法科大学院特別委員会(第15回) 議事録

1.日時

平成19年8月9日(木曜日) 15時~17時

2.場所

三田共用会議所 第二特別会議室(2階)

3.出席者

委員

臨時委員
 田中委員(座長)
専門委員
 井上正仁委員、井上宏委員、小幡委員、鎌田委員、川村委員、小島委員、瀬戸委員、永田委員、中谷委員、諸石委員、山中委員

文部科学省

 清水高等教育局長、久保審議官、土屋審議官、藤原専門教育課長、新田専門職大学院室長、神田専門教育課課長補佐

4.議事録

 事務局より配付資料の説明が行われた後、司法制度改革の本旨に則った法科大学院教育がどうあるべきか意見交換が行われた。

法科大学院における新司法試験に対応した指導の実態について

  • 調査目的には、必要な再発防止策を講ずることと、法科大学院教育の在り方の検討に資するとなっているが、再発防止策とは何を意味するのか。新司法試験考査委員が行った不適切な指導であるならば、考査委員としての問題であり、ここでの議論の対象ではない。
     中教審として議論するならば、司法制度改革の本旨に則った教育の在り方と連動させて、今回のような事態が起こる素地が法科大学院の教育体制に背景としてあるならば、その再発を防止するということか。
  • 新司法試験考査委員が答案練習会をしてはいけないことは、以前から言われていたことである。法科大学院がどれほど各教員の行為をコントロールしているのかと関わっている。
     考査委員が行う行為が答案練習と紛らわしいことから来る線引きの問題があり、各法科大学院で再発防止策として考える必要のある問題である。この意味では、本来の法科大学院教育を歪めるような受験指導の教育についてどこに問題があるのかをはっきりとさせることが大きな課題。
  • 新司法試験考査委員としての在り方は法科大学院としての教員管理の問題も含まれる部分も今回の議論をすることは疑問。
  • 今回の事案は個人的な問題と言えるのか、法科大学院において新司法試験の合格率をめぐって、教育の本来の在り方において、このような新司法試験考査委員の行動を招くような素地があるのではないかとの疑念があり、司法試験委員会においても大学に対し再発防止の要請を行った。法科大学院にはFDが義務付けられており、教員が全く個人で指導していいというものではないので、今回の件も全く個人の問題というものではない。また、法科大学院教育と新司法試験は一体として進むべきものであり、議論の守備範囲を切り分けることはできないのではないか。
  • 新司法試験考査委員の行動の在り方ということではなく、法科大学院におけるあるべき教育の姿について、実態が歪んできているのではないのかという角度で議論すべき。
  • 法科大学院教育の中で教員が何をすべきで何をすべきでないかについてと、新司法試験考査委員としての問題大きく異なる。例えば法科大学院の教員が学生に頼まれて補習をすることが仮に許される場合であっても、同じことを考査委員がすることは適切ではない可能性があり、それは、法務省で公正性を担保するためにどのような措置を考えるかの問題である。
     他方、あまり考査委員に制約がかかりすぎると、法科大学院の教員として教えるべきことが、考査委員であれば教えることができなくなってしまう事態となるのはおかしい。例えば今年の民事法の瑕疵担保に関する試験問題は、民法の担当教員であれば当然教えるべきことであるのに、これを考査委員が教えられないこととなれば非常に問題。まず何が法科大学院の教員として教えることのできる教育なのかを議論した上で、考査委員としての行為など他の議論ををすべきである。
  • 今回の実態調査自体は、直接法科大学院における問題を解決できるものではないが、答案練習などが行われている実態が明らかになった。正課内であっても本来の法科大学院教育の在り方にそぐわない内容の答案練習があるのかどうか議論するべき。
    また正課外においても、正課の本来の学習について制度趣旨を損なうようなものになっていないかについての観点が必要である。

