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資料1
中央教育審議会大学分科会大学院部会
理工農系WG(第4回)平成16年12月14日

中央教育審議会大学分科会大学院部会 理工農系ワーキンググループ(第3回)議事要旨(案)


1 日時   平成16年11月29日(月曜日) 10時〜12時

2 場所   文部科学省10階 10F1・2会議室

3 出席者   中嶋嶺雄大学院部会長
(臨時委員) 相澤益男(座長)、天野郁夫、荻上紘一の各臨時委員
(専門委員) 有信睦弘、一井眞比古、井上明久、岩崎正美、小野田武、小平桂一、清水康敬、白井克彦、谷村秀彦、田村武、長田重一、中村健蔵、東島清の各専門委員
(文部科学省) 徳永高等教育局担当審議官、泉高等教育局担当審議官、杉野専門教育課長 他

 議事
(1) 事務局から資料について説明があった。
(2) 中嶋大学院部会長より挨拶があった後、次のとおり意見交換が行われた。

(○:委員、●:事務局)

 博士課程が大学の教員の後継者養成以外、ほとんどキャリアパスになっていない。また、論文博士には大反対である。
 絶対的なサイエンティフィックなレベルでいえば、先端的な企業では博士の後期課程修了者レベルのナレッジあるいはタレントが必要である。しかし、そういう人は、日本ではなかなか見つからない。特定の分野のタレントであれば十分であるが、企業の場合は仕事をその人のナレッジにあわせてお願いするわけにはいかない。そういう点でいうとあまりに幅が狭いということが1つと、社会の礼儀作法を含めた常識を知らないという点で、日本のPhDの人は社会で活躍するときに実際に大変なディスアドバンテージを持っているのではないか。逆にいえば、マスターレベルで沢山の優秀な若者が就職するが彼らは皆、ドクターが必要だと思っている。インターナショナルに仕事をするには、自分の経験でもドクターは必須で、そうすると大抵は就職してから論文博士をとればいいという意識である。確かにそのとおりで簡単にドクターは取れる。ただし、そこで取ったドクターのナレッジあるいは経験と博士課程で手に入れたものは本来違っているべきだ。システマティックな知識や経験というのはやはり、博士課程で手に入れるべきではないか。自分自身、マスターを日本で過ごしドクターを海外で過ごした。ドクターを海外で過ごした経験というのは、企業での研究者生活の柱になっているし、一番大事なものだった思っている。それは、与えられるあるいは望まれる知識の幅の広さであるし、自分はドクターの研究成果よりも単位を取得するほうに命懸けだった。そういう経験からも課程制の博士は意味があると感じている。
 博士課程の内容を充実させるということが、博士課程卒業者の職業の幅を広げる可能性という意味からも是非この機会に論文博士を廃止するにふさわしい、後期課程の体制作りをしてほしい。ただし、研究者養成と高度専門職業人養成は、新しい時代では、分野によっては分けた方がいいのかもしれない。研究者養成は、目標は違うが企業における当たり前の研究とそんなに変わらない。多少、幅の広さがないと、どうにもならないがそのこと自体はそんなに大きく変わるものではない。そういう意味でいうと、研究者養成のラインでも、企業の先端的な研究者としてのメインルートになってほしい。

 大学にいるアカデミアの人間としては、非常に厳しい意見が出たと思う。ひとつ賛成できる点は論文博士を廃止すべきだということ。完全に廃止すべきだとは思わないが少なくても、もっともっと難しくするべきだと思う。課程博士が5年間やってもできなくて、あと何年間かやってはじめて博士になっていく。論文博士についてもそれと同等程度の基準まで持ち上げる必要がある。全くなくしてしまうのがいいのかはわからないが難しくするべきだろう。それから、我々の研究室では、自分のやっていることばかりではなく、それぞれの分野で今、何が行われているかということを積極的にセミナーなど、いろんな形で教えているつもりだ。それをもっと広くするということはどういうことなのか。それはコースワークということを考えているのか、実習とかあるいは講義とか。学生はそれほど熱心だとは思えないし、現状は、単にレポートを書いてくる形になっているだけ。マン・ツゥ・マンになり少人数のゼミみたいな形でやってこそ、はじめて教育ができるのではないか。

 お二人の先生の御意見には賛成で、一番大きな問題は、修士では、授業で単位を取って教育を受けるということがあるが博士は、博士になった途端に修士でとった30単位以外、研究だけで済むという現状がある。また、学部を出て、修士を出ずに大学院に入ってきたら、修士課程の能力があるということで自動的に30単位を与えるというような例もある。やはり、後期博士課程できちんとした教育をするということがのひとつのポイントではないか。研究室に任せてという研究主体でない教育のあり方が重要。
 論文博士に関しては、厳しくするということもひとつの大きな点だが、やはり、大学に来てほしいと思う。論文博士を取るために、例えば1年以上は在学して、大学に来て経験してほしい。全く大学に行かずに論文だけの審査でということはやめるというような方向で。論文博士を廃止すれば修士を出た人でこれから取ろうと思っていた人の道がなくなる。厳しくするとか大学に行くという道を考えていかなくてはいけない。また、体系的な教育の観点では、研究者が大学ではなく他の企業で研究者として働く場合、また、高度専門職業人として他で働く場合というのは、理工系の場合、工学倫理とかあるいはチームワークとしての研究の在り方とか、そういった訓練ができる体制を大学は作り上げる必要があるのではないか。それは、各大学にそれを持たすというのは難しいと思うので、どこかの大学がそれぞれの専門となるところを作って、それをお互いに共有するようなプログラムを整備する。全大学で作るというのは大変。

