本文へ
文部科学省
文部科学省
Home > 政策・施策 > 審議会情報 > 中央教育審議会初等中等教育分科会 > (第33回)議事録・配布資料 > 資料1


資料1

義務教育に係る諸制度の在り方について
(初等中等教育分科会の審議のまとめ)(案)

はじめに

 中央教育審議会初等中等教育分科会は、平成15年5月15日に、中央教育審議会が文部科学大臣から受けた諮問「今後の初等中等教育改革の推進方策について」の具体的な検討を付託され、現在審議を進めている。
 このたび、諮問の際に示された当面の検討事項のうち、義務教育に係る諸制度の在り方について、本格的に審議を開始した平成16年4月以降の本分科会における審議の概要を公表することとした。その性格上、今回の「まとめ」は、審議した論点の多くについて、一定の結論を提示するものとはなっていない。

 義務教育は、国民一人一人が、個人としても、また、国家・社会の形成者としても、充実した、実り豊かな生涯を実現するために必須の基盤を培うものであり、その成否は我が国社会全体の在り方を大きく左右するものである。このような義務教育の意義に照らし、その制度の在り方を考えるに当たっては、専門的な見地からの検討のみならず、幅広い議論と国民的なコンセンサスが不可欠と考える。
 今後、このまとめについて、国民の皆様からも幅広く御意見をいただきながら、新しい時代にふさわしい義務教育制度の実現に向けて、更に検討を進める必要がある。


 我が国の義務教育制度をめぐる課題

   我が国の義務教育は、憲法、教育基本法、学校教育法等に基づき制度化されている。具体的な仕組みとしては、保護者にその子どもを満6歳から9年間、小学校、中学校、又は盲・聾・養護学校の小学部、中学部に就学させ、普通教育を受けさせる義務を課すとともに、義務教育に係る学校の設置を地方公共団体の義務とし、また、経済的な理由で就学困難な学齢児童生徒の保護者に対する援助を市町村の義務としている。さらに、国としても、教育課程の基準である学習指導要領を定めるとともに、義務教育費国庫負担制度や教科書無償制度等の制度的措置を講じることにより、国内のどの地域に住んでいても、すべての国民が一定水準の教育を受けることのできる制度が構築されている。
 こうした堅固な義務教育制度は、戦後の我が国社会の発展の基盤として国際的にも高く評価されてきた。
 しかしながら、一方で、近年、義務教育をめぐっては、例えば、いじめ、不登校、校内暴力、学習意欲や学力の低下といった様々な課題が生じるようになっている。
 このような義務教育の課題について、本分科会の審議においては、主に次のような指摘があった。

 
 教育基本法や学校教育法等の制定時と今日とでは児童生徒の成熟度に差異が大きい。特に、肉体的な早熟傾向と体力的・精神的・社会的部分での発達の遅れによるアンバランスが生じている。
 学校教育の中で躓(つまづ)く児童生徒が出て、いわゆる「落ちこぼれ」を生み出したが、このことに十分な手当てがなされなかったことなどへの一種の反抗の表れとして、不登校にいたるケースやいわゆる学級崩壊にいたるケースもあるのではないか。
 例えば、今の学校での指導は言語が中心だが、子どもは本来視覚優位であることに留意して子どもの発達を考えたり、学びの方法論を考える取組が不足している。
 何のために学校に行くのかの意識が子どもたちにうまくフィットしていない。それを考えずに弾力化をするとさらに難しい状況になる。
 社会の変化に従って教育も変化すべきものであるが、選抜のための入試が高校教育や義務教育を歪めている。
 1990年代、高い理念を掲げ、多くのエネルギーを注いできたにもかかわらず、教育改革が実効あるものとなっていない。第一に、いわゆる「公私間格差」とそれに伴う社会階層間の不平等の問題。第二に、公立学校において、「教え込み」の授業に対する反動から、1990年代に「教えずに考えさせる授業」がよい授業であるとの認識が広がりすぎ、新しいタイプの「わからない授業」を生んでいること。第三に、私立学校における教育が必ずしも教育改革の流れに沿ったものとなっておらず、公立学校をいくら改革しても、日本全体の教育は改革されないこと。
 少子化の中で、子どもは大人に取り囲まれて育つこととなり、人間を鍛える機会が少なくなる。こうした中で、例えば親から離れた集団型教育など、特に10歳から15歳までの教育をしっかりと行う制度設計が必要となっている。
 家庭の教育力の低下や地域共同社会意識の低迷による学校教育への期待増と、期待に応えるための学校現場の加重負担感が広がっている。
 社会の階層分化とも言える状況が進む中で、教育においては、落ちこぼれそうになっている人たちにもっと目を配り、義務教育としてのミニマムをどうするかを考えないと親の不安は解消されない。
 学校教育において十分な基礎基本を身に付けられず、知識や技能、意欲を欠いたまま社会に出されることが、NEET(ニート)(就労もせず、就学もせず、職業訓練も受けていない者)と呼ばれる若者の増加の一因とも考えられる。
 我が国では学校教育において学ぶことへの動機付けが不十分なため、大人になってから学んだり知的好奇心を持ったりすることが少なく、例えば大人の科学リテラシーは極めて低い。