法科大学院教育の在り方について

  • 「司法試験受験の指導」という場合にどのようなものを想定するか。法科大学院教育とは、想像力の養成や法的分析力、応用力の向上等を大きな目的として掲げてきたが、新司法試験では、ペーパーテストで採点して差を付けるため、答えを一定の方向に持っていくことが前提となっている。
     しかし実際の裁判では、どこから取り掛かるべきかわからない様々な事例があり、個々の法曹の力が問われる。そのため、法科大学院では、問題の取り上げ方、分析の仕方、問題の考え方、想像力を働かせるような教育をしていく必要がある。
     論文試験についてはどうしても正解志向が出てしまうが、このようなことは本来の受験教育とは違うということを認識し、排除していくことが必要である。
     また、短答式の択一問題が、法科大学院教育を歪めているところがある。例えば商法の総則商行為手形法については論文式問題であまり出題されず、択一で取り上げられる科目であるため、学生が択一問題として理解するという発想になってしまう。
     本来、法科大学院教育のカリキュラムでいろいろな科目を出して教育しようとしたことの狙いは、様々な法律の分野を勉強して、その中で法的な力を養っていくはずだったが、一部の科目については短答・択一的な問題に対応するためだけの記憶だけの問題になっている。法科大学院教育の中で新司法試験にターゲットを絞った発想で教育することは大きな弊害である。
  • 法科大学院を修了することで受験資格を与えられるということを前提に、新司法試験で測ることのできる力量、能力とは、法科大学院制度が求めた法曹の資質の一部であるという認識が重要。法科大学院でしっかりと教育されていることと、新司法試験に合格することの両方で、法曹資格を得られると確認しておく必要がある。
  • 法科大学院での通常の授業をしっかりと試験科目以外も含めて行うことが重要。いろいろな事案の解析能力や柔軟な思考等が培うための様々な実務教育の時間を学生に与えることが必要。
     新司法試験と法科大学院教育は連携しているのであるから、本来正規の授業が新司法試験に資するものとなるのはある程度当然。問題は教え方で、受験テクニックの指導のような授業内容は、第三者評価や大学のFDで是正すればよい。問題を与えて、学生たちにこれを問う力をつけさせようとすること自体は悪いことではない。新司法試験「対策」という言葉に変な響きがあるが、正規の授業を理解すれば新司法試験に合格できるはずである。正規の授業外に、本来の法科大学院教育の時間がとれないようなものであればそれは問題であり、正規の授業科目プラス、倍の補講といったら問題になるということは当然だが、2、3回の補講ならば外形的な判断としてよいとせざるを得ないのではないか。
  • 個々の大学が一定の方向性を持って法科大学院教育をやるんだということのコンセンサスがないまま、FDや第三者評価に任せることは必ずしも適当ではない。法科大学院教育のあるべき姿を、全法科大学院の関係者が一つのコンセンサスとしてここで再確認する必要があるのではないか。
  • 法科大学院制度発足当時はこのような理解があったが、法科大学院や学生間の競争の中、焦りが出ているのではないか。このため、確実に合格率が上がるように試験を直接目標にした指導をした方がいいという雰囲気が現実に存在し、具体的な方針になっていることがないとは言えない。それが今回の問題の背景となっており、このことに対して警告を与える必要はある。
     正規の授業のなかで組み込まれて予備校と同じような指導方法をしていた場合は、シラバスにも出てこないため、チェックは難しい。そのような状況に対し警告を与え、それ以上は個々の大学の責任やってもらい、あとは評価していく方法しかないのではないか。
    新司法試験は、よくできた問題で、受験対策的な指導はあまり役に立たない。法科大学院によっては、OBが旧司法試験対策的な受験指導を行うケースがあり、それがマイナスに働く学生もいる。
  • 法科大学院教育の在り方として一定の警告は必要だが、境界にラインを引くのではなくここに踏み込むべきではないという一定の幅をもったゾーンを示すべき。ラインでは、ラインを渡ろうとする大学が出るし、ここまでは許されると判断されてしまう。細かなところまでルール化することは非常に危険。
  • 学生からは予備校に行ってみたが思ったほど役に立たたなかったと聞いている。在学生も旧司法試験のトレーニングがあまり役に立たなくなってきたことを理解しつつある。
     法科大学院教育の本旨に従った文書養成能力の育成と受験指導の区別は、試験の点数を上げることを目的でする場合かどうかで判断するのであろうが、試験の点数を上げることのみを目的として指導すると授業内容が矮小化してしまう。