 どういうドクターを出せばいいのかというのは、分野によって違うから簡単に言えない。世の中でどうしてドクターが必要なのか。昔の旧制のものから引っ張ってきているものもあるし、これから出していくべきドクター像もある。
 どうして世の中にドクターを出さなければいけないという初心がおかしいという気がする。基本的な研究をする能力をしっかり持った人、世の中の知的基盤をきちんと伸ばしていく素質を持った人を養成するというのがドクターの第一目的にある。もちろん専門職大学院とか性格がいろいろあるから、しっかり考えておかないといけないが、その差についても分野によっていろいろあるので注意深く考えておく必要がある。また、少なくともドクター課程の目的というのは、旧制を引っ張ってきたためにドクター課程でやる研究が、本来、その学問分野を伸ばすのに必要だというところを兼ねている。しかし、ここは致命的に欠陥がある。分野によっては専門的なこともあることは否定しないし、ドクター論文でいい研究を世界的にやったら、それは非常に好ましいことだが、それをやることを目標にするというのはちょっと違うのではないか。一緒にすると、いつまでもこの議論は果てない気がするし、どちらかに完全に分ける必要はないが、どっちに重点を置くんだということをやらないと、いつまでもドクター課程というのは何なんだ、ディグリーというのは何なんだというような話になるのではないか。要するに、あなたがやった研究の業績がディグリーに値するというのが今でも大きく残っているところに問題があるのではないか。全体の研究基盤を上げるということに役に立つような人をきちんと、あるいは、スキルを持っている人を育てるということがまず第一の目標だということであれば、そこのところの重点化しっかりとやらなければいけない。そういう意味で、論文博士というのはもう廃止してもいいというのは自分も賛成だ。ただ、いろいろな研究機関でやられてきたことに基づいて学位がとれるようなある種の訓練をやれば、学位が取れるということは必要だと思う。もう1つ、ドクターを取った人の多くは学校の先生になる。その人たちはドクターを持っているが、果たして学部教育をやるのに適しているかあやしい。大体ドクターを取った多くの人は、自分が学位を取ったのと同じような世界を自分の周りにつくることが理想である。これは必ずしもハッピーなことではない。職業選択としても問題があるかもしれないし、教えられるほうも問題だというのを、これまでに出てきた高等教育で問題点のひとつかなという気もする。ドクターの目的というところで、その2つがあるのではないか。そこを直すような改革が必要ではないか。

 御指摘のような問題点が生じている原因ではないかと思われるものとして、現在の大学院のシステムが基本的には研究科専攻という構造になっていて、さらに教員の組織と学生の組織とが一致している大学院が多い。最近はそうではないケースも大分増えてきているが、多くは研究科専攻といって教員と学生が同じところに所属するという形になっている訳で、これは大学院の教育課程をフレキシブルなものにすることにとってかなり障害になっているのではないか。そういうところに制度上の問題があるのではないかと思うので、教員の所属組織と学生の組織とを分けて、学生に対しては教育課程としてのプログラムをきちんと組んで提供するという形を見ていて、大学院の基本的な形態にすべきではないか。教育課程というプログラムの観点からすると、研究科専攻というリジットな組織だとなかなか実現しにくいのではないか。

 同じような意見になるが、高度研究者養成のために修士・博士5年間の有期的な前提の下で一貫した教育課程になっているが、修士の人が卒業していったときに高度専門的な職業人養成の課程は終えているが、博士課程になっていったときに幅広い基礎教育、さらに副専攻というか、そういうようなことが、最後の3年間は研究のほかに新しい修士の人が惹かれるような、あるいはもっといくと基礎学力の充実が図られる、そういうカリキュラムの在り方があってもいいのではないか。それと同時に積極的な幅広い基礎教育、副専攻制を導入して、単に博士論文だけが単位というものではなく、最後のときに外国でもやられている行動試験というか、基礎学力の充実、副専攻などで確かに幅広い教養があるという者がドクターとして出ていくということが、一般社会にも認知されると企業側の対応も大きく違ってくるので、そういう大学院のあり方というのが重要。

 既にもう御指摘があるが、1つ目は教育と研究の関係で、研究しているプロジェクトと教育のプログラムを分ける必要がある。組織行動的に研究者として属する組織と、教育の場での組織を分けて考えなければいけないと思うが、今の教育の大部分には、博士課程というのは教育と研究一体だというフンボルト以来のイメージである。そのためにごちゃ混ぜにされているところがあって、そこの教員の意識を意識をを変えていくファカルティ・ディベロップメントを相当やらないと組織改革、構造改革というのでは、うまくいかないのか。
 2つ目の高い研究的資質を持った人材、これは企業であれ大学教員であれ、高い研究的資質を持った人材の区別はないのではないか。その一つとして、広い知識基盤と広い視野というものが欠かせないと思う。本来だと、アメリカのPhD教育のように人格形成期に教養教育を積むということが必要だと思うが、日本の場合、そこが不十分な状態で、大学院に入ってから広い視野をつけるとなったらどうするか自分なりにいろいろ考えているがこれは相当工夫が要るのではないか。教養教育に近いものを24歳、25歳なってからやっても、人格形成がある程度進んでいるので、副専攻というか、メジャー・マイナーにしてみたら、メジャーは自分の論文にまとめていくだけでやるとしても、マイナーをある意味では必須科目的に、ある種のコースワークをとらせるという工夫も必要ではないか。
 最後に、論文博士については、確かにもっと厳しくしなくてはいけないが、修士で就職していく場合には、今の博士課程後期に対する経済支援は非常に脆弱なものなので、まず就職して働いてというふうになりがちなところがあるわけで、論文博士を廃止するのであれば、一方では博士後期課程の教育支援を強化しなくてはいけない。これはいろいろなところで指摘されるが、OECDの調査があるたびに、日本のGDP比較で高等教育への公財政投資が0.5とか0.6とか、OECDに比べて低い。本当に社会に役立つ人材を高等教育で出していくためには、抜本的に産業界、国、アカデミアの3つがお互いに支えながら進んでいけるトリプル・ヘリックスをきちんと組んだ形で、三者のヘリックスが持続的に向上できる資金の回りぐあいを抜本的に考えないと今いろいろいわれている改革も今の厳しい財政状況の下で改革をやっていくというのは無理なのではないか。

 ちょっとお考えを伺いたいことがある。博士課程で体系的な教育課程を確立しなければいけない。そのためには修士課程と博士の前期課程の性格をどう考えるかという問題もあると思う。これを仮に制度的に準備するとしたら、今の大学の理工系の教育の現実の中でそれはどのように可能なのかということが1点である。その場合に問題になってくるのは、専門職大学院制度との関係で、今、専門職大学院制度は、ほとんどが文系の学部だけで、MOTは必ずしも文系とはいえないのかもしれないが、大体は文系のビジネスマネジメントだけだが、将来的に考えれば工学系の専門職大学院ができてもおかしくない。そういう専門職大学院の移行の問題というのは、特に農工の関係者はどのようにお考えなのかということが2点目。
 3点目は、仮に論文博士を廃止するとして、学位をとりたいという人にどのようなルートを用意するのかということになって、今の理工系の大学院が社会人入学制度を大幅に導入すれば、ある程度解決される問題で、例えば1年間コースワークをしたらどうかという話もあったが、そういう社会人入学の問題について、理工系に関係する人はどのようにお考えなのか。この辺がはっきりしてこないと、この問題もなかなか具体的に考えるのは難しい。もし何か提案があったら伺いたい。