   また、以上のような課題に対応するための検討の視点について、主に次のような意見があった。

 
 46答申以来、早熟化などの影響で制度と現実が齟齬をきたしている部分があり、時代に応じて学校も変わるべきと言われ続けてきた。何を押さえて何を変えればいいのかを議論すべき。
 義務教育制度は近代化(産業化社会・工業化社会)とともに誕生し発展し成熟してきたが、近代化が終焉を迎え、ポスト工業化社会・高度情報化社会・知識基盤社会に転換しつつある以上、義務教育のシステムも内容も変革の対象として例外ではありえない。
 子どもの心身の発達の状況は多様で、しかも顕著であり、その発達の状況に即した義務教育の在り方を追求しなければならない。
 義務教育は皆が同じでなければならないという国民学校令のトラウマを乗り越えないと今の社会の矛盾は乗り越えられない。義務教育について、いろいろな制度が並存していること(複線化)が必要なのではないか。
 義務教育を受ける子どもの中には、特別支援教育を必要とするなど多様な子どもがいることを前提にした仕組みが必要である。
 義務教育については、水準の平準化も大事だが、今後は地域に根ざした参画型の教育が重要であり、保護者や地域が不平を言うだけでなく、学校と協力して自ら汗を流す仕組みとすることが必要である。
 国民の教育を受ける権利を国家として保障するための財政基盤(教師の資質維持・向上、教育環境の整備、地域のサポート体制の確立)が保障されることが必要。
 社会の変化や保護者の意識の変化に対応し、義務教育制度全般にわたって見直しを行うことは重要だが、急速な制度改革は影響する範囲が大きく、特に地方から見て、今の段階ではそのニーズは乏しいと思われる。
 まず制度改革ありきではなく、今どんな問題が生じていて、それに対応するためには何を改革すべきか、改革のプラス面、マイナス面は何かという順で議論すべき。
 公立学校に入っても、地域の数学教室や科学教室でレベルの高い教育を受け、私立学校に行かなくても大丈夫だという環境をつくるべき。「教育の多様化と選択」「就学時期の弾力化」「理解が進んでいる子どもへの対応(飛び級など)」も、その目的からすれば、学校教育制度を変えるより、地域教育による補充を考える方がコストと副作用は小さい。

   今後、世界的な規模で「知識基盤社会」への移行が一層急速に進むことが予想されている。こうした中で、一人一人が豊かで充実した生涯を送るとともに、我が国社会がその活力を維持し、国際社会に貢献していくためには、国家・社会の形成者として最低限求められる基礎的・基本的な資質・能力の上に、豊かな創造性や高度な専門能力等を身に付けた人材の育成が不可欠である。
 そのためには、人材育成の基盤である義務教育制度が現在直面する様々な課題を克服し、新しい時代にふさわしい教育を実現することが急務である。
 このため、まず、国家・社会の形成者として最低限身に付けることが求められる基礎的・基本的な資質・能力とは何か、言い換えれば、義務教育の目的、目標とは何かについて明確にした上で、こうした目的、目標をより良く実現するための制度の具体的な在り方を検討し、必要な改革に取り組む必要がある。
  同時に、学校や行政だけの取組では教育改革は成し遂げ得ない。子どもたちが将来に夢を持ち、健やかに育っていくためには、彼らを取り巻く家庭や地域が、学ぶことや努力を大切にする公正・公平な社会であり、かつ、人間性にあふれた社会であり、更には子どもたちを見守り育てていくことの責任を共有する社会でなければならないことを、すべての大人が今一度認識する必要がある。


 義務教育の目的、目標

 
(1) 義務教育の目的

 義務教育は、国民が共通に身に付けるべき公教育の基礎的部分を、だれもが等しく享受し得るように制度的に保障するものである。

 本分科会の審議においては、義務教育の目的について、主に以下に示すような意見があったが、これらをごく大づかみに集約すると、義務教育の目的については、
1 国家・社会の形成者として共通に求められる最低限の基盤的な資質の育成、
2 国民の教育を受ける権利の最小限の社会的保障、
の2点を中心にとらえることができるものと考える。

