改変はできない,という歯止めをかけないといけないのではないか。そうでないと,自身も審査に携わっているが審査していてもむなしい。しっかりやっていただきたい。

○ 通信教育設置基準については,世界の動向を見ると,様々なタイプがあり,今は”Open and Distance Education”という言葉を通常使うようになっている。通信というのは,”correspondence” の訳だと思うが,これはもう昔流の英語であり,現在,郵便での通信教育というのは,ごく一部を除いて,世界的にはマイナーになってきた。これは結局,この種の新しいタイプの遠隔教育というのは,質の保証が問題であるということ。インターネット技術の発達,社会と経済のミスマッチ,生涯学習等の新しい要素を,大学分科会としてもそういう点を見ていかないと、質がどんどん劣化するのではないかという気がしている。

○ 1991年以降,大学設置基準を緩和してきたわけだが,今起きていることは,予想できなかったこともあるが,予想された問題もある。文部行政は,事前評価から事後チェックへ大きくシフトしたわけだが,事後チェックのところをしっかりと考えずに事前の規制を解いてしまえば,このようになってくる。
 現状は,あちこちに抜け穴があり,結局もぐらたたきのようになっているが,抜け穴をふさぐということは,規制を強化することなのかどうか,ということがある。認証評価の段階で抜け穴をどれだけ食い止めることができるのか,ということをあわせて考えないと,行政サイド,設置審サイドばかりで問題を議論していると,ますます抜け穴が出てくると思う。

○ 資料の表紙に書いて有るとおり,今回の議論は,「設置基準」,「設置認可」,「認証評価」が課題。それに加えて,「公財政支援」についても取り上げようとしている点が画期的。検討の視野には認証評価も入っているが,本日は設置基準の話に限定している。当然,設置認可と認証評価というのはあわせて検討していかなければならない問題であろう。
 これは規制強化という言い方もあるかもしれないが,大学分科会では「きちっとすべきところはすべき」という論調だと思うので,質保証の全体の議論の中でとりあげていただきたいと思う。
 この論点はワーキンググループで,大学設置・学校法人審議会の先生の協力も得ながら検討を進めていただき,大学分科会に報告してもらうこととしたい。