 いろいろ重要な御意見が出ているが、理工系、医学系、人文社会系とかなり違う。例えば、論文博士については、医療系は医者がみんなドクターで、それとPhDをきちんとした人とどのように区別するかという問題が出てくる。それから、自分は理工系の人の博士論文を見せてもらったことがあるが、人文社会系からいうと、いわばタームペーパーである。それで博士になっているわけで、普通、人文社会系は一冊の本を書くぐらいのもので初めて論文博士というケースが多いので、その辺のばらつきをどのように整合させるか。仮に論文博士をなくすと、博士課程の教育の内容を充実させないといけない。今の状況だと博士課程にいっても本当に基礎的な幅広い教養が身に付くかどうか、そういう教育がやられているかどうか、そこがアメリカ、欧米との決定的な違いで、私が自分の体験に照らしても教育のプロセスがすごく大事。学位も大事だけれど何年間の厳しいプロセスを経てPhDになるのと、日本のようにその辺の教育が非常に安易なのでそこをどのようにするか。その意味では、今回こういう形で博士課程の教育の中身をきちんと充実する方向になれば、論文博士をやめてもいいということになる。それからもう1つのルートは社会人とかいろんな形で開拓できる。
 先ほど出た博士課程の中で教養とか副専攻についてだが、今、単位が少なすぎるのではないか。修士課程は30単位で、博士課程は、自分が過去、大学で作った例は12単位でやれるというシステムで、柔軟になっているだけにスクールではない。すごく安易になっているような気がする。少なくとも、今、皆さんが議論しているような形でのグラデュエイト・スクールということを考えると、アメリカは凄い。そして、ファイナル・エグザミネーションもきちんとやるし、その辺の問題があるのではないか。

 今、いろいろ問題が出されたが、1つ重要なのは、アメリカのドクターコースで苦労したという話も恐らくプロセスの問題。従って、体系的に教育するべきものもそれぞれの並べ方によって解決する問題ではない。自分もドクターコースを出て会社に入ったので、自分の経験を考えてみると、ドクターコースではほとんど講義をとる必要はないけれど、決して勉強しないわけではなく、必要な講義があれば聴きに行くし、必要な講義がない学問分野だと輪講をやったり、関係者を集めて、山のように勉強しなければいけないことはあった。そういうことがプロセスとしてきちんとやられるようになっていることが重要。それは非常に難しい。
 また、「単位取得退学」という形で入ってきた人たちの中には、知識的に極めて優秀な人がたくさんいるが、その知識が全く現実の役に立たない。こういう人たちを様々な大学のドクターコースで輩出しているという現実がある。これはプロセスがきちんとしていないということの証拠である。だから、ものすごく難しいけれど、少なくても体系的にさまざまな必要な知識を与える場を提供する必要はないといっているわけではなく、当然必要はある。その場は作らなければいけないが、プロセスの部分をどのように充実していくかということを考えないといけない。
 会社に入った人たちにアンケートをしてみても、研究室の中で研究のやり方とか、先輩・後輩の間で散々鍛えられた部分が一番役に立っているということをいう人が多い。プロフェッショナルスクールの話については、工学系だけの話でいえば、例えばダブルメジャーのようなことで可能性はあるかもしれないが、もともと工学というのはプロフェッショナルを育てるという目的でしている部分があるから、ドイツのマイスターみたいな感じの育て方をしているところもあるし、エンジニアリングということはそういうことがあるので、そこは特別に必要はないだろう。
 論文博士の話について、企業の現状は、会社の仕事の中で論文を書いて、つまり大学で認めてもらうような論文を集めるというのは極めて難しい。最近よく行われているのは、社会人コースというのをさまざまな大学でトライアルしていて、そこで取らせる方法をとるということをやっているので、社会人コースの充実という中で考えてもらえば、企業サイドとしてはそちらに合流していけるのではないかと思う。ドクターコース等について、今ある問題の中で、もう1つは、あの人たちに対しては、ダブルメジャーというような部分ももっとフレキシブルにするとか、そういうことも考えるということと、プロセスをどういう形で埋め込んでいけるかということ。

 博士という学位が一体何のためなのか、目的は何かということについては、学問分野、専門によって違う。高度専門職業人養成という機能も必要であることは、いろんな分野で当然ある。理学系に関して一番の目的は研究者養成、後継者養成ということ。そういう観点から博士5年間でどういう体系の教育をするのか考えたときに、修士、博士前期の2年間と後期の3年間を分けて考える必要があるのではないか。現在、日本の大学院の場合、特に理学系では、一度修士に入ってしまうと、その先、修士から博士に進む関門があるようでいて、その後ほとんどフリーパスであるという状況。かつ、問題は修士に入ってすぐに研究の現場にたたき込まれてしまう。そこで講義を聴いているが、それほど勉強するわけでもなく、5年間何となく研究に専念して、論文を書いて出ていくというところがある。自分も国際共同研究でアメリカの学生と一緒にやっているので、どうしても日本の大学院生とアメリカの大学院生を比較してしまうがアメリカでは修士課程に相当するところでPhD候補者になるために、非常に幅広い勉強をして、厳しい試験、クオリファイ・イグザミネーションを通り、かつ、口頭試問を通って、その上で資格を得て研究の現場に入る。ただし、研究の現場に入ってしまえば、自分の大学で研究するという学生だけでなく、場合によっては外国に行き、そこでずっと研究をする、フィールドワークの必要な分野もある。そういう研究の現場になると、体系的な教育はなかなかしづらい。それを必須としてしまうと、実際に必要な装置、施設のある現場に行って専念するということはできなくなるのではないか。できるだけアメリカの方式に近づけて、修士課程では専門分野の一般的な知識を十分に得て、その上できちんとした試験を通り、資格を得て研究に専念するということが必要ではないか。
 論文博士の問題は、修士から博士にかけてのクオリファイ・イグザミネーションに通らない人は結局論文博士的なことができるわけはない。そういう資格認定をはっきりすれば、そういう資格を持った人は、博士課程は修了していなくても、後々きちんとした論文を提出してきたときは、それは考慮するというようなシステムが考えられるのではないか。自分の知っている人で大学院のコースはとってないが学問的には非常にしっかりしたことをやり、ヨーロッパの大学から名誉博士号をもらったという人がいるが、ヨーロッパの伝統ある大学の名誉博士号は大変な価値がある。そういう人をエンカレッジするようなことはやるべきだから、何らかの意味で、論文博士的なことも可能であるというようなシステムを考えるべき。