 義務教育は欧米の発想で、教育が庶民にまで行き渡っていなかった時代に、国の力でどの子どもも学校に行くことを保障しようというもの。社会が豊かになった現在、そのコンセプトを考え直すことが必要だが、その際も、1国家・社会の構成員として相応しい最低限の基盤となる資質の育成(社会の統一性・水準維持)、2国民の教育を受ける権利(学習する権利)の(最小限の)社会的保障という2つの目標は維持されるべき。
 義務教育の意義は、1国として、国民としての統一性や水準の維持、2多様な変化の時代に生きていく子どもたち一人一人の個性や特性の基礎づくりの2点。
 義務教育の目的、目標は、憲法、教育基本法、学校教育法、世界人権宣言、国際人権規約、子どもの権利条約、障害児関係法などに規定された市民権としての教育への権利を保障すること。
 義務教育の目的、目標は、高度に発達した複雑な現代社会において、生涯を人間としてとにもかくにも生きていけるだけの資質能力を体得させること。
 義務教育には、「国家として、あるいは国民としての統一を目指す」という側面と、「子どもや学校の持ち味、個性、独自性を育てる基礎作り」という側面とがあり、この両者をバランスよく維持していくことが重要であり使命である。
 義務教育の目的とは、「人間力」を備えた市民となる基礎を提供すること。つまり、社会に生きる市民として、職業生活、市民生活、文化生活などを充実して過ごせるような力を育むことといえる。これは、「生きる力」として文部科学省が教育改革の中で提唱してきたことと軌を一にするもの。
 義務教育の目的を実現するためには、以下のことが必要。
1 とりわけ義務教育の間は、公立学校と私立学校の間で大きな乖離が生じないようにし、弊害をもたらす事態が生じる場合は私立学校に対しても教育行政が適切な指導を講じること。
2 公立学校において、指導軽視の風潮を改め、基礎基本の徹底、家庭学習を含む学習技能の習得の促進を図るとともに、その上に立った問題解決学習、総合的な学習の時間の充実を図ること。
3 教師の研修の充実、教師や学校に対する評価の再検討、処遇や指導への反映。
4 通う学校に関わらず、地域の児童生徒が参加できる教育プログラムを自治体、市民団体、大学、民間企業、地域の施設などが充実させること。

 義務教育を通じて、共通の言語、文化、規範意識など、社会を構成する一人一人に不可欠な基礎的な資質を身に付けさせることにより、社会ははじめて統合された国民国家として存在し得る。このように、義務教育は国家・社会の要請に基づいて国家・社会の形成者としての国民を育成するという側面を持っている。
 また、一方で、義務教育には、憲法の規定する個々の国民の教育を受ける権利を保障する観点から、個人の個性や能力を伸ばし、人格を高めるという側面がある。子どもたちを様々な分野の学習に触れさせることにより、それぞれの可能性を開花させるチャンスを与えることも義務教育の大きな役割の一つであり、義務教育の目的を考える際には、両者のバランスを考慮する必要がある。

(2) 義務教育の目標

 こうした義務教育の目的を実現するためには、具体的にどのような目標を掲げることが求められるのであろうか。
 憲法や法令では、義務教育について「普通教育」という言葉が用いられているものの、現行の法令には、「普通教育」の具体的な内容や義務教育そのものの具体的な目標を直接的に示した規定は存在しない。学校教育法においては、小学校及び中学校の目的やその教育の目標がそれぞれ示されており、これらの規定に従って、学習指導要領などの教育課程に関する事項が定められ、各学校における教育活動が実施されている。
 現行の学校教育法における各学校の目標に関する規定をめぐっては、小学校については、比較的詳細な規定が置かれている一方、義務教育の終了地点である中学校については、例えば「小学校における教育の目標をなお充分に達成して」のような相対的な表現が用いられるなど、具体的に何をどこまで達成することが求められるのか必ずしも明確でないとの指摘がある。
 このことについては、戦後、現在の学校教育制度が発足するに当たり、戦前からの義務教育期間として確立されていた6年間の小学校教育に比べ、新たに設けられた3年間の中学校における教育については、制度発足までの時間的な制約等から、十分な検討を行うことができなかった事情があるのではないかと言われている。

 新しい時代に求められる義務教育とは何か、その実現のための制度はどうあるべきかを考えるに当たっては、まず、その目標について、将来に向けた視点も踏まえつつ、改めて明確化する必要がある。
 そのための検討に当たっては、中央教育審議会が平成15年3月の答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」において示した、教育基本法の改正の視点や教育の基本理念についての提言を十分に踏まえることが必要と考える。
 あわせて、教育の目標や実際の教育活動において小学校と中学校とが分離され、それぞれの中での完結が強く求められるあまり、義務教育9年間全体を通しての目標や達成すべき水準が充分に意識されず、また、小学校と中学校との間の連携や教育の一貫性が弱くなりがちとなっていることなどの反省を踏まえ、義務教育9年間を見通した目標についての検討を行う必要がある。

 以上のような視点から、本分科会においては、今後の義務教育の目標として具体的に何を求めるべきかについて、幅広く議論を行った。現時点では、その最終的な集約には至っていないが、主に次のような意見があった。