  • 文章を書く能力の指導は必要であり、一定の機会を与えて書く訓練を行うことは効果がある。これを全て否定的に評価することはおかしい。理想論を言えば法科大学院の教育を受けていれば、新司法試験問題に対応できるはずだが、実際の与えられた単位数、時間の中で全て対応することは難しい。
     他方、正課の中で毎回答案練習とその解説のみでは、書かせる練習だけの単位になってしまい、線引きの問題が出てくる。
     また、法科大学院では、試験にはあまり関係はないが教えなければならない内容が確実にある。教員としては試験にも役立つことはしたいが試験に特化した授業だけをすることはあってはならないので、そこの見極めについてジレンマを抱えている。
     法科大学院教育のある部分では、新司法試験の合格者を増加させることに向いている面がありる。これをどのようにチェックし、あるべき法科大学院教育を担保しながら、新司法試験の成果にもつながることをどのように実現するのかは、各法科大学院の悩みである。
  • 新司法試験考査委員の不適正な指導についてどこに問題があるのかについてのコンセンサスが本当にあるのか気になっている。
     試験勉強と法科大学院の本来の勉強についてどこまでが重なり、どこが異なるのか。建前から言えば法科大学院で勉強した成果を試すのが新司法試験であるので、新司法試験の問題と学年末試験の問題は同じようなものになることが望ましいことになる。どのような姿勢で取組むかについては、試験勉強と本来の法科大学院教育では明らかに異なるが、授業方法や試験問題の作り方、素材の利用の仕方に注目しての線引きするのは難しい。
     受験生たちの姿勢について司法試験委員会が何を評価し、または評価しないのかを、もっと詳しく教育と結びつく形でメッセージを与えなければ旧試験と同じ形になってしまう危険性がある。この意味で、新司法試験自体の教育効果についてもっと意識すべき。
     起案・添削は指導の効果測定として有効ではあるが、唯一の方法ではない。例えば、受験生に聞くと試験対策として最も役に立った科目はリーガルクリニックであり、実際の事件の事実関係を聞いて準備書面までもっていくことが新司法試験と直結する科目ということだ。
  • その他の論点について補習の問題、大学以外の問題そして予備校の問題等があるが、特に司法試験不合格者に対するケアをどこが行うについては、制度的にも難しく微妙な問題である。
  • 文書指導について、法曹に必要な高度なレベルの文章記述以前に、一般的にきちんとした文章を書くことができるような技術を身に付けさせる必要は感じる。アメリカでも、それのために短い論文を書かせるような科目を幾つか必ず履修させるロースクールが増えてきている。しかし、それと答案作成の訓練については、一定程度距離のあるものである。
     限られた時間の中で効率よくポイントをついた文章を書くことは重要で、特に未修者からはこのような要望が強い。、確かに訓練すれば新司法試験の成績はよくなると思うが、そこまでロースクールが踏み込むべきなのか難しい問題である。その上のレベルとして新司法試験を目的としたにした受験技能の指導があり、そこは踏み込むべきではないと思う。真ん中のゾーンのところが一番難しい。
  • 法曹に必要な文章能力以前の文章能力については、本来であれば適性試験もしくは入学試験の段階でクリアしておくべきことではある。
  • 法曹に必要な文章能力というのは判決文を書く能力なのか。あれは悪文。新司法試験が競争試験になっていると、合格者を出すということに学生も含めて各法科大学院が関心を持つというのは当然。ただ、そういう中でもできることはある。一つは、新司法試験の質の面で努力するということ。もう一つは、法科大学院において十分にこの司法制度改革の趣旨に沿った形で教育した者を修了させ、それを前提に受験資格を与えることについてきちんとしたコンセンサスを得ること。
  • 学生は新司法試験に不安を抱いており、教員は学生からの期待を受け何とかしなければならないとの思いから新司法試験対策の授業を行うことになってしまう。
     新司法試験対策として過去の司法試験の記憶があり、加えて競争の厳しさから旧来の手法に依存してしまうのであろうが、制度設計時の法科大学院の理念についてメッセージを与えることにより、これが一番よい方法だと関係者が確信できれば、問題解決の基盤になるだろう。
     クリニックは新司法試験、司法修習で役立つものであるが、クリニックだけをしていればよいというものではない。クリニックの中のどの要素が思考力、想像力を育てるのかを発見し、この要素を普通の授業の中でも生かしていくことが重要である。
     新司法試験については、特に新司法試験考査委員に関しては公正性、公平性の確保は極めて重要であり、今よりも高いレベルで考える必要があるが、非考査委員とは全く別の問題である。
     教育の手法についてあまり規制を行うと、これにより予備校の繁栄に繋がりかねない。