 日本の大学院教育がで外国に比べて疎かになっている面があるという御指摘があったが、それは結局のところ、現在の日本の修士課程の教育がちゃんとなってないということをいっているという気がする。博士課程の後期課程は少なくとも研究者養成とかレベルの高い研究だから、コースワークが非常に難しい面があると思う。自分自身は、少なくとも自分で何が問題かということを見つけて、それを解決するためにいろいろな困難を乗り越えて、最終的に論文まで仕上げるとそのプロセスが博士後期課程では大切だろうと思っている。それは講義ということではなかなか難しいことだ。問題は、修士課程が2年間用意されているが、多くの大学では入った途端に、その研究室でやっている研究を手伝わせるようなことをやっているところがある。ほとんどは1年間は基礎教育に費やしていると思うが、そこの修士課程を質的に改善することは自分も同意する。特に大きな大学の場合には重点化後、博士前期課程は非常にレベルダウンしている。そこで、提案されていたように修士課程から博士課程、あるいは、博士前期から後期へ進むところでクオリファイ・イグザミネーションに相当するものを厳格にやる。そういうことで、修士2年、あるいは、博士前期課程2年の間に幅広い知識を再び身につけてもらう。特に大学院に入ってくる学生は多様化しているので、バックグラウンドが必ずしも一様ではない。いろんな学部の人が入っているので、そこできちんとした幅広い基礎的な能力を身につけてもらう。その上で研究者を目指す人には、クオリファイ・イグザミネーションのようなものを経た後に博士後期課程へ進んで、そこからは研究に専念してもらう。ただし、希望すれば二重の学位をとれるような制度を考えることは非常に意味があると思う。それから、現在でもやっている、ほかの学科の単位をとって身につけていくということは、学生は自主的にやっている。それをもう少しエンカレッジする意味で単位数を増やすということはいいことだ。今、問題にされていたのは、博士後期課程のコース内容よりも、主に修士、博士前期課程がなっていないんだということを指摘されたんだと自分は理解して、そこを整えることを提案したい。
 学位に関しては、自分は物理学であるが、その分野ではあまり変える必要を感じていない。文系の場合には博士課程まで進んだにもかかわらず学位がとれずに本国に帰るという留学生がいたりすると、とてもいい訳できない。そこは理系並みにすべきだと思う。それから、専門職大学に関しては、私自身は、先程のお話と一緒で、理系自体が、工学関係はそういうことを目指しているので特に必要性は感じない。

 前期課程の教育といった場合に、それが前期だけで終わる人を想定した教育と、後期まで進学することを想定した教育とあり、理学系の場合はある意味では工学部と違って前期だけで修了するということをあまり想定しなくて、いわば全部、後期へ進むような教育でいいのか。あるいは、理学系の場合であっても前期だけで終わるような人も含めた2通りで教育課程を用意する方がいいのか。

 理学系であっても修士に入学してくる学生のかなりの部分は、博士には進まず、修士を終えて就職するという者が増えている。したがって博士課程に進むことを目指す学生と修士を終えて就職する学生の教育方法は違っていていい。特に修士論文を必須とするかどうかについて、修士で就職する学生にそれは必ずしも必須としなくてもいいのではないか。代わりに、就職するために必要であると思われるようなコースを考えてもいいのではないか。

 修士で卒業する人は、論文制作のプロセスを経なくてもよいのかと聞いたことがあるが、講義だけとか実験だけで育ってきた学生は、それを現実のものとして身に付けていない、そこのところが一番不安なところだ。だから、社会に送り出すときには、それを現実に使って自分のものとする研究スタイルを身につけた上で出したいというのが大学側の希望である。しかし、それをあまり多くやると、今のように修士1年の教育が終わったときには、自分の研究室の研究をやらされてしまうということになってしまう。社会の側で修士課程卒業者には研究経験を要求しないということであれば、修士課程というのは幅広い知識を身につける、基礎を身につけるということで割り切ってしまって一向にかまわないのではないかと思う。自分たちのところに限定すると、修士課程では世界の第一線の研究の現状を世界中を見渡してレビューしてもらう。独創的な仕事ではないが、博士後期課程にいったときに第一線に切り込めるような準備段階というふうに位置づけている。

 専門職大学院の考え方は、事実上専門職大学院化しているから関係ないのではないかという御指摘が特に理学系の先生方からあって意外に思った。理学系はむしろグラデュエイト・スクールであって、プロフェッショナル・スクールではないと自分は思っていたので意外に思った。工学系、農学系の問題も、専門職大学院化しているといいながら、実態はマスターコースで終わって大部分の人が就職するようになっているにもかかわらず、研究者養成的な大学院の考え方でこれまでやってきたところに問題があるのであって、専門職大学院制度というのは、学位制度を別にして、コースワークをきちんとやって実践的な職業人を養成しようという考え方に立っている。むしろ問題は、今の工学部や農学部が、その点にあまり自覚的でなくこれまでやってきたところの問題が今ここにきていると思うので、専門職大学院の問題は、既にもうなっているんだからということではないのではないか。今、例えば法学系は研究者養成のコースと法律家養成コースに完全に分けている。それが新しい考え方として登場してきたので、その辺についてもう少し御意見をいただきたい。

 それは大学による。我々の生命機能研究科は5年一貫できたが、今年初めていきなり「就職します」という人がいて、どのように教えていったらいいのか戸惑った。生命科学の場合、生命の不思議ということを見つけるためにどうしていくかということをちゃんとやっていける人がPhDだと思う、そういう人が大学でも必要だし企業でも必要だと思っている。そのために知識は確かに必要で、我々の生命機能研究科では半年間はいろいろな講義があって、それに全部レポートを出してと、すごく熱心にやる。それから、研究室に入って修士論文を書いて、最終的な面接までやって発表するということをやる。学生にとってはストレスだろうがちゃんとやっている。あとは、PhDのコースに入ったら完全に研究室に入るが、研究室によってそれぞれのやり方がある。ゼミをきちんとやっているところもあれば、かなりいい加減なところもある。それを上からこういうふうにしなさいというのは無理なのか。
 専門職大学院もある意味で必要なのか。ただし、それは別の組織にしてもらいたい。今は先生当たりの学生の量がものすごく増えていて、一人一人の学生に費やされる時間が前に比べたら非常に減っている。さらに専門職大学院を同じ組織の中に作ったら、また時間が減る。本来の意味の研究者なりPhDを育てることができなくなってしまうのではないか。我々の大学ではアンダーグラデュエイトの教育もやっているし、グラデュエイトの教育もやっている。その上でそういうものを作ったりすると、さらにいろいろ大変なことになるのではないか、我々も時間がとれなくなる。

