大学教育部会(第6回) 議事録

1.日時

平成23年10月28日(金曜日)16時30分~18時30分

2.場所

旧文部省庁舎6階講堂(第2講堂)

3.出席者

委員

(部会長)佐々木雄太部会長
(副部会長)黒田壽二副部会長
(委員)浦野光人,金子元久,長尾ひろみ,宮崎緑の各委員
(臨時委員)川嶋太津夫,佐藤弘毅,林勇二郎,吉田文の各臨時委員
(専門委員)荻上紘一,高祖敏明,篠田道夫,鈴木典比古,長束倫夫,納谷廣美,濱名篤,山田礼子の各専門委員

文部科学省

小松私学部長,常盤高等教育局審議官,伊藤生涯学習政策局審議官,杉野生涯学習総括官,藤原大学振興課長,榎本高等教育政策室長,石橋大学振興課課長補佐,西川高等教育政策室室長補佐 他

4.議事録

(1)国際関係の動きについて,文部科学省から資料1の説明があった。

(2)国際的な動向を踏まえた大学教育の展開について,文部科学省から資料2の1ページ~7ページの説明があり,意見交換が行われた。

【佐々木部会長】 この大学教育部会で検討すべき中心的なテーマは,第一には,学士力の諸要素を明確にしていくということ,第2に教育内容・方法について,これをいかに質の向上に向けて充実させるか,第3に学内の実施体制,特に学長のリーダーシップのもとでマネジメントをいかに効率的に進めていくかという問題です。本日は,主に2つ目の教育内容・方法の改善についての方策として,カリキュラムの体系性の実現や,授業を属人化せず,チームとして企画・実施していくあり方等について,アメリカの制度を参考にしながら検討してみようということです。
 前回,最後に説明がありました単位制の問題については,15週プラス1という考え方よりも,1単位45時間の学修内容ということのほうが大事ではないのかというご意見をいただきましたが,こういう点を含めて,単位制度のあり方について再検討・見直しができないものかという問題提起もありました。これには,もろもろご意見もあろうと思いますが,いずれ再定義が可能かどうかという点を含めて,ここでご議論をいただきたいと思います。

【山田委員】 教育内容と方法のところで,質問も兼ねてお伺いしたい点が2つあります。
 1つは,海外から見てわかりやすい体系的なカリキュラム編成の転換というところで,学位の中のいろいろなカリキュラム構成上のツール上で幾つか入っています。もちろん,これは具体的な検討が必要ということになっているのですが,ナンバリングについての確認と,それから方向性をお伺いしたいと思っています。
 ナンバリングは,私自身も非常にいいものだと思って関心があるのですが,例えば,これは個別の大学の中だけのナンバリングとして考えていくべきものなのか。つまり特殊な場合です。それから,もう一つは,例えば横断的に編入などに使えるような標準的なナンバリングという考え方で見ていくべきものなのかということをお伺いしたいと思います。
 と申しますのも,例えばいろんな切り口があると思うのですが,共通教育の側面,あるいは専門分野の側面であったとして,今の多くの大学の中で,例えば西洋史でもいいです。西洋史,アメリカ史入門ということになった場合,それは,おそらく個別の大学の中で,かなり違う内容になっているのではないかと思うのです。つまりコアとして標準的な到達度から含めて,いろんな大学の中でも使えるような形にはなっていないのが現状だろうと思うのです。それを,横断的に考えたときに,アメリカ史入門であったり,哲学Ⅰの入門であったとすれば,それは当然どこの大学に行っても,ある程度共通化するものではないのかという感じがするのですが,そのあたりはどう考えていくナンバリングなのかというところです。
 それから,もう1点は,教育の支援のTAというところですが,非常にこれはありがたい話といいますか,私どもの大学でも実際にTAを使って支援をしながらということで行っているのですが,例えばここのデータで出ている表で見ると,米国の例でしたらバークレーですね。バークレーなどは,むしろ学士課程教育ということで大学院が充実している大学なので,非常に大学院生が多い大学だろうと思います。ですから,とりわけ科学や,そういう先端の分野での大学院生の数が非常に充実している大学だろうと思います。当然,国立大学の理系のところでも,そうしたTAの数という意味で言えば充実していると思うのですが,分野によっては必ずしもそうではないでしょうし,私立大学の一部では,やはり大学院生の数が恒常的に足らないという場合があって,そういう場合のTAという考え方を,TAを利用するというところが,どのように考えていけばいいかというところもお伺いしたいと思います。

【佐々木部会長】 最初の問題はどうですか。私も同じ問題意識を持っていて,いずれナンバリングについては,コンセプトを一つに共有しなければいけないと思っていたところです。今日は,鈴木委員からご説明いただくのがよいかと思います。今のご質問に関わる範囲でお答えをいただけませんか。

【鈴木委員】 私がすべて知っているというわけではないのですが,ナンバリング・システムは,これはアメリカの例をとった1ページ目から3ページ目ということですので,私の知っている限りで申し上げますと,アメリカのすべての州でコース・ナンバリングに関するコミュニティーということがあります。特に州立大学の場合には,コース・ナンバリングということが非常に明確に管理されているということで,先ほど山田委員がおっしゃった,学生たちが州立大学の間を行き来するといいますか,その場合にはコース・ナンバリングに基づく,西洋史なら西洋史,A大学とB大学,同じ州立として,これはいわゆるアイデンティカルであると,類似,あるいは同一と見なせるということで単位をもって移っていけるなどということになっているようです。
 それから,もう一つ,アーティキュレーションという言葉が使われており,これは大学間で,今申し上げたようなコース・ナンバリング・システムに基づく科目の,先ほど類似や同一という言葉を使いましたが,これとこれはアイデンティカル,同一であるということをスムーズに認め合うというアーティキュレーションという,つなぎをスムーズにやるということでアーティキュレーション・カウンセルということもあるようです。
 ですから,州立大学に関しては,このコース・ナンバリング,それからアーティキュレーションということが,州の中で実際行われています。ただ,私立大学と州立大学は,また違いますから,山田委員ご指摘の,個別の大学でナンバリングをするのかどうかということでしたが,私立大学では個別的にやっているところもあるようです。ただ,もう私立のほうも,学生を自分のところだけで囲い込んでということがだんだんできなくなってきていますから,州立大学との間で何らかのアーティキュレーションを導入するということも行われつつあると思います。
 それから,認証機関が,アクレディテーションがナンバリング・システム,あるいはアーティキュレーションというものを精査して,それで質の保証を行うということにも使っているということです。ですから,コース・ナンバリングとアーティキュレーションは,いわゆるキーワードだと思われます。

【石橋大学振興課課長補佐】 ナンバリングについては,やはり個別でやるのか,横断的でやるのかは,今後,この部会で議論を深めていただくことがありがたいと思っておりまして,ここはなかなか文部科学省側がどうというよりも,大学界全体とご一緒に考えさせていただければありがたいと思っております。

【藤原大学振興課長】 TAの関係ですが,その大学に十分な数のTA候補者がいない場合ということだったかと承りましたのですが,確かに大学の中でどれだけ確保できるのかという問題もあろうかとは思うのですが,その前の問題として,やはり日本におけるTAスタッフの支援体制は非常に弱いです。それは財政的な問題ということもあると思いますが,もう一つは,そういったものを使って教育内容の充実を図っていくという,そういう考え方自体がまだ十分できてないということなのではないかと思っております。
 それが一つあると思うのですが,もう一つTAに関して言えば,やはりTAの中身ということも非常に重要だと思っておりまして,単にお手伝いをするという質のTAから,アメリカの場合もいろいろ歴史を経て変わってきたと伺っておりますが,実際に教育内容にしっかりタッチをして,そして教育の向上とともに,そのTAをやった学生さんの将来的な一種のプレFDのような形での将来の教員としての資質を身につけるという内容も組み込まれていると伺っておりますので,そういった面も含めて質的な点の充実ということを考える必要があるかなと思っております。