(3)舘昭専門委員より,「米国の学位プログラムの概要と我が国の学位プログラムの在り方」について発表があった。発表の主な内容は以下のとおり。

 学位プログラムを議論する背景としては,平成17年1月の「我が国の高等教育の将来像」(答申)の中で,学部・大学院という組織に着目した整理を,「学士」,「修士」,「博士」,「専門職学位」といった,学位を与える課程を中心とした考え方に再整理していく必要があると考えられるとして提起されたもの。
 本年9月の,大臣から中央教育審議会への諮問の中では,「社会や学生からの多様なニーズに対応する大学制度及びその教育の在り方」において,「第2 多様なニーズに対応する大学教育を実現するための学位プログラムを中心とする大学制度及び教育の再構成について」検討することが提示された。
 諮問理由においては,「国際的・歴史的に確立されている大学制度の本質を踏まえ」ること,「団体性や自律性を踏まえつつ,一人一人の学生のニーズに応じた大学教育が提供されるように」することとなっているが,学位という概念と団体性とは深く関わるものであり,非常に達見と思って受けとめている。
 学位と大学と結びつきについて,大学の起源と考えているのは,律令制度の大学寮ではなくて,西洋12世紀に起こった”Universitas: ウニベルジタス”, ”University: ユニバーシティー”の概念。先ほどの「団体性」とか「自律性」というのはウニベルジタスにはあったが,大学寮にはなかった。
 ウニベルジタスというのは,”Guild: ギルド”と同じ意味だったと言われ,そういう意味ではこの学位というのは,”Master: マスター”という学位が象徴するように,親方という意味であって,ギルドの親方の免状のこと。ギルドゆえに免状が必要であり,学位授与権を持つものこそがユニバーシティーだという概念でつくられている。
 ところが,学位というのは日本では,明治の学位令で,初めて国の制度として使ったものだが,今,議論としては”Degree: ディグリー”という概念で言われている。
 ディグリーというのは英語であって,いろいろな意味を持っており,アカデミックという言葉を頭につけないといけないが,ランクとかステップという意味。
 長くヨーロッパのユニバーシティーは学士課程のレベルを持っていなかったため,ステップのことを問題にする必要はなかった。したがって,こういうランクの意味のディグリーという言葉を無理に使う必要はなかった。
 ところがアメリカでは,ディグリーとしての学位が発達したところであり,そういう意味でアメリカの大学の根幹は学位プログラムから構成されていると思われる。それは垂直・水平の関係で表される。
 垂直には,”Undergraduate: アンダーグラデュエート”と” Graduate: グラデュエート”という言葉がある。グラデュエートというのは,日本では大学院と訳しているが,元々の意味は卒業者・卒業という意味で,当時の”College: カレッジ”,” Bachelor: バチェラー”レベルを卒業した者をグラデュエートといったことに由来。このグラデュエートがさらに勉強する”School: スクール”ということで,グラデュエート・スクールという概念があった。学位プログラムの説明をするときは大学院という概念は少し邪魔であり,直訳で卒後課程と言っている。
 それに対して,アンダーグラデュエートという概念もよく使われている。これはグラデュエート以下なので,卒前課程と訳している。それぞれに准士(Associate Degree: アソシエイト・ディグリー),学士(Bachelor’s Degree: バチェラーズ・ディグリー)となる。アソシエイト・ディグリーを日本の学位制度に無理に当てはめると短期大学士になるが,あまりにも訳語から離れるため,准士という言葉を使っている。垂直には准士・学士・博士・修士という学位がある。
 水平には,リベラル・アーツ分野とプロフェッショナル分野で,この学位プログラムの作り方が相当違うということがある。学士・准士に含まれる一般教育という概念があるが,これもリベラル・アーツ学部が提供している。
 リベラル・アーツと職業分野の区別に関しては,カーネギー分類の中にある「リベラル・アーツ専門」と,「職業専門」において,学士についての分野を示している。例えば,医療分野は,アメリカではいわゆる大学院レベルにしか存在しない。カーネギー分類を活用すると,” Liberal Arts: リベラル・アーツ”というのは日本では一般的に「教養」と訳してしまう。もちろん自由総合研究みたいな教養というイメージに近いものを持ってはいるが,その大部分は物理学等,我々が専門と言っているもので,リベラル・アーツ・ディシプリン,リベラル・アーツ専門という概念がある。
 日本の場合,理学部,文学部,経済学部等で学士として教育された者が,直接職業能力を持っているわけではなく,その分野の知識を持っているということである。それに対して農業から,工業等は,社会に対して直接職業として働く基礎,あるいは,能力を持っている者を育て上げる分野ということで,分野の区別によって学位プログラムの構成がかなり変わってくる。
この学位プログラムをアメリカの中で成り立たせている要因は,教員組織と学位プログラムが一体ではないということによる。学位プログラムというのは,あくまで学生のほうの概念。学位というのは学生がとるもので,先生がとるものではなく,学位のレベルに応じて先生の研究が違うわけでもない。
 研究というのは真理の発見だとすれば,1つのレベルしかないわけで,それを成り立たせているのが”Department: デパートメント”である。基礎単位は,デパートメントであり,学位プログラムの責任単位になっている。デパートメントでは,教育も研究も担当し,”Discipline: ディシプリン”を共通する学問分野,ディシプリンを共有する人たちが集まるところ。授業・研究の内容がわかるので,デパートメントが人事を行う権限を持っている。
 色々な教員集団は他にもあるが,これは人事権を持たず,あくまでディシプリン,その学問内容がわかっている人たちに人事をさせるという形になっている。また,予算配分の基本単位もデパートメントである。