 日本として教育のためにGDPのうちどれだけ注ぎ込むかという覚悟をちゃんとしないと、小手先だけの制度改革をずっと続けていると、どんどん国が疲弊するおそれがある。自分は理系だが、理系でも今のようにたくさんの方が大学院に進む時代には、修士卒でも世の中で活躍してほしい。ジャーナリズムやサイエンスコミュニケーターなどいろいろな仕事があるのだから。ただ、研究者を養成する途中で、大学院に入って最初の2年で広い基盤をつけようとしていて、研究能力のない人が修士で振り落とされるというようなスキームでは、ちゃんとした人材育成はできない。やっぱりそういうコースと研究者向きのコース、それがお互いの間で渡るということはあり得るとして、1つの大学の研究科の中にそういうコースを分けて設定するというのも1つの道ではないか。農学、工学だけでなく理学でも修士でやる人に専門性を持って社会に出していく努力をしなくてはいけない時代が来ているのではないかと思う。それから、前期と後期の分け方で、前期は一生懸命コースワークをやって、広い視野と基盤を教え、後期は研究室に入って徒弟的に研究に従事するというのはいかがか。後期で研究室の研究活動に埋まってしまうために、せっかく付けた広い視野がだんだん狭くなって出る頃にはポスドクにしかなれない、一回ポスドクになるとなかなか社会に出られないというような傾向があるのではないか。やはり、後期は研究室で一生懸命研究してくれというが、研究室で研究というものを身につけていくプロセスをファカルティーとしてきちんと議論して、どういう人材育成体制で臨めば深い研究的資質を持った人材が生れるかと、そこが、今、足らないのではないか。配属される指導教官の研究室の中で研究プロジェクトの中に入れられてしまって、じゃじゃ馬レースをやるような格好で走る、そこは非常に弊害がある。欧米の場合、そこがかなり自由で先生の束縛がなくて、一旦、問題設定をしたら自分が勉強したいことをしながら進まないといけないという、学生の自主性を尊重しているというのが視野が広めている。

 専門職の関係でいうと、自分は修士課程と博士課程は別々のコースを作ってみたらと思う。修士で終わる人というのは専門職的な色合いをもう少し強化してもいい。博士課程にいく人は研究者養成などで後継者を養成できるプログラム的なものを早い段階であらかじめ作っておくということが必要ではないか。今までの議論の中で教育と研究というのが出ているが、ずっと一体だといわれてきているが、研究と教育というのは多少は分離することを考えた方が良いと思う。特に大事なのは研究支援の体制で、これが欧米に比べて非常に劣っている。そのために理系の分野、特に地方大学はそうだが、悪く言えば大学院生を戦力として使おうという意図がどうしても出てくる。それはあまり良くないことというのは私自身も頭の中ではわかっているが、片方で研究をどうしてもやりたいという個人的な動機づけもあるし、評価という点でも非常に高い重点を置かれている。そういうところからしても、戦力という見方は悪いかもしれないが、そういうところに意識がいきがちである。それでは、我々の農学系の大学の学部を見ていて、そういう体制ができ上がっているのかというと、ほとんどでき上がっていない。例えば農学系の学部、大学でも、1つの教科には何人かのスタッフなりテクニシャンが必ずついているということはあるが、日本の大学はほとんど、少なくとも地方大学に関しては、そういうところは見られない。そういうところが研究にスタートする場合には教育の体制が整備されない一つの背景ではないか。そういう意味で、研究支援体制を整備するということをきちっと考えていかないと大学院教育というのはいつまでたっても、我々の意識としては、議論はしても実質は上がってこない。教育のプロセスの実質化というところの議論はなかなか進まない。

 筑波大学は30年前から研究者養成の5年一貫博士と、職業人養成の独立修士課程とに分離してやっているが、必ずしも十分ではないということを申し上げたい。農学では、ある一定の成果をおさめたと思う。つまり、修士で出す学生に対する教育と研究者に対する教育を実質的に分けることができた。しかし、理工学の分野では分けるのが難しくて、結局のところ修士課程、博士課程がほぼ一体として運営されるような実態になってしまった。だから、分野によってかなり違うというのが自分の印象である。もう1つは、現在の例えば大学院手当は、博士課程を持つと14%だが、修士課程は7%となっており序列化している。そこのところを直して、独立修士課程を担当している教員も一流であるという認識を持つように、教員側の意識変革をしないと、職業人養成の修士課程は大学の中で二流になってしまう。そこの意識改革、そして、修士の教育の方に資源を投入することによって実態的にはよくなる。今の大学制度の中では、幾ら資源を投入しても、教員は研究が好きだからそちらに回っていく。教員にこれは教育に使いなさいと言わないと、すべての資源は博士課程の先生のペーパーを書くのに役に立つ方に回ってしまうというのが私の体験である。

 ドクターとはどうあるべきかというようなコンセプトの問題に関わっていろいろ議論が展開されてきて、問題点が随分指摘された。これについては、次回に具体的にどういうことをここで提案すべきかというような方向で改めて議論させていただきたい。この種の議論は延々と続くが、どうしたらいいかというところを、こういうようなところに提案していくということが極めて重要だ。是非、このことをどう問題解決に向かって具体的なものを出していくかお考えいただきたい。
 先ほど「研究機能の支援体制が問題だ」ということも出てきたが、資料3の3ページの「大学院の研究機能の強化」の議論に移りたい。

 私立大学の場合、特にドクター課程を中心に考えると、研究の設備や施設など、非常に大きい問題がある。それから、教員の側の問題がある。要するに今御指摘もあったが、ドクター課程の学生をじっくり養成できるような状態にあるのかといわれると、自分の研究の助手じゃないが手伝いに使うような状態に正直言ってある。そういうところを改善しないとどうにもならない。私立大学の立場からいうと、例えば、ドクター課程の学生の払う授業料というのは基本的に同じぐらいになるような、少なくとも経済的負担は大体同じような条件になるようにするべきではないか。どこの学校で勉強しても、「あそこへ行ってこれがやりたい」といったら、ある程度流動性を持ってできるような環境を経済的にも作るべき。そういうような条件をできるだけ同じようにしていただけないだろうか。指導する教員の方も、ドクター課程の専任者というのは、少なくとも私学にはいないが、ドクター課程を持っているならば、そちらにも時間を割けるような状況があるというように、条件をあわせていくことで学生が自由に流動できる可能性もでてくる。