【宮崎委員】 今のTAの問題に関して,もういろんな大学でやっているかもしれないのですが,私どもはSAを置いておりまして,スチューデント・アシスタントで,学生にやらせる。既にその単位を履修済の学生をピックアップしまして,SAとして仕事をしてもらうわけなのですが,そのときにコピーだや出席カードの整理という雑用ではなくて,きちんと資料をつくったときの中身に関するような手伝いをする,あるいは実習系で,教員のほんとうの意味での補助ができるような,コンピュータの前でプログラムをいろいろ扱うときの実質的な手伝いができるということを条件に決めておりまして,学期の初めに申告をしていただいて,これがふさわしいかどうかを学部長が判断して,許可するかどうかということで,人数も含めて,ルールもつくっているのですが,SAは非常にいいと思いますのは,SAになった学生が成長します。教えられるということは自分がわかっていないと教えられませんので,ですから,そういう意味でSAを,今この図に書いてある教育の与える側のチームではなくて,学生の側の成長の一つの手段として使っているということで,私たちは半学半教ということでやってはいるのですが,そういう考え方もあるのではないかと思うのです。TAは,ちなみに大学院生です。

【林委員】 今,SAという言葉が出てきましたが,資料の説明を見ますと,学生の教育の密度を高めるのに教員が何をすべきか,職員が何をすべきか,それからツールとして何か等,いろいろ書かれ,よくできています。しかし,吉田委員が,教育には教育と学習があると言われたように,まさに教育の主体は学生であるということですから,今のSAのような学生の立場に立った視点こそ重要だと思います。教育の密度を高めるためにFDもSDも大切だが,学生は何をなすべきかということです。
 高等教育は,学生が社会人になるための準備期間になるわけですので,それは学習の場であると同時に生活の場であり,社会体験の場でもある。そういう中で,1単位45時間や自学自習の話があり,正課と課外がある。課外活動の中で人間形成が行われ,教養は授業で得た知識や知恵を生活体験の中で自分ものとし,また価値意識を育てていく。すなわち,学生を中心とした議論を展開することで,学習から生活,さらには社会にまで広げた学びの姿が見えはじめ,学生は,1単位45時間,キャップ制,GPAは何のためかということを理解することになると思います。
 FDやSDは組織的な活動であるのに対して,学生がなすべきことや学生のあるべき姿は,ある意味では,スチューデント・デベロップメントとでも表現されるのがよいかもしれません。組織的な連携ではなく,学生の個々人が勉強し,集団の中で主体的に活動しているわけですが,このようなスチューデント・デベロップメントの概念を,中教審あたりで打ち出す必要があるように思います。

【川嶋委員】 今の林委員のご指摘,幾つかの大学が学生憲章をつくって,学生が何をすべきかということ,どういう責任と義務があるのかということを定めています。ですから,学生の成長や学びは,教員側の努力と学生側の努力と両方が組み合わさって最終的に成果としてあらわれるわけですから,そういう学生憲章をつくって,学生にも義務と責任をきちんと明確にするという大学が幾つかあるということの情報提供です。
 それから,もう1点,TAなどに関連して言うと,今日の資料2で,例えば5ページにあるデータのところ,教員・職員1人当たりの学生数とあって,これは一言うらやましいと言うしかないのです。こうなったら,確かによろしい。しかし,問題はこれだけの支援職員なりを日本の大学で財政的にも厳しい中で確保していくかということが可能なのかが一番の問題だろうと思います。ただロバード・ゼムスキーペンシルバニア大学の教授が指摘していますが,アメリカの私立大学の授業料高騰の原因の半分は,こういう職員の専門職化によって,どんどん俸給が高額になっているということと,もう半分は教員が研究費をたくさん要求するようになった,この2つです。要するに,教員と職員の人件費が高くなったことが,アメリカの特に私立大学の授業料高騰につながったという分析をしているので,単に職員の専門職化など,支援職員を増やすということは,その背後に必ず財政の問題が出てくるということを頭に入れておかないと,なかなか現実の話にはならないと思います。
 これに関連して1点,ぜひ調べていただきたいのですが,私は国立大学の経験しかないのですが,いわゆる大学のコア・ミッションというと教育と研究,社会貢献もあるかもしれませんが,教育,研究ということにかかわって言えば,どれくらい事務職員の中に,いわゆる直接部門である教育と研究を支援する職員がいるのか。私の印象だと,間接部分のスタッフの比重が非常に大きいような気がするのです。ただ,これはあくまでも私の印象ですので,ぜひ幾つかの大学で,それぞれどれくらいの職員が直接部門である,教育,研究の支援に従事しているのか。あと間接部門,いわゆる本部と言われているところで働いている職員の具体的な数字を,私も興味があって調べようと思っているのですが,事務職員何名ということは出てくるのですが,その中の役割分担はなかなかつかめないので,ぜひ,そういうデータをお出しいただければと思います。

【佐々木部会長】 問題は多岐にわたりますから,議論は行ったり来たりすると思いますが,あまり気にせずに,どこからでもご議論いただきたいと思います。ナンバリングの話ですが,こんなふうに理解していいでしょうか。まず,個別の大学でやるとすれば,この資料にある1本の木のように、学習の積み重ねの順序というか,カリキュラムの体系性を、ナンバーできちんと示すことができる。そのうえで、大学間では,ある程度の同一性という点で合意があれば,学生の大学間移動やタブル・ディグリーなどに結びつく制度として,これが運用できるということになりますね。アメリカの場合には,後者のほうから始まっているのですか。

【鈴木委員】 そうです。
 少し説明し足りないところがありましたので,よろしいですか。例えばカリフォルニアのバークレーの話が出ておりましたが,私も,この間アメリカに行ったときに,バークレーのアーティキュレーションにかかわる人と,少しインタビューをしてきたのですが,例えばカリフォルニア州にはカリフォルニア大学システム,UCシステムと,それからカリフォルニア州立大学システム,カリフォルニア・ステーツ・ユニバーシティー・システムということと,それからコミュニティ・カレッジという3つの層があります。例えばカリフォルニア大学システムは,10の分校がバークレーやUCLAなどにありまして,この10の分校の中では,ここにもアーティキュレーションのコミュニティーがあって,それでお互いに,例えばUCLAからバークレーに学生が行くなど,あるいは逆も真なりですが,そういうときにはお互いに単位を自動的に認めるというシステムになっているようです。それから,カリフォルニア・ステーツ・システムも同様で,やはりシステムの中では自動的にそういうことがなされる。コミュニティ・カレッジでもそうです。
 問題は,カリフォルニア大学システムとカリフォルニア州立大学システムの間でアーティキュレーションがあるかというと,これは実質的にまだできていないのです。しかし,カリフォルニア州の学生の構成,コンポジションといいますか,あるいは学生の数が増えてくるなど,あるいは学生がコミュニティ・カレッジにたくさん行くのだが,その後も勉強したいといったような状況がどんどん出てきていて,3つのシステムの中で,やはりアーティキュレーションというものを実質化していかなければいけないという動きになっているようです。これは,おそらく時間はかかるだろうけれども,どうしてもやらなければいけないことだと聞いてきました。バークレーのその任に当たっている人は,やはりカリフォルニア州立大学はどうやっているのか,あるいはコミュニティ・カレッジはどうやっているのかということを理解することから始めるという,その段階だということを言っておりました。
 ですから,アーティキュレーションは,州立大学においてはリサーチ・ユニバーシティー,あるいはエデュケーショナル・ユニバーシティーと,大きく分けて2つあると思いますが,リサーチ・ユニバーシティーのところでは,大体は自動的に行われる。エデュケーショナルもそうだと思います。この2つのカテゴリーの大学の間で,小さな州ですと,ほとんどスムーズに,例えばフロリダあたりは小さいとは言えませんが,かなりリサーチ・ユニバーシティーとエデュケーショナル・ユニバーシティーの間でもアーティキュレーションが行われている。しかし,カリフォルニアはあまりにも大きいものですから,アメリカの例としてふさわしいかどうかという面もあるとは聞いてきました。