 義務教育では、
1 日本国民として必要な基礎学力を身に付けさせること、
2 公民として必要なルールを身に付けさせること、が必要。
 ミニマムとして必要な教科として考えられるものは、「国語」、「算数」、「社会」(日本で暮らしていく上に必要な地理的知識、日本の社会を成り立たせている歴史、現代の仕組み、国民としての権利や義務の概念など自立に必要な最低限の知識)、「理科」(生き物、自然、宇宙、環境の理解に必要な最低限の知識)、「家庭」(料理、裁縫、工作)、「情報」(情報機器を操作する最低限の知識と実践)、「倫理」(なぜ社会にルールはあるか、なぜ人に乱暴してはならないか、なぜ命は大切かなどを考え、身に付ける)。
 個人としての幸せを追求するために必要な思考力・判断力、国民として、地球市民として、様々に変化する状況の中で自ら判断し行動するために必要な基礎的な力を身に付けさせることが必要。具体的な学習の内容については、その時代の要請によって柔軟に構成されるべき。
 義務教育を通じて、一人前の人間としての自立の意識を養うことが必要である。
 人間が、人間として生涯にわたって生き抜く力を育成する基礎教育が義務教育の目的であり、具体的には以下の点が重要。
1知の教育、2知恵の教育、3知り・分かり・出来る喜びを享受させること、
4自分らしさを追求させること、5生き方についての教育、6人間に出会わせること、7個の確立と自己を正しく主張することのできる人間の基礎教育、
8コミュニケーション能力の育成、9地球を生きる人間の教育、
10学び方の学習、11情報社会を生きる人間の教育、12賢明な消費者として生きることができる人間の教育、
13「市民性」の教育、14共助・共生社会の形成者としての共助・共生意識の教育、
15男女共同参画社会を生きる人間の教育、
16大人にならせるための教育、親となる教育、
17人類が創造し蓄積してきた学術・文化の継承者、創造・発展者として、国家社会の担い手としての国民教育の基礎教育、18上級学校への進学準備教育
 「学び方」を学ぶ機会を充実することが重要。
 自己決定能力や公共性の感覚などのパブリックマインドを育成することが必要。
 義務教育では、学力も大事だが集団の中での自己トレーニングが重要。
 豊かな情操や感性の育成が重要である。
 知・徳・体に加え、生活に必要な技術を養うことが重要である。
 義務教育には、その人間の人生の座標軸を決める役割がある。そのためには歴史教育が不可欠である。
 義務教育に英語を導入することは賛成できない。総合的な学習の時間のように目的、目標が曖昧なものはできるだけ避け、目的、目標を明瞭にした科目を繰り返し行えるカリキュラムとすべき。
 少子化社会では、義務教育において、例えば小学校の高学年になったら小さな子どもの面倒をみさせるようにするなど、大人に、親にさせるための基礎を育てていく必要がある。
 「普通教育」という言葉の概念について、もっと詰める必要がある。

 また、義務教育の目標の在り方については、主に以下のような意見があった。

 義務教育で目標を設定して、その目標としての学力をすべての子どもに修得させる教育を構想すべき。
 義務教育では「ここまでしかできない」しかし「ここまでは身に付ける」という国としてのはっきりとしたマニフェストを示し、それを実行していくために必要十分な体制を整えるべき。
 義務教育で身に付けるべき内容を、最低これだけはというものに絞り込み、選択や補充・発展、総合的な学習の時間、部活動等、それ以上は各学校が特色を出せるようにすべき。
 教科学習について、国民全員に義務教育でどこまで教えるかを考えるべき。実態として、今の中学の教育内容は生徒全員には難しすぎるのではないか。
 学校教育法の小学校の目的についてはもう少し具体的に表記すべき。例えば、基礎的・基本的事項の確実な定着、確かな学力、豊かな心、健康な体など。
 義務教育の目的、目標はもっと具体的なものであるべき。7・5・3と言われる現象を8・6・4とか、9・7・5に上げていくというような具体的な目標を作って教育効果を上げていくことが重要である。


 義務教育制度の改革の方向

   義務教育において求められる目標を明確化し、そのより効果的な実現を図るためには、義務教育に係る現行の諸制度について改めて見直しを行った上で、改革のプラス面、マイナス面を十分に吟味しつつ、必要な改善策を講じていく必要がある。
 その際の基本的な考え方として、国民の教育を受ける権利を保障するため、教育の機会均等、水準確保、無償制といった義務教育の根幹については、国がその責任においてしっかりと担保した上で、具体的な教育の実施に当たっては、保護者等の意見も踏まえつつ、各学校や教育委員会が可能な限り柔軟に取り組むことができるような方向を目指すことが重要と考える。
 このような観点から、本分科会では、主に
1 義務教育の目標を達成するための評価の在り方
2 就学の時期
3 義務教育の年限
4 学校の区分、学校間の連携
などについてその在り方をめぐる検討を行ったところであり、その概要は以下に示すとおりである。
 なお、これらはいずれも一定の結論に至る前の論点の整理にとどまるものであり、今後、外部の幅広い御意見も伺いながら、更に検討を進める必要がある。

 
(1) 務教育の目標を達成するための評価の在り方

   義務教育段階における学習成果の評価や各学校の修了の認定に当たっての考え方は、義務教育の目標の達成の在り方に大きくかかわるものである。
 本分科会においても、義務教育における修了認定や評価の考え方として、児童生徒に学力を保障するためにはどのような制度が望ましいかという観点から、「課程主義」・「修得主義」、「年齢主義」・「履修主義」に関する議論が提起された。

 
※注1 「課程主義」・「修得主義」とは
 「課程主義」とは、義務教育制度における「義務」の完了を認定するに当たり、一定の教育課程の習得をもって義務教育は終了したとみなすものである。我が国の明治期から戦前にかけての義務教育はこの課程主義に属しており、例えば「小学校令」(明治33年)においては、「尋常小学校ノ教科ヲ修了シタルトキヲ以テ就学ノ終期トス。」と定められていた。
 また、「修得主義」とは、当初は成績の評価・評定と深く関係付けられていた用語で、児童生徒は、所定の教育課程を履修して、目標に関し、一定の成果を上げて単位を修得することが必要とする考え方を指すものである。