 デパートメントは一応直訳で学科と訳しているが,日本のように,学士課程レベルのものだけを学科,大学院では研究科とするような区別はアメリカではない。学生の勉強するプログラムに卒前課程,卒後課程があれば,その学科で担当するということ。
 ただし,デパートメントが単独で提供している学位プログラムもあれば,複数の学部や学科が共同で,ディシプリンを超えて提供する”Inter Disciplinary: インターディシプリナリー”な学位プログラムがある。
 学生の側から見ると,日本の場合は学科や学部という入れ物に学生が入っているという格好をとるが,アメリカの場合は,学生はプログラムに従って勉強しているため,可能な学生は2つのプログラムを一緒に履修するというようなこともできる。
 これを運営する組織というのは,一番の基礎は学科である。ただし,インターディシプリナリー・プログラムを運営する場合は学科の責任では行えないため,学科を越えた委員会をつくるということで運営する。
 また,学科に完全に運営を任せているのかというと,各学部の長が判断権を持っている。さらに特徴的なのは,先ほどのグラデュエート,アンダーグラデュエートのレベルで,それぞれ卒前課程,卒後課程の責任者を置き,全体のコントロールをするという形になっている。
 もう一つ,”Academic Senate: アカデミック・セネット”というものがあり,”Faculty: ファカルティ”の権限で教学事項の公式の勧告権を持っているところがある。先ほどの学位プログラムで言うと,プログラムとか学位とか入学要件に関する一般的な方針や,学内で学科に任せ切らない質管理のシステムを持っている。
 具体例で示すと,ハーバードの場合,”Graduate School of Arts and Sciences: グラデュエートスクール・オブ・アーツ・アンド・サイエンス”というのは,アンダーグラデュエートの”Harvard College: ハーバードカレッジ”と並んで,学芸・科学学部(Faculty of Arts and Sciences: ファカルティ・オブ・アーツ・アンド・サイエンス)の中にある。これで大学院というのが別にあるのではないということがおわかりいただけると思う。他にビジネススクール以下,プロフェッショナル系のものが並んでおり,学芸・科学学部が,先程の分類で言うリベラル・アーツ系であり,その他がビジネス・プロフェッショナル系となる。
 イェール大学では,農業,建築から,芸術といったあたりが,プロフェッショナル・スクールという概念でくくられていることを示している。
私立ばかりではなく,州立ということで,UCLAの例では,”College of Letters and Sciences: カレッジ・オブ・レターズ・アンド・サイエンス”に対してプロフェッショナル・スクールが並立していること。ただし,この大学の概念では,ヘルスプログラムについては,プロフェッショナル・スクールとは別に示している。
 さらに,UCLAの学位プログラムの運営についてお示しする。”Dean: ディーン”という言葉,これは学部長と訳してしまいがちだが,学部という入れ物の単位についた名前ではなく,元々はディーンすなわち”ten: テン”,「10人の長」という意味で,そういう意味では「位(くらい)」のような意味。見ていただきたいのは,”Division of Undergraduate Education: ディビジョン・オブ・アンダーグラデュエート・エデュケーション”という,学部長と同様の権限を持ったアンダーグラデュエート・エデュケーションの運営者がいるということ。
 学位プログラムについて見ると,カレッジ・オブ・レターズ・アンド・サイエンス,これはリベラル・アーツ系のもので,実はここはUCLAの組織の中で一番大きい。その他のプロフェッショナル・スクールは分野ごとに分かれ,それぞれは小さくなるが,カレッジ・オブ・レターズ・アンド・サイエンスは,大きな構成を持っている。実際はその中で,ディビジョンを4つぐらいに分けているが,組織として示す時には一緒にカレッジ・オブ・レターズ・アンド・サイエンスの中に並んでいる。  カレッジ・オブ・レターズ・アンド・サイエンスには34学科(デパートメント)が存在するが,同時に,デパートメントが共同の委員会を作って学位を出している,24のインターディシプリナリー・プログラムがある。”African Studies”,M.A.(マスター・オブ・アーツ),あるいはその下の”Afro-American Studies”のB.A.(バチェラー・オブ・アーツ),M.A.というものは,インターディシプリナリー・プログラムということ。”Anthropology”(人類学)B.A.,B.S.(バチェラー・オブ・サイエンス),M.A,.Ph.D.(ドクター・オブ・フィロソフィー)は,デパートメント自身が学士から博士までの学位を出していることを示す。
 1つのデパートメントでも幾つかの学位プログラムを持ち,違ったレベルの学位を出しているということがおわかりいただけると思う。
 専門職学部のプロフェッショナル・スクール,”David Geffen school of Medicine”は,1学部プログラムと書いてある,M.D.(メディカル・ドクター)が医学部の学位プログラムの中心となっている。この医者を育てるプログラムというのはスクールワイド,つまり学部全体で担当している,デパートメントごとに出しているもの。その他のデパートメントが共同して出しているものが水色ということでお示ししている。
 教育のグラデュエート・スクール”Graduate School of Education and Information Studies”については,”Moving Image Archive Studies Interdepartmental Program”があるが,これは学科間プログラムであり,劇場・映画・テレビ学部と共同で出している,インターディシプリナリー・プログラムである。
 エンジニアリング,“Henry Samueli School of Engineering and Applied Science”は,構造上沢山のデパートメントが存在しており,リベラル・アーツ系に一番近いと言われている。ただし,エンジニアリング・スクールワイド・プログラムという,学部全体で出しているものもある。こういうエンジニアを出す理由というのは,おそらく,アメリカで法科大学院をつくったときに,ロースクールの入学者は事前に法律ばかりをやってきた人だけではなく,エンジニアリングをやってきた人など,色々な分野が入っている。そのため,専門的な知識を持った法律家が育てられるという議論があったが,それを生み出すのはこのようなプログラムがあるからだと思われる。