【濱名委員】 ナンバリングの話になっていますが,僕は,アメリカのシステムは,学生が大学間移動することを前提に設計されている仕組みだろうと思うのです。日本の場合,学生が移動できるようにすることが今の質保証の喫緊の課題かというと,その前にやらなければいけないことがあるのではないかと思います。例えば,大きな大学であると,学部,あるいは学科の中でも,隣のコース,専攻と,同じ科目であっても履修させないなどの実態があり,私はガバナンスについての議論は後回しにするべきとは言っていますが,そのような問題が現実にはあるわけです。
 もう一つには,現在,日本学術会議が参照基準をつくっていますが,コア・カリキュラムが欲しいなどの声や,カリキュラムの標準化してほしいという声がある一方で,機能別分化ではないのですが,さまざまな大学のあり方を是認してほしいと声もあり,ナンバリングを一つの統一したシステムとして持っていくことは,個別の大学が,みずからの大学の124単位の中できちんとナンバリングをする必要性などが薄れかねないですし,科目の数をもっと減らさないと,今のように124単位が2単位ずつに分かれ、六十何科目に及ぶという段階でそれをやったとしても,大きな構造的な設計ができてない段階で,学生の大学間移動を前提としたナンバリングを求め過ぎると,虻蜂取らずになるのではないかという気がするのです。
 課題として言うならば,まずは学生たちが自分たちの学習をモニタリングしていける,あるいは教員がチームで教育をするということを考えれば,まずは大学の中でこうした仕組みをつくってもらうということを重視していく必要があるのではないかと思います。その次の段階で,私どものコンソーシアムでもよく意見が出てくるのですが、現状として専門科目を他大学や他学部の学生には履修させないという大学は大手ほど多いようです。他大学と単位互換どころか,学内の単位履修も認めてないという状態をどう変えていくのかということが優先すべきです。個別大学にとって次の段階とすれば,コンソーシアムや他大学との単位互換が促進される中で,同等と考えられる,お互いに水準が共有しようという大学同士でのコンソーシアム化の動きが出てくることでしょう。日本の場合、地域ごとのシステムづくりという形になりますと,中四国あたりでは,それが成り立たないような地域もあります。首都圏ではそうしたものが簡単に設計できるかもしれないのですが。ですから,そういう点から言えば,段階を踏んでナンバリングの問題は考えていくべきだと思います。つまり,何故ナンバリングが必要かというと,学習をする側から見た学習の構造,学びのシステムの構造化を,個別大学でまずつくってもらうことです。教員同士も,そのつながりなど前後関係を意識してもらうことです。そのためにナンバリングを促進するということで,まずは課題設定することが重要ではないかと思います。

【浦野委員】 今の濱名委員の話,非常によくわかりました。ナンバリングは,要するに学生の目から見たときに,どういう順に勉強していけばいいのかということですが,それは前回からそう思っていたのですが,先ほど鈴木委員のほうからお話があったことは,要するにナンバリングが,例えば偏差値の高い大学とそうではない大学では,ナンバリングの中身が違うという話ですか。

【鈴木委員】 そうではないのです。お互いにやらなかったというだけで,質,あるいはレベルが違うということではありません。それでは困ります。

【浦野委員】 そうすると,OECDのAHELOですが,卒業間近な人の学習成果をはかるといったときに,こういうナンバリングが基礎にあって,はじめて成立する人だという理解でよろしいですね。そうすると,そのレベルがどこにあるのかということが疑問として出てきます。単純に申し上げて,800に近い数の大学がそうしたレベルを合わせることは困難だと思ってしまいます。このナンバリングなり,AHELOのレベルってどこにあるのでしょうか。その辺を少し教えていただくと助かります。

【佐々木部会長】 一つの答えは,濱名委員がおっしゃったことだと思います。

【金子委員】 今のお話にかかわりまして,濱名委員のお話にもかかわるのですが,ナンバリングは,あまり外郭間の学生の移動にだけ直結させると,話は少し外面的になってくると思います。ただ,アメリカでは,そういう側面が強いということは事実です。
 それから,もう一つは,おっしゃっていたように,下のほうから段階制といいますか,基礎から応用に至るまでの段階制は,ある程度あらわしているという側面があります。それもやはり重要なことだと思います。
 ただ,もう一つ,非常にナンバリングが始まったといいますか,アメリカでかなり進んできて,逆に言うと,日本でなぜあまり進まないかということは考えておいたほうがいいので,それは今おっしゃっていましたが,端的に言うと,日本の授業は俗人的なのです。要するに,先生に属しているわけです。ですから,共通に段階的な一種のクラシフィケーションをしようということに,そもそも反対なわけです。要するに,段階に分けることなんかできないと,みんな思っているわけです。授業科目としては,○○特論や○○ゼミなど言って,全然中身は実は言ってないわけです。ですから,そういう意味でクラシフィペーションを拒否している思想なわけで,ところがアメリカのカリキュラムは,設計なのです。入ったときから卒業するときまでに,こういう学位を与えるためのプログラムとして,どういう要素が必要かということで設計して,その設計をあらわしているのがカリキュラムであって,その中でナンバリングといいますか番号がついているわけで,多分日本の大学で十分認識されてないのは,標準化といいますか,一種の全体としての到達点に達するための個々の授業の配置という思想が十分に取り入れられていないのです。典型的に言うと,ナンバリングなんかでも,特に基礎のほうは,だれがやってもいいのです。ケミストリー200などいうと,大体だれがやってもいいことになっているわけで,そういった意味での標準化ということが,ある程度受け入れられないと,ナンバリングは意味がないのです。
 TAの話が問題になっていました。小笠原先生の資料が出ていましたが,あの例は非常にいい例で,ケミストリー何とかです。あれも標準化しているからTAが使えて,非常に有効なのであって,実は私ども調査をやったのですが,先生に対する調査で一つ驚いたことは,TAに対する評価が非常に低いです。日本の先生は有効だと思ってないです。それから,学生も実はTAをあまり評価してない。多分使い方が下手なのです。それは標準化しているようなものの中で初めて生きる制度であって,そういった意味で,こういう道具ですが,道具の背後にあるものは,やはり重要で,そこのところを考えて議論すべきだと思います。ただ,逆に言うと,道具から入るということもあり得るので,精神が直らないとどうしようもないというわけでも必ずしもないので,こういった思想を少しずついれていくということも,私はそれは意味があるのではないかと思います。