※注2 「年齢主義」・「履修主義」とは
 「年齢主義」とは、義務教育制度における「義務」の完了を認定するに当たり、年齢に達したならば自動的に義務教育は終了したと認めるものである。我が国では、「国民学校令」(昭和16年)において、「満14歳ニ達シタル日ノ属スル学年ノ終迄」として年齢主義の規定に転換し、現在の学校教育法においても引き続き年齢主義が継承されている。
 また、「履修主義」とは、当初は成績の評価・評定と深く関係付けられていた用語で、児童生徒は、所定の教育課程をその能力に応じて、一定年限の間、履修すればよいのであって、特に最終の合格を決める試験もなく、所定の目標を満足させるだけの履修の成果を上げることは求められていないとする考え方を指すものである。


   具体的には、例えば、課程主義や修得主義の考え方を重視する立場からは、主に次のような意見があった。
 
 我が国の教育は、これまでは履修主義で、ともかく一定の年限を学校で過ごせばよいということだったが、修得主義に転換することについても検討すべき。中学校を卒業しても学力の不十分な子どもをただ送り出すだけで責任を果たしたことになるのか。例えば、1学年ごとに一定の内容の習得を求めるかどうかなどを検討すべき。
 修得主義を確立すべき。一定の年限の中で習得すれば良いという仕組みにすべき。
 入試で厳しい選抜にして簡単に卒業させるのではなく、入試そのものを全体に緩める方向にした上で、中でしっかりと勉強させる仕組みにすべき。
 児童生徒の状況によって、義務教育9年の中身を6年や7年で終わることのできる子どもも認めていかないと、親の支持が得られないのではないか。
 進級について、個に合わせて柔軟にしてもよいのではないか。まだその学年に相当するレベルに達していないならもう少し同じ学年で学習させ、達成できれば年度ごとでなくても進級できるような仕組みにするとよい。
 子どもたちが十分な学力保障をされずに卒業している現状を考えると、修得主義についてもっと関心を持つべき。

   また、課程主義や修得主義の完全な実現は現実的には難しいが、むしろ現行の年齢主義・履修主義を前提としながら、修得主義的な指導を重視することが望ましいこと、また、年齢主義や履修主義にも一定のメリットがあることを主張する立場からは、主に次のような意見があった。

 
 一定期間教えればそれで終わりとするのでなく、例えば小学校6年生で十分に学習内容が身に付いていない子どもには、しっかりと補習を行った上で責任を持って中学校に送り出すなどの取組を進めるべきである。
 制度を大きく変えるよりも、足りないものを補充していくやり方が望ましく、必要に応じ自治体を中心に小学校5、6年生への補充教育を行うなどの仕組みを用意すべき。
 修得主義を採用し、学力テストによって評価をするようになると、知力に偏りがちになり、知・徳・体のバランスのとれた教育が難しくなるのではないか。
 明治の初めに課程主義を採り、学校教育が行き詰って年齢主義に改めたことを考えると、修得主義は大事な要素であるが、どこまで貫徹できるか非常に難しい。
 厳格な修得主義は実際にはできない。ただ、学習の基本的構造は積み上げ式であり、修得主義に向けた努力を重ねつつ、柔軟に運用していくということではないか。
 年齢主義と修得主義は二項対立的なものではない。現行制度は年齢主義的だが、実際に教える教員は修得主義的な考え方で指導している。年齢主義は日本の社会や日本人の意識に合っている。年齢主義を基盤としつつ具体の指導方法として修得主義の視点を入れればよい。
 例えば学習指導要領は最低基準だが、その中でも最低限必要な部分と、文化として知っておいてほしい部分とがある。最低限必要な部分については、履修主義のみでは甘くなるので修得主義的に扱うことが必要だが、その場合も個々の子どもの修得状況に照らして落第させたりするのではなく、学校の指導内容や状況を見直し、改善を求めるという方向に向かうべきである。
 日本は履修主義の社会であり、修得主義を強引に持ち込むことは無理がある。これからは評価も無視できないが、履修主義にも意味があることを自信をもって説明する必要がある。

    さらに、戦前の課程主義・修得主義は、いわゆるキャッチアップポリシーに結びついたものであって、今後課程主義・修得主義に重点を置くとしても、過去の考え方とは異なる新しい制度として議論する必要があるとの意見があった。

(2) 就学の時期

   義務教育の始期である就学時期について、現行制度では、一律に満6歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めとされている。諸外国においても、就学開始年齢は概ね4歳から7歳であり、6歳とする例が主流と考えられるが、その中で、例えば、フランス、ドイツ、韓国などのように、満6歳に達しなくても、保護者の申請等により一定の条件の下に早期就学を認める取扱いを行う国も見られるところである。
 我が国においても、近年、子どもの身体の発達について全般的な早熟化傾向が指摘されていることや、一方で子どもの発達段階には個人差も大きいことなどにかんがみ、就学の時期についての弾力化を検討すべきとの声も出てきている。
 このことについて、本分科会の審議では、就学年齢を一律に引き下げるべきとする意見、一定の幅で弾力化すべきとする意見、現行制度のメリットを指摘し、就学年齢の変更に慎重な意見など、多様な意見が出された。