 マネジメント,“John E. Anderson Graduate School of Management”はシンプルに,MBA等のマネジメントの学位しか出していない。他には,ロースクールもJ.D.(ジュリス・ドクター)が中心で,ドクターとマスターは別に出している。やはり1学科1学部の構成で出している。
 それから”School of Public Health”,公衆衛生学部と訳すのだろうが,5学科に加え,学部プログラムも持っている。1つ特徴的なのが,左下にある”Environmental Science and Engineering Interdepartmental Program”で,これは12学科,4~5学部が参加しているようなインターディシプリナリー・プログラムを提供している。
 先ほど触れた質の担保のためには,アカデミック・セネットが大きく寄与している。アカデミック・セネットは,先ほど専任教員が構成すると申し上げたが,まず,”Ladder-rank Faculty”,基本的にテニュア・ファカルティと考えていい。その他,UCLAの場合は,プレジデント(presidents: システムの長),チャンセラー(Chancellors:UCLAの長),それからディーン(Deans),プロボスト(Provosts)が加わって構成されている。この人たちは皆,アドミニストレーションの機能とアカデミシアンの機能と両方持っているので,ここでいうアカデミックにかかわるということ。
 UCLAでは,このセネットとアドミニストレーションの関係というのは,ティーチング,スカラーシップ,サービス,アカデミックにかかわることは,セネットの役割だということになっている。
 我が国の学位プログラムの在り方については,日本の学位プログラムを考える上で,学校の考え方を少し転換しないといけないと思う。
 広辞苑によれば,「学校」とは,教育を行うところ,施設となっており,場所を指す。語源から言っても「学」という字は草ぶきの建物,「校」という字は柵であり,場であり入れ物というイメージとなる。英語の”School”というのは,もちろん場所という意味にもなるが,制度や人の集団,あるいは教育の課程そのものを言っており,「アメリカに大きいグラデュエート・スクールがある」と言ったときに,日本人は,入れ物として大きな大学院があると考えてしまう。スクールの語源から言うと,これは余暇という意味で,そういう意味で時空を占める知的な組織行為と考えるべきもの。
 学位プログラムを考えるときは,その「教員と学生の行為」をどう動かすかということを考えないと組み立てられない。プログラムという概念自体がこれから起こることを事前に設定しているということであるため,スクールというのは,学生と教師が織り成す知的な組織行為の集合体であって,その中の学位プログラムというのは,今説明してきたような,それぞれのレベルの分野の学位を目指す者に用意された知的な組織行為。学生の学位の能力を養うようなプログラム化された学習活動ととらえるべきだと思う。
 学位プログラムの導入で,どんなメリットがあるのかということについては,そういう意味でプログラムと教員組織とはイコールではないということが明示される。また,漠然と専門を教えればということではなく,学士というアウトカムにとって,それぞれの学問がどういう意味を持つのかということを考えられるということがある。
 改革の方向としては,学部・大学院という入れ物的な発想ではいけないということ。大学院大学でも同じで,教育部と研究部に分けて,教育と研究を分類・分離したという考えに基づくが,実際のところは教育部に居る博士課程の学生は研究を行うわけで,そういう分類・分離が成り立つわけではない。
 これは,入れ物単位で発想をしているからであり,学位プログラムの考えに立てば,ディシプリンごとに学科が存在し,それらが単体で,あるいは共同で,あるプログラムに対して教育を提供するという形になり,それに応じた教員組織になる。
そうすると,教員組織の基本を維持したまま,またはディシプリンに基づく基本的なプログラムを学科として維持したまま,学際分野や一般教育を含む多様なニーズの教育を提供できる。
 今回の諮問における,多様なニーズに対応する大学教育を構築する上での制度の議論だとすれば,学位プログラムの考え方というのは,それに沿う方向になっているのではないかと思う。
 学位プログラムで言う「学科」が今,必ずしも形成されていない。工学部等は実際上形成されていると思うが,そういう発想ではなくなっている分野もある。やはりディシプリンに基づく研究の推進,教育力の向上ということを経て,学科が構成されなければいけない。
 それを前提に,学位プログラムの質の担保の構築が必要。今の議論は設置認可をどれだけ厳しくするか。それから認証評価でどれだけ厳しくするかという,外部からの評価の強化を言っているところだが,まず一番にすべきことは,大学自身の中で担保するシステムの構築である。先ほど紹介したように,学科に任せるのではなくて,卒前・卒後課程のディーンがいて,大きな方針は大学全体のアカデミック・セネットで定める,という体制を前提にした上での外部評価が必要。学生に関しては,プログラムを学生自らがこなしていくことになるため,学科に所属していれば何とかなるということではなくなる。学生にとっては非常にメリットのあるシステムであると同時に,学生が自ら選択し,判断していく部分が増えるため,それを支援するシステム,アドバイジング体制が必要。
 GPAについても,成績を厳しくつけるためのシステムのように言われるが,元々は,ポイントアベレージを出すことによって,学生の進行状態がわかるというのが第一でつくられたシステムだと,私は思っている。
 また,今のように入れ物の学生数や定員で決まっているような,入れ物に対する財政配分システムでは幾つかの問題が出てくるのではないかということで,学位プログラムの実施に対応するファイナンスシステムの構築が課題かと思っている。