【長束委員】 TA,SAという話がありましたので,2点ほどお話しさせていただきます。
 勤務校では、リベラルアーツ講座という教養講座を土曜日に希望者を募ってやっています。先日,その一環でハーバード大学の教育を体験してみようという企画を行いました。その中でハーバード大学の教育に詳しい方に来ていただいて,お話を伺ったのですが,やはりハーバード大学でやっているようなことをやっていくには,TAのようなものがないとできないということです。プログラムとして絶対に必要だということでした。先ほど,プログラムという話があったのですが,TAなどを使うとしても,そういう手法を大学としてというか,一つの方向性がないとなかなか生かすことはできないのではないかと思いますし,逆に,そういう手法を大学としてやっていくには,どうしてもプログラムが必要になってくると思いました。
 もう1点,SAのお話も宮崎委員のほうからあったのですが,高校現場ではそういうようなことはないですが,小学校ですと,今,教員を目指している大学4年生が教育現場に来て,実際に授業のサポートをするということを,もう既にやっていると思います。
 また,千葉県では学力向上ということで,高校生に小・中学生を教えさせるというプランも今考えているということなので,やはり教えることで成長するというところがあるのは,まさに宮崎委員おっしゃっているとおりと思います。
 そういった面では,大学3年生,4年生が,1,2年生を教えていくようなカリキュラムというかプランができてくれば,財政的な部分とは,そこはまた離れると思いますので,可能なのかと個人的に思いました。

【高祖委員】 上智大学の例で,まず最初に申し上げたいと思います。上智大学には8つの学部があり,そのうちの1つの学部は国際教養学部と今呼んでいますが,少し前までは,比較文化学部,その前はインターナショナル・ディビジョン,国際部と呼んでいました。この学部では,大戦後の国際部の時代からアメリカ的な教育をずっとやってきており,ここではナンバリングができているのです。ただ,今,金子委員や濱名委員がおっしゃったように,他の学部の普通の日本の先生とアメリカ流の国際教養学部の先生との間には,なかなかかけられない橋がありまして,ナンバリングがその学部ではうまくできていて,外国とのつながりもできるのですが,ほかの学部にも展開できているかというと,その辺に確かに難しい面があるというのも事実です。
 一方,外国から交換留学等で上智大学に来る学生の場合,特に比較文化学部,国際教養学部で勉強する者についても,その学生が履修した科目を,もとの大学に帰ったときに認定するかどうかはかなり厳格です。つまり,送り出した大学のほうが,この学生は何を勉強したのか,どういう授業のどういうシラバスか,それから具体的にどのような教育内容か,そういうものを一つ一つ点検するという作業をやっています。そして,それが自分たちのナンバリングしている科目のどれに当たるかということをきちんと見て,それに合格すれば,単位として認定します。しかし,合格に達しないというケースがごくたまにあるようですが,その場合には,勉強してきても自分たちの大学の単位としては認めないという例があるようです。
 それから,もう一つは,さっき林委員から,学生の視点,学習の主体としてなすべきことにも目を向ける必要があるのではないかという話が出まして,私もその辺を考えていたのですが,こういう議論をするときに,まだまだ学生を一つの集団としてとらえているという点が,僕にはするのです。アメリカの場合には,同じものを提供するという段階のナンバリングの授業はあったとしても,最終的には一人一人の人間は違うし,文化背景も違うし,キャリアも,目指すところも違うし,一人一人が人格としてというか,人物として花開くような方向に向けて教育しているのではないかというイメージがとても強いのです。
 ですから,双方向の授業など,例えばハーバード大学の白熱教室などを見ていても,日本のマスコミが取り上げる論調は,授業に活気が出てくる方法論という点に注目しているように思うのですが,その方法論は一人一人の違いをいかに活かしていくか,その違いをいかに授業の中に取り込んでいくかを目指している。取り込むだけではなくて,その違いを持っている一人一人が自分のよさを認めながら伸びていくというところが何か目標になっている気がするのです。ですから,きょう提示されているいろんなシステムなどを工夫することはとても大事なのですが,それが何を目指しているかということも同時に見ておく必要があるのではないかと,そんな印象を持ちました。

【佐々木部会長】 今おっしゃったことは,おそらく学士力をどう考えるかという,その問題にかかわると思いますので,これはまた日を改めて,包括的な議論をお願いしたいと思います。

【濱名委員】 今,高祖委員の言われたことと若干関係するかもわかりませんが,今回,文部科学省にまとめていただいた方策にカリキュラム編成上のツールということが出てくるのですが,後回しにするべきでないのは,目標など具体的な目的とツールは,つながらないと意味がないということです。今,高祖委員が言われたように,到達目標の明確化については,明確化しっ放しではだめだということは,これまでの議論でも出てきている通りです。しかし,それを可能にするのは一体何なのかといったときには,例えばアメリカのAAC&Uは,学生個人の学習のモニタリングの方法としてのポートフォリオと,それぞれの科目の到達目標が達成できているかどうかを学習者と教員の側,両方わかるようにルーブリックをつくることを推奨しています。学習ポートフォリオは日本でもあまりうまくいってないと思うのですが,お金をかけているわりにうまくいかないのはなぜかというと,学生にそれをつくらせるモチベーションのかき立て方が確立していない。フィードバックの仕方も,日本の教員はわかっていない。中には教員はやりたくないから,職員にそれを押しつけるということもあるようです。もう一つの問題は,ポートフォリオに出てきた内容をどのように評価するかという評価の方法論が確立していないのです。この3つが個人の学習のモニタリングのツールとしてのポートフォリオの弱点なのです。
 そうすると,それを補完するためには、AAC&Uのようにテストが嫌いな大学団体は,結局ルーブリックをつくって評価の観点を明確化する形で評価を強化する。それがナンバリングと組み合わさると,同じ目標をめざす科目同士でも、より上位のルーブリックの水準をめざし、難易度が高いものを目指すのが後ろの番号に来る科目であり,低次の初歩的なことを達成するための科目がナンバーの小さい科目というようになり,そういう組み合わせ方をしていくのだろうと思うのです。 
 それで,高祖委員が言われた点から言いますと,個々の違いは,確かに学習ポートフォリオでは見ているのですが,明らかにアメリカでは教育方法の中でグループワークを入れたり,双方向型を入れたりしています。あの個人主義のアメリカが,グループ型の学習を重視してきているということは,個々の学習者の違いというだけでは,学習システムとしては成立しないということです。だから,ペタゴジーとしては,最近,ハイ・インパクト・プラクティスという用語をAAC&Uは使っていますが,集団学習であるとか,さまざまな体験について教員から学生にコメントのフィードバックをさせるというような方法を取り入れていかざるを得ないのだろうと思うのです。
 浦野委員がおっしゃったような標準化していくのにはどうするのかということを考えるときに,AHELOの議論でも,比較的構造化が進んでいると言われている工学や経済学など,そのあたりの分野ならできるのですが,学部の個別名は言えませんが,人文・社会科学系や,コア・カリキュラムに最も反対する領域である理学などでは,おそらくそういう話には絶対乗ってこないだろうと思います。そういう点から考えていくと,まずは仕組みとして各大学の中で,そうした要素を目標とつなぐツールとして考えないと,ツールと目標とのつなぎを常に意識してツール論を議論しないと,うまくいかないのではないかと思うのです。