 学費については、国立を私立に近づけるのではないようにしていただきたい。それと同時に、今言われたように、学生が秘書みたいなことをしている。結局、スタッフがいない。大学で秘書を雇ったり技官を雇ったりするためのお金がない。だから、助手や学生にそういうことをさせるということになる。そこら辺の整備をしていただきたい。

 日本の大学院の施設の点、サポートの点は全く不十分だ。ただ、日本に今あるだけの大学院は要るのか。定員としても。また、後期課程の中には3年経ってある専攻でやっと1人出ただとか、定員を見たら2割ぐらいしかいないなどというのもあるが、これでは存在する価値がない。組織体として大学全体を見た場合、これでは余りに効率が悪くすぎて、お金を注ぎ込んでも無駄なお金をばらまくような感じになると思う。とりわけ工学系の場合、基本的には6年一貫制で仕上がるような大学と、実質的には4プラス5を基本とするような大学などの仕分けぐらいはしていかないと、日本の国全体の競争力ができない。当然これには反発があると思うが、マーケット原理でそういう方に流れ込んでいけるような施策でもとらないと、いつまでたってもこういう議論を続けなければならない。お金は限度がある。それぞれの大学が自分たちで稼げばいいが、それを国に足りないからもっとよこせと言ってもこんなのはもう通らないだろう。幾ら大事だと言っても通らない。なぜならば、出てきている商品のできが悪いから、商品のできが良ければお金を出そうと思うが、少なくとも今の状態ではそういうことではコンセンサスは得られない。

 今の2つに分けられたところが、6と言ったのほうは4プラス2というのを一貫制にするということか。そこのところの専門職大学院とは同じということか。

 ほぼ同じである。工学系の場合10万人の卒業生のうち3万人は博士前期課程へ進学している。そういうラインのかなりの部分は6年でいいと思っている。そうすると、社会人を前提とした形の全体のカリキュラムが上手に組み上げられるのではないか。

 先ほどの全体の定員としてこれだけ必要かということに関しては、具体的にどのようなことをコメントしようとしているのか。

 特に学部はユニバーサル化で望むところに入ろうと思ったら、全学生、希望者は工学系に入れる。それから、修士課程も入る気があったらほとんど入れる。ドクター課程に至っては多分定員に満ちていない。外国人までかき集めている状態だ。何かおかしいと自分は思っている。要するに、上へいけばいくほど志望者が3倍とか4倍で、残念ながら7割とか8割ぐらいは進学を実力的に諦めていくというのが、いい意味での本当の競争社会なのではないか。

 今の話に完全に賛成する。重点化によって大学院学生を取り合ったが、定員を充足できなくなってきている。もっともっと少なくよい。今、見ていると、大学の教育でちゃんと教えることができないから、それをみんな大学院に回して、大きなマスを作ったらという。学生の質はずっと悪くなってきているので、もっともっと減らすとことが重要。もう1つは、6年制のものとPhDまでちゃんとしたものと、大学として2つに分ける。法科大学院を見ていると、1つの大学の中に法科大学院ができている。そうではなく、大学自身も区別してもいいのではないか。

 ドクターコースの学生に教員の仕事をさせている点は、国立でも同じような状態である。話が飛ぶが、重点化をやったことによって助手の数が減ったというのが大きな問題になっていて、今までは助手の数は1研究室に2人だった。だから、以前の助手は時間があったが、今は助手は研究室の雑務に追われており、自分自身の研究の時間が取れなくなっている。それができないと、その部分は学生の仕事に流れていく。助手が1人しかいないというのは、助手の間で研究に対する競争が起こらない。上の先生に怒られないようにじっとしていれば、やがて上がやめれば下が上がるというふうになってしまう。これは大学全体から見ると非常に大きな問題を抱えている。

 4プラス2のコース、そういう大学院の研究科と、4プラス5、それは非常にいい形ではないか。4プラス2の大学でも社会的な意義や評価があれば、どこの大学も博士課程を全部持とうとか、重点化の結果起こっている弊害は是正されるのではないか。それから、先ほどの意見で産業界というか、社会の立場から、今の大学制度、定員を満たしていないようなところへ経済的支援をするということがわからないと言うことについて、大学人としては深く肝に銘じて改革に取り組まないといけないと思うが、産業界のマーケットとは違う。マーケットは、需要と供給がバランスすれば理想的に動くが、教育というプロダクツが社会に生きていくのは、そう短期的ではない。日本の戦後の躍進の中で産業界は、大学は卒業ぐらいさせてくれていれば、あとは産業の方で人はつくるというような政策をずっと採られてきた結果、今、つけがきている訳で、今になって産業界が大学にいろいろ言うのは筋違いだと思う。これからは大学からしっかりとした人を出せということならばそれを反省して、どういうふうにOECD国並みの資源を国公立を通じて大学に回すことができるかなど、日本の高等教育にちゃんとコミットして、経団連などが動いていただきたいと思っている。先ほどの私学との博士課程へいくような人たちの経済支援の問題や大学の支援職員の給与改善により、欧米の支援職員並のクオリティを確保する観点でも財政的投資が必要である。大学院の博士課程で望まれるような人材をつくるためには、インフラ整備は欠かせない。

 なぜこんなにドクターコースが増えたかというとコストがかからないから。つまり、今の博士課程というのは、今までの大学院の上にフリーライドで乗っかって、何も新しい投資をしないで学生をつくれるので、大学としては少しでも授業料として入ればプラスだから、どんどん博士課程をつくった。コストがかかってないから、学生をいっぱいとる必要はない。そういうふうに理解すべき。
 もう1つは、研究科自体で研究活動を行うことができるようにしてほしい。現在は、個々の教員が研究費を申請して、科研費とか研究費が採択されると、そこに支援が集まって、学生が集まるという構図になっていて、研究科自体で使ううことができる経費はCOE程度である。研究科を差別化して、本当に学生指導ができるところには重点的に資源を投入すれば、ほとんどお金を投入しない博士課程というのは、市場メカニズムで淘汰されていく。そういう姿が良いのではないか。