 具体的な意見としては、主に次のようなものがあった。

(就学年齢の引き下げが望ましいとする意見)
 
 5歳児からの就学とし、5・5制として義務教育期間を延長することも考えるべき。
 義務教育の入り口と出口について、年齢の扱いも含めて工夫が必要。
 就学年齢を下げるのであれば、小学校教育を早く行うのではなく、幼児教育の内容を義務化して6,7歳まで行う方がよい。
 5歳児に小学校の内容を教えるかどうかは別にして、発達の前傾化を考えれば制度をあわせるべき。学校型の授業でもなく保育でもない、遊びの中で知的発達を系統的に図る教育をもっと考えるべき。

  (就学年齢の弾力化が望ましいとする意見)
 
 児童生徒の能力に合わせて義務教育のスタート地点を変更する等の施策について、「主に親の教育に関する発言権を中心にする」という考え方を根拠に考えてみてはどうか。
 医学の発達や栄養状況の改善などによって、心身の発達段階がかつてと大きく変わってきている。現行の就学年齢を原則にした上で、プラスマイナス1歳の幅で、就学時期を保護者の選択の余地が入るようにすることを検討すべき。その際、保護者の意思の表示をベースにした上で、例えば医師、心理学の専門家、教員などで構成するチームの意見・判断を参考にするなどの枠組みを用意することが必要。
 就学時期を親と学校が相談して決める仕組みを考えてはどうか。就学年齢を6歳に限定せずに、1年早くもできる仕組みが考えられないか。6歳は義務教育の入り口としては遅くないか。親も関与させ責任を持たせることが大事。
 5歳では個人差が非常に大きく、一律に受け入れるのは学校にとって負担。個人差を認めてよい。ただ、その際には、親の判断だけというわけにいかないので、専門家からの意見も聞くなど慎重に考えるべき。
 学校教育法23条の就学義務の猶予措置は、ネガティブな意味で捉えられることが多いが、今後はそのプラス面も考える必要があるのではないか。猶予の制度は、弾力化されておらず、工夫が必要であり、就学年齢にはあまり拘らない方がいい。

  (現行制度の維持が望ましいとする意見)
 
 制度の問題として、子どもや保護者にとって良い方法は何かという議論をすると、できる子には早く機会を与えるべき、となるが、学校こそ子どもたちが能力差はあっても同年齢の多様性の中で社会性を身に付ける場であるという考え方もある。
 家庭や地域の教育力の弱まりに伴い、幼児教育は困難な状況にある。3年かけても十分に教育が行えないような状況の中で、幼児教育の義務化ならともかく、就学年齢の引き下げは難しく、学校現場では就学年齢の弾力化に対する要望はない。むしろ、幼稚園から小学校への接続を強化するための方策を考えることが重要。
 あまり早くから知的学習を進めると子どもは学びに疲れてしまう。発達が早まっているから就学を早めるというよりは、幼稚園で知を支える基盤を十分に作ってから小学校に上がるほうが望ましい。
 幼児の発達は、早くなっている面と遅くなっている面があり、コミュニケーション能力や社会生活への態度はむしろ遅れている面である。幼稚園で知を支える基盤を十分に作ってから小学校に上がる方が望ましい。
 全体として就学を早めて5歳から何らかの義務教育を行うということは議論としてはわかる。一方、子どもによって就学時期を早めるという議論は質が違う。発達が進んでいる子は上の学年に入れてクラスを均質化するのか、同年代の多様性のある子どもたちを一緒に教育するのか、二つの考え方があるが、後者が良いと思う。仮に子どもによって違える場合、判定の基準を作ることは困難である。
 スコットランドなどと違い、日本はとにかく早く進む方がいいという社会なので、どのようにして就学時期を決めるかが大きな問題。

(3) 義務教育の年限

   義務教育の年限については、現在、教育基本法において9年間と定められている。諸外国における義務教育の年限は様々であるが、特に一般に先進国と言われる国々においては、9年又は10年とする例が主流と考えられる。
 今後、この年限をどのように考えるべきかについて、本分科会においては、以下に示すように、一定の期間を定めてその中で9年間就学させる仕組みとすべきとの意見、高等学校段階まで含めて義務教育を延長すべきとの意見、中学校までの義務教育でよいとする意見など様々な意見があった。

  (一定の期間を定めてその中で9年間就学させるべきとする意見)
 
 例えば、5歳から15歳までの10年間のうち、9年間を就学期間として、いつ就学するかなどの扱いに保護者の希望が反映されるような柔軟性を持たせるべき。

  (義務教育の年限を延長すべきとする意見)
 