【宮崎委員】 ナンバリングについて,「ナンバリング」という言い方が,この国,社会で,ある種の意味を持ってしまうというところがあると思うので,内容は賛成していても,ナンバリングと言われた瞬間に,ちょっとと言わなければいけないみたいなイメージが,これは文化の差ですから,そこの言い方を工夫したらいいと思うのですが,お話に出ているように,この講義の分野は何なのかということを明確にするということはすごく大事なことで,特に最近は新しいコンセプトで学部などもできてきていますと,講義の題目を見ても,時間と空間など,中身が浮かんでこないようなのがいろいろあります。それがどこの分野に当たるのかは,図書館の文献の分類のように,あれも既にできているわけですから,それをすれば簡単にできるわけです。それから,各大学の中で,あるいは学部の中で,どの順に履修していくのが理想的か。少なくとも,既にこれはどこもやっていることですが,専修科目として,これを履修していないと次のこれはとれないというとり方の規制は必ずあります。シラバスにも書いてありますし,そういうことだと思うのですが,それをもう少しわかりやすく整理しますということだと,既にできているというところもかなりあると思うのです。あとは,表現の問題ではないかと思います。
 先ほどどこかで,ナンバリングであるなど,科目の分野をどう決めていくかということは,これは文部科学省的に手を入れることではないというお話がありましたが,こういうことこそ全体をプロトタイプのようにしておくということが望まれる。各大学だけでやっていたのではどうにもならないので,上位機関が何かやることです。それが大学協会なのかどうなのかは,よくわかりませんが,学会なのかもしれませんが,そういうようなことは必要で,これについて表現さえ間違えなければ,人文系であろうとも可能だと私は思うのですが,どうなのでしょうか。

【吉田委員】 日本の大学は,先ほども出ましたように,5ページで,教員1人当たりの学生数も非常に多く,職員1人当たりの学生数も非常に多いという中で,この3ページのような形になれば望ましいのですが,そういうことを言った途端に拒否反応が出そうですし,非常に難しいのではないかと思うところが実質的に多いです。その一つの問題として,やはり縦の構造が非常に強いので,学部,学科,あるいは,そのもう一つ下の単位ぐらいのところですべてが決まっていくような状況ということがありまして,それは入学者の選抜の段階からそうなっていますし,それぞれの科目も学科間で相互に取れないような仕組みができていたり,あるいは,もっと下の単位でもそうなっているような部分があって,もう少しそれを開くような構造がつられないのかというところです。
 今,例えば学位授与の方針ということで,あるいは人材養成の目的をきちんと明記しましょうなんて話が出ていますが,そうしたものが実際の大学の中におりてくると,学部ではなく,学科でなくて,もう少しその下のところでそういうことを決めてくださいという話が出てきてしまうという現実があります。それが非常に狭い範囲で科目を組み立てることにもなりますし,それが教員に対する負荷も多くしていることになりますし,非常勤講師を多く雇って科目を増やしていることにもなっているし,もう一つ言えば,いわゆる共通教育みたいなものをやらない構造になる。教員のほうからしても,自分の専門のところに入っていた学生は,早くから専門を教えたいということになりますし,学生も自分の専門はこれだと決めてしまえば,それ以外の教養教育とか共通教育をとらないという形になりがちなのです。これは文部科学省が決める話ではなく,大学の中でそこの部分をつくらないといけないのですが,非常に縦構造になっている部分を,もう少し広げていくためには何をしたらいいのかということが,私もよくわからないのですが,その辺は,もう少しサジェスチョンいただけませんでしょうか。そうしないと,この3ページに書いてある入学から学位までの仕組みというものが,つくれたとしても非常に狭い範囲でしかできなくなってしまうのではないかということが懸念されるのですが,いかがでしょうか。

【金子委員】 今,吉田委員がおっしゃったことは全くそのとおりで,ですから,ここの検討課題として教育のガバナンスをやろうというアジェンダをつくっているわけで,まさにそこが問題なのです。それで,先ほど財政の問題が出てきましたが,これは非常に重要だということは当然だと思います。OECDの国際比較統計によれば,日本の学生1人当たりの教育費は大体1万ドルで,アメリカが2.3万ドルですので,アメリカだけ突出して高くて,かなり好条件です。やはりアメリカの教育の質の高さは,そういったところにある程度起因していることは事実ですが,では,日本は何もやれないのかというと,必ずしもそうではないと思うので,この資料で,かなりいい大学の比較になっているのですが,私が調べたところだと,実は日米ではあまり教員1人当たりの学生数に差がなくなってきているのです。それから,非常勤講師の数を入れると,これは非常勤講師をどうやって換算するかということに問題があるのですが,日本はここ10年ぐらい,ものすごい非常勤講師を入れているのです。例えば,非常勤講師が3分の1くらいフルタイムという過程で計算してみると,そんなに日米で差はないです。ただ,問題は,この間も申し上げましたが,日本の大学の先生は,相当ゼミなど,そういうところに時間を使っていて,要するに科目数は非常に多く担当していて,科目数は多いわけです。それはどこから来ているかというと,吉田委員がおっしゃったように,非常に細分化されていますから,そこのところで何とか完結したカリキュラムをつくろうとすれば,どんどん細かいものをたくさんつくらなければいけないということになります。非常にそれは非効率的なことをやっているわけで,コスト全体の問題も確かにあるのですが,それをどう使うかという問題も非常にある。それはかなりガバナンスによって規定されているところがある。そこは,これから,まさにこの部会で議論すべきところなのではないかと思います。

【佐藤弘毅委員】 2点申し上げたいと思います。一つは,鈴木委員のアーティキュレーションに触発されて,よく言われるカリフォルニアモデル以外の一つの例をご紹介しておきたいと思います。それはお隣のカナダのブリティッシュコロンビア州のことです。ご案内のように,バンクーバーだとかビクトリアあたりが大都市で,あとは非常に辺境のとこまで含めた広大な州域を持つ,日本の倍ぐらいの面積です。そのくせ人口は300万少々だったと思います。
 伝統的な大学というものは極めて数が少なくて,あまりにも広いがために,コストの面から4年生大学を各地につくることが難しくて,その分を2年制のカレッジをたくさんつくり,しかも学習センターをたくさんつくりながら発展してきました。4年制大学は1980年代ぐらいから徐々に数を増してますが,それでも学習者の大半がカレッジ経由で4年制大学に行きます。そういう教育事情ですので,まずはカレッジで学んで,それから4年制大学へトランスファーという例のほうが多いわけで,その点ですべての州立系の大学,それから短期大学と呼びましょうか,カレッジが集まって,協議会を定期的にやり,ほんとうにすべての開設科目の詳細シラバスを持ち寄って検討し合い,同じ科目名であっても,これは学術性の高い科目であるからトランスファーが可能であると。これは同じ科目でも非常にターシャリ・エデュケーション的な色彩があるから,4年制大学のほうに持ち込みはならないということを個別に議論しながらまとめ上げて,数年に1回でしょうが,厚さ2センチないし3センチぐらいのブックレットをつくって,すべての州内の大学カレッジの開設科目が,どこに持っていくことができるかというチャートができ上がっています。そういうふうにして,アーティキュレーション,それから学生のモビリティーを支えるかたわら,水準の維持,向上にも役立てている一つの例として参考になると思って申し上げました。
 もう1点です。これは一転して非常に次元の低いお話ですが,6ページにあります,単位の実質化です。これをどこかでまともに議論しなければいけないのではないかと,かねがね思っているところです。45時間の学修をもって1単位,それはおそらく国際的なこともあり,動かしがたいものだと,そういう前提で,そうすると,例えば講義は15時間ないし30時間をもって1単位です。ただ,おそらく日本の大学の大半は右へ倣えで,15時間で1単位,つまり90分授業を15回やると2単位講義です。ほとんど右へ倣えでやっているのではないかと推測しております。
 ところで,この大学設置基準ができてから何十年,学生の基礎学力の低下は著しいとどなたも言います。それから,金子委員がたびたび示されます学生の学習時間が極めてプアであるということも,だれしも認めているところです。そういうふうに認めながら,単位の実質化を語るときに,あまり実質的な議論が進んでない。要するに,学習時間を補うために課題を出せばいいではないか,等という意見があります。課題を出したって,それだけ学生がついてこれるかどうか甚だ疑問です。となると,次元の低い話ですが,なるべく大学の管轄下で学習させるような,つまり授業時間を増やす,つまり時間当たりに付与する単位を極めて少なくしながらキャンパスにつなぎとめて学習をさせなければいけないという話だって出てしかるべきだと思います。そういったことを単位の実質化,それから学習時間の関係において,どこかできっちり取り上げて,現実に沿った議論をしなければならない,そういうときが来たと思っております。