 大学の先生は、今のような問題については、非常に心を痛めながら、しかしそれでいて、しょうがないというのでやっているのが事実。先ほど、そういうところにお金を投入すべきではないと言われたが、今はかなり競争的でないというか、特に私学は投資などない。我々はドクターの面倒を相当見ているから、そういう意味で言えばお金を払っているが、そのお金はどこからきているかというと学部生が納めている授業料だけで産業界はほとんどお金を出してくれない。これは事実だと思う。その辺で誰がそのコストを持つのかということをしっかりやらないと、レベルが上がらないという悪循環がある。ただ、競争原理でやっていくことは自分も賛成である。そういう意味で、先ほど申し上げたのは、学生の側から見て自分が選択したいところに行けるような制度にしていく。これは競争原理が働いている。潰れるところは潰れた方が良いと思うし、設置認可のところで絞ることができないのであれば、競争原理がきちんと働くようにすべき。
 それから、私学に国費を投じるべきと言っているわけではなく、競争的資金で十分。そういう環境さえできてくれば、やれるところはやる。その原理でいい。ただ、学生の立場をよく考えてあげることが重要。今、学生は余りにもかわいそうだということだけは事実。だから、このことだけは改めないといけない。4プラス2は部分的には現実にそうなっているし、別に悪くないと思う。2のところにドクターにいく人のためのサービスとか若干の配慮はすべきだ。

 自分のところは地方大学で連合農学を構成している。博士課程の充足率は非常に高い。特に農学の場合、開発途上国からの留学生が非常に多いので、逆に断るのに必死な状況である。これは財政的な問題がある。そういう留学生に対する支援というのは大きな問題のように自分は感じる。我々農学の分野は非常に小さい所帯なので、大きな大学と比べて助手のポストをどんどん振り替えて、いわゆる縦割りの制度がなくなり、大講座制となっており逆ピラミッドを形成している。そういう構成なので地方大学では雑用を教授がやっているというのが実態。非常にもったいない話で、この辺もお考えいただきたい。それから、論文博士については、今後も何らかの形で存続することで良いのではないかと考えている。企業の方がむしろ大学の研究施設よりも優れた施設を持っていて、そこで非常に良い成果を上げている。産と学の連携を深める、そこで育った人間を大学に迎え入れるというシステムから言えば、ちゃんとしたコースを卒業したから学位をやるんだという形ではなくて良いのではないか。極端に言えば、職業専門大学校を出たとしても、研究職に入っていって、それからまた学位をとるような道に進む場合もあり得るわけで研究者の大学を出たからといって、研究者になるわけではない。その点はもう少しフレキシブルに考えていいのではないか。

 3つほど意見があるが、1つはコストの問題で、今まで御意見でだんだんはっきりしてきたが、コストがかかっている。ただ、コスト意識が大学も文部科学省もなかった。だから、重点化するしないにかかわらず、大学院をどんどん拡大して、大学院の学生数に応じた予算を出しておけば、大学はやってくれるだろうということで、結局、先生のところにしわ寄せがきた。みんな24時間しか時間はない訳だから、どこかが膨らめばそれだけ損をする。コストがかかっていないのではなくて、非常にかかっているのだが、コスト意識が大学の側にも文部科学省の中にもなかった。これをはっきりしないと、総合科学技術会議等でいろいろ問題になっているが、コストの問題は全然出てこない。人材養成にはコストがかかるんだということを大学側も文部科学省も言わないといけないのではないか。
 これと関係して、先端科学技術競争が激しくなる一方なので、人材養成を何とかしなければいけないというときに、出てくる話は研究費を増やそうという話である。研究費を幾ら増やしても教育はよくならない。むしろもっと悪くなるというのが今の話ではっきりしているわけだから、研究費を出すというのではなくて、教育のベーシックな部分にお金を出すような予算、競争的配分の仕組みをつくっていかないと、ますます貧困化するのではないかというのが2点目である。
 3点目は、若手研究者の問題で、今、助手の問題が提起されたが、大学分科会の別の部会で助手制度を廃止しようという話が今進んでいる。助手制度を廃止するのはいいけれど、廃止して、事務的な仕事をしている、技官的な仕事をしている助手と、本来の教育研究をする人たちと分けて、教育研究に専念する人たちを若手の研究者のポストに、新しい職名をつけようとされているが、問題は、さらに助手に相当する部分が減るわけである。これは、それぞれの大学が教授ポストを増やすためにやってきた結果でもあるが、そうも言っていられないので、若手研究者のポストをどの程度の規模保証するのかということを考えないと、今のような研究の仕方をしているとドクターコースの学生は研究労働者あるいは研究奴隷になる危険性が非常に高い。この辺の問題も大学院問題との関係ではぜひ声を上げていっていただきたい。

 実際に修士課程と博士課程を持つか持たないかで、当たり校費が当時一挙に倍になったわけだから、当然コスト意識はあった。
 各大学で与えられた人員をどういう形で具体的に配分しようという中で、教授のポストを厚くするというので、文部科学省が絶対に大講座の中では教授のポストは2分の1を超えてならないというルールをつくらないと、助手も助教授もなくなってしまうのではないかというぐらいに、振り替えの申請があったわけである。一方で博士課程と公私共通の競争条件という御意見があり、また一方で数が多すぎるので、全部それにお金を注ぎ込んでもしようがないじゃないかという中で、全体としてはCOEをはじめとして競争的原理で教育も含めてお金を配っていこうと思っている。そこで問題になるのは、何をもって博士課程の目的とするのか、あるいは、どういうことが博士課程に要求されるのかということの議論が明確でないと、研究水準に着目して競争的に配られてしまう。教育に着目して競争的資金が配られるようにするためには、こういう場できちんと、こういう大学院にこそ資金をより厚く重点投資すべきだと、あるいは、こういう大学院がリコメンドされるべきだということがあれば競争的といった場合に研究と同時に、大学院として求められる機能なり、役割を明確にすることによって、大学院の教育機能にも、もうちょっとお金がいくのではないかと思う。

 大学院の研究機能の強化という軸でとらえてきたがために、大学院教育における教育基盤というところの視点が薄かったのではないかということが、具体的な問題から浮き上がってきた。そこで、これは次の柱として用意している学生支援のところに関係があるが、今の点は非常に重要な点でもあるので、次回改めて議論させていただきたい。
 次の「学生に対する経済的支援と大学院修了者のキャリアパスの多様化の促進方策について」というところに移らせていただきたい。