(4)舘委員の発表に基づき,次のとおり,質疑応答が行われた。

(○:委員,◎:意見発表者,●:事務局)

○ 今回議論されている学位プログラムを導入することにより,何がどうかわるのか,また,どのようなメリットがあるのか。

◎ 自分の理解で言えば幾つかの側面があるが,一つには「学生の視点」を重視した制度が構築されるということが挙げられる。大学で学生が勉強する,というところを見るには,学位プログラムという概念で考えるのがよいだろうということ。学位は,現在の学部学科・専攻という制度では,すでにある学部・学科,専攻科という組織の中に学生が入ってきて,出る際に結果としてもたらされるものとして位置づけられるが,学位プログラムの考え方では,大学が学位を授与するのに必要な教育課程で構成されたプログラムのうちどのプログラムで勉強をしてきたか,という意味合いになる。
 また,様々な制度上の整理が進むと思われる。現行は大学と大学院で別の設置基準が存在するが,これはアメリカの考え方で言えばプログラムのレベルの違いであって,大学と大学院という入れ物の違いに関しての論議が,学位のプログラムが違うのだということに整理されるということ。
 また,例えば,科目等履修生も単に「学生」と呼ばれ,普通に入学している学生との区別がはっきりしないため,普通の学生が法令上にも存在しない「正規学生」等という言葉で整理されることがあるのが現状だが,学位プログラムを導入することで,「学位を与える課程に在籍している学生」と「そうでない学生」という区分けに変えることができれば,制度上,学部の名称等も含め,非常にすっきりしたものになると思う。
 アメリカでは,同じものを指してスクールと言ったり,カレッジと言ったり,ファカルティと言ったりしている中で,学位プログラムに基づく整理でやっている。逆に日本できちんと整理ができれば,アメリカ以上に効率的な制度になると考える。