【山田委員】 単位の実質化は,また後でいただければと思うのですが,先ほどアーティキュレーションに,少し補足ですが,実はアーティキュレーションは専門科目では行われていなくて,あくまでも共通教育の段階でのアーティキュレーションということが大事なポイントだろうと思います。つまり共通教育,教養教育,一般教育をコアとして見た場合にアーティキュレーションができるということが一つと,もう一つは,これは別なのですが,この中でいろんなツールを,TA以外で職員という部分が出てきていると思います。その職員というときに,財政やガバナンスという問題があると思うのですが,こういう人たちが,実はアメリカの大学でしたら,そういう市場が横断的にあるからこそ成り立っているわけで,これを例えば日本で普通のスタッフ,大学の職員は多分ラインの中で異動するわけですから,横への水平異動ということが,そういう市場がなかなかないわけです。では,そういう職員をどうするかといったときに,例えばドクターを持った任期つきの人たちを,そういうのにすればいい,専門性を持ってアドバイザーとかプログラム・コーディネーターにとなったときに,例えば,そういう方たちの横に水平な市場があるのかということも,少し議論していく上で考えていかなければ,また宙に浮いてしまうのではないかという点です。

【濱名委員】 単位の実質化の話をしたいのですが,その前に一つ,山田委員が言われたことで言いますと,最近,大学のプロフェッションを目指す大学院の最近の集まりぐあいを聞いていると,芳しくないところが幾つか出てきています。例えば,金子委員の前任校等もありますが,東大はまだしも,私立でやっている大学のマネジメント系などの大学院の集まりぐあいは,必ずしも芳しくはないようです。少なくとも拡張基調ではないです。それは,大学職員の資格制度など,そういう受け皿の仕組みをつくらないと,日本の場合は難しい。専門性を持った職員がほんとうに必要だとするのなら,きちんとクライテリアをつくって,資格なりをつくっていくことです。あるいは,そうした仕組みを国立大学からでも始めていかないと,今,山田委員が言われたことはなかなかできないだろうと思いますので,これは具体的なことを考えたほうがいいのではないでしょうか。現状では、大学院を出ても,組織内では給料も上がりませんし,ほとんど評価してもらえないというケースが大部分だと思います。
 単位の実質化についてですが,まず確認しておきます。せっかく努力をして調べていただいたのですが,このままではわかったような,わからないようなということです。要するに,15週の授業時間をとればいいのであって,プラス1週ということは,その大学の工夫でやるべきだと聞いてよろしいですか。現状で言いますと,認証評価などで,いろいろな大学を回っていますと,形式16週論なので,15プラス1週で,最後の1週にテストをやらない科目が増えています。試験をやらずに,レポートで最終評価をすれば15週で終わるわけですから,その方が採点時間を取りやすい。その結果どういうことが起こっているかというと,学生たちは最後のレポートがまとまって十何科目出されるわけです。テストは,60分の時間が終わると必ず終わりますが,レポートは書き上がらないと終わらない。その結果,以前と比べて勉強するようになったというべきなのか。あるいは評価のやり方から考えて,ほんとうにそれが望ましい方向に行っているといえるのか。逆に,十何科目のレポートがまとめて来ると,昔出していただけの分量のレポートを各教科担当者は要求しにくくなっていくのです。そうすると,結果的に学習時間が少なくなっていくという現象になっているかもしれないのです。
 シラバスの中に書いている評価の方法は,レポート何パーセント,そんなものばかりですから,評価の観点など,それにどういう学習の負荷がかかるのか,どういう課題をいつやらなければいけないかというシラバスになっている大学は,まだまだ非常に少数ですから,科目間の横の連携もとれないわけです。中間評価をやらなければいけないとなると,7週目とか6週目に一斉にレポートが出されて,どの科目も同じことをやるということになります。
 ですから,そういう点からいうと,キャップ制であるとか,科目数を減らしていくなど,そういうことと組み合わせながら議論していくことです。当面,私はできることならプラス1週という議論は,もう棚上げして,むしろ単位の実質化のシステムを各大学どうつくっていくのかということの具体的な例などアイデアを,きちんとインテンシブに議論したほうがいいのではないかと思います。

【佐々木部会長】 まず現行の解釈をきちんとお話しいただけますか。15週ということもそうですが、1コマ90分を2時間と見なしているという実態などいろいろあって、解釈が多様だと思いますので,現行の文部科学省の解釈を説明してください。

【石橋大学振興課課長補佐】 まず,1単位は45時間の学修をもって構成されるということが大原則です。この中で,講義というものだけ,少し例にとってご説明させていただきますと,そのうちの講義を行っていただく時間は15時間から30時間までの範囲で大学でお定めいただいているということで,多くは15時間やっておられるのではないかと思います。
 この15時間という時間の割り振りを1つの各授業科目で考えると,それは10週,もしくは15週という期間の中で学生が大学に来て授業を受けておられるということです。その中で15時間という講義時間を確保していただければいいという考え方です。
 定期試験のところが若干問題になりがちなのですが,ここは10週または15週の授業期間ということで,10週は3学期制,15週なら2学期制なので,そこは30週というものが授業期間として考えられるということになります。これのほかに5週間ということがあって,ここでは定期試験をしていただいたり,15時間以上にわたって学修を提供されるという大学であれば,そこで時間をとっていただくことは可能ですという解釈です。

【濱名委員】 ということは,授業時間に対する規定があるのであって,試験の回数をどうするかということは,各大学が工夫をするべきことであって,試験期間を定めなければいけないということでは必ずしもないと考えていいのですか。例えば,レポートだけで評価をする,あるいは,最終的に総括評価は行うべきだと思うのですが,語学の先生などには,平常試験をたくさんやっていますから最終試験はやらなくていいと言いたがる教員いると思うので,もしそういうような評価を大学として認めるという形であるならば,16週を確保するということが金科玉条の原理ではないと考えてよろしいんでしょうか。

【佐々木部会長】 いわゆる定期試験は,この基準上,義務づけられているのですか。定期試験期間を含む,と出てくるのですが。

【藤原大学振興課長】 これは,大学設置基準第22条に基づきますと,先ほど申し上げたように,授業の期間は30週分しかないわけでして,定期試験等の期間を含め35週にわたるということからすれば,通常は30週の外に何らかの期間があるということになるということが通常の解釈なのではないかと思います。