 大学院生、特に優秀な大学院生に経済的支援というのは必須だと思うし、まるで足らないと思う。ただ、これを出すタイミング、せっかくのお金をあまり有効に働かせていないのではないかという思いが強い。どういうことかと言うと、特に学部4年生のときに「あなたは修士課程にいったら奨学金付きだよ」と言ったら出てくる。博士前期課程の2年生の秋ぐらいに「あなたが後期にいけば奨学金付きだよ」というような形での奨学金の給付があると進路というものは随分クリアになる。また、そういう学生を一生懸命呼び込もうと各大学が競争されるのではないか。アメリカではそういう要素はかなりあったということをお考えいただきたい。

 農学系は外国からの国費留学生が結構多い。そのときに非常に気になっているのは、留学生は18万円ぐらいもらっているが、日本人は博士課程であっても13万円ぐらいであり、この格差はなんで出てきているのかという点である。これを変える必要があるのではないか。もう1つは、地域によっても生活の必要な経費は違ってきているのではないかと思うので、総額を大学に出して内訳は、大学の裁量とするというのはある程度あっても良いのではないか。例えば東京の留学生は18万円だったらきついかもしれないが、地方ではそうでもない。例えば日本人の学生の奨学金も含めて、地域の特性を活かす形の奨学金の対応、制度が必要ではないか。また、留学生に対しては完全に給付しているが、日本人は貸与だ。このあたりをもう少し整理していただく必要があるのではないか。

 大学院生に対する経済的支援は、日本学生支援機構の奨学金、それから、TA、RA、さらには学振の制度がある。例えば奨学金は減らして、大学に対するグラントの中に経済的支援を組み込んでいくという方向性についてはどうお考えか。今、大学院生の経済的支援というのが混在していて、TA、RAもあるし、私学助成の中でもTA、RAが入っている。国立大学の運営費交付金もTA、RAが入っている。一方で学振もある。こういうことを整理していくということについて先生方の御意見をいただきたい。

 学振の研究員と大学院生に対する援助は別々にしていただきたい。PD制度の確立というのはまだ不十分だと思うので、それは別に考えていただきたい。それから、RAなど学生に対する給付としての支援は競争的資金でやっていただきたい。ただし、現在、COEとかいろいろなプロジェクトについたものがあるが、それは非常に限られた大学にしか与えられてない。大学院生が増えて、現状は大きな大学だけに限定されて重点化されている面があるが、学問の多様化から言うと、いろいろな大学で大学院生が育っていく方が特色ある学生が育つのではないか。その意味では、各大学全部に平等に与える必要はないと思うが、各大学で特色ある研究をやっている先生方には、学生及びPDを雇えるぐらいの人的なものに使えるお金をつけていただきたい。それがあると、学生は「あの先生のところに行きたい」とか、ポスドクだって「あの先生のところに行って研究をやってみたい」というような多様性を生み出す基盤になり得ると思う。各大学の先生が学生を労働力に使っているという、とんでもない話が述べられているが、それはPD制度がまだ確立していないせいだと思う。そういう意味でもPDの採用にも使えるし、RAを雇うのにも使えるというぐらいのかなりの額を各学校に投資せざるを得ない。教育に投資するというのは非常に意味のあること。ナポレオンが200前にやったときにもそこから始めている。キャッチアップ型の教育から、創造型の教育に乗りかえるという目標で今やっている訳だから、是非そういうことはやっていただきたい。

 競争的資金、例えば科研費などは基本的には研究費に当てるということで、ポスドクは使途としても推奨されてこなかった。ところが、最近ではポスドクはできるだけ競争的資金で雇用するようにしようと、特に種目の基盤AとかS、あるいは特定とか特推ではなるべくPDをとってください、とりやすくしますよということをすると同時に、JSPSも御案内のようにPDとDCとありまして、全体の中でDCの方を数的にもう少し多くすると、学振のPDの方は、全体としてはPDを競争的資金にシフトすると同時に、スーパーPDというジャンルを作り、普通のPDよりも数は少ないが、そういう形にすると同時に、全体の学振のPDの数を少し抑えるような方向にしている。PDについては競争的資金の方で雇ってくださいという形に、予算配分的にはシフトしている。それから、「21世紀COE」が入っているところには学振の特別研究員の特別枠が15年度予算から設けられている。

 学振のDCに関しては、従来からもらった人間と、もらわない人間の格差が非常に大きい。たとえDCの数を増やしても、もらえない人間との格差はどうしても埋まらないわけである。自分は、博士課程の学生、特に前期から後期に進むときに、きちんとしたクオリファー・イグザミネーションを通ってちゃんと資格を得た学生に対しては、先生に対するグラント、あるいは研究科に対する指導員的援助資金でも、どちらでもいいと思うが、とにかくそういうものから学生すべてにいきわたるような改革を是非お願いしたい。アメリカの場合だと、クオリファー・イグザミネーションを通る前の学生はTAなどで暮らし、かつグラントから援助してくれる先生を見つけて生活費をもらう。しかし、PhD候補者になると、ついた先生のグラントから生活費をもらいながら研究を続けていく。決して大きい額ではなくてぎりぎりやっていける程度であるが、ほとんどすべての学生はそういうものをもらって生活の不安はなく研究を進められる状況であるが、日本の場合、特に学振のDCの場合には、もらった学生、もらわない学生の格差が非常に大きくて、例えば同じ研究室にいる学生でそういう2種類の学生が混在していると、非常に悪い影響ばかり出てくるので、ぜひ格差対策をお願いしたい。

 今、言われた状況は学振の制度の議論の中でも御指摘があった。個人がアプライをしてそれを審査するというシステムではなく、大学に枠をもらって、大学で選べるようにしてほしいというような議論もあったが、分野によってはそうではない方がいいという議論もあり、そこのところをどういうふうにもっていくかというのはまだ議論のあるところではないかと思っている。それから、格差があるというのは、言われるとおりで、片方はDCで給費でもらえるわけで、そうでない人は奨学金で一生懸命頑張った。今度の学生支援機構の制度だと卒業のときにいい成績をあげたら返還免除ということになるということで、確かに差はあるが、DCはそういう意味では相当クオリフィケーションを経ている。その次の奨学金は、給付のスカラシップで、研究費もついているから、ある程度の差は、セレクションの透明性、あるいは、合理性、それから、できるだけDCの枠が増やせるような努力というのは引き続き要るのではないかと思うが、ドクターにいった人全部に平等な形で給付のスカラシップを渡すのは現状ではなかなか厳しいのではないかという感じはしている。

 その他
・次回以降の会議日程について、事務局から連絡があった。

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