○ アメリカではアクレディテーション,例えば工学分野におけるABET(Accreditation Board for Engineering and Technology)等により,学位プログラムが機能しているが,まずこのアクレディテーションのシステムと,学位,ディグリーとの関係はどうなっているのか。もう一つ,こういう形でばらばらと大学ごとに行っているアメリカ型のアクレディテーションと,欧州のボローニャ・プロセスによる3段階の学位の標準化の動きとは,今後どのように折り合わせていくのか。例えば,アメリカで得た学位がヨーロッパで通用するか,といった話はどうなっていくのか。

◎ アメリカでは学位授与に関する考え方が違う。日本では学科・研究科・専攻等の単位で新しいことを行う場合,文部科学省の認可が必要だが,アメリカの場合,例えば,新たなプログラムが学士の学位に相当する内容なのかどうかということは,一義的には「学位授与権を持つ大学」が自ら判断する。ヨーロッパでも同様だが,自分たちで学位を管理するシステムを持っているということが前提で,それに対する外部評価があるということ。ただし,よほど有力でプログラムの内容に関する判断が自身で可能な大学でなければ,勝手にプログラムを作ることはない。同時にアメリカは,アクレディテーションを受けられないような大学も多く,ディグリーミル等の問題も存在する。しかし,日本でいう大学で言えば,こういうことになる。
 ABETその他のアクレディテーション機関は,全てプロフェッショナル・スクールに対応しており,リベラル・アーツとは違うもの。例えばアカデミックの部分では,「社会学の在り方はこうである」ということは決められないが,職業分野では職業人として活動するため,その在り方がある。そのため,リベラル・アーツとプロフェッショナル・スクールで違う考え方をすることが必要になる。
 ボローニャ・プロセスとアメリカの学位制度の関係では,ヨーロッパがアメリカに追いつくためにという考え方で始めた取り組みであることから,アメリカのディグリーが通用しないということはないと思う。当然,アメリカとヨーロッパの共同ディグリー等の取組も進んでいると認識している。

○ 日本の大学というのは,帝国大学を元にして,法・医・工・文・理の5学部から。その中で文と理がリベラル・アーツにあたり,当初はリベラル・アーツとプロフェッショナル・スクールが一緒に出発したもの。その後農学が増え,経済学が法学から分離したり等はあったが,基本的には専門学部制の枠を捨てていない。そのためほぼ全てが学部を単位とした制度になっており,学位プログラムの導入はこれらすべてをひっくり返す話で,色々と議論をせねばならない。
 日本の専門学部制はそこに,ある学問分野があって,その中が学科に分かれていて,教員も学生もそこにくっついている。特に,専門教育と,アメリカ的なアーツ・アンド・サイエンスの部分をどう分けるかという議論をしないと,なかなかアメリカ型には進まない。教員の意識は専門学部制が前提になっているため,各プログラムに教えに行く,という発想になかなかならない。
 また,新設される学部については,専門学部なのかどうかも判断できないものも多い。アメリカ的なアーツ・アンド・サイエンスに近いような中身になっているのかも知れないが,色々な名称があるが,学位が500から600あるというがかなりの部分は,この新設学部から出ている。
 そのため,伝統的,ヨーロッパ的な専門学部制をとっている大学と,それが色々な意味で崩れている新設の大学,学部とを一括して扱うというのは,非常に難しい問題があると思う。長い間ヨーロッパ的なやり方をやってきた日本に,有る意味アメリカ的なシステムを入れている大学が出てきて,どちらに向かうべきかという話。
 全面的にアメリカ的な形としていくためには,ヨーロッパ的な大学の仕組みを突き崩さねばいけないが,非常に難しい。我々の意識の中にビルトインされているものはヨーロッパ的な大学の理念だからかもしれない。
 学位プログラムの導入を考えるにあたっては,どこに,どういう形で入れるのかをかなり慎重に検討しないと混乱が生じると思う。

◎ (アメリカの専門学部制は)UCLAの“School of Nursing”では,学士,修士,博士まで学位を授与しており,専門教育といっても全てが修士・博士レベルではなく,学士レベルで想定されているものもある。そのため,同じ学士でも,看護の学士課程とリベラル・アーツの学士課程では,相当プログラムが違ってくるということになる。
 リベラル・アーツの分野では,”Arts and Science”の学部の中に,専門学科,専門学部の集まりがあるような形。各々の学部がディシプリンを持っており,複数学科等が共同でプログラムを提供できるような構造になっている。 学科がプログラムに対応して,色々な科目をプログラムに提供するという形で行えるようになっており,学部等で固定しないですむということになる。