【濱名委員】 論点を明確にしておく必要があるので,一時期,認証評価で出ていたのが,1週とらなければいけない。結果として、16週になって学年暦が非常に圧迫されているということです。現状とすると,きちんと調査してはないのですが,おそらく筆記試験科目の割合は減っていると思います。なぜかというと,レポートにすれば16週目は,採点をすればいいという形になるので,そういう点から考えれば,プラス1週ということが認証評価団体ではそういう解釈が広がってしまったと思います。これは学士課程答申以降,そういう解釈が優勢になったと思うのですが,我々が気を付けなければいけないことは,もし15時間の授業だけでいいとするならば,日本の大学はレポート課題など平常評価重視になっていってもいいのかと思います。そこまでを含めてシステムとして解釈を考えておかないといけない。プラス1週の影響は正直なところ大きい,入学式は4月1日,2日が大流行で,4月の1週目から授業を始めて,定期試験が終わるのは8月の1週という,そういう状態になっています。ただし,一部国立大学は,まだ15週も確保されてない大学もあると認識しておりますが,だから,そういう点から考えると,現状として大学間で非常に開きがあると思うのですが,15週を確保してない国立大学はないのでしょうか。国立大学は,すべて15週の授業を確保して,その外側に定期試験が設定されているのでしょうか。

【佐々木部会長】 多くの大学は,この「学士課程答申」の20ページの「15時間の確保が必要とされる。これには定期試験の期間を含めてはならない」という,この2行を非常にリジットに読んで,15プラス1,すなわち16週必要だという理解なのです。ここで,荻上委員に登場していただいたほうがいいかもしれません。

【荻上委員】 まず最初に申し上げたいことは,今,佐々木部会長が引用された学士力答申の20ページ,「最低でも15時間の確保が必要とされる。これには定期試験の期間を含めてはならない」と書かれていますが,これは,ある意味では正確な記述ではないと思います。つまり,15時間と言っているのに対して,そこに定期試験の期間を含めるということは,時間と期間が混在しているような感じがしますので,ここは少しわかりにくいと思います。

【佐々木部会長】 ここで言う15時間は,15コマですか。

【荻上委員】 いいえ,大学設置基準で要請されているのは「15時間以上の授業」と「10週又は15週」ということであって,「10回あるいは15回」ということは法令上は定められていません。まず,この点は非常に大きな誤解があると思います。
 それで認証評価の話が出ましたが,私も認証評価をやってまいりましたが,私どもが各大学に関して確認したことは,その大学のアカデミック・カレンダー,学年暦を見て,普通大体週1コマで15週ですが,その15週きちんと枠がとられているかどうかと,そういうことはきちんと確認をいたしましたが,15回実際やっているかどうかということを確認するのは,事実上不可能です。シラバスに15回分書いてあるから,おやりになっているだろうということはあるにしても,きちんとした確認は事実上不可能です。
 それで,申し上げたいのは,先ほど濱名委員のお話にもありましたが,15プラス1ということは,これは大学が試験期間をとっている場合には,当然15週の外でなければいけませんから,それは15プラス1なり,15プラス2でなければいけませんが,もし,いわゆる定期試験は行わずに,そのほかの方法で成績評価をするということを,明確にその大学が決めているのであれば,実はそういう大学はほとんどないと思いますが,もし,そういう大学があれば,それは15週で設置基準違反にはならないと思います。ただ,どこの大学に行っても,アカデミック・カレンダーを拝見すると,必ず試験週間と書いてあります。試験週間と書いてあるから,それはやはり枠の外で数えなければいけないだろうなと我々は解釈をして,そうすると1週足りませんねということは,申し上げてきました。ほとんどの大学が,カレンダーを見ると試験週間と書いてあります。これが現実だと思います。

【金子委員】 これは幾つか問題があって,荻上委員がおっしゃった15時間と,それから15コマというか15回は同じかという問題が一つあるわけです。これはアメリカでも,1時間は,実は休憩時間10分とっていますので50分で認めている。それが今,我が国では,さらにいろいろなカリキュラム上そろえるという都合で45分にしているところが非常に多いです。私は,これは認める範囲ではないかと思うので,あえて,それを問題にしなくてもいいのではないかと私自身は思います。
 もう一つは,20ページでしたか,構築に向けて,これは「定期試験の期間を含めてはならない」と書いてあるのは間違いであるは,私はそうではなくて,授業時間の期間中に15時間確保しろと言っているので,それにプラス1週間は,要するに試験のためにとっている特別な期間なので,それが例えば15時間の中で試験をやるということを妨げるものではないと思うのです。試験は,その試験週間にしかやってはいけないということはないと思います。もともと,なぜこれが出てきているのかといえば,アメリカの規定がもとになっているのですが,アメリカの場合には,普通の授業と違う時間に試験を設定することがかなりあるのです。例えば,45分授業の場合には,要するにカリキュラム上の授業時間で試験ができない場合も結構あるわけです。ですから,試験期間は別だということなのです。それから,日本の場合,特に大きいのは,法学部なんかは,もともと試験は授業と独立しているという考え方ですから,その学期で授業をとらなくても試験を受けられるわけです。そういう意味では,試験の期間1週間は特別にとるということになります。
 それから,日本の場合には,実は幾つかの大学では,授業に登録した学生が全部来ると教室がとれないけれども,試験週間だけはないとまずいということで,試験週間は別に指定しているのです。これは有名大学でも現実的にかなりあったわけです。それなので,試験週間は別にするということをわざわざつくっているのだと思うのですが,私はその試験週間に試験をしなければいけないということでは必ずしもないと思います。

【荻上委員】 それはそのとおりだと思いますが,週1コマで15週枠とってあって,最後の1週間を定期試験というふうにアカデミック・カレンダーに書かれていると,これはルール(「15時間以上の授業」)違反だということは非常にはっきりしていると思います。そういう大学が,まだ少なからず残っていると思います。ただ,ここ二,三年の間に随分減ったと思います。

【佐々木部会長】 そうすると,15週を授業時間としてきちんとカレンダーに組んであれば,試験をどこでやろうと,それは認証評価機関としては問わないのですか。

【荻上委員】 あまりはっきり言ってはまずいのかもしれませんが,15週とってあって,試験週間とも何とも書いてなければ,これは評価する側としては,大学設置基準違反とは言えないと思います。ただ,15週目を定期試験とはっきり書いてあると,これはやはりまずいだろうということです。

【川嶋委員】 先ほどの高祖委員の話とも通ずるのですが,要するに日本の大学教育の前提が,そもそも15週と15時間,1対15ということが,くっついていることが誤解につながっていると思います。週に1回授業をやるという,そういうそもそもの前提があるから,そういう混乱が起きるのであって,アメリカのように週に2回とか,50分の授業を2回とか,90分の授業を1回とか,いろんな組み合わせで授業が成り立っているのだと思います。これは日本の場合は,高校までは同じ科目が週何回もあるのに,いきなり大学へ来た途端,週1回だけ授業をやるという,そういう思い込みというか前提があって,そこが大もとで,この意識を変えていかないと,今の回数と単位に必要な時間という問題はなかなかとけない。先ほどの前半のほうの資料,そこにつながってくることだろうと思います。