 生涯学習社会においては、就学年限の延長が必要であり、高等学校教育まで全員入学制かつ授業料無償とすべき。
 5歳児からの就学とし、5・5制として義務教育期間を延長することも考えるべき。(再掲)
 就学延長については、フルタイム教育のみにこだわらず、柔軟に設定することも考えるべき。

  (現行制度の維持が望ましいとする意見)
 
 社会の多様化を考えれば、中学校を卒業して社会に出るパターンが今後も存在して良い。高等学校を全員入学にすべきという議論には賛成できない。
 階層差や地域格差は解消すべきだが、教育には一定の受益者負担の歯止めは必要であり、高等学校まで無償にする必要はないのではないか。

(4) 学校の区分、学校間の連携

   現行の義務教育制度においては、児童生徒は、6年間の小学校教育、その後の3年間の中学校教育により9年間の普通教育を修了することとなっている。63制と称されるこの制度は、我が国の基本的な学校教育の仕組みとして戦後広く社会に定着している。
 一方、近年、学校教育、とりわけ義務教育をめぐって、「1」においても述べたような課題が生じる中で、その要因の一端は、児童生徒の心身の発達に現在の学校教育の在り方、とりわけ小学校高学年における指導の在り方が適合していないことにあるのではないかとの指摘も行われるようになっている。

 有識者からのヒアリングによれば、脳科学や発達心理学の分野における研究成果からは、子どもたちの発達は、年齢の区分ごとにいくつかの段階があるとされる。その区切り方や具体的な発達の内容については論者によって様々な見解があるが、基本的に、小学校4年生に相当する年齢を中心にその前後1年くらいが大きな区切り目の一つとされることが多い。
 実際の学校教育の場においても、経験的に小学校4年生を区切りとして子どもたちの発達段階が大きく変化するとの意見が強い。

 一方、現行の制度下では、小学校6年間を一つのまとまりとする教育活動が行われており、小学校1年生にも6年生にも、学級担任制を中心に、同様の原理に基づく指導が行われることが通常である。このような中で、身体的な発達のスピードが速まり、思春期の到来も早まっていると言われる小学校高学年の児童に対する指導においては、従来通りの小学校的な指導では限界があるのではないかとの指摘がなされるようになっている。

 また、学校間の連携や接続の不十分さについても指摘がなされている。
 例えば、文部科学省の調査結果では、いじめや不登校、校内暴力の件数は、中学校に入った途端に急激に増加している。また、学習内容に対する理解度も、小学校段階と中学校段階とでは大きな落差がある。これは、学習内容が難しくなるためだけではなく、思春期の難しい時期に、卒業や入学などを経て学習方法や指導原理の異なる新しい環境に入る際の円滑な移行がうまくできていないことも背景の一つではないかと考えられる。幼稚園と小学校との接続に関しても、両者間の連携の不足が、いわゆる「小1プロブレム」と呼ばれるような小学校低学年での問題を解消できない要因の一つとなっているとも言われている。
 教員自身も自らの属する学校種への帰属意識が強すぎ、他の学校種との交流が少ないことや、学校間での充分な情報交換が行われる機会が不足しており、前の学校での状況を踏まえて新しい学校に適応させていくための指導が不十分であることなども指摘されている。

 こうした課題の解決に資するため、文部科学省の指定する研究開発学校においては、小学校と中学校とを一貫した教育に関する研究が行われているところであり、それらの学校では、例えば小学校高学年からの教科担任制の導入、小・中にまたがる多様な区分によるカリキュラム編成など、発達段階を踏まえた教育活動の改善や小学校、中学校双方の教員による一貫した指導によって、児童生徒の教育に大きな効果を上げている例も見られる。また、これら一連の研究の成果について、どこで区切り目をつけるべきかの判断は、地域によって異なるケースがあるとの分析も行われている。

 本分科会では、こうした現状と課題を踏まえつつ、望ましい学校の区分の在り方、学校間の連携の在り方について議論を行った。その中では、以下に示すように、学校の区分について、63制そのものについて見直すべきだとする意見もあったが、その改正は学校現場に与える影響が大きく、慎重であるべきとの意見もあった。また、小・中、幼・小の接続を改善する観点から、幼小、小中の一貫教育や、カリキュラムを中心とした連携の強化を図るべきとの意見が多く出された。

  (学校区分の見直しに関する意見)
 
 義務教育の区分については、4・5制が望ましい。この制度の方が、精神発達面で難しくなる時期であり、かつ、個人差も出やすい時期に対応しやすい。
 まずは現行の学校体系の枠組みの中で、幼小連携や小中連携などの実践を積極的に進め、将来的な学校の区切りの変更につなげることを模索すべきである。
 小学校5年生を境に心身が大きく変わり、難しい時期。この時期の学校を5年制とするとさらに対応が難しくなるのではないか。
 小学校が6年であることによって、5、6年生が低学年の面倒をみるという現状があり、そうした機会が減ることは問題。中学は縦社会が弱い印象があり、何事も学年のまとまりになってしまいがちなだけに心配。また、小学校に比べ問題行動等が多い中学校の期間が長くなるとそれだけ問題が複雑化するのではないか。中学を5年制にすると生徒数も増えるが、収容能力はあるのか。
 最近の子どもたちの発達を見ると5年生を区切りに大きく変わると思うが、それは学校の区分の変更まで求めるものなのか。不安定だからこそ、同じ学校で同じ先生と過ごし、低学年の面倒をみたりしてリーダーシップをとらせることが重要なのではないか。
 人間は段階的に、スパイラルに成長するものであり、行きつ戻りつの余裕がないと健全に育つことができない。小学校5年生・6年生に大きな課題があることは事実だが、これはむしろ運用で対応すべきで、制度を変えるのは慎重にすべき。