  • 今回の問題は大学の教員が関与していたものであるが、問題の所在として、大学の教員が関与していなくてもOBが中心となっている受験指導や、組織として大学とは別だが、大学と密接な関連の下に行っている場合や予備校との関係等をどう考えたらよいか。大学が主導的に行う補習等は大学本体のカリキュラムとの関連である程度チェックすることはできると思うが、法科大学院とは別組織がある場合や、予備校と連携していた場合の問題についてどのように考えるべきか。
  • 設置認可時は、正課の授業について予備校と連携しているものは許されず、また正課外についても予備校と連携するものについては、指導して排除した。また予備校ではなくても正課外に別の教員組織をつくり受験指導をしていると思われるものについても、指導をして改善してもらった。法学部についても受験教育強化にならないように、法学部における法科大学院進学向けの受験予備校との提携ついても警告し、正課内の部分的な提携、あるいは正課内での提携、正課外での教員組織等を使った受験教育組織等について設置認可段階でチェックを行った。
  • 予備校との関係の問題では、大学が予備校と結びつくことは明らかに問題がある。しかし他方において受験指導が問題になるような状況の中で、熱心な先生が正課外や補習などの形で指導を行う。このことが全体の空気になってしまい、法科大学院制度が発足してから先生方が余りに教育に大きな時間を割くことになってしまっている。
     このようなことはどこかで改善しなければ、後々において我が国の法律学の在り方において問題が生じてくるのではないかと危惧している。今後、大学では、未合格者に対し、どこまでケアできるのかも課題となる。
  • 法科大学院については、法科大学院の退出を促すような制度により数を減らすことができれば、学生や先生に対するプレッシャーもかなり改善されるのではないか。また入学定員についても一律に削減できないか。
     現在、入学者に対する修了者の割合は、法学未修者で75パーセント、法学既修者で90パーセントであると聞いているが、入学者に対して修了者が75パーセントとは、今までの日本の高等教育ではなかった現象ではないか。これをさらに厳しくする等、新司法試験以外の場における淘汰が進めば、新司法試験でのプレッシャーが和らいでくる。
  • 先程の問題について、本学においては、9割以上が法学未修者として入学しており、1年目で基本科目のほとんどを学習することになるが、今まで法律を勉強してこなかった人にとっては、相当厳しく、1年から2年への進級時にかなりの人が留年する。2年間留年すると除籍となるシステムがあるため、かなり淘汰される。先生方は退学につながる措置は取りにくいので、GPAによる進級の制度を導入したが、ある部分では、逆効果なところがあり、学生にとにかく点数がとれるようになればいいという思考が非常に強くなっている。
     また、学生から民法の大部分を3ヶ月の授業で全て理解するのは難しく、補習をしてほしいとの要望があるが、このような補習は受験対策の補習とは異なる色彩の問題である。
     そのほか、法学未修者の修了率75パーセントについては、単位が取得できず修了できないものだけではなく、新司法試験との関係であえて留年することも考えられ、実際にプロセスとしての選別の機能を十分に果たしているかどうかを確認する必要がある。そのときには、できるだけ厳しくしていこうと考えているが、良心的な学校だけが厳しくても意味はなく、全体として法科大学院制度自体をどうするのか議論しなければならない。
     本学は、法職課程教室を全て廃止し、補習や答案練習を一切していないが、このことにより、修了生たちが自発的に後輩の面倒を見始めている。特に法学既修者の修了生は旧司法試験の経験に即した指導をする危険がありこのことは放置してもよいものなのか。
  • 法学未修者の教育が1年で良いのか意見も出ており、このようなことを含めて法科大学院制度を今後見直していくことは必要。
     また先程の入学定員を全体として抑えるとの話には反対。それは、個々の法科大学院において判断すべきで放置しておいても神の手により調整されていく。
  • 今回の問題と法科大学院の素地がだんだん理念からずれてきた問題とはは切り離して考えるべき。今回の問題については、現職の新司法試験考査委員が補習等で答案練習したものであり、本人だけの問題ではなく、所属する法科大学院の管理責任も含めて考えなければならない。法科大学院の素地の問題では、教育の方向として答案練習等ををどのように考えるべきか。
  • 今回の問題となった新司法試験考査委員のような事例がほかにあるのか、それにどのように対応するかについての問題と、法科大学院における素地の問題にどのようにメッセージを与えるかについての問題は区別して考えたい。

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