【林委員】 私が以前いた大学で,この議論がなされたとき,不合格になった学生で,授業の再履修は問わないが,要試の学生にチャンスをやるためにどうするかという問題が一つありました。例えば2学年と3学年に対して,月曜日から金曜日まで授業がびっしり詰まっているなかで,試験の準備をし,受験を可能にするためには,15プラス1週ではなくて,2週の準備をするというやり方です。それから,50分授業については,1時間1コマ50分に対して,続ける場合には,イントロダクション(導入)と結論(まとめ)の分と合わせて10分省略できるという解釈をしたことをつけ加えておきます。

【佐々木部会長】 この議論は,もう少し整理をしていただいた上で,また続けたいと思います。私は,1単位の授業科目を45時間の学修を必要とする「内容」をもって構成することを標準といっている,この「内容」という点が大事なのではないかと思うのです。45という数字だけが一人歩きして,「必要とする内容」が飛んでいるのではないでしょうか。そんな点も含めて,少し論点を整理していただきたいと思います。

【小松私学部長】 一応補足的に申し上げたいと思うのですが,今のご議論は,大学は,かなり慣行というものを中心に制度ができております。必ずしも成文法だけでできているのではなくて,しかも単純に慣行だから漫然とやっているというわけでもなくて,一種慣行法的なものを尊重して,自主的にでき上がっているという面があります。
 そこで,慣行がかなり法令と一緒に解釈されているところがあって,その点は,この辺までは慣行かと,この辺は法令の解釈なのかということは確かに整理したほうがいいということは一つあると思います。
 その中で,一ついろいろ法令とかを運用する上で留意点と思いますのは,15時間,15週,これは例えば1週間に一遍ぐらいやるということは,もちろんインテンシブにやってもいいし,それからセメスターごとに完結して週2回やってもいいし,集中講義をかませる場合もあるし,そういう意味では,まさに45時間の内容を確保すればいいということが一つあります。
 しかし,ノーマルなものとしては,今日,たまたま大学基準協会の「大学における一般教育」という机上資料が配られております。これは大学教育そのものの考え方,専門教育を含めたものが書いてありますが,総合的人間形成は,日本の教育観,あるいは教育制度には非常に深くビルトインされております。学習指導要領でも教科と道徳と特活と,別に知識と技術だけではなくて,トータルでカリキュラムを組むようになっております。それには,年齢とか成長というものが関係をするので,学年制というものを非常に重視されております。
 学校教育法では,大学は必ずしも学年制ではありません。修業年は4年間ですが,1年ずつ到達主義で積み上げていくわけではありませんが,大学は基本的に学年制を中心に回っていると思います。全くそういうものを取り払ったものはないでしょう。そういう意味では,積み上げていくという成長過程,人間形成というものは,アメリカ型の民主主義社会の市民を育てる高等教育ということと,伝統的な日本型の教育制度を組み合わされてできております。
 そうしますと,慣行に属するかもしれませんが,カリキュラムの組み方や進行のさせ方については,一つの科目を集中的にやって,これを完了したら,その次に行って,合理的に全部がこなせればいいではないかという考え方をとらず,少しずつ少しずついろんな科目を勉強して,響き合わせながら,トータルとして1年四季をたってみると,一つの成長があるような形に組まれていることが多いので,そういたしますと,必ずしも,実は知識,技術の修得に,ものによっては集中的にやったほうがいいものもあり,現にそれをやっても一向に変にはならないと思いますが,ノーマルな形としては,一つの授業科目は週に一遍ぐらいで組んで,全体としてやるのが非常に合理的でもあり,リズムに合っているという考え方で定着をしているということがあるわけです。
 そういう意味で申しますと,これは一般教育の区分をどうするかということを考えた平成3年のときの議論でも散々出てきたのですが,15回なので,例えば1日3コマで,二,三週間でやるかというと,今度は全体のカリキュラム体系など,そういうことを考えたときに想定はされていないだろうと思いますので,週1が法令だとは決まってないし,やぶることは十分にあるが,一つの標準系として,そういうことが想定されているだろうということは考えられます。
 それから,年間35週ということがございます。これは実は幼・小・中・高・大を全部通して年間35週です。大学と幼稚園は全然違うだろうということだが,制度としての日本の学校教育という考え方として,一定の長期の休みを挟んだりしながら,そういった時間的な熟成を図っていく点では,共通の制度ということになっております。そういう中で,一定の時間をかけて全体のカリキュラムをこなしていくことになりますと,繰り返すようですが,法令的にはさまざまな展開があり得るのですが,今行われていることが慣習として定着し,慣習法の強い大学の世界では,かなりの程度,それが規範になっているという現状だと思います。それは,それなりには尊重されていかないと,全部好きにしていいというと,またかなりおかしくなるので,ただ,その整理が必要だということが本日のご議論かと思います。
 なお,もう1点だけ申し上げますと,定期試験の期間を含めるか,含めないかということは,まさに大学でカリキュラムを組まれたときに,定期試験の期間を別途設ければ,それは15週に入らないということだと思うのです。しかも,各大学ではそれを分けておられることが多いです。これには慣行もありますが,先ほどの私が1年間ということで申し上げました大学設置基準で言いますと,第22条の「1年間の授業を行う期間は,定期試験等の期間を含め,35週にわたることを原則とする」と書いてあります。こちらは15週とかではなくて35週,先ほど申しました年間の全体の,そこでわたれと言ってますので,わたらなくてもできるかもしれませんが,それをわざわざ時間をかけてやれと言っていることは,先ほどの私が申し上げた幼稚園から大学を含めた全部の教育のカリキュラムの考え方ということですが,これを見ますと,一応定期試験の期間というものは分けろとは書いていないが,したがって中に含まれることはあり得ると思うのですが,一応概念としては分けて書いてあるので,これも各大学で分けるのかと思って,定着する一つの理由だと思います。
 しかし,ここで書かれていることのほんとうの意味は,15週間で,例えば2回の定期試験でやるので,その分を試験に変えてしまって,授業をどんどん時間数を減らすなど,そういうことによって実質が失われないようにするということが本旨であって,機械的な期間を分けて,そうしなければいけないという意味ではないと思います。このあたりの解釈が,我々も含めまして,若干未整備なところがあるということだと思いますので,幅があるということも含めた整理をするのが一番よいのではないかと。少し運用側から申しますと,本日の議論を聞いていて,そのように思いました。

【佐々木部会長】 ありがとうございました。今の小松部長のお話が大体議論のベースになると思います。そもそも,この議論は学生に45週間に相当する内容の教育をどうやって実施することができるかというところから派生した問題ですので,これを含めて,また後日,議論を進めさせていただきたいと思います。
 本日は,2つ目の教育内容,特にカリキュラムの体系化をどうするか,あるいは授業を属人的な現在のあり方から組織的なあり方に変えることが必要ではないか,という問題を中心にご議論をいただきました。これは引き続き,今後どういう方策を大学に奨励すべきか,あるいは制度としてどこをどう変えていったらいいかという問題も含めて,議論を先に続けたいと考えます。あわせて,先ほど最初にご指摘があったように,学士力のそもそもの問題,集団として学生を見るのか,それとも一人一人の学士力という観点が必要なのかというあたりも含めて議論したいと思います。事務局で論点を整理した上で,次回引き続きご審議をいただきたいと思います。

(3)国際交流を促進するための検討事項について,文部科学省から資料2の8ページ~11ページの説明があった。

(4)今後の日程について,文部科学省から資料5の説明があった。

―― 了 ――

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