  (学校間の連携、接続に関する意見)
 
 現行の学校体系の枠組みの中で、幼小連携や小中連携などの実践を積極的に進め、将来的には学校の区切りの変更につなげることを模索してはどうか。 
 住民の意識としては、現行の63制を大きく変更することには抵抗感が強い。児童の肉体的・精神的発達段階を見ると、10歳前後で大きな違いがあり、現行制度を前提に小中の接続をスムーズにすることによってより良い制度を構築するために、4・5というカリキュラムの区切りが適当である。
 教員についても、小学校と中学校では学習指導観が異なる部分が多く、相互の交流・理解が必要。4年までは従来の学級担任制、5〜7年までは教科担任制で、生徒ごとに個別対応可能な体制をとり、8、9年は高校受験も視野に入れつつ、自発的な課題学習の設定等の応用を行う取組が有効と考える。
 実態として4年生と5年生は本当に違いが大きく、自分の学校でも5年生から教科担任制を導入しているが、子どもにも保護者にも好評。また、副担任をつけるのも指導が困難な児童に効果がある。
 幼稚園では当初、早生まれと遅生まれで大きな差があるものの、やがて年長組になると年少組を指導するようになるなどの「年長効果」がある。ところが、小学校に入ると1年生になり、また年少さんのようになってしまう。中学校についても同じことが言える。これを解消するために思い切って幼小、小中一貫教育を行ってみてはどうか。
 家庭と地域の教育機能の低下傾向は止められない。その対策として、国としても幼小連携を進めるべき。
 幼稚園と小学校は連携ができるようになってきたが、保育園と小学校には課題が残る。
 義務教育は小学校で一区切りをつけるべき。わかることに感激する年代と、わかることの目的を認識する年代とがあり、小学校と中学校を一緒に考えるのは難しい。むしろ幼小連携を強化した方が良い。
 3歳でもオムツが取れない子どもが多い現実を考えると、幼小の連携は難しいのではないか。
 小学校と中学校の接続に問題があるのは痛感するが、転勤も多い狭い日本で多様な区切りを認めてよいのか。
 学校間連携を円滑にするため、免許状をフレキシブルにする必要がある。
 学校間連携については、縦だけでなく横のつながりも考えるべき。その際、特別なニーズを持つ児童生徒との連携も念頭に置くべき。
 学校間連携の強化だけでは不十分であり、何のために何を接続するのかの視点を明確に打ち出すことが必要。

(5) その他の課題

   このほか、義務教育に係る諸制度について、時間的な制約等から、現時点では十分な審議を行うには至っていないものの、次のような意見があった。これらについても、今後の審議において検討を深める必要があると考える。

 
 保護者の希望を反映させるという観点から、義務教育を就学義務ではなく教育義務として捉え直すことも必要なのではないか。
 欧米や戦前の日本では、義務教育の例外的措置を認めてきた。このように、学校での指導を原則としつつ、一定の条件付きで、いわゆる「フリースクール」での教育機会も認める、あるいはインターナショナルスクールなどでの就学を可とする方向を模索すべき。ただし、副作用や弊害など二次的効果について配慮することが必要。
 義務教育機関としての学校が果たすべき役割を検討して、学校の機能の問い直しをすべき。それなしに、不登校児童生徒を学校に戻すための「教育支援センター」(適応指導教室)を設置したりするような対応だけでは、根本的な問題の解決につながらないのではないか。
 就学機会の弾力化については、不登校などを中心に考えると、もっぱら個人の資質能力の向上の観点からのみ考えられがちだが、教育には本来、社会の後継者を育てるという目的もあるはずであり、様々な能力を持った子どもたちが一緒に学ぶことも重要。こうした観点からの就学機会の弾力化の「副作用」についても慎重に考えるべき。
 義務教育の内容を「学校」でやる必要があるかという議論があるが、9年間の積み上げの学習のためには、1専門職としての教師の存在、2体系的カリキュラムの存在、3ともに学ぶクラスメートの存在、4一定基準以上の施設や社会的支援システムの存在などの点で、学校型の組織に優位性がある。学校は人類の知恵の結晶ともいうべきものであり、学びたい人が集まって自由にやるという方式は、短期間の学習には良くても、長期間の積み上げ学習には無理がある。
 現行の就学義務の猶予・免除制度のうち、猶予規定は今後も必要と考えるが、免除規定には、教育を受ける権利を放棄させる視点が残っており、障害児教育についても訪問教育などが整備される中で、今後も免除規定を残す必要があるかどうか、検討が必要である。



ページの先頭へ   文部科学省ホームページのトップへ