○ 我が国でも,学位プログラムの考え方を導入して取り組みを始めている大学が現に幾つかある。舘先生の所属する桜美林大学もその一つで,私立,国立でもそれに近いようなことをやっている。我が国でもうまく考えれば,学位プログラムの考え方を実現していくことが可能ではないかと考えるが,例えば,そういった先行事例の紹介をしてはどうか。

○ 学位プログラムに関する議論の経緯としては,平成17年の中央教育審議会答申「我が国の高等教育の将来像」で提起され,今回の諮問で更に問われている。この大学分科会では,学位プログラムを日本で導入する場合,どういう方向になるのかというのを検討するための場。委員の皆様には,まず一人ひとり「日本における学位プログラム」の在り方について,今の舘委員の発表,アメリカの事例等を踏まえ,考えていただきたい。
 こういう議論を積み重ねて共通理解をまず作らないことには,何も進まない。

○ 国立,私立を問わず再編・統合の中で,学位プログラムに類似した取り組みを進めている大学がある。例えば,金沢大学や新潟大学では,人文社会系の学部の再編・統合を進め,今までの学部学科制を廃止しているところもある。まだ始まって間もなく,学生や教員の感想はよくわかっていないところだが,こういった例を参考に,日本においてどのように学位プログラムを導入することが適当かということも提案していただけるとありがたい。

○ 欧州やイギリスの工学分野では,約30年前はエンジニアリング・サイエンスと言って良いような、私が憧れるような極めて程度の高いベーシックなカリキュラムに基づいた教育を行っていた。しかし、近年は,非常にプロフェッショナル志向が強くなり,舘委員の発表にあったような,複数の学問領域にまたがるプログラムが非常に増加している。
 工学分野については舘委員の発表にあったように,日本ではそう苦労せずに学位プログラムを導入できるのではないか。

○ アメリカでは「学位」とは何を指すのか。そもそも”Bachelor’s Degree”とは,何をもってどういう基準で”Bachelor’s Degree”と言えるのか。
 「ある学問の体系を一定程度修めた」ということなのか,プロフェッショナルなプログラムであれば,「特定の職業のスキル・知識を一定程度持っている」ということなのか,「社会のニーズに応えるような,いろいろな活動をしていくときの原点となる」ようなものなのか。
 日本の場合は,学部が非常に強固な存在。例えば,学部が現在の状況のまま,プログラムを出店のように捉えて科目を提供すればいいと誤解し,「何とか学」のような講座を開くようなことと思われても,何のために導入したのか分からなくなる。
 そういうことから,”Bachelor’s Degree”とはいったい何なのかということを伺いたい。

◎ アメリカでは,カレッジ教育の時代は全寮制でやっており,学士の意味合いが明確であった。1960年代に大学教育が政治活動等によりガタガタになった時に,アメリカの場合は文部科学省のような国のしっかりした機関がないため,カーネギー財団を中心に,大学関係者が徹底的に「”Bachelor’s Degree”とは何か」というキャンペーンを張り,その時に形成された大学人としての共通理解が現在も残っていると思われる。
 資料では学士の横に書いてある「広さと深さ」を相応に持つことと書いたが,”Bachelor”には「広がり」もなければならず,ただの職業訓練だけではいけないため,リベラル・アーツの部分が相当必要であるということや,与えられた知識だけではなく自分で考える力をもつことなど,”Bachelor”に対する大学界の共通認識を作った。漠然とした共通理解だが。また,「深さ」の中には,リベラル・アーツ的な深さと,職業的な深さがあるということで,こういう構造になってきたと思う。

○ 新しい”Bachelor”のプログラムを作るときに,どのくらいの内容であれば認められるのか。今後大学間競争の中で,奇をてらった,人目を引くようなプログラムも出てきかねないと思うので,「このような内容の課程は”Bachelor”の課程としてふさわしくない」と言えるようなものはあるのか。

◎ アメリカでは,学位プログラムは,アクレディテーションにより,認定を受けることができない課程は価値がないという考え方で質が担保されている。機関に対する評価の仕方としては,専門学部の部分をきちんと見ているというよりは,リベラル・アーツ型のプログラムがあること,主専攻は一定の体系性を持つことといったところを見ている。
 ただ,アメリカの場合は幅が広く,4年間古典教育を行っている”Bachelor”もある。そういう多様性を,アメリカの教員は命がけで守っているというのが実態と思う。

○ 学生の観点に立つということはよく分かるが,現在日本の教育の基盤はやはり学部・学科。その中で,学位プログラムの考え方を踏まえ,どのようなカリキュラムを編成するかということが重要で,今発言のあったような何かしらのベースがないと極めて現場が混乱してしまう。個人的には,領域ごと,分野ごとである程度,コア・カリキュラムのようなものがベースとして必要ではないかと思う。そうした視点での議論が必要。

◎ 学位プログラムは,そうした内容を含んだものと考えている。設置認可の話でも出たが,今の大学に関する議論においては,抜け穴を通ってまで大学を作るという部分のコントロールに関する制度・概念を,あらゆる大学に広げているように思える。
 学位プログラムの考え方に基づく取組を始めている大学もあり,桜美林大学もその一つだが,例えば,入学定員・収容定員と私学助成が連動しているため,思うように改組ができないということもある。
 考え方としては,大学全てが学位プログラムを導入しなさい,という方向ではなく,学位プログラム導入の方向で進みたい大学が,実際に取組を行うことができる制度になっていることが望ましい。そういう大学には内部で学位管理システムがしっかりしていること等という条件をつけてでも取組が進められるようにしないと,一番何の管理もできないような大学を基準に,外から質を担保するようなシステムに全部当てはめるというのは,ちょっと違うと感じている。

○ この学位プログラムのテーマについての今後の議論のスケジュールはどうなっているか。

● 学位プログラムワーキンググループで論点を整理の上,再度大学分科会に提示し,御議論いただくことを考えている。

○ 学位プログラムは,設置基準等他の事項にも関わる事柄であり,大学分科会の委員に共通理解を持っていただくまではある程度の議論の時間が必要。事例の研究等についての時間も設けられれば良い。
 ワーキンググループからのフィードバックは,なるべく多いことが望ましい。

● ワーキンググループで国内の先進事例の調査,課題等を整理した上で,改めて分科会で御議論いただきたい。

○ ユネスコが行っている国境を越える高等教育の質保証の取組において,今まで動きの鈍かったアメリカが最近になり,活発に動き出した。ディグリーミル問題が背景にあるものと思われるがが,最近の会合においても「ディグリーミルとは何か」、つまり其の定義が大きな問題になった。学位の質が低いものもディグリーミルという扱いにすべきではないかという議論もあった。
 アメリカでは,アメリカの大学教育が国際的な通用性を喪失し,アクレディテーションも既に機能していない,という激しい内容の報告書が出るなどしており,世界的にも高等教育の質の問題は混迷の度合いを強めている。
 そういう状況であるからこそ,日本として自分たちの教育の質の保証はどうあるべきかということをしっかりと話し合っていくことが非常に大切。

○ 大学院部会でも申しあげたが,大学の設置については性善説ではもう駄目だと思う。
 中国では,留学先として日本は三番目であるが,米・英に負ける理由は,留学先できちんと教育を受けることができないから。まずきちんと大学自らが教育することが重要。
 ハーバード,イェールというアメリカのトップの大学が行っているからといって,そのやり方を日本の全ての大学に適用させるのはいかがと思う。

○ 学位プログラムは大学の教育研究の質を担保,向上させるために行うのであって,それができないならばやる意味がない。大学が質の保証を自ら行うことが重要であることと,非常に厳しい状況であるということがよく分かる話。繰り返すが,是非ワーキンググループの議論の分科会へのフィードバックは,なるべく多くお願いしたい。
 なお,他の委員から,「ヨーロッパの事例の紹介」及び「設置審議会との関連」についても触れて欲しいとの意見が有った旨,申し添える。

(5)事務局より,「OECD高等教育における学習成果の評価(AHELO)に関するワーキンググループ」について報告があった。

(6)事務局より,次回の分科会は12月5日,次々回の分科会は12月16日に開催されることについて連絡があった。

(